みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ドクターデスの遺産』についてお話ししていこうと思います。
感じ方に個人差はあると思いますが、個人的に北川景子さんの演技がそれほど好みではなく、映像のクオリティや全体的な演出のトーンもテレビドラマ感満載だったこともあり、期待値はかなり低めでした。
ただ、物語そのものには興味があったので、小説の方を読んでから映画を見るかどうか判断しようと思い立ったわけです。
ということで、小説の方を調べておりますと、どうやらこの『ドクターデスの遺産』は中山七里さんの刑事犬養隼人シリーズ第4作なんだそうです。
1作目は『切り裂きジャックの告白』というタイトルで、こちらは沢村一樹さん主演で2015年にテレビドラマが製作されました。
その後、2作目の短編集『七色の毒』の中に収録されていた「白い原稿」というエピソードがスペシャルドラマとして2016年に放送されました。
そして、3作目が『ハーメルンの誘拐魔』ですね。これについては当ブログ管理人がすっかり放念していたのですが、読んだことがありました。(映像化はされていません。)
この3作目は子宮頸がんワクチン接種を絡めた内容になっていたのですが、このシリーズはそもそも1作目から臓器移植を主題にするなど、医療や倫理に関する問いかけをミステリに融合させるアプローチをとっているようです。
そして、今回お話していくシリーズ第4作に当たる『ドクターデスの遺産』が「安楽死」をテーマにしています。まさしく医療とそして生命倫理の領域に踏み込む作品となっているわけです。
それがめちゃくちゃ面白かったんですよね。確かにミステリとしてのギミックは古典的と言いますか、鉄板なのですが、安楽死というテーマとミステリの絡ませ方が抜群に上手いんです。
また、刑事犬養隼人シリーズと銘打っていることもあり、キャラクターものとしても非常に優れています。
映画版が映画としてどれぐらいの出来なのかは、予告編を見ている限りでは怪しい部分がありますが、それでもプロットは面白いので、個人的にはおすすめしたいところです。
さて、今回はそんな『ドクターデスの遺産』について個人的に感じたことや考えたことをお話していけたらと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ドクターデスの遺産』
あらすじ
刑事の高千穂明日香は、ある日仲の良い生活課の警察官から1通の通報電話を回される。
声の主は小さな男の子で、彼が言うには怪しい医者が闘病中の父の病床を訪れて、殺してしまったというのだ。
明日香はいたずら電話ではないかと思いながらも、犬養隼人と一応現場に赴くのだが、そこで奇妙に証言の食い違いに直面する。
通報した男の子は2人の医者がやって来たと証言し、その母親は、医者は1人しか来ていないというのである。
近所の人の証言も相まって母親が怪しいと踏んだ犬養は、その真相を追求し、母親に自白させることに成功する。
彼女はインターネット上で安楽死の依頼を受けている「ドクターデス」と呼ばれる謎の存在に、自分の夫の安楽死を依頼したのだ。
そして、他にも同様の事例が起きていることを操作の中で知り、犬養は明日香と共に「ドクターデス」を追うこととなるのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:深川栄洋
- 原作:中山七里
- 脚本:川崎いづみ
- 撮影:藤石修
- 照明:吉角荘介
- 編集:阿部瓦英
- 音楽:吉俣良
- 主題歌:[Alexandros]
さて、今回の『ドクターデスの遺産』の監督を務めたのは、深川栄洋さんです。
深川栄洋監督と言えば、『神様のカルテ』シリーズや実写版『サクラダリセット』で知られているわけですが、まあこの時点で期待値は皆無ですね(笑)
とりわけ実写版『サクラダリセット』をその年の年間ワーストに挙げている映画ファンは結構多かった印象です。
