みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ばるぼら』についてお話していこうと思います。
彼が『デカダニズムと狂気にはさまれた男の物語』と表現する今作が、彼の息子である手塚眞さんによって映像化されるというのは、何とも不思議な縁を感じますね。
さて、この作品は現実と幻想、正気と狂気が錯綜するとんでもない作品なのですが、やはり手塚治虫さんらしさも強く感じる内容であり、その不思議で謎めいた内容は今も多くの人を惹きつけています。
創作者ないし芸術家が「ミューズ」に憑りつかれるという物語構造そのものは、今作に限らずとも多く存在していますし、この手ファムファタールものは神話来の定番のプロットです。
それでもこの『ばるぼら』という作品が魅力的であり続けるのは、やはりばるぼらという少女のキャラクターの凄みなのでしょうね。
「都会が何千万という人間をのみ込んで消化し、たれ流した排泄物のような女」と冒頭で紹介される本作のヒロインは、『ブラックジャック』のピノコを思わせるような天真爛漫さと退廃的な雰囲気、危うさ、中性的な魅力を兼ね備えています。
とりわけ彼女は、既存のヒロイン像をデコンストラクションしたような側面が強いんですよね。
どちらかと言うと、「ひも男」や「のんべえ」的な中年男性のような行動を取るわけで、そういう「らしさ」の欠如が前面に押し出されつつも、突然女性らしさと色気を全面に押し出したような雰囲気を醸し出したり、ジェラシーをむき出しにしたりするわけです。。
これを何に例えたらいいか…と個人的に考えておりましたが、最近で言うと、「1000年に一度の美少女とも言われる橋本環奈さんが、お酒大好きで酒焼け声をしている」というイメージに近いのかなと思っております。
不完全さの中に顔を覗かせる完全、逆に完全の中に顔を覗かせる不完全さ。
こういった「ギャップ」に人間は弱いわけで、それを強烈なコントラストで見せられるとどうしても気になってしまうものです。
本作『ばるぼら』が傑作足り得ているのは、偏に色褪せることのない魅力を放ち続けるこのヒロインの存在が色あせることなく、時代を超えて読む人の心を掴むからなのでしょう。
さて、今回はそんな『ばるぼら』という作品について個人的に感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ばるぼら』
あらすじ
「都会が何千万という人間をのみ込んで消化し、たれ流した排泄物のような女」たるばるぼらは、今日も新宿駅の片隅の柱でうずくまっていた。
その傍らを偶然通りがかった流行作家の美倉洋介は、そのみすぼらしい身なりの女性に不思議な引力を感じ、家へと連れ帰る。
しかし、ばるぼらは、美倉の家で居候生活を始めるのだが、家事をするわけでも、彼のサポートするでもなく、日中から酒を飲み、自堕落な生活を送っていた。
美倉はと言うと、新作の執筆のために取材やら、出版界の大物とのコネクションづくりに励んでいるのだが、人気の作家であるため、しばしば「娘と結婚してくれないか」と斡旋される始末であった。
そんな美倉は、異常性欲の症状に悩まされており、ばるぼらが家にやって来てからも女性関係は派手であった。
しかし、そういった女性との関係がばるぼらに妨害されるようになり、彼は徐々に創作へと向き合っていく。
そして、ついに美倉はばるぼらにインスピレーションを受けて著した新作で100万部超の大ヒットを記録することとなるのだが、その頃から彼の周りで異変が起き始める。
「ばるぼら」とは一体何なのか?彼が見ているのは現実なのか、それとも幻想なのか。
芸術家の幻想と狂気を描いた奇妙な作品である。
スタッフ・キャスト
- 監督:手塚眞
- 原作:手塚治虫
- 脚本:黒沢久子
- 撮影監督:クリストファー・ドイル
- 照明:和田雄二
- 編集:手塚眞
- 音楽:橋本一子
監督を務めるのは、記事の冒頭でも紹介しましたが、手塚治虫さんの息子である手塚眞さんです。
