みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『おらおらでひとりいぐも』についてお話ししていこうと思います。
今作のキービジュアルないしポスターとしては、まずはメインビジュアルのものと、そして大島依提亜さんというデザイナーの方が手掛けたアートポスターが出回っています。
(C)2020「おらおらでひとりいぐも」製作委員会
映画の予告編などを見ている限りでは、どう考えても『横道世之介』や『南国料理人』の沖田監督作品だし、心温まるヒューマンドラマだろうとイメージしてしまいますし、そうなるとメインビジュアルの方がピタッとハマりました。
逆に作品を鑑賞する前は、大島依提亜さんの手掛けたアートポスターを見ながら、いや一体どんな映画だよ!と内心ツッコミを入れてしまうほどでしたね。
しかし、作品を見終えると、不思議なことに自分の中でのイメージが綺麗にひっくり返ったんですよ。
確かにメインビジュアルの3人の「寂しさ」と若かりし頃の桃子さんが背景に控えているイメージも作品を象徴するものです。
ただ、それ以上にマンモスをドカンと中心に据えたアートポスターがしっくり来てしまうんですよ。
ですので、メインビジュアルを頭に浮かべた状態で本編を見始めると、開始数秒でアッと言わされるのではないでしょうか。
本編が始まると、いきなり地球の誕生から生命の進化の過程を辿るようなアニメーションが流れ、「あれ?入るスクリーン間違えたかな?」と錯覚するほどなのですが、作品を最後まで見ていくと、きちんとその意味も分かるようになっています。
皆までは説明しませんが、ぜひこうした普通のヒューマンドラマとは一味違った本作が内包する「壮大さ」のようなものも味わっていただけると嬉しいです。
さて、ここからは本作を鑑賞して、感じたことや考えたことを綴っていきます。
もちろん映画の公開前ですので、作品の核心に触れるようなネタバレは避けて書いていきます。
ただ、予告編や事前の情報で明かされているシーン・描写、セリフについては言及していきますので、作品を先入観なしで見たいという方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『おらおらでひとりいぐも』
あらすじ
75歳の桃子さんは、幸せな結婚生活を送っていたが、突然夫に先立たれ、孤独な日々を過ごすようになる。
毎日が同じことの繰り返しであり、やることと言えば、本を読むこと、ご飯を食べること、地球の歴史をノートに記すこと。
外出しても、その行先はせいぜい図書館か病院であり、話す相手も病院の先生と図書館の司書がせいぜいというところだった。
そんなある日、彼女の前に3人の「心の声=寂しさたち」が現れ、彼女の生活を賑やかに彩っていく。
少しだけ賑やかになり、活気づいた毎日の中で、彼女はこれまで自分が生きてきた人生に思いを馳せる。
故郷で結婚寸前まで行くも、「わたしは新しい女なのだ」と力強く東京へと飛び出してきた彼女は飲食店にて住み込みで働きながら何とか生計を立てた。
そんなある日、彼女は客として店を訪れていた周造という男性に出会う。故郷が近く、飾らない性格の彼に桃子さんは徐々に惹かれていく。
そうして2人は夫婦になったわけだが、振り返ってみて彼女は思うのだ。
私は「新しい女」だと自負して、東京に飛び出してきたのに、結局は結婚して従来的な価値観にからめとられてしまったのではないかと。
人生の終盤を迎えた桃子さんが、それまでの人生を振り返りながら描く「新章」とはいかに…?
