みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『佐々木、イン、マイマイン』についてお話していきます。
これは見逃していたら、本当に悔やまれる1本だったな…と今になって思いますね。2020年の邦画を語る上では避けられない1本になったのではないでしょうか。
監督を務めたのは、『青い、森』『ヴァニタス』などの監督を務めたことでも知られる内山拓也さんですね。撮影に『宮本から君へ』や『きみの鳥はうたえる』の四宮秀俊さんがクレジットされている点も要注目です。
キャストを見ていくと、主人公の悠二役には藤原季節さん、彼の元彼女ユキ役には萩原みのりさんが出演しており、注目の佐々木役には細川岳さんが抜擢されました。
さて、本作『佐々木、イン、マイマイン』ですが、個人的に、あまり前情報を入れずに見に行ったこともありまして、何となく『横道世之介』みたいな話だろうなと思って見に行ったのですが、これが想像以上に重たい内容でした。
『横道世之介』ってもちろんラストはすごく切なくなるのですが、基本的に主人公の世之介が楽観的で、割とどんなことでも上手く行ってしまうタイプの人間なので、楽しく見られてしまうところはあります。
しかし、本作『佐々木、イン、マイマイン』は確かに展開としては共通点も多いのですが、その空気感が全く違っていて、かなり暗いというか悲哀を背負っているんですよ。
主人公の佐々木は、クラスのひょうきんもので、誰からも愛される明るいキャラクターなのですが、彼は複雑な家庭環境で育ってきました。
この映画は、そうした佐々木のバッグラウンドを見せるのが非常に巧いんですよ。
「飯食いに行かね?」という誘いをカップラーメンが旨いからと断るシーン。バッティングセンターで1人だけネットの向こうで他の3人が打っているのを眺めているシーン。
クラスのムードメーカーの背後には、孤独、貧困、絶望といったどす黒いバックグラウンドが広がっているのです。
いくら彼が表面的に明るく振舞っても、そうした裏側に隠されたネガティブな感情が滲み出てきてしまう。そんな佐々木の状況を見事に演出していました。
だからこそ、観客もまた自分事としてこう思うのだと思います。
佐々木を、佐々木を救いたい…。
きっと観客をこういう気持ちに巻き込むことができた時点で、この映画の勝ちなんでしょうね。
今回はそんな『佐々木、イン、マイマイン』が私たちにもたらす「救いたい」という感情について少し考えを深めてみようと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『佐々木、イン、マイマイン』感想・解説(ネタバレあり)
佐々木を「救いたい」
さて、今作の中で明るいクラスのムードメーカーである佐々木という人物は、父親と2人暮らしであり、その父親もほとんど家に帰って来ないという状況で、生活しています。
まだ高校生の彼は、そんな生活に孤独を感じていますし、加えて彼は貧困の中で苦しい生活を強いられていました。
友達と出かけても、自分には使えるお金がありません。彼の家のシンクには、カップラーメンの容器が散乱しており、その食生活が如何に簡素で、味気ないものなのかが伺えます。
彼の周囲にいる悠二や多田、木村たちは、あまりそういった佐々木の家庭環境について深くは知らない素振りