みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『罪の声』についてお話していこうと思います。
映画の鑑賞に先立って、原作の方をチェックしたのですが、とにかくボリュームがありました。
当ブログ管理人の体感では46分尺で全6~7話くらいのドラマシリーズが作れるのではなかろうかくらいの内容の濃さでした。
まず、とにかく扱っている事件のスケールが壮大ですし、登場人物の数もかなり多く、それでいて物語が2つの視点からの交錯によって描かれていくので、真相究明への道のりも比較的ゆったりしています。
それでいて、小説特有の種明かしは全て登場人物のセリフで…という仕様なので、これが映画向きじゃないんですよね。
映画でそのままキャストに真相をベラベラと喋らせるなんて演出をやってしまうと、冗長になってしまいます。
そのため、当ブログ管理人がこの作品の映像化を請け負うとしたら、ドラマシリーズ全7話くらいで、阿久津英士視点と曽根俊也視点の回を交互に展開して5話目あたりまで展開し、第6話で2人が交錯、そこから最終回にかけて真相の究明と未来へのメッセージを描くと思いますね。
これくらいの尺で描いたとしても、情報量が多いので間延びすることはないと思います。この原作は、それくらいのボリュームなんですよ。
そして、今作で描かれている事件の下になったのが、有名な「グリコ・森永事件」です。
この事件は、1984年から1985年にかけて、日本の阪神間(大阪府・兵庫県)に拠点を置く食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件ですね。
この事件は、2000年にその全ての事件の時効が成立してしまい、日本最大規模の未解決事件と言われています。
詳細は皆さまご自身で調べていただければと思いますが、今作で扱われている「ギン萬事件」は、基本的に「グリコ・森永事件」に忠実です。
そして、その事件の中でも、特に今作が注目したのが、犯人が要求を伝える際に用いた子どもの声のテープですね。
このモチーフに注目することで、本作『罪の声』は、未解決事件をなぜ時効を迎えた「今」追わなければならないのか、その意義は何なのかを突き詰めています。
ぜひ、実際に起きた事件を照らし合わせながら、楽しんで欲しいです。
さて、ここからは本作について当ブログ管理人が個人的に感じたことや考えたことをお話していきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『罪の声』
あらすじ
大日新聞の文化部で、芸能関係の記事の執筆・編集に追われていた新聞記者の阿久津英士は、突然、昭和の未解決事件を追う特別企画班に選出される。
そこで彼が任されたのは、「ギン萬事件」という、昭和最大の未解決事件の1つであった。
過去の捜査資料やOBの報道資料を
当たり、更には「ギン萬事件」の前にイギリスで起きていた類似の「ハイネケン事件」に精通しているとされる関係者に接触すべく渡英するなど、取材に奔走したが、なかなか糸口を見つけることができない。
それでも根気強く取材を続けていくうちに、彼は当時明らかにならなかった真相究明へと手がかりとして、犯人グループの無線の音声を入手する。
それをきっかけに大日新聞は総力を挙げて、「ギン萬事件」の取材に当たっていくこととなる。
時を同じくして、京都でテーラーを営む曽根俊也は、ある日父の遺品の中にカセットテープと「ギン萬事件」について綴られたノートを発見する。
そのテープを恐る恐る再生してみると、そこに吹き込まれていたのは、まだ幼い子どもの声だった。
そして、一緒に発見したノートに綴られた「ギン萬事件」の概要を読み進めていくうちに、それが幼少期の自分自身の声であること、そして自分の叔父が何らかの形で事件に関わっているであろうことを悟ります。
俊也は、自分の叔父が犯罪者であるという事実が明らかになれば、家族が苦しむことになるだろうとは思いつつも、数年来の友人と協力し、真相の究明へと乗り出す。