彼はこれまでにも坂口安吾の『白痴』の映像化であったり、『星くず兄弟の伝説』シリーズであったりの監督を務めるなどしています。
脚本には『きいろいゾウ』や『花芯』などで知られる黒沢久子さんが起用されています。女性の繊細な感情を描き出すことには定評のある脚本家さんですので、彼女が「ばるぼら」という極めて特殊なヒロインをどう描き、どうアップデートするのかについては、気になるところです。
そして注目なのが、撮影を担当したクリストファー・ドイルですよね。
彼は『ブエノスアイレス』や『恋する惑星』などのウォン・カーウァイ監督作品で撮影を担当してきた人物ですが、やはり彼の撮る映像のファンは多いですよね。
とりわけ『ブエノスアイレス』のあの美しい映像に憑りつかれた人は多いと思いますし、当ブログ管理人も大好きです。
ですので、今回もばるぼらという女性の狂気的な魅力を映像に閉じ込めてくれるのだろうと、今から胸が高鳴ります。
作品におけるもっとも重要なセクターの1つでもある編集については手塚眞さんがご自身で担当されたようです。
劇伴音楽には、手塚眞さんが監督を務めた『白痴』でも音楽を手掛けた橋本一子さんが起用されていますね。
- 美倉洋介:稲垣吾郎
- ばるぼら:二階堂ふみ
- 四谷弘行:渋川清彦
- 甲斐加奈子:石橋静河
- 里見志賀子:美波
- 里見権八郎:大谷亮介
- 紫藤一成:ISSAY
- 須方まなめ:片山萌美
- ムネーモシュネー:渡辺えり
まず、主人公の美倉洋介役には、稲垣吾郎さんが選ばれています。雰囲気的には、かなり美倉のイメージが湧きますね。
クールでどこか世の中を斜めから見ているようなところがあり、そうして作り上げられた冷静さの仮面がばるぼらによって引き剥がされていくという過程を演じるにあたって、稲垣さんの役者としての空気感は非常に近いものがあると思っています。
そして、最大の注目ポイントでもあったばるぼら役には、二階堂ふみさんが選ばれました。
この特異な役を実現するにあたって最も重要だと思うのは、「中性的な魅力」だと思うんですね。女性らしすぎても逆に女性らしさが欠如しすぎても成立しない絶妙なところにいるのがばるぼらというヒロインです。
そのため『翔んで埼玉!』で少年役をも見事に演じ切ってしまった二階堂ふみさんのような中性的な魅力を出せる女優は欠かせないピースだと思います。
加えて、二階堂ふみさんは『リバーズエッジ』で大胆な「脱ぎ」を披露していましたが、そういったハードな描写もこなせる女優です。ここも本作のヒロインを演じるにあたって1つ重要なポイントだったと思いました。
あとは、個人的に衝撃だったのは、ムネーモシュネー役の渡辺えりさんですかね。
原作を読みながらこんな役を演じられる人いるわけないだろ!と笑っておりましたが、いたんですね。というか地味に完璧ですね、このキャスティング。
という具合に、本作は本当にキャスティングが的確で、だからこそ原作を読んだ人間としても期待してしまうわけです。
『ばるぼら』解説・考察(ネタバレあり)
出会いとヴェルレーヌの詩について
手塚治虫『ばるぼら』より引用
まず、注目したいのは2人の出会いの場面なのですが、新宿駅の片隅の柱に寄りかかっているばるぼらは、ヴェルレーヌの「秋の歌」(上田敏訳)と呼ばれる詩を朗読しています。
それを聞いた美倉は、それがヴェルレーヌの詩であると咄嗟に気がつき、彼の方はと言うと『偶成』(永井荷風訳)という詩を「返歌」のように朗読しました。
これが本作『ばるぼら』におけるある種のボーイミーツガールの瞬間として描かれているわけですが、まず重要なのは2人が読んだ詩でしょう。
この出会いの場面は、当然読者が最初に読んだ段階では、「現在軸」のこととして語られているのですが、後々に美倉自身が遺した遺作の書き出しであったことが判明するんです。
つまり、この出会いの場面そのものが美倉の作り上げたフィクションであり、同時に彼が経験していたのかもしれない現実なんですね。
2人が読んでいる詩の内容は、冒頭の時点では正直ピンと来ません。しかし、作品を読み終えて、ばるぼらとの様々な出来事を経た美倉が綴った小説の書き出しなのだと考えると、実に深い意味が内包されていることに気がつきます。
「秋の歌」という詩はヴェルレーヌが20歳の頃に書いたもので、秋という季節が内包するもの悲しさや哀愁を強く感じさせる内容になっています。
つまり、20歳というまだまだ若く、未来への希望に満ちている頃に、この人生を振り返るような哀愁と死、終わりの予感を漂わせるような詩を書いたというわけです。
そういうこの詩そのものが持っているコンテクストが実はばるぼらと美倉の関係性への言及にもなっています。
この時点での美倉はまだまだ若く、将来有望な流行作家であるわけですが、このシーンを描いた美倉はもうまさに命の灯が消えてしまいそうな、人生の最期の瞬間にいたわけですよ。
そういう美倉の二重性というものがこの描写を巡るメタ構造には反映されているわけですが、これは思えば美倉の願いでもあるのだということに気がつかされます。
「ばるぼら」を書いている頃の美倉と彼女の関係性はもう終わってしまいましたし、彼女は亡くなってしまいました。
そういった「終わり」や「死」が充満した環境に身を置きながら、美倉はその「終わり」から再び自分と彼女との円環が始まるのではないかと想像し、この小説を綴ったのだということが伺えるわけです。
私は、枯葉のように散っていくけれども、その「終わり」は新しい生命の円環の始まりであり、私は何度でもばるぼらと巡り合うのだという極めて手塚治虫さんらしい世界観と円の構造がこの詩の引用によって示されていると思うわけですよ。
そして、美倉がこの時に「返歌」のように用いた『偶成』という詩にも注目しておきましょう。
「偶成」という言葉は、そもそも何かに触れた時に、ふと自分の中で創作のイメージが湧く瞬間のことを指していると言われています。
もちろんこの時点での美倉には、顔が描かれていませんし、同時に「ばるぼら」が自分にとっての創作の原動力になることも知らないはずです。
しかし、ここでばるぼらを見た美倉が咄嗟に『偶成』という詩を口にするのは、これが他でもない晩年の美倉が著した小説の一部だからなんですよね。
全てを経験した彼だからこそ、この出会いの場面の自分自身に『偶成』というその後の彼とばるぼらの歩みを見知ったかのようなチョイスができてしまうわけです。
ファーストシーンにおいては謎めいていたこの詩の引用が、最後まで読み終わったときに突然色を変え、その意味が深まっていくという構造に鳥肌が立ちます。
この出会いの場面を美倉自身が演出しているという終盤の展開の、誰も気づき得ないされどさりげない伏線としてヴェルレーヌを引用するという機知に手塚治虫さんの驚異的な才能の一端を垣間見ることができると言えるでしょう。
世俗と芸術。ばるぼらの正体について
(C)2019「ばるぼら」製作委員会
さて、芸術家を題材にした作品として、しばしばその軸になるのが、世俗的な価値観と芸術家としての価値観の対比です。
例えば、有名な作品として芥川龍之介の『地獄変』という作品が挙げられます。
この作品は娘を溺愛していた芸術家が、「地獄変」の屏風絵を描くように命じられ、制作に取り掛かるのですが彼には「見たものしか描くことができない」という欠点がありました。
そのため、彼はどうしても人間が焼かれて苦しむ様を想像することができません。それを知った依頼主の大殿は、彼女の娘を火刑に処すことを決定し、その焼け苦しむ様を実の父であるその芸術家に見せるわけです。
すると、その芸術家は狂ったように屏風絵を描き進めていき、ついには他の追随を許さない圧倒的な完成度の「地獄変」を完成させ、その後自殺を選択します。
簡単に言うと、こんな話なのですが、ここで言うところの「娘」の存在って、まさしく世俗的な価値観に芸術家を繋ぎ止めておくためのストッパーのようなものだと思うのです。
彼は娘を溺愛しているがために、芸術家として大成に至らなかった側面があります。だからこそ彼が真の芸術家の領域に足を踏み入れるためには、世俗的な価値観の象徴としての娘を焼き殺す必要があったのではないでしょうか。
