みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『さくら』についてお話ししていこうと思います。
基本的にぶっ飛んだ展開や人間の感情にスポットを当てることが多い作家というイメージなのですが、個人的にはこの『さくら』より前に書かれた彼女のデビュー作でもある『あおい』という小説が好きなんですよ。
で、この『さくら』は読んだことがなくて、あの『あおい』に続く初期作の1作だから面白いのだろうと思って、劇場に足を運んだところ、完全に置いていかれました。
最初に言っておきます。
そして、もう1つ言っておかなければならないのは、今作は映画としては2020年ワースト候補筆頭とも言えるつまらなさです。
映画として単純につまらないのですが、西加奈子さんらしいあまりにもぶっ飛んだ展開や設定、登場人物の性格や言動といった「飛び道具」的な要素が悪目立ちして、そんなことばかりが記憶に残る映画になってしまっていました。
というか、男性が見に行くと、おそらく小松菜奈さんの太腿以外の記憶が残らない映画ではないでしょうか。
映画の中の季節が春なのか、夏なのか、秋なのか、冬なのか。本作に登場する小松菜奈さんが演じる美貴は通年ホットパンツを穿いているので、まず季節感がバグります。
加えて言うなれば、この映画がつまらないという事実が、小松菜奈さんの太腿によって帳消しにされ、「こんな映画に1900円も払ったのか…」という気持ちに対して留飲を下げさせようとしてくるわけです。
そういう意味でも、この映画はズルいんですよ。
映画としては0点に近くても、小松菜奈さんの太腿が100点なので、途中から映画を見るというよりは、小松菜奈さんの太腿ばかりを見ていた私のような人間にとっては「100点の満点の映像作品」という評価にならざるを得ません。
ですので、ここで申し上げておきます。
本作『さくら』は当ブログ管理人が2020年に劇場で鑑賞した映像作品の中で最も高く評価した1本です。(「映画」としてではございませんので悪しからず)
そして、もう1つ衝撃的なのは、本作はヒューマンドラマとして多くの問題や障害を抱えるのですが、それらを表現したり,解決させたりする際に「糞尿」を用いるんですよね。
文字通り、う○○とおし○○ですよ。
これまで様々なヒューマンドラマ作品を鑑賞してきましたが、まさか糞尿で家族の崩壊と再生を演出する作品があろうとは思いもしませんでした。
今回は、そんなあまりにもぶっ飛んだ映画『さくら』についてお話ししていこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となります。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『さくら』
あらすじ
長谷川家の次男・薫は、年末に実家へと向かう。この日は、数年前に家を去った父が久しぶりに自宅に戻って来たのだった。
久しぶりに愛犬のさくらと再会した薫は、その体温に触れ、これまでの家族の物語を思い出す。
薫とそして妹の美貴にとっては幼い頃から憧れの存在だった兄の一(ハジメ)。
彼は学校では人気者、スポーツ万能、そして美人の恋人まで作り、家に連れてくるようになるなど順風満帆な人生を歩んでいた。
一(ハジメ)が大学に進学してから最初に帰省した日の夜。
彼はコンビニへと買い物に向かうのだが、夜道で交通事故に巻き込まれ、足の筋力を失い、顔の半分はケロイド上に腫れあがり,表情を失った。
この日から、家族は少しずつ狂い始める。
高校を卒業した美貴は進学もせず、一(ハジメ)と共に過ごすようになり,薫も自分が負いかけてきた背中が突如失われ、不安と苛立ちを隠せなくなる。
その一方で、一(ハジメ)は自分の足で歩けないことや近所の公園で子供に逃げられてしまうような顔になったことを悲観し,うつむきがちになっていった。
そんな矢先に、家族を揺るがす事件が起きるのだが…。
スタッフ
- 監督:矢崎仁司
- 原作:西加奈子
- 脚本:朝西真砂
- 撮影:石井勲