脚本を担当されたのは、テレビドラマでミステリや刑事ものを手掛けてきた川崎いづみさんですね。
主戦場がテレビドラマの脚本家さんということで、ここも不安ですね。予告編の演出や演技のトーンが如何にもテレビドラマチックなのは、この主要スタッフ陣の影響なのかな…。
撮影には『踊る大捜査線』シリーズの藤石修さん、照明には『マスカレードホテル』の吉角荘介さんが起用されています。
編集には『あの頃、君を追いかけた』などにも参加されていた阿部瓦英さん、劇伴音楽には少女漫画の実写系の映画に多く楽曲提供をしてきた吉俣良さんがクレジットされていますね。
ちなみに主題歌には[Alexandros]が選ばれました。
- 犬養隼人:綾野剛
- 高千穂明日香:北川景子
- 沢田圭:岡田健史
- 室岡純一:前野朋哉
- 青木綾子:青山美郷
- 麻生礼司:石黒賢
予告編でもクレジットが伏せられている本作の犯人役。『マスカレードホテル』なんかがキャストと予告編の映像だけで犯人バレバレだったのを考えると英断だと思います。
映画本編を見るまで分かりませんが、だれが犯人を演じるのか気になるところです。
本作の主人公たる2人の刑事を演じるのは、それぞれ綾野剛さんと北川景子さんですね。
綾野剛さんが刑事となると、妙に『日本でいちばん悪い奴ら』のイメージが強く、ろくでもない臭いがプンプンとしてしまうのですが、今回の役は正義感と使命感に燃える孤高の刑事という印象です。
脇を固めるキャスト陣にも、今が旬の岡田健史さんらが起用されており、非常に楽しみです。
『ドクターデスの遺産』解説・考察(ネタバレあり)
キャラクターものとしての面白さ
(C)2020「ドクター・デスの遺産 BLACK FILE」製作委員会
本作『ドクターデスの遺産』は、記事の冒頭でもご紹介したように刑事犬養隼人シリーズの4作目です。
そのため、主人公の犬養隼人や彼の右腕として活躍する高千穂明日香らは、基本的にシリーズを通してのキャラクターということになります。
今作でもキーマンとなっていた最初の妻との間にできた娘である豊崎 沙耶香が人工透析を受けていて、腎移植をしなければ完治は難しいという設定も、シリーズを通してのものなんですね。
まず、こういったシリーズを通してのキャラクター像を崩さない範疇でプロットを作り上げていき、それでいてその設定が故に事件に巻き込まれていくという作り方が非常に巧いと感じました。
劇中で沙耶香は、犬養による犯人逮捕作戦の「囮」として駆り出され、命の危険にさらされたり、彼自身の葛藤のトリガーとしても機能します。
犬養隼人は、警察に入るまで、俳優の養成所に所属していたという設定であり、その立ち振る舞いは警察という組織からはみ出しかけている「孤高の狼」のようです。
一方で、高千穂明日香は少年犯罪を防ぎたいという理由で生活安全課を希望していたにもかかわらず、一課に配属され、事件を追っているという設定です。
彼女は、生活安全課を希望していたこともあり、子どもの扱いに長けており、子ども相手の捜査の局面では抜群の打開力を誇ります。
こうしたキャラクターの設定を物語にしっかりと還元していくようになっているので、本作はキャラものとして非常に面白いです。
犬養は、犯人逮捕のためなら警察としてはタブーとされるような手段を選ぶこともありますが、それが事件の停滞を打破することもあれば、一転してピンチを招くこともあります。
例えば、彼がドクターデスを逮捕するために取った、自分の娘を「囮」にするというアプローチは、市民の安全を守る警察の価値観からすれば、どう考えてもタブーです。
しかし、犯人を逮捕するための糸口がつかめない中で、そうした状況を打開する起死回生の一手でもありました。
結局は裏目に出てしまうわけですが、警察という組織の中で規則や慣例に縛られない彼の立ち位置が良く表れた行動でした。