他にもスタンリー・キューブリック監督の映画版『シャイニング』なんかも同様の軸で、芸術家が創作の狂気に飲まれていき、世俗的な価値観に繋ぎ止めようとしている家族に襲い掛かるという展開を描いていました。
そしてこの『ばるぼら』という作品もまさしくそういう類の作品の1つです。
作中でも何度も言及されますが、ばるぼらという女性は芸術家にとっての「ミューズ」のような存在です。
彼女が自分の元に現れてくれた芸術家は創作活動が上手くいくというわけですが、彼女は徹底的に世俗的な価値観との接触を断とうとしてきますよね。
その最たる例として描かれたのが、美倉が里見権八郎に選挙の後援人になって欲しいと依頼され渋々引き受けた際に、彼女が黒魔術の力で里見を殺してしまう描写です。
ばるぼらの「元カレ」的な存在に当たるルッサルカという男が登場しますが、彼は芸術家でありながら政治や社会的なことに口出しをするようになり、徐々に純粋な芸術の世界からは逸脱するベクトルに進んでいきました。
おそらくこれが、ルッサルカがばるぼらに見限られてしまった理由であり、同時に彼が死ななければならなかった理由でもあるのでしょう。
美倉もまた、生半可な覚悟で政治という世俗の象徴のような世界に足を踏み入れそうになるのですが、ばるぼらはすんでのところでそれを阻止しました。
このように彼女は、美倉という男が世俗的な価値観と接触してしまうことを徹底的に阻止しようとしているわけです。
加えて、ばるぼらが去った後に美倉の妻となる女性というのが、そんな里見権八郎の娘であるというのも、何とも皮肉な点ですよね。
里見志賀子という女性は、ばるぼらとは対照的に彼を世俗的な価値観に引き戻し、一般的な夫として、父として、亭主として大成させようと試みています。
そのため、芸術家としての道ではなく、彼女が斡旋するのは政治家としての道です。
主人公はばるぼらと志賀子という2つの全く異なるベクトルに彼を引っ張っていこうとする女性に囚われ、その境界でジレンマに苛まれているわけですよ。
どちらにも進むことができない。一般的な価値観では「狂っている」とされ、精神病院に入院させられるような状態になっても、ばるぼらを追い求めた彼はついに再会を果たします。
そうして彼は、自分を取り巻いていた世俗的な価値観から解放されました。
終盤に火山の火口の別荘で暮らすようになった美倉が常識やモラル、プライドから解放され、旅行者の食べ物をくすねて食料にするなんて行動に及ぶようになったのも、そうした世俗からの解放の表出なのでしょう。
野生への回帰、原子の時代への回帰、人間の本来の姿への回帰。
自分の「死」というものを飢えによって強くイメージする中で、彼は自分自身の生命の存在を知覚し、そうしてこの「ばるぼら」という手記を書き残すこととなるわけです。
それはまさしく究極の文明社会からの離脱とも言える芸術ではないでしょうか。
そもそも手塚治虫さんはばるぼらという女性を「都会が何千万という人間をのみ込んで消化し、たれ流した排泄物のような女」と表現しています。
(C)2019「ばるぼら」製作委員会
では、都会ないし文明社会における「排泄物」って一体何だろうかと考えてみると、それは対極的な位置に存在している「非文明」であったり、「人間の野生」であったりだと思うのです。
つまり、ばるぼらというキャラクターは、芸術家をそうした文明社会の外側にある人間本来の在り方へと導くある種のナビゲーター的存在だと言えます。
そして、クライマックスにおいて人間の原初的な在り方へと回帰した美倉は自身の集大成とも言える作品を完成させ、その芸術家としての「生命」を終えます。
というよりも、作家としての自分を「ばるぼら」という作品の中に残し、現実世界から葬り去ってしまったという方が正しいのかもしれません。
究極の現実世界からの離脱は何だろうかと考えてみた時に、それは自分自身をフィクションの内部に位置づけてしまうことだと思うのです。