- 照明:大坂章夫
- 編集:目見田健
- 音楽:アダム・ジョージ
- 主題歌:東京事変
監督を務めたのは、『ストロベリーショートケイクス』や『無伴奏』で知られる矢崎仁司さんですね。
矢崎仁司さんの『無伴奏』を見た時にも思ったんですが、全体的に作品のトーンに起伏が少なくて、全体がすごく間延びしている感じがあるんですよ。物語にテンポやリズムがないと言いますか…。
そのため『さくら』を見ていた時も、体感時間がすごく長く感じられました。
おそらく脚本の朝西真砂さんも『無伴奏』から引き続きなので、あの作品が孕んでいた演出的な欠点は、この作品にもほとんどそのまま持ち込まれているような気がしました。
過剰すぎるモノローグは役者陣の演技を殺し、単調すぎる作劇は、間延びを生み、見る者を退屈させます。
映画としてのクオリティは2020年ワースト級と言っても差し支えないのではないのではないでしょうか。
その他のスタッフ陣も『無伴奏』で矢崎仁司さんをさせた方ばかりのようなので、何となくこれが「矢崎組」の映画のトーンなのでしょう。
主題歌には東京事変の「青のID」が選ばれました。
- 長谷川薫:北村匠海
- 長谷川美貴:小松菜奈
- 長谷川一:吉沢亮
- 大友カオル:小林由依
- 矢嶋優子:水谷果穂
- 長谷川つぼみ:寺島しのぶ
- 長谷川昭夫:永瀬正敏
長谷川家の3人の子どもを演じるのは、北村匠海さん、小松菜奈さん、吉沢亮さんなのですが、もう顔面偏差値高すぎて圧倒されますよね。
あんな家族があったらもう尊すぎて、卒倒します…。もう殿上人の家族としか言いようがないでしょう。
この3人は単に顔が良いというわけではなくて、演技も抜群に巧いのですが、作劇や演出が良くないために、活かされていないのが残念でした。
他にも櫻坂46の小林由依さんが出演している点も注目ですね。
また、寺島しのぶさんや永瀬正敏さんらベテランが作品の脇を固めています。
『さくら』感想・解説(ネタバレあり)
あまりにも「ぶっ飛んだ」映画だった
(C)西加奈子/小学館 (C)2020 「さくら」製作委員会
本作は原作を著したのが西加奈子さんであるということもあり、ただのヒューマンドラマではありません。正直かなり「ぶっ飛んだ」内容になっています。
そのため、価値観や倫理観、物事の尺度が合わないと、徹底的に作品に入り込めなくなると思いますし、むしろ嫌悪感を抱き得る作品なのではないでしょうか。
今回の映画化に当たって原作を著した西加奈子さんがインタビューの中でこんな発言をしています。
『さくら』は、間違った選択をしてきた家族の話だと思うんです。家族にはいい歴史もあるけれど、それだけじゃない。間違った歴史もたくさんある。それでも、生きていく以上は死ぬまで自分を肯定する、という話なんじゃないかと映画を観てあらためて思いました。
確かに人間というものは、多くの人が「恥の多い人生」を送るものですから、人生の中で間違った選択もたくさんします。
しかし、その選択をしてしまった以上は、それを否定することはできないし、やり直すこともできません。その選択を経た人生を何とかして肯定し、生きていくしかないのです。
西加奈子さんがこの『さくら』で描こうとしていたのは、人生の失敗や恥、挫折や過ちの「全肯定」なんだと思いました。
そして、今作『さくら』において、そんな人生の失敗や恥、挫折や過ちの多くを背負うことになったのが、小松菜奈さん演じる美貴というキャラクターなのでしょう。
美貴は大晦日でも自宅でホットパンツを穿いているかなりヤバい女性です。
自宅で小松菜奈さんがあんなに大胆に太腿を晒しているとあらば、自分であればもうまともに生活を送ることすら難しいでしょうし、それ故にあの太腿を前にしてクールな表情を貫く北村匠海さんを尊敬します。
美貴というキャラクターは一言で言ってしまえば、「極度のブラコン」です。
兄の一(ハジメ)に幼少の頃から強烈な好意を寄せており、それ故に子どもの頃は常に一緒に寝ていて、小学生くらいの年齢になっても止めようとしないほどでした。