一方で高千穂明日香は子どもの扱いに長けており、犬養に対しては心を開いてくれない子どもの証人からも、絶妙な立ち振る舞いで証言を引き出していきます。
このように2人がお互いにないものを持っており、お互いがお互いの弱点を補完することによって操作を進展させていくという展開が熱いですよね。
バディものでありながら、お互いのキャラがきちんと立っているので、個性が強いW主人公でありながら、お互いの印象を消し合うこともなく、見事に共存してします。
追う側と追われる側のシュミラリティ
(C)2020「ドクター・デスの遺産 BLACK FILE」製作委員会
さて、本作の魅力の1つとして挙げられるのは、主人公たちと犯人の関係性でしょう。
物語の冒頭では、犬養はドクターデスに対して強い嫌悪感を示していました。安楽死を信奉し、人間の正当な権利を保証するために存在しているなどと謳っているが、ただの「快楽殺人者」であると断言しているのが、その最たる証拠です。
しかし、物語が進展するにつれて、そうした彼の揺るぎないと思われた「追う側」としての立場が揺らいでいきます。
そのトリガーになるのが、先ほどもお話したように前妻との間に生まれた娘の沙耶香の存在です。
彼女は腎臓を移植しなければ治らない難病に侵されており、しかも日本ではなかなか腎臓の移植をするのが難しいという状況に追い込まれています。
そんな姿を見てきた犬養は、ふと彼女はこのまま生きていて幸せなのだろうかという主観的な疑問を持ってしまうんですよね。
一度抱いてしまった疑念は膨らむばかりで、彼の心を支配していきます。
彼がドクターデスを引きずり出すために、偽の自分の娘の安楽死の依頼メールを書いているときのモノローグにこんな記述がありました。
キーを叩きながら、犬養は奇妙な念に打たれる。入力している文章はもちろん相手に興味を抱かせるための作文だが、連ねているうちに何やらもう一人の自分が文章を紡いでいるような錯覚に陥る。
(中山七里『ドクターデスの遺産』より引用)
この「もう1人」の自分という記述が非常に興味深いのですが、彼は安楽死をきっぱりと否定していたにもかかわらず、ここに来て安楽死に肯定的な印象を持っている自分が心の片隅にいることに気がついてしまったんですよね。
つまり、犬養は「追う側」であったはずなのに、安楽死を提唱するドクターデスの分身を自分の内側に見てしまったわけですよ。
このように、物語の中盤にかけて「追う側」と「追われる側」にシミュラティが提示されていき、その境界が曖昧になっていきます。
そして、本作では「ドクターデス」の側のバックグラウンドも作品の後半にかけて語られていくのですが、こちらも非常に面白いです。
というのも、「ドクターデス」は「国境なき医師団」的な国際医療組織で、紛争地などに赴き医療活動に従事していた人間でした。
しかし、そこで厳しい現実に直面し、命を救うこともできず、ただ苦しんで死を待つだけの人たちを大勢目撃しました。
それでも、「ドクターデス」は周囲の医者たちが安楽死に手を染めていくことに対して否定的な姿勢を貫いていました。
ただ、「ドクターデス」は、自分が慕っていた先輩医師が怪我により助からない状況に追い込まれ、安らかに死なせてほしいと安楽死を促された時に、初めて手を染めてしまいます。
そこから、安楽死は人を救うのだと強く信じるようになるわけです。
このように性格的な面で見ても、「ドクターデス」は犬養と似た人種なんですよ。
こうした「追う側」と「追われる側」に共通点が生じさせ、その境界を曖昧にしていくという手法はミステリにおいては1つの鉄板です。
例えばポールオースターの『幽霊たち』では、探偵としてターゲットを監視していた自分がいつしか、そのターゲットが自分なのではないかという疑念を生じさせていくという内容が描かれています。
また、「追う側」の内部に犯人性を生じさせていくという手法もまたミステリではしばしば取り入れられます。
この例として、当ブログ管理人がしばしば取り上げるのが『シャーロックホームズ』シリーズの「黄色い顔」というエピソードです。