阿久津英士と曽根俊也。2人の物語が交錯する時、未解決のままだった事件が再び動き始める…。
スタッフ・キャスト
- 監督:土井裕泰
- 原作:塩田武士
- 脚本:野木亜紀子
- 撮影:山本英夫
- 照明:小野晃
- 編集:穗垣順之助
- 音楽:佐藤直紀
- 主題歌:Uru
脚本を担当した野木亜紀子さんはおそらく多くの人にとっては『逃げるは恥だが役に立つ』や『アンナチュラル』の脚本の人という印象で知られていることでしょう。
ただ、映画を主戦場とする当ブログ管理人としては、『俺物語!!』と『アイアムアヒーロー』の実写版を大成功に導いた立役者というイメージが強いです。
連載中のマンガって、エピソードの切り貼りが非常に難しかったり、映画として1つのオチをつけなければならないということで、着点の見出し方も非常に高度だったりします。
野木さんはドラマも含めて、原作からのエピソードの取捨選択と再構築が抜群に巧いのです。さらには映像メディアへの落とし込みも完璧です。
そのため、最初にも申し上げた通り2時間映画で再現するのが不可能に近い『罪の声』という原作でさえも、綺麗にまとめ上げてくれるのではないかと期待してしまうのです…。
そして、監督務めたのは『ビリギャル』そして来年公開の『花束みたいな恋をした』の監督を務めることも決定している土井裕泰さんです。
撮影・照明には、『3月のライオン』などの大友監督作品や、『記憶にございません!』などの三谷幸喜作品で知られる山本英夫さんと小野晃さんのコンビが起用されていますね。
編集には、実写版『ちはやふる』を完璧すぎる仕事ぶりで支えた穗垣順之助さんがクレジットされております。
劇伴音楽には映画やアニメの音楽を多数手がける佐藤直紀さん、主題歌にはUruさんの『振り子』が選ばれています!
- 阿久津英士:小栗旬
- 曽根俊也:星野源
- 水島洋介:松重豊
- 鳥居雅夫:古舘寛治
- 生島千代子:篠原ゆき子
- 生島望:原菜乃華
- 曽根亜美:市川実日子
- 河村和信:火野正平
- 曽根達雄:宇崎竜童
- 曽根真由美:梶芽衣子
何と言うか、『罪の声』の予告編を見ていると、邦画大作特有の過剰気味な演技と泣きっぷりが鼻について、思わず笑いそうになってしまいます。
シリアスな映画のはずなんですけどね。ちょっと「泣き」に関しては煽りすぎでしょうと。
ただ、キャストに関しては実力のある俳優陣が揃っておりますので、期待して裏切られることはないかと思います。
W主人公には、小栗旬さんと星野源さんが抜擢され、この2人の俳優としてのキャラクターの対比が、そのまま役に活かされそうな予感がしますね。
そして、このキャストの中で個人的に期待しているのは、『はらはらなのか』の主演でも知られる原菜乃華さんです。
予告編で切り取られた場面でも印象的な演技を披露しており、とりわけ今作『罪の声』において最も悲劇的なキャラクターを演じているので、本編ではどれほどのエモーションをぶつけてくれるのだろうかと期待が高まります。
その他にも松重豊さん、古舘寛治さん、市川実日子さんら実力派キャストが脇を固めた、邦画大作に仕上がっています。
『罪の声』感想・解説(ネタバレあり)
「終わった事件」を追う意味とは?
(C)2020「罪の声」製作委員会
本作『罪の声』の基本的なプロットは、昭和に起き、そしてその後時効を迎えた未解決事件を現在の時間軸にいる新聞記者と犯行に使われたテープの声の主である男性の2人が追っていくというものです。
当然、「ギンガ事件」は法的に時効を迎えてしまっていますので、真相を明らかにしたところで、犯人を逮捕したり、裁いたりすることはできません。
加えて、真相を明らかにすれば、劇中で曽根俊也が言及したように、何も知らない彼の家族ないし娘にまで影響を及ぼす可能性があり、むしろ罪のない者が苦しむのではないかという懸念すらあります。
本作は実際に1984年から1985年にかけて起きた昭和最大の未解決事件の1つである「グリコ・森永事件」ベースにしているわけですが、こうした事件を追うとなると、やはり気になるのは真相や犯人ですよね。