スタッフ・キャスト
- 監督:沖田修一
- 原作:若竹千佐子
- 脚本:沖田修一
- 撮影:近藤龍人
- 照明:藤井勇
- 編集:佐藤崇
- 音楽:鈴木正人
- 主題歌:ハナレグミ
まず本作の監督を務めたのは、沖田修一さんです。
今年『子供はわかってあげない』という新作も公開が控えていたのですが、新型コロナウイルスの影響で来年へ延期されました。
『横道世之介』や『南極料理人』が有名ですが、当ブログ管理人のお気に入りは『滝を見にいく』という作品です。
7人のおばちゃんたちが繰り広げるサバイバルをコミカルに描いた作品なのですが、演技未経験の方をメインキャストに起用したその異色の作風に圧倒されました。
沖田修一さんは、脚本も素晴らしいのですが、やはり作品の「空気」や「雰囲気」を作るのが絶妙に上手いんですよね。
山で遭難という窮地を迎えているにもかかわらず、どこかその楽観的な空気やコミカルさが不思議なトーンで維持されていく、それが心地良いのです。
今回の『おらおらでひとりいぐも』も、孤独と賑やかさや楽しさというある種の相反する概念が同居する不思議な空気感を見事に作り出していて、そこに引き込まれてしまいました。
やはり当ブログ管理人は沖田監督の作品のトーンや雰囲気が好きなのだと改めて実感しましたね。
撮影・照明には、今最も邦画界で注目されていいると言っても過言ではない近藤龍人さんと藤井勇さんが起用されています。
彼らは是枝裕和監督の『万引き家族』などの作品で高い評価を獲得し、今や引っ張りだこという状態ですね。
編集には、沖田監督作品の大半に携わってきた佐藤崇さんがクレジットされています。
劇伴音楽を提供したのは、実写『坂道のアポロン』などで知られる鈴木正人さんです。
寂しいような、でも温かくて、楽しくて、それでいて壮大な。そんないろいろな顔を持つ本作を音楽で優しく彩ってくれました。
主題歌にはハナレグミの「賑やかな日々」が選ばれました。
- 桃子さん(現在):田中裕子
- 桃子さん(過去):蒼井優
- 周造:東出昌大
- 寂しさ1:濱田岳
- 寂しさ2:青木崇高
- 寂しさ3:宮藤官九郎
昨年公開された『ひとよ』でもその圧巻の演技で注目された田中裕子さんが今年もまたとんでもないものを見せてくれました。
あれだけ凛とした佇まいで、この上なく素晴らしい年齢の重ね方をされている女優さんなのに、良い意味で飾らず、映画を見ていると「実家のばあちゃん」感が滲み出ているんですよ。
本当に日本のあちこちにいそうな「普通のばあちゃん」をここまで完璧に演じて切れてしまうのかと、驚かされます。演技が「嘘っぽく」ないんですよね。
演じているのか、それが「素」なのかの境界が分からなくなってきて、あまりの自然さに自分が映画を見ているという状況すら思わず忘れてしまいそうになるほどです。
過去の桃子さん夫婦を演じるのは、蒼井優さんと東出昌大さんです。2人は最近公開された『スパイの妻』でも共演されていました。
また桃子さんの前に現れる心の中の寂しさを具現化した存在には、濱田岳さんらが起用されており、シュールでかつコミカルな動きで作品を盛り上げてくれています。
『おらおらでひとりいぐも』感想・解説
地球史上最も賑やかで満たされた「孤独」を描く
(C)2020「おらおらでひとりいぐも」製作委員会
本作『おらおらでいとりいぐも』という作品の主人公である桃子さんは、夫に先立たれ、孤独な老後の生活を送っています。
2人の子どもたちとは疎遠になり、近所の人との付き合いもなく、趣味と言えば本を読んで地球の歴史について自分のノートにまとめるくらいのものです。
傍から見れば、何と「孤独」なのだろうかと憐れむべき対象にも思えますし、近年増加の傾向がある「孤独死」の3文字が思わず脳裏をよぎってしまうような、そんな状況です。
本作は、何気ない描写の中でそうした彼女の孤独感を表出させていきます。
例えば、作中で彼女が薬を受け取るために何度か病院を訪れるシーンがあるのですが、担当の医師は一言二言言葉をかけ、薬を処方して、それで終わり…と何とも簡素な対応しかしてくれません。