このエピソードはマンローという男が、妻が別荘に黄色い顔の人間を匿っているという通報をホームズに寄せます。これによりホームズが調査に乗り出すのですが、真相は意外なものでした。
黄色い顔の人間というのは、黒人の少女であり、そしてこの少女は妻と前夫との間に生まれた子供だったのです。黄色い顔の人間の仮面を身につけていたのは、黒人がいるということが近所で噂になることを避けるためでした。
この事件に明確な「犯人」は存在しませんが、強いて言うなれば黒人に対する差別意識がこの一件の経緯をややこしくしたわけです。
では、黒人への差別を生み出したのは誰かと言えば、それは白人層であり、そこにはシャーロックホームズ自身も含まれます。
このエピソードはこういった観点で見ると、ホームズに内包された「犯人性」を描き出していることとなるわけです。
少し話が逸れましたが、『ドクターデスの遺産』という作品でも、主人公の犬養が自分の中に犯人性を見出すようになり、彼は「ドクターデス」を追うと共に、自分自身が孕むもう1人の犯人とも向き合わなくてはならなくなりました。
そうした苦悩と葛藤の中で、物語はクライマックスへと向かっていくわけですが、本作のラストは非常に痺れます。
「ドクターデス」を罠に陥れ、逮捕直前まで追い込むのですが、土砂崩れが起き、目の前で一般市民が痛みに苦しんで、死にかけているというシチュエーションが偶然か必然か作り出されてしまうのです。
もちろん警察としては「殺人」を認めることはできませんから、苦しんでいる人を安楽死させることなく、「ドクターデス」を逮捕するのが法に則った正しい対処ではあります。
しかし、もはや助かる見込みもなく、ただ苦しんでいる人間をそのままにしておくことが、本当にその人のためなのだろうかと考えた時に、犬養は警察官としての正義を貫くことが難しくなってしまいました。
彼は、苦しんでいる人間を「ドクターデス」が目の前で安楽死させる経過を見守ったのです。
結局、「ドクターデス」を逮捕することには成功したわけですから、警察組織としてはこの戦いに勝利したと言えるでしょう。
しかし、犬養個人として見た時に、彼は「ドクターデス」がもたらす安楽死を認めてしまっており、その信念という点において敗北していることが明確になっています。
犬養と高千穂は連続殺人犯を前にしているというのに、敗北者の顔をしている。
(中山七里『ドクターデスの遺産』より引用)
彼は自分自身の内部にある正義感や警察官としての使命よりも、目の前の人の苦痛を取り除いてあげたいという安楽死の考え方を優先してしまいました。
これは極限状態に直面して、自分自身が曲げないと決めていた信念を失ってしまうという部分も「ドクターデス」と犬養の共通点でもあります。
ふと、この男が羨ましくなった。浅薄で、幼稚で、しかも何も切り捨てられない優しさを持った目。
かつては自分もこういう目をしていたのだろう。だが、あまりにも多くの命を屠るうちにすっかり変わってしまった。
(中山七里『ドクターデスの遺産』より引用)
「ドクターデス」の方も犬養の中にかつての自分自身を見出していることが、モノローグの中で明かされていますね。
犬養は事件後、「犯人は捕まえたが、罪を捕まえられなかった。」と話しています。
これは「ドクターデス」を名乗る犯人は捕まえることで、表面的な解決は図ったものの、その一方で捜査のプロセスの中で自分の中に生まれてしまった安楽死を認めてしまうという「罪」を捕まえることはできなかったということなのではないでしょうか。
「追う側」と「追われる側」のシミュラティ。
「追う側」は「追われる側」の立ち位置は瓦解し、犬養自身の中にも「追われる側」の側面が確かに存在していました。
彼は、目の前でまさに「ドクターデス」が安楽死を実行する様を傍観するという選択を通じて、そうした自分の中の「追われる側」の側面を取り逃がしたわけですよ。