そのため、作品を鑑賞している側としては、どうしても『罪の声』という作品に、真相究明や謎解きを要求してしまい、そこばかりに関心が向いてしまいます。
何も知らない状態で、「ギンガ事件」の調査・取材に当たることになった阿久津英士というキャラクターは、ある種の視聴者・読者の映し鏡です。
彼は、事件の取材を進めていくうちに、その虜になっていくわけですが、惹かれていたのは、やはりその真相であり、犯人は誰なのかという点でした。
しかし、阿久津英士は真相に迫れば迫るほどに、「真相を明らかにすること」そのものには、大した意味がないということに気がつき始めます。
確かに未解決事件の真相を明らかにしたと、大々的に記事を出せば一時的に国民の目は向けられることでしょう。しかし、それで終わってしまうだろうということも何となく予見されます。
「ギンガ事件」はあくまでも過去の事件であり、多くの人にとってはもう「終わった事件」なのですから当然ですよね。
そうして、阿久津は自分がこの事件を明らかにした先で、一体何を伝えたいのかという視点で考え始めます。
最近、Netflixで公開された『シカゴ7裁判』という作品が話題になっています。
実話をそのまま映画化というわけではなく、あくまでも実話をベースにして作られた映画ではありますが、今作は「シカゴセブン」と呼ばれるかつての伝説の裁判を現代に蘇らせました。
なぜ、今になってそんな過去の話を蒸し返して、物語らなければならないのか。それは、この『シカゴ7裁判』が今、そしてこれからのアメリカの情勢に通じる点が多いからなんですよね。
ここからも読み取れるように、過去の何かを掘り返して、今改めてスポットを当てようとする行為には、そこから現在や未来に通じる何かを導き出すことが求められます。
阿久津が直面した壁もまさにこの点であり、彼は自分が過去の事件を掘り返中で、それによって今や未来にどんな影響を与えられるのだろうか、何を変えられるのだろうかを考え、突き詰めていくわけです。
こうして、元々は真相や犯人の究明に向けて動いていたはずの物語が、途中で転調し、その向こう側にあるものへ向けて動き始めていくという変化がこの作品の面白さでもあります。
作品を鑑賞している私たちも、当初は阿久津と同様に真相にばかり気が向いているのですが、彼の変化や気づきに影響されて、徐々にその視線の方向が変わっていくのです。
「終わった事件」から、今を生きる私たちが何を得られるのか?
法では裁くことができない犯人を引きずり出した先に何があるのか?
過去に閉じ込められた事件を動かし、どう今や未来を変えていくのか?
そうした問いを1人の記者の物語に、自分を重ねながら見ることで、深く考えさせる。『罪の声』とはまさしくそんな作品です。
つまり、これは過去に閉じ込められた、縛り付けられたままの人たちを解放するための、現在の、そして未来のための戦いなのです。
陳腐な動機、未来に背負う罪
(C)2020「罪の声」製作委員会
そして、本作の中で犯人像が浮かび上がってくる中で、もう1つ重要になって来るのが、その動機ですよね。
株価の操作、巨額の身代金の要求、そして国民を扇動し、警察に批判を集めるような巧妙な陽動作戦から、食品への毒物混入など多岐にわたるその事件の内容。
一体、犯人グループは、なぜこのような事件を起こさなければならなかったのかという点が阿久津にとっても、そして曽根俊也にとっても大きな関心になっていくわけです。
とりわけ、犯罪に子どもの声を使ったという点は、その動機の重みを感じさせます。なぜなら、普通の神経なら事件に自分の子どもを巻き込もうとは思わないでしょう。
しかし、犯人は現に自分の親族や子どもの肉声を録音して、犯行に用いたわけですよ。となると、そこにはとてつもない動機があったのだと考えるのが筋です。
ただヨークシャーで邂逅した犯人グループの1人であり、「ギンガ事件」の計画の全容を構築した主犯格とも言える曽根達雄は、実に陳腐な動機を語り始めました。
その動機として挙げられたのは、漠然とした復讐心が故であったり、心の空白を埋めたいという欲望が故であったり、単純に必要な金を得るためであったりと実に「陳腐」と形容せざるを得ないものの羅列でした。