そうした対応を前にして、桃子さんはその孤独感からか、もう少し話したいという空気をビンビンと漂わせているのですが、医師の方は空気を読むこともなく診察を強制終了させてしまいます。
誰かと話したい、コミュニケーションを取りたい、そんな思いがありつつも誰にも受け入れられないもの悲しさを田中裕子さんが見事に表現していました。
そうした負の感情があるからこそ、たまに自宅に来客があったときに心躍り、生き生きとしている桃子さんが妙に可愛らしく、愛おしく思えるのです。
やっぱり誰かがやって来る、誰かと話せるとなると、桃子さんは生き生きとしているんですよ。
しかし、彼女は自分の孤独感を解消したいという思いがありつつも、その一方で誰かと関わりを持つことにためらいを持っているような、そんな雰囲気を醸し出しています。
彼女はたびたび本を返しに行く図書館のスタッフをしている女性に大正琴や太極拳のコミュニティに参加しないかと勧誘されるのですが、桃子さんは一向に首を縦に振る様子がありません。
そうした少し「天邪鬼」な部分も垣間見えたりするのですが、そうした誰かと関わりたいという思いと、誰かと関わることへの不安が同居しているのが、すごくリアルなんですよ。
そして、そんな葛藤の中で生まれるのが、彼女の心の中の寂しさを具現化した存在でもある3人の「寂しさ」たちであるわけです。
濱田岳さん、青木崇高さん、宮藤官九郎さんらが演じる「寂しさ」たちの特徴は、境界を飛び越えることだと個人的には感じました。
それは現実と幻想の境界とも言えますし、自分と他人との境界とも言えますし、現在と遠い過去という時間的な境界とも言えます。
何はともあれ、彼らは「土足で境界のこちら側へと踏み込んでくるキャラクターたち」であるわけですよ。
そんな彼らが、少しずつ桃子さんの永遠に続くかに思われた「孤独」を賑やかに、そして楽しく彩っていきます。
もちろん彼らの存在はフィクションなのですが、作品が進むにつれて、彼らのフィクション性が弱まっていき、現実との折り合いを見出し始めるんですよね。
冒頭に彼らが現れた時には、桃子さんが彼らと楽しそうにしゃべっている描写をフィクションであることをわざと明確にするために、彼女の家の外からのショットを盛り込み、彼女が独り言を喋っている描写を映し出します。
しかし、物語が進むにつれて、そうした現実と幻想の境界を明確にするようなショットは減っていき、「向こう側」と「こちら側」は少しずつ融合していきます。
それは過去と現在の融合であり、フィクションとリアルの融合であり、そして何より桃子さんの願望や理想と現実との融合でもあるでしょうか。
そして、太古の時代に地球に生きていたマンモスと桃子さんが雪の降る道を歩いていくシーンは、まさしくそんな「融合」の象徴とも言えるシーンだと言えます。
また、予告編でもインサートされている3世代の桃子さんが並び立つカットは、本編の中で見ると、鳥肌が立ち、ほろりと涙が流れるほどの印象的なシーンです。
「土足で境界のこちら側へと踏み込んでくる3人の寂しさ」たちというのは、そうした彼女の「向こう側」と「こちら側」を繋ぐための「ハブ」のような存在なのだと本編を見ながら感じました。
孤独から解放されたい、でもそのためにいきなり行動を起こすのは誰だって難しいものです。
だからこそ人は想像をしたり、シミュレーションをしたりして、頭の中で予行演習をするんですね。
そうして、その予行演習が上手くいったときに、初めてその創造と現実が融和して、理想が現実に溶け出していくのです。
そう考えると、今作『おらおらでひとりいぐも』という作品が描こうとしたのは、桃子さんという1人の女性が、「孤独」を脱するまでの小さな「助走」の物語だったのだと思います。
そんな桃子さんの寂しくも、力強く、微笑ましい「助走」をぜひ見届けてあげてください。
人生の「これがら」はいつからだって始められる!