安楽死の問題は、まだまだ現実の社会においても難しく、論争を呼ぶものです。
しかし、忘れてはいけないのが、安楽死を提唱する者も反対を提唱する者も「誰かを思う心」という点では共通しています。
そうした人間らしい温かい気持ちを大切にして欲しいというのが、本作の落としどころになっていましたし、作り手からの重要なメッセージにもなっていたわけです。
そんな娘の金言が犬養の心を少しだけ晴れやかにするも、やはり本作はスカッとはせず、何かモヤモヤを残したまま幕切れます。
この犯人逮捕を成功させたにもかかわらず、後味の良くない結末というのが、本作が医療・生命倫理を問う作品として優れている点とも言えるかもしれません。
令和の世に作られたことが信じられないクオリティの映画版
さて、ここからは映画版の方についても少しお話をしていこうと思うのですが、これがとんでもない案件です。
既に多くの映画ファンからの酷評が寄せられているわけですが、鑑賞前にそういったレビューを読んでいた当ブログ管理人はイマイチ腑に落ちなかったんです。
というのも、安楽死のテーマの扱い方が雑なんてことは原作では全くありませんでしたし、むしろ掘り下げ方の深さに感動したほどでした。
キャラクターたちが「全員バカ」みたいなコメントも見受けられましたし、ドクターデスの行動なんて結局「エゴ」だというコメントもありましたが、これらについても原作しか読んでいなかった私には理解不能でした。
なぜなら、これらは原作の時点では全て丁寧にクリアされていたポイントだったからです。
しかし、なぜか映画版ではこうした点が槍玉に挙げられ、既に2020年ワースト映画筆頭候補になっているというではないか。
そうとあれば、真相を確かめないわけにもいかないと思い、早速映画版を鑑賞してきた次第です。
近年、邦画大作のレベルはどんどんと上がって来ていて、駄作だとはっきり断罪出来てしまうような映画は減っています。しかし、この『ドクターデスの遺産 BLACK FILE』については明確に駄作であると断言できてしまいます。
褒める部分を探そうにも見当たらないんですよ。
ここから3つの観点に分けて、この映画の酷い点について言及をしていくのですが、原作の素晴らしさ、名誉を傷つけないためにも、映画版については『ドクターデスの遺産 BLACK FILE』と表記いたします。
「キャラもの」と「生命倫理の主題」のバランスを魔改造
(C)2020「ドクター・デスの遺産 BLACK FILE」製作委員会
ここまでに書いてきた評の中で、私は本作『ドクターデスの遺産』が「キャラもの」としても、そして生命倫理に関するテーマの掘り下げの深さについても素晴らしいということを書いてきました。
「刑事犬養隼人」シリーズという枠組みとキャラクターありきで物語を構築していくという制約がありながら、そのシリーズとしての魅力と安楽死のテーマ性をきちんと両立させているんです。
キャラクターの特長や性格がきちんと捜査の展開や物語の成り行きに還元されていきますし、キャラクターのバックグラウンドが安楽死のテーマにも関連づけられていきます。
正直、原作を読んだときにこのバランスは奇跡的だと思いましたし、だからこそ私は高い評価をつけました。
ただ、この『ドクターデスの遺産 BLACK FILE』は原作が奇跡的なバランスで成立させていたドラマを完全に「魔改造」してしまっています。
まず、キャラクターとしての魅力を表現するために選んだアプローチが「コメディ要素」「大袈裟演技」の2点だったことが最悪です。
特に「コメディ要素」をキャラクターの魅力の表現ツールとして選んだのは、本作が安楽死という難しいテーマを扱っている点を理解していないのではないかとすら勘繰ってしまうほどです。
シリアスな捜査シーンになりそうな場面で、綾野剛さんが演じる犬養の足が遅いという謎設定が笑いを誘うようにインサートされていたり、いきなり飲み屋で酔った明日香が泣き喚きだしたりと、物語全体のトーンとは明らかに乖離したコメディ要素が随所に用いられ、安楽死のテーマやシリアスな操作を「茶化して」きます。