先ほどご紹介した『シャイニング』という映画の中でも、主人公のジャックがフィクション内世界に取り込まれていき、最後は現実世界に戻って来られなくなるというような展開が描かれています。
つまり、美倉は自分自身を「ばるぼら」という作品の中に閉じ込め、そのまま殺してしまったが故に、現実の彼はムネーモシュネーが言うように「ただのじじい」になってしまったのです。
作中で、彼に「自分の作品の結末において主人公を殺してはいけない。それはあなた自身なのですから。」と脅迫めいた言葉を投げかけてくる占い師がいました。
実はこのラストは、この占い師の言葉にもリンクしているんですよね。
美倉は自分自身を自分のフィクション内に描いていて、だからこそ彼を殺すということは、自分を殺すことと同義であるのだと占い師に脅迫されるわけですよ。
このメタフィクション的な伏線の張り方がまた面白いわけですが、同時にこの占い師の言葉もまた、彼を世俗的な価値観に留め置くための忠告だったのかもしれません。
美倉は最終的にフィクション内の「美倉洋介」としての自分を殺害します。それは「死」であると同時に、フィクションの中で永遠に生き続ける究極の存在としての「生」を受けた瞬間でもあります。
現実世界に残されたのは、「美倉洋介」の抜け殻でしかないただの「じいい」です。
そんな「じじい」は、「ばるぼら」という作品のヒットの栄誉によくするなんてことは望みません。彼はそうした世俗的な価値観からは脱したわけですよ。
この作品は芸術品というものが世俗的な価値観からの解脱を志向しながらも、世間や社会に縛られる側面を指摘しています。
なぜなら、芸術を評価し価値を見出すのは、そうした世俗の世界だからです。
モナ・リザがここまで高く評価されているのは、大衆からの認知度と評価があってのものです。今作が指摘しているように同じくらいの芸術的価値があろう芸術品であっても、誰にも知られることもなく朽ちていったものも多くあるでしょう。
手塚治虫さんはそうした世俗と芸術の境界に存在する芸術家が抱えるジレンマを見事にこの作品の中で描き切っています。
だからこそ、自らを作品の中に残して「死」を選ぶことというのは、そのジレンマを解消する究極の手段なのかもしれません。
その正体を簡単に言語化してしまうことは難しいです。ファムファタール。悪魔。魔女。ミューズ。芸術のイデア。
文明社会の外側にいる彼女は、芸術家に「死」をもたらすとともに、究極の「生」を与えてくれる存在なのだと私は思いました。
原作とは一味違う解釈ができる映画版の面白さ
(C)2019「ばるぼら」製作委員会
さて、公開された映画版の方も早速鑑賞してきたのですが、これがまた少し不思議な作品だったんですよ。
まず、ここまでにも書いてきたように、原作におけるばるぼらという女性は、人間とは一線を画する異質な存在であり、加えて芸術家にインスピレーションをもたらすミューズでもあります。
そのためばるぼらが自分の元へとやって来た芸術家は成功し、逆に彼女が去ってしまうと、上手くいかなくなるというのが常であるわけですよ。
ただ、原作を読んだ状態で、映画版を鑑賞すると、どうしてもそうした原作の要素に補完されてしまって、映画版の意図的な「不完全さ」に気がつきにくくなってしまいます。
映画版は、原作からかなり多くの要素をカットしてあるのですが、そのカットの仕方が独特なんですよね。
例えば、彼女の非人間性を担保するような要素の多くは排除されているため、映画版のばるぼらは、ヤバい宗教に監修してくる典型的なファムファタールくらいの範疇には収まっています。
また、彼女がやって来たことにより、美倉の仕事が上手くいく、創作活動が捗るといったような描写も多くが削除されていて、彼女のミューズ性も原作に比べて格段に減退しているのです。
これらの非人間性とミューズ性は言わば手塚治虫さんが描いた「ばるぼら」というアイコンの中心にあるアイデンティティのようなものですから、何の意図もなく削るというのは考えづらいんですよね。
では、これらのカットにどんな意図があったのだろうか?というのを個人的に考えてみました。