(C)2020「おらおらでひとりいぐも」製作委員会
本作を通底するキーワードは「孤独」ともう1つは、「自立」なのだと思います。
多くの人が「可哀想」だとか「孤独」といったイメージを持つのではないかと思います。これについては、当ブログ管理人もそういったイメージを半ば無意識的に抱いてしまうと思いました。
しかし、こういった考え方って、実は妻が夫のために献身的に生きてきたという旧来的な価値観に基づいている気がするんです。
妻は夫に経済的に支えられながら、夫を支えるために、子を養うために生きる。
そうした旧来的な価値観に基づいて考えると、確かに桃子さんって、子どもももう家を出ていて、さらに夫は亡くなっていますから、その「役目」のほとんどを終えてしまっているんですよね。
劇中で桃子さんと彼女の娘がやり取りをするシーンがあるのですが、ここが何とも残酷で、ネタバレになるので皆までは言いませんが、娘は桃子さんを都合よく1人前扱いし、内心では半人前だと思っているんですよ。
そういう心の中で小馬鹿にしているような雰囲気が透けて見えていて、いたたまれなくなりました。
ただ、若い頃の桃子さんはそうした「古い生き方」を選ばないと決めて、東京へと飛び出したはずでした。
「おらは、新しい人だ。これからの女だ。」
その言葉は自信に満ちていたのですが、周造との出会いを経て、結局彼女は「古い生き方」に絡めとられてしまったのです。
「思い通りに我れの力で生きてみたかった。」
予告編でもインサートされるこの言葉は、桃子さんの心からの本心でしょう。
しかし、もう先も長くない人生の終盤に、いまさらそんなことができるのだろうかと、彼女自身も弱気になってしまっていました。
それでも、今一度1人で生きてみたい、思うがままに、自分の人生を生きてみたい。
そんな彼女の決心が、物語を大きく動かしていきます。
私が最近感動したのは、女優の壇蜜さんが結婚された時に、インタビューで述べられていた言葉です。
「ひとりで生きられないから結婚するのではなく、自分ひとりでも生きられる自信がついたから誰かと一緒にいられるようになったわけで…」
この言葉がすごく好きだなと思いましたし、自分の中の結婚のイメージにピタッとハマったような気がしました。
主体性を喪失することが結婚ではなくて、主体性を持った2人が一緒に生きることが結婚なのだというメッセージにハッとさせられたのです。
『おらおらでひとりいぐも』という作品が描こうとしたのも、まさにこういうことなのだと思いました。
桃子さんは、かつて結婚によって、というよりも恋や愛によって一度は自分自身の人生の主体性を失ってしまった人間です。
若竹千佐子さんの原作の方を読んでいると、こんな風に書かれていました。
いつか桃子さんは人の期待を生きるようになっていた。結果としてこうあるべき、という外枠に寸分も違わずに生きてしまったような気がする。
(若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』より引用)
しかし、それを取り戻すことは、いつだって自分の意志次第で可能なんですよね。
作中で、桃子さんが頑なにバスに乗ろうとせず、自分で運転することにこだわったり、徒歩に執心したりする場面が何度か登場します。
それらは、彼女の「自立」への強い欲求の表れでもあります。
夫を愛し、自分を喪失した時期を悲観するのではなく、そうした時間を経た今の自分にできる「自立」を探していく。
75歳になった桃子さんが、かつてなりたかった「新しい女」になろうと一歩一歩力強く歩いていく姿には、見ていて勇気をもらうことができました。
人生何かを始めたり、変えたりすることに早いも遅いもない。
75歳の私にだってできるのだから、あなたにもできるはず。
そう優しく背中を押されたような気がして、思わず胸が熱くなりました。
きっと、何かに迷ったり、あと一歩が踏み出せなかったりしている人たちにとって、この映画は力強い後押しになると思います。
おらである。まだ戦える。おらはこれがらの人だ。こみあげる笑いはこみあげる意欲だ。まだ、終わっていない。
(若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』より引用)
本作『おらおらでひとりいぐも』が多くの人の「これがら」を力強く後押ししてくれる作品になることを陰ながら祈っています。
『おらおらでひとりいぐも』感想・解説(ネタバレあり)
根拠のなき自己肯定とマンモス
(C)2020「おらおらでひとりいぐも」製作委員会
本作『おらおらでひとりいぐも』を鑑賞していて、個人的に一番感動したのは、主人公の桃子さんの力強い歩みを支えた根拠を漠然と、そして壮大に描いたことです。
この手のキャラクターの変化や成長を描くヒューマンドラマにおいては、そのプロセスの中で明確な根拠やきっかけを描くものです。