もちろん、金が欲しかったからという動機によって引き起こされる事件はごまんとありますが、日本を震撼させた昭和最大の未解決事件の動機としては何とも拍子抜けですよね。
この事件に関しては、既に時効を迎えてしまっていますから、システム上曽根達雄らを「罪人」とすることは難しいでしょう。
しかし、彼らにはこれからも未来永劫消えることのない罪があります。
それは他でもない、自分の子どもや親族を巻き込み、何の罪もない人間の未来を奪ってしまったことです。
当ブログ管理人の好きなアニメ作品に『C』という作品があります。
この作品は自分の未来を担保にして、金を借り、その金を原資にしてマネーゲームを繰り広げるという独特の世界観を描いていました。
もちろんマネーゲームに敗れてしまうと、担保にした自分の未来は奪われてしまい、閉ざされてしまいます。
『C』で描かれたこの未来を奪って、現在に還元するという構造は、どこか『罪の声』に似ているような印象を受けました。
犯人たちは、自分たちの犯行のスタイルの独自性を確立し、国民の関心を集めるべく、自分の子どもの声を犯行に使うという行為に及びましたよね。
それによって、犯人たちの望みは果たされ、彼らにとっての現在であった、犯行は見事に成功を収め、一定の金銭を得ることに成功しました。
しかし、彼らが未来から豊かさや幸せを前借したことにより、犠牲になったのは、その未来を生きるはずだった子どもたちです。
とりわけ生島の子どもたちの人生は残酷でした。
望は、映画の字幕翻訳士になって活躍するという夢を持っていたにもかかわらず、それを叶えることはおろか生きることも許されず、分裂した犯人グループの残党に殺害されてしまいました。
弟の聡一郎も母親と共に、暴力団に縛られる生活を余儀なくされ、そこから逃れても自分の父親が犯罪に関わっていたこと、その後自分が暴力団の監視下から逃れるためにやってことが原因でまともな人生を歩むことすら許されません。
犯人グループは、ひと時の金銭のために、未来から「前借り」をし、子どもたちの尊い未来を闇に閉ざしたのです。
それでいて、彼ら自身はその代償を支払うこともなく、のうのうと暮らし、穏やかに人生を全うしようとしています。
これが罪でないはずがありません。これが許されていいわけがありません。その罪は「時効」などという法システム上の期限で消えてしまうことなど断じてありません。
どれだけ時間を経ても、彼らはその代償を払わなければならないのです。「本当の罪人」を今、明らかにしなればならない。
それは、彼らの「間に合わせ」のために何の罪もないのに「罪人」として人生を生きることを余儀なくされた、子どもたちを「罪」から解放するための行為とも言えます。
「ギンガ事件」はどこまでも過去にしか存在しないものです。
それでも、その真相を明らかにし、犯人を引きずり出せば、誰かの未来はほんの僅かだが取り戻せるかもしれません。
『罪の声』は、奪われた未来を取り戻すための、未来に背負う犯人たちの消えない罪を暴くための戦いを鮮烈に描き出しています。
「声」で奪われたものを「声」で取り戻していく
(C)2020「罪の声」製作委員会
さて、最後に本作の中心に据えられたモチーフでもある「声」に焦点を当てていきましょう。
まず、子どもたちの声が犯行に使われたのは、犯人たちの残忍さや恐ろしさを隠すための「オブラート」だったとも言えます。
子どもの声で犯行声明を出すという突飛な行動をとることで、国民の関心を引き、そのユーモアで国民に反感を抱かせないように巧妙に策略を練っていたわけです。
アンデルセン童話における『人魚姫』では、主人公が人間の姿になることの代償として魔女に自分の「声」を奪われます。主人公は「声」と共に人魚としての自分を失い、それと引き換えに人間としての自分を獲得しました。
つまり、「声」というのはその人にとってのアイデンティティを司るモチーフの1つなんですよね。
犯人たちは、自分たちが内包している恐ろしさを隠すために、自分たちの子どもの無邪気で朗らかな「声」を、自分たちの「声」の代わりに使ったわけですよ.