これにより、映画を見ている側は一体どんなテンションで映画を見たらよいのかが理解できなくなるんですよね。
とりわけ生命倫理の問題はデリケートなので、こういったインスタントなコメディ要素で「茶化す」のは、悪手ですし、明らかに喧嘩をしています。
また、綾野剛さんと北川景子さんを起用し、主演の2人を全面に押し出した「キャラもの」としての側面を際だたせようとするがあまり、安楽死のテーマが添え物になっているのも印象が悪いです。
この『ドクターデスの遺産 BLACK FILE』は原作の中で絶対にカットしてはいけない2つの要素をカットしてしまっています。
1つ目は、ドクターデスの「模倣犯」が登場するという展開です。
これは後程お話するドクターデスの性格やカリスマ性を担保していく上でも重要な事件になるのですが、とりわけ単純に安楽死を肯定してしまうことの危険性を描いたエピソードでもあります。
このエピソードでは、事故により重傷で毎日苦しみ続けているとある工場の社員を、慕っていた同僚がドクターデスのカリウム注入という手法を真似て、安楽死させ、警察にドクターデスの仕業だとリークするという内容です。
しかし、この同僚が工業用のカリウムを使ったために、安楽死をするはずだったその社員は苦しみに悶えながら死んでしまいました。
こういった「模倣犯」の存在が事件の展開に一波乱起こしていたという面白さもありましたし、何より安楽死を単純に肯定してしまうことへのブレーキとしても機能しており秀逸だったのです。
そして、もう1つがドクターデスのバックグラウンドについてです。
彼女が医師として海外で活動し、紛争地帯でどうやっても助からない子どもたちに直面し、治療するための道具や設備もなく、安楽死で救済することしかできないという現場に直面してきたという背景は今作の主題を描く上で非常に重要です。
映画版の『ドクターデスの遺産 BLACK FILE』はすごく狭いエリアの話ばかりしているのですが、そもそも安楽死が認められている地域や国は現実に存在していて、ところ変われば「合法」なんですよ。
そんな中で日本では「合法」とされておらず、「殺人」として扱われてしまうというコンテクストをこのテーマを扱うにあたっては絶対に描かなくてはならなかったはずです。
「安楽死」は本当に「殺人」なのか、人間には死ぬ権利があるのではないか、しかし模倣犯が起きる、安楽死に見せかけた殺人が起きるかもしれない…。
そういう「ジレンマ」のようなものが、この映画版からはすっぽりと抜け落ち、「キャラもの」の側面が際立たされ、単純な犯人逮捕劇に結び付けられています。
「BLACK FILE」というサブタイトルが、原作と全く同じタイトルにはしたくない、別物であるという原作者の小さな抵抗にも思えてきました。
カリスマから5流サイコパスに転落したドクターデス
(C)2020「ドクター・デスの遺産 BLACK FILE」製作委員会
そして、『ドクターデスの遺産 BLACK FILE』において個人的に最も憤りを感じたのは、ドクターデスの描かれ方です。
先ほども書きましたが、まず今回の映画版ではドクターデスのバックグラウンドが抜け落ち、彼女が「美しい死」に憑りつかれたただの快楽殺人者として描かれています。
もう断言します。ドクターデスをこんな陳腐な設定にせざるを得なかったのは、作り手の技量がないからです。
今回の映画版は「キャラもの」としての側面を強め、単純な刑事もの、犯人逮捕劇に結びつけたいという方向性が見え見えでした。
ただ、単純な勧善懲悪、犯人逮捕のコンテクストに落とし込むには、原作のドクターデスでは、いささか魅力的すぎるんですよね。
というのも、原作のドクターデスは、同意がなければ絶対に安楽死を実行しませんし、自分の快楽のためにやっているというよりは、心の底から患者に寄り添って安楽死を実行しています。