そして、美貴は「極度のブラコン」であると同時に、「一介のサイコパス」でもあると思います。
まず、父の不倫疑惑が生じた際には、疑惑の相手から送られてきた手紙を母親の前で朗読して、彼女が狼狽する様を見てニヤニヤしていました。
この時に、「あ、この女、やべえぞ…。」と本能的に察知しましたね(笑)
もうそこからは、あまりの「ぶっ飛び」具合に衝撃を受けましたね。この女は他人の不幸で白飯を食うタイプの人間なんですよ。
- 一(ハジメ)の大好きな彼女が親の都合で九州に引っ越すこととなる。
- 2人は結婚を誓い合い、手紙で連絡を取り合おうと約束して別れる
- 程なくして2人は手紙のやり取りをし始めるが、しばらくすると彼女からの手紙が途絶え、一(ハジメ)は狼狽する
- その原因は美貴が手紙をポストから奪っていたことであり、そんな一(ハジメ)を見ながらニヤニヤしている
- 美貴は奪った手紙を読み、恋人が一(ハジメ)に寄せる思いの強さに興奮し、オ〇ニーに励んでいる
- 一(ハジメ)はそれが原因で最愛の恋人と再会することも叶わず、結果的には自殺にまで追い込まれていく
というか、直接的な原因にはないにせよ、一(ハジメ)の死の遠因となっているのは、妹の美貴の行動なんですよね。
美貴が文通の邪魔をしておらず、2人が連絡を取り合えていたとしたら、彼にはまた違った未来があったはずなんですが、それを彼女が遠からず奪ってしまったわけですよ。
いくら小松菜奈さんでも、それは許せねぇ!!と思ったりもするんですが、正直太腿があまりにも魅力的すぎて、怒りの感情が萎えていくという不思議な中和反応が起きてしまいます。
そして、一(ハジメ)の葬儀の場面で、気が動転した小松菜奈さん演じる美貴は周囲の目を気にすることもなく放尿し始めます。
このシーンで、「ああ…恵みの雨じゃ…。」とか内心思っていた当ブログ管理人は重罪に値することはさておき、本当に彼女の感情が読めないんですよね。
罪の意識なのか、悲しみなのか、それとも興奮なのか。映画を見ながらサイコパスの思考が常人には理解しがたいというのは、こういうことなのではないかと何となく想像してしまいました。
というか、この時にまず衝撃を受けたのは、感情表現や自分の内側から何かが出てくるというコンテクストを「放尿」で表現するという描写の大胆さです。
自分の中に溜まりに溜まった感情が、涙ではなく、〇しっことして対外に放出されるというのが、絵面的にあまりにもインパクトがあります。
それはさておき、一(ハジメ)の死後の美貴の行動がまた「ぶっ飛んで」いるんです。
彼女は、一(ハジメ)のいなくなった部屋の残り香で〇ナニーを始めるのですが、その時に用いるのが、大人のおもちゃではなく、かつて彼が自分にプレゼントしてくれた「クルミ」なんです。
ここで「クルミ」の画像をチェックしておきましょう。
玉袋のメタファーというか、もう玉袋で小松菜奈さんが興奮しているようにしか見えず、この映画の撮り手は一体どんな思考回路をしているのだろうかと心配になりました。
という具合に、とにかく小松菜奈さんが演じる美貴という私たちの価値観や尺度では測りがたいキャラクターが次々に、映画の中で恥や過ち、後悔に繋がるような行動を連発するのですが、そうしたあまりにも「ぶっ飛んだ」要素をラストでまさかの方法で解決に導くのです…。
小松菜奈の太腿と糞尿で世界を救う
(C)西加奈子/小学館 (C)2020 「さくら」製作委員会
この映画の何がすごいって、やっぱりラストの大晦日の夜の車でのシークエンスなのだと思います。
大晦日の夜に愛犬のさくらが体調を崩し、家族は大慌てで動物病院を探すべく、車に乗り込み、走り出します。
確かにこのシークエンスは感動的ですし、描きたいことも分かるんです。とりわけ先ほど引用した原作者の西加奈子さんの思いが強く表出したところでもあるのでしょう。
壊れてしまった家族が1台の車に乗り込み、夜道を走る中で徐々にその繋がりを取り戻していきます。
そうして家族が追い抜いていくのは、まだ生きていた頃の一(ハジメ)でした。
あの家族につきまとっていた「輝いていた頃の一(ハジメ)」の亡霊を家族は追い抜いていきます。