そうして残されたあのカセットテープは、子どもたち本人にとって、呪いのテープとなりました。
「あのテープのせいで一生台無しや…。」
あのテープに残された自分の声は、言葉は、もはや呪詛です。そこに吹き込まれた声は、彼らの人生を呪い、暗い影を落とします。
彼らは自分たちの「声」をあのテープの中に閉じ込められ、それと同時に人生を、未来を、希望を、夢を奪われてしまったのです。
(C)2020「罪の声」製作委員会
望の夢が「字幕翻訳士」だったというのが、また何とも残酷です。
「字幕翻訳士」というのは、まさしく誰かの「声」を自分の「声」で届ける仕事ですよね。
そう思うと、犯人たちがの犯行声明を警察や脅迫先の会社に伝えるための「声」に使われるのも、1種の「翻訳」であり、皮肉にもそれがきっかけで、彼女の夢が奪われてしまったという見方もできます。
犯人たちはその「声」を代償にして、多少の金銭を得て、自分の人生を豊かにしたと言えるでしょうか。しかし、その子どもたちは「声」を奪われただけでなく。他にもたくさんのものを奪われました。
『人魚姫』の魔女だって、「声」と引き換えに何かをくれるのですが、望や聡一郎は、ただ奪われるだけの悲惨な運命を背負うこととなったわけです。
時を経て、彼らは再び事件と向き合うこととなります。
自分の人生を奪った呪いのような事件。自分の今後の人生に暗い影を落とすかもしれない事件。
それでも彼らは、マスコミを、国民を前に自分の「声」で語り始めます。
「声」によって失った多くのものを、「声」によって取り戻していく。
あの呪詛のようなカセットテープに残されたかつての自分の「声」に、今の自分が「声」を上書きしていく。
子どもたちが大人になり、自分の「声」を取り戻し、そして人生を、希望を、夢を取り戻そうとしていく。
そんな未来への確かな展望が『罪の声』のクライマックスでは語られます。
野木亜紀子さんの天才的な脚本に惚れる映画版
さて、ではここからはいよいよ公開となりました本作『罪の声』の映画版についてお話していこうと思います。
見終わってすぐに記事の加筆をしていますが、もう野木さんの脚本のセンスには脱帽ですね。
記事の冒頭にも書きましたが、本作の原作は連ドラで6~7話分くらいは引っ張れるだけのボリュームがあります。
ですので、2時間の映画となると必然的に取捨選択が必要になりますが、当然、捨てなければならない部分も多く出てきますよね。
その上で、どう1つの物語として再構築するのか、それこそが最大の焦点でもありました。
ただ脚本の野木さんは、それを完璧にやり遂げたと言っても過言ではないと思います。
今回は3つの観点から今回の映画版の脚本の素晴らしさについて語っていくつもりです。
物語の焦点の移り変わりを利用した原作のショートカット
『罪の声』の原作を読んでいただけると分かるのですが、基本的に「謎解き」の役割は、主人公の阿久津に一任されています。
他の記者たちも途中から取材に協力するようになりますが、基本的に有力な証拠をあげてくるのはキマッテ阿久津であり、それ故に彼がひたすらに取材を進めていくという形で、ストーリーが展開していくわけです。
しかし、そういった展開になっているため、物語の進行スピードはゆったりとしており、その代わりにじっくりと点と点を繋げて線にしていく過程を楽しむことができます。
ただ、映画でやろうとすると時間がかかりすぎるので、当然改変する必要性が出てきます。
普通に私が脚本を構築するなら、単純にカットしてボリュームを減らすしかないだろうと思い至りますが、今回の野木さんの脚本は、そうはなっていません。
先ほど、本作は物語の焦点ないし阿久津の取材の軸、観客の興味が徐々に真相そのものから、声の主の現在と未来へと移っていくというお話をしましたよね。
実は、この原作の焦点の移り変わりを利用した巧妙なショートカットを映画版はしているんです。
作品の前半は、基本的に原作通りに阿久津が取材を重ねていく過程を追っているのですが、彼が「声」の存在に気がついた時に、一気にショートカットがスタートします。
そのショートカットの仕方というのは、原作ではほとんど重要な情報を拾ってこなかった、大日新聞の他の記者たちに原作では阿久津が拾っていた情報を回収させるというものです。
つまり、阿久津が「声」の主の捜索に注力するようになったタイミングで、事件の本筋に関わる取材に関しては、他の記者たちの方に移譲して、本社のミーティングルームで適宜還元されていくというスタイルに変更したわけですね。
このアプローチは単に物語をショートカットしているだけではなくて、阿久津の焦点が移り変わっていることをも明確にしています。