加えて、カリスマ性と言いますか、きちんと芯が通っていて、その行動にある種の「信念」が宿っています。
先ほど言及した「模倣犯」が登場した際には、警察への情報提供にも快く応じ、自分の「信念」が歪曲された形で誰かに真似られることに強い嫌悪感を示していました。
犬養の娘に対してアクションを起こした際も、誘拐なんてちゃちなことはせず、あくまでも塩化カリウムの液体が入ったパックを病院に送りつけて警告する程度のものでした。
それは、ひとえに彼女が「自ら臨んだ人間にしか安楽死を実行しない」というブレない信念を持っているからです。
だからこそ、原作のドクターデスは単純な勧善懲悪のプロットでは扱いきれない存在なんですよ
しかし、映画版のドクターデスはただの「5流サイコパス」であり、エゴがむき出しのただの「悪役」に成り下がっています。
それが明確だったのは、自分の安楽死を望んでいない犬養の娘を誘拐して、脅迫の道具に使い、無理やり安楽死させようとした点です。
このように、映画版のドクターデスは、「望んだ人間」以外にも平気で危害を加えるようになっており、犬養の娘だって洗脳紛いの行為で無理矢理同意を取り付けていましたし、完全なる自分のエゴと欲望で行動しているのです。
ドクターデスがメインのエピソードなのに、肝心の原作のドクターデスが持っていた信念やカリスマ性をことごとく否定し、そこら辺にいる頭のおかしい奴くらいの扱いにしてしまったのは、あまりにも酷いとしか言いようがありません。
『ドクターデスの遺産』という作品の肝は、信念と信念のぶつかり合いです。
刑事としての犬養の信念とドクターデスの安楽死を推奨する者としての信念。この2つが重なり合い、ぶつかり合っていくプロセスが面白いんですよ。
原作の終盤にこんな印象的な言葉があります。
「犯人は捕まえたが、罪を捕まえられなかった。」
(中山七里『ドクターデスの遺産』より引用)
『ドクターデスの遺産』において重要なのは、犯人を捕まえることではないのだと、明確に言っているようなものではないか。
いくら邦画大作だからと言って、こんな単純な犯人逮捕劇にドクターデスという存在を当てはめ、ありふれた悪役に仕立て上げ、適当に役者の怪演らしきもので味つけをするというアプローチが許せるはずがないのです。
偶発的要素に委ねすぎているプロット
本作はもちろん、推理をして犯人に辿り着くという構造を持っているわけですが、原作と比較すると、いささか偶発的要素に頼りすぎている節があるんですよね。
その最たるものが、ドクターデスが犬養の娘に仕掛けた罠でしょう。
睡眠薬を飲ませて、脅迫して、目覚めたらドクターデスのホームページが開いて、それを見た彼女がコンタクトをとるって、いくら何でも上手くいきすぎでしょう(笑)
ドクターデスは呑気にカフェで連絡を待っていましたが、なんであの程度の仕掛けで自信満々に彼女から連絡が来るだろうと確信できるのか。
普通に考えて、犬養の娘がコンタクトをとらない可能性の方が高いと思いますし、そもそも彼女が安楽死に手を出そうと思うほどに追い詰められていたことに関する描写が少なすぎて、説得力がないんですよね。
しかも、その後はメッセージでしかやり取りをしていなかった彼女の「思い出の場所」をどうやって聞き出したのでしょうか。
他にも、コメディ要素を出そうとし過ぎるがあまり、警察が「間抜けな奴」の集まりになっている点は笑いましたね。
(C)2020「ドクター・デスの遺産 BLACK FILE」製作委員会
個人的に一番笑ってしまったのは、「ドクターデス」だと思われるホームレスの男性を確保する際の警察の立ち回りです。
何が面白いって、普通に考えて、事件の容疑者だと推察される人間なのですから、身柄を拘束する際は、もう少し念入りに周囲を調査して、ある程度固まった段階で、逃亡ができないように包囲網を整えた上で作戦を決行しますよね。