そこで、私が立てた仮説は、美倉は作家として歩むべき道から堕落し、挙句の果てには「ばるぼら」という駄作を書いてしまったというものです。
劇中で、四谷というライバル小説家が登場しましたよね。彼は小さな文学賞を受賞し、少しずつ評価を高めていたわけですが、そんな彼に美倉は小さくない嫉妬心を抱いています。
ただ、美倉はそんな四谷や取り巻きを「俗物だ」と冷笑し、祝賀会の会場を去っていきました。
しかし、ここで少し考えてみたいのは、冷静に、第三者的に見て、「俗物」と冷笑されるような作品を書いているのは、どちらなのかという点です。
私は、どう考えてもそれは美倉の方だと思うんですよね。
彼は流行作家であるわけですが、しばしば自分の文学の「俗っぽさ」を指摘する幻覚・幻聴に悩まされており、あの冷笑というのは、四谷やその取り巻きに向けたものというよりもむしろ自分自身に向けられたようなものだと解釈できます。
「ダメな作品というものは、官能や欲情に逃避する」
確かに新作の執筆に行き詰まっていた美倉は、3流官能小説のような原稿を書き、ばるぼらから嘲笑されていました。
そういう意味では、この言葉は正しいのでしょう。
しかし、私は思うんですよ。この『ばるぼら』という映画そのものが「官能や欲情への逃避」に満ちた作品ではないかということを。
とりわけ中盤以降の美倉はバルボラの虜になっており、彼女の身体を貪るようになり、どんどんと堕落していきます。
という具合に、今作は後半に至るにつれて、ダメな作品の典型として「俗物の反対側」にいる人間から冷笑されていた「官能や欲情に逃避した作品」に変貌していくわけですよ。
そして、終盤にこの「ばるぼら」という作品そのものが美倉が書いた小説であったというメタ構造が原作のラストと同様に明かされます。
原作では、美倉は死の間際に、『ばるぼら』という傑作を書き、大ヒット作家となります。しかし、映画版ではそうはなっていないんですよね。
だからこそ、私は映画版の「ばるぼら」という存在は芸術家を「堕落」させる存在であり、彼女が美倉の最期の瞬間に書かせたのは、傑作とはほど遠い作品だったのではないかと思うわけですよ。
そこには、現代と手塚治虫さんの時代の小説家の在り方の違いも関係していると個人的には思っています。
手塚治虫さんの時代って、まだまだ文豪と呼ばれていたような人たちが存在感を放っていた時代であり、それ故に原作には多くの文豪の名前が登場します。
一方で、映画版は現代の日本を舞台にしており、今の時代の文壇というのは、もうかつてのようなものではありませんよね。
つまり、「死」に惹かれ、「堕落」を美徳とするような小説家の在り方というのが、アウトオブデイトになっているわけですよ。
そういう意味では、原作の時代には美倉が傑作を書き、映画版の時代では美倉がは駄作を書くという全く正反対の解釈はすごく納得がいきます。
この解釈はあくまでも私の仮説に基づくものではありますが、もし意図されていたとしたら、『ばるぼら』の現代版アップデートとして非常に面白い脚本だと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『ばるぼら』という作品についてお話してきました。
当ブログ管理人が一番好きな手塚作品は『上へ下へのジレッタ』という作品なのですが、『ばるぼら』もかなり好きな部類に入ります。
とりわけ今回の映画版は、登場人物の設定も含めてかなり現代版にアレンジしてきたような印象を受けますし甲斐加奈子を原作から改変することで、世俗と芸術の対比を際だたせてあるような印象を受けました。
また、こうした芸術家と世俗のジレンマに主軸を置いた作品は、この記事で紹介した『シャイニング』や『地獄変』、サマセット・モームの『月と六ペンス』など数多く存在しています。
ぜひこうした関連作品と併せて鑑賞してみてください。きっとより深く『ばるぼら』という作品を味わうことができると思いますよ。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。