本作はあくまでも阿久津の視点から見た物語です。だからこそ、彼の視線の先にあるものがじっくりと描かれ、それ以外のことの比率は下がっていく。
その当然の成り行きを脚本に落とし込むことで、あたかももともと「こういう話」だったかのように見せているわけです。
この再構築のセンスには驚かされましたね。
確かにこの改変により、鑑賞する側が1つ1つ目で見て、点と点を繋げて真相に近づいていくような推理小説、警察小説としての魅力は減退したかと思います。
しかし、そこに映画版ならではのメッセージや意義を補完し、きっちりと1つの物語にまとめ上げてきました。
これまで『俺物語!!』や『アイアムアヒーロー』という連載中のマンガの映画化を完璧に仕上げてきた野木さんだからこそできた芸当でしょう。
取材シーンの連続ながら飽きさせない
(C)2020「罪の声」製作委員会
さて、当ブログ管理人が原作を読んでいて、そのボリュームとは別に、映画化する時にネックになるあろうと思っていたのが、今作が取材の連続という構成になっている点です。
小説であれば、基本的に活字の羅列ですから、ひたすらにキャラクターがしゃべり続けていても単調に感じることはありません。
しかし、それをそのまま映画版に落とし込むと、途端に冗長になってしまうんですよね。
せっかく映像で「見せる」ことができるのに、登場人物が延々と事件について話し続けているのでは、見応えに欠けます。それでは目を閉じていても聴覚情報だけで、話を処理できますよ。
それ故に取材シーンの連続である『罪の声』は映像化するのが難しい作品の1つだとは思っていました。
ただ、今回の映画版『罪の声』は取材シーンを本当に巧く見せているんですよね。
取材をする時のシチュエーションやトーンに変化をつけて、単調にならないように意識されています。
取材対象として一番印象に残るのは、やはり口の軽い小料理店の板長でしょうか。
彼に取材をするシーンでも例えば1度目は店内でゆっくりと腰を据えて話を聞き、2度目は女将さんがやって来ることに怯えながら裏口のところで立ち話をするという風に変化をつけてあります。
彼のような比較的なんでもペラペラと喋ってくれる証言者もいれば、10分という期限つきでドスの効いた声で神妙な雰囲気の中で行われる取材もありますよね。
このように取材シーンのシチュエーションやトーンを明確に使い分けることで、物語が単調にならないように工夫がなされているわけです。
また、これは脚本とは少し離れた部分になりますが、小栗旬さんと星野源さんの演じ分けも巧いんですよね。
今作では2人の取材がクロスオーバーしていくような流れになるのですが、その取材に当たる時のトーンが決定的に違うんですよ。
小栗旬さん演じる阿久津は新聞記者ですから、遠慮なくずかずかと真相を求めて、証言者に質問を重ねていきます。
一方の星野源さん演じる俊也には、自分の親族が犯罪と関わっているかもしれないという恐れと、真相を知ることへのためらいが見え隠れしています。
この2人が全く違うトーンで取材に向き合い、そのシーンを交互に見せることで、観客は「単調さ」から解放されるというわけです。
また、映画版の脚本が巧いなと思ったのは、この2人の取材に対するトーンの違いを物語にもしっかりと寄与させている点だと思います。
青木の建設会社について探っていた時に、阿久津は聞き出すことができなかった情報を俊也が自分なりの交渉で引き出す場面がありました。
これは、対象から「引き出す」ことだけを追い求める新聞記者ではなく、対象に寄り添うことができる俊也だからこそできたアプローチですよね。
もちろん、取材の連続を単調に見せないために、脚本や編集、撮影にも趣向が凝らされています。
ただ、脚本の貢献度は本当に高くて、それが結実したのが、いよいよ俊也の叔父が真相を語る場面でしょう。
原作では、俊也の叔父による真相告白と彼の母の秘密の告白は、時系列的に別のタイミングで起きる事象です。
しかし、映画版ではそれを同時に見せるという選択をしました。
2人の「罪」の告白を同時に展開することで、映像的な単調さを軽減することができますし、さらに「奮い立った」というキーワードで2人の人物を強く結びつけることにも成功しています。
原作では、少しタイミングがずれて出てくる「奮い立った」という言葉をシームレスに繋ぐことで、印象が強まりました。
まさか、取材の連続という映画としては致命的に思える構成をそのまま継承しながらも、これほどまでに映像作品として面白いものになっているとは思ってもみませんでした。
映画版が「曖昧さ」を選択して描いた「願い」とは?