しかし、この『おらおらでひとりいぐも』という作品は、あえてそうした成長や変化に繋がる根拠・きっかけを明確にすることを避けているように感じられました。
その代わりに描かれたのが、この記事の冒頭でもご紹介したマンモスであったり、地球の脈々と続く長い歴史であったりという惑星を取り巻く壮大な生命の円環なのです。
これについては原作を読むとより深くできるように思います。
マンモスはアフリカに生まれ、後にヨーロッパやアジアに至るまで生息地を拡大させていきました。
彼らは、砂漠の熱さやシベリアの寒さなど様々な困難に直面し、そして時には仲間たちの死も見てきたはずです。
しかし、彼らはそれでも力強く歩き続けて、遠い遠い日本の地までやって来たわけですよ。
そうした苦難や死を乗り越えてきたマンモスの姿に、桃子さんは自分の「あるべき姿」を見ているのだと私は感じています。
だからこそ、マンモスと一緒に歩いていく桃子さんの姿には胸を打たれます。
それでも、まだ次の一歩を踏み出した。
ああ鳥肌が立つ。ため息が出る。
すごい、すごい、おめはんだちはすごい。おらどはすごい
(若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』より引用)
マンモスを讃えると共に、桃子さんは自分自身をも讃えています。
自分も様々なことがありながら、そして最愛の亭主の死に直面しながらも、ここまで自分の足で歩いてきたのだ。自分はすごい。自分にはできる。
こうしたある種の根拠なき自己肯定が桃子さんの心情を大きく変えたのであり、それが彼女の成長や変化の大きな原動力になっているのです。
そして地球の生命の円環という観点で見るならば、私たちもその一部であり、太古の昔より繋がれてきた生命のバトンを受け取って、今を生きているわけですよ。
だからこそ、そうして脈々と繋がってきた命の担い手としてその責務を全うしなければならないという不思議な使命感も桃子さんの生を支える力になっています。
今作における桃子さんは、夫に先立たれ、友人も少なく、自分の子どもたちとも疎遠になった言わば帰属する場所を持たない存在なんですよね。
つまり自分が何かと、誰かと繋がっているということを認識できずにいるんです。
しかし、彼女はそんな自分の状況に一筋の光を見出します。
それが地球の壮大な生命の物語と自分自身の繋がりだったわけですね。
本作は、桃子さんがそうした自分自身の帰属する場所を見出していくまでのプロセスを描いているわけですが、その着地点に人間や特定のコミュニティといった具体的な何かを描くことを避けています。
その代わり、彼女がもっと壮大な何かとの、不可視で、スピリチュアルで、それでいて強いリンクを確かめる様を描いているのです。
桃子さんに変化をもたらす根拠は不明瞭で、彼女が見出す「繋がり」の正体もぼんやりとしている。
しかし、曖昧だからこそ、明確にされないからこそ、言葉にされないからこそ、力強いのではないかと考えるようになりました。
おらだば、おめだ。おめだば、おらだ。
わたしは、あなただ。あなたは、わたしだ。
地球に生きとし生ける全ての生命は、他人でありながら、その一方で自分なのかもしれないという物事の捉え方がこの言葉には詰まっているように感じます。
その根拠のないつながりが、私たちの居場所であり、前に進むための原動力なのだと、今は強くそう思っています。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『おらおらでひとりいぐも』についてお話ししてきました。
若竹千佐子さんの原作も読ませていただきましたが、まず文体が桃子さんの独白のような形で書かれていて、方言バリバリなのが面白かったです。
ただ、そういう不思議な言語感覚が、この作品における桃子さんの根拠のない自信や自己肯定を支えているような気がして、引き込まれました。
そして、映画版はそうした言語感覚としての意外性を、田中裕子さんの熱演が肩代わりしていると言えるでしょうか。
彼女が演じたからこそ、この原作は映画化できたと思いますし、あれほどの役者がいなければそもそも映画化は不可能だった題材でしょう。
どこにでもいる「普遍的なおばあちゃん」であり、優しく温かい雰囲気を纏い、孤独と不安と自信のなさに苛まれる二重性。そんなフラフラとした存在でありながら、1本芯の通った強い女性あること。
この独特の役どころを完璧に演じてしまった、自分のものにしてしまった田中裕子さんに大きな拍手を贈りたいです。
本作『おらおらでひとりいぐも』は11月6日より全国の映画館で上映がスタートです。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。