現に原作では、目撃情報のみで確保に動くのではなく、念入りに下調べをして、その人物が犯人であることが確定した状態で、夜間に「ドクターデス」と思われる人物のいる河川敷に包囲網を敷き、一気に身柄確保に動いていました。
逃げられたら不味いわけですし、相手は何人も人を殺している可能性があるわけですから、刑事3人だけでバックアップもなしに乗り込んでいくというのは、考えにくいんですよね。
その逃走シーンがまた面白くて、特に刑事側の綾野剛演じる犬養なんかは犯人を捕まえる気があるのかというくらいに遅いランニングで、何だか男が3人で河川敷でじゃれているようにしか見えないチェイスに仕上がっていました。
目の前の凶悪犯を追っているというピリピリとした空気感が一切伝わって来ず、むしろサザエさんのBGMでも流した方がしっくりくるのではないかというコミカルさには、流石に面食らいました。
他にも映画の中で、雛森(ドクターデス)が警察の監視を掻い潜って逃走するシーンがありましたよね。
原作にも同様の展開はあるのですが、原作の方ではそこに論理的な理由づけがなされているんです。
まず、映画版では刑事が2人体制で見張っていながら見失うという、とんでもない失態を犯してお笑い種になっていました。
ただ、原作の方では、これが極めて計画的なドクターデスの策略によって実現します。
というのも、ドクターデスは警察がこの捜査に割くことができる人員を正確に把握していました。
そのため、警察が河川敷にいた「ドクターデス」の確保に動き出すタイミングで、自分に張りついている刑事たちの一部を他の任務に向かわせるために、犬養の娘がいる病院に危機が迫っているという脅迫状を送るのです。
警察としては、河川敷にいるのが「ドクターデス」だと確信していますから、雛森の監視についていた刑事の一部を犬養の娘がいる病院に向かわせます。
そのタイミングで、自分の監視が手薄になった彼女は、自分の監視をしている刑事を薬で眠らせ、その隙に姿を眩ませるというわけです。
このように原作では、単なる警察の「おバカ」であったり、偶発的要因であったりに物語の展開を委ねるのではなく、整然とした論理展開と巧妙なドクターデスの策略によって物語を進行させていきます。
こうした物語を支える小さな論理や根拠の「柱」を徹底的に引っこ抜き、何となく、偶発的要素に身を任せながら展開されていく映画版のプロットは一言で言うと、説得力に欠けますし、もっと言うなれば登場人物が「バカ」だからという1点でいろんな事象が語られてしまうという状況に陥っています。
正確に再現しろとは言いませんが、もう少し原作のプロットを踏襲しても良かったと思うんですよね。
当ブログ管理人の体感としては、この映画版の中で原作のプロットが組み込まれていたのは、ほんの20%くらいだと思いました。
大半がオリジナル要素で、しかもそのどれもが原作の改悪か原作を否定するものという最悪の事態に陥っており、もはや原作と比較するのが憚られるようなそんな出来栄えとなってしまいました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『ドクターデスの遺産』と『ドクターデスの遺産 BLACK FILE』についてお話してきました。
信念と信念のぶつかり合いと、生命倫理を問う深いテーマ性が融合して素晴らしいミステリに仕上がっていました。
また、当ブログ管理人は先ほどもお話したように、ミステリにおける「探偵=追う側」と「犯人=追われる側」にリンクが生じたり、その境界が曖昧になったりしていくようなプロットが大好きなんですよ。
その点で、今作の終盤の展開は個人的にグッときましたし、生命倫理という答えのない問いを扱う作品ですので、単純な謎が解けたor解けなかったの話に留まらなかったのは良かったと思います。
機会がある方は、映画でも原作でも良いと思いますので、ぜひチェックしてみてくださいね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。