(C)2020「罪の声」製作委員会
さて、ここが当ブログ管理人が今回の映画版について1番語りたかったポイントです。
『罪の声』という作品で、最も悲劇的に描かれているのは、やはり望という少女の悲惨な運命でしょう。
原作では、彼女の「死」が戦列に印象づけられ、罪人たちが背負うべき十字架として象徴的に刻み込まれていました。
そもそも、望が「死んだ」「亡くなった」という点についてほとんど触れられていないんですよね。
原作では、望の母親や聡一郎が、明確に彼女の「死」を確認した記述があるんですが、映画版では、それをぼやかしてあります。
つまり、車で惹かれて望が本当に絶命したのかどうかを曖昧に描いているんです。
弟の聡一郎は車で惹かれた姉を見た後に、狐顔の男に車に連れ込まれていますから、彼女のその後を知りません。
原作では望から母親に「死」の直前に電話が入るのですが、映画版ではそれがカットされており、それ故に母親もあの日起きたことの顛末を把握していない可能性があります。
原作と比較したときに、明確に改変されていたのが、望のかつての親友であった幸子と俊也のやり取りです。
原作では、幸子は望が死んだことを彼女の母親から聞かされていました。しかし映画版ではそのやり取りが削除され、幸子は望が死んだことを知らないという設定に改変されています。
その上で、彼女は「望、生きてますよね。曽根さんみたいにどこかで生きてますよね。」という言葉を発するわけですよ。
映画版の最後の最後に、望の映像がインサートされました。
ナラタージュのようにインサートされた望の映像は、彼女が映画の字幕の仕事をする夢を諦めていなかったこと、そしてあの日町を出て1人で生活をしようとしていたことなどが描かれていました。
この映像から私は1つの可能性を想像しました。
あの日、車に轢かれて死んだと思われていた望は九死に一生を得て、生きながらえていた。そして家に戻ることなく、1人でどこかで働きながら勉強し、映画の字幕の仕事に就いて活躍している…。
今回の映画版『罪の声』の中心に据えられていたのは、「願い」だと私は思っています。
「望、生きてますよね。曽根さんみたいにどこかで生きてますよね。」
原作では、明確に「死」んだとされていた望は、映画版では明確に「死」んだとは描かれていないんです。
もしかすると、彼女はどこかで生きているかもしれない、どこかで夢を叶えているかもしれない、彼女なりの幸せを見つけているかもしれない。
聡一郎の記憶の中の彼女は、「いつか迎えに来るからね…」と最後に彼に語りかけていました。
ラストシーンで再会した聡一郎とその母の2人。いつかあの2人の下に元気な姿で望が現れるのではないかと、そんな幸福な光景を信じずにはいられなくなり、思わず涙がこぼれました。
私は、この「死」をぼかすという映画版の選択に脱帽でした。
原作では俊也と聡一郎の「未来」は示されるのですが、望に関してはその「未来」が明確に閉ざされたままになっています。
しかし、映画版は彼女の未来に、夢に、一縷の望みを残したのです。
それにより、原作では成し得なかった全員の「未来」への可能性の奪還に成功しており、開かれた結末を実現しています。
この脚本を原作からの再構築として思いついた野木さんの脚本は天才的と言わざるを得ないでしょう。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『罪の声』という作品についてお話ししてきました。
過去の事件を掘り起こし、そこから関わった人間の未来を切り開いていくという現在進行形の物語へと転じていくという見事な作りになっています。
観客や読者の関心が、当然真相や犯人に集中するであろうことすらも見越したような主人公像の設定や物語の転調のさせ方も巧いですよね。
ただ、やはり原作は全体的に説明調ですし、とにかく人間がベラベラと喋りすぎな印象も与えます。
ここを映画版がどう克服し、アレンジしてくるのかは腕の見せ所でしょうね。
また冒頭にも書きましたが、あまりにも物語のスケールが大きく、情報量が多すぎるので、1本の映画にするのは、至難の業だと個人的には思っています。
それだけに今作を綺麗に2時間尺で再構築してきたとしたら、野木さんは天才だという他ないですね。
果たして映画版がどんな出来になっているのか…。鑑賞前からワクワクが止まりません。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。