彼らの時間は一(ハジメ)が死んだときから止まってしまったのかもしれません。父はそんな家に居づらくなり、家を出るという選択をしてしまう始末で、薫も大学進学に合わせて家を出ました。
そんなバラバラになった家族が、さくらという家族の核のような存在の危機に瀕して、再び団結し、一(ハジメ)を追い抜くという形で、前に進む決断をするわけですよ。
というのも、その後にさくらがう○ちをするんです。
先ほど、一(ハジメ)の葬儀の場面での小松菜奈さん演じる美貴の感情表現を「尿」で行ったという話をしましたが、ラストシークエンスでは家族の溜まっていたものが出ていく様を「糞」で表現しているんですよ(笑)
しかも、美貴が一(ハジメ)に対してやってきたことって、本当にとんでもないことだと思うんです。とりわけ彼が死んでしまったが故に、一生赦しを得られない罪になってしまったという見方もできます。
ただ、この美貴が愛犬のさくらのうんちを見て、勝手に「すっきり」してやがるんですよね。
ここまで「ぶっ飛んだ」物語のオチがまさか「うんちですっきり」だとは思わなかったです。
そして、最後にこの映画を見た当ブログ管理人の愚痴というか本音を書かせていただきます。
まず、映画としては衝撃的につまらないのに、小松菜奈さんの太腿を人質に取るのはズルい。
どんなにつまらない映画でも、画面に小松菜奈さんの太腿が映っていれば、それだけで画のパワーが保証されてしまいますし、映像としての求心力が失われることはありません。
だからと言って映画的な面白さを放棄し、小松菜奈さんが演じるキャラクターに春夏秋冬オールシーズンでホットパンツを穿かせて、映画としての体裁を保とうとするのはいかがなものか…。
物語の都合で登場人物が動かされている映画というのは、しばしば批判の対象となりますが、本作はその出来栄えの都合でキャストがホットパンツを穿かされる映画であり、これも同様に批判されて然るべきではないか。
そして、何よりも許しがたいのは、今作の中心にいるさくらという1匹の犬です。
(C)西加奈子/小学館 (C)2020 「さくら」製作委員会
小松菜奈さんの御御足に顔をすりすりと擦り付けたり、彼女の御顔をペロペロと舐めたり、彼女の鼻の前で放屁したり、挙句の果てには彼女の手にうんちをするという、おっさんの願望を地で行くような行動をとる愛犬には、ある種の眺望めいた感情を抱きました。
どうやったら、私は「さくら」になれますか…。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『さくら』についてお話してきました。
このブログは真面目な記事を書いているというイメージをお持ちの方もいるかもしれません。
そういった方には、ここで今回の記事で私の中にたまった糞や尿のような感情をまき散らしてしまったことに関して、深くお詫び申し上げたいと思います。
もし、まだ映画を見ていない方で、この記事を読んで不快感を抱いたという方。この『さくら』という映画の本編を見ると、おそらく同様の不快感を抱きます。本当にこんな感じなので。
正直、私にはこの映画を見て欲しいと他人に進める勇気はありません。
小松菜奈さんのファンであれば、見に行っておいて損はないというか得しかない映画だと思いますが、それ以外の方に勧めるとなると、気が引けます。
西加奈子さんの作品は小説で読むとすごく良いんですが、映画にするとその「ぶっ飛んだ」内容を映像に落とし込み切れない印象があります。
特に今回の『さくら』は全体的に落ち着いていて、淡々とした作劇を選んだが故に、セリフやそこに描かれている奇行の数々が宙に浮き、ちぐはぐな映画になっていました。
とにかくこの映画を見て思うのは、早く「さくら」になりたいということです。
私も早く北村匠海さんにハグされて、吉沢亮さんに散歩してもらって、小松菜奈さんの手にうんちをするあの犬になりたいと切実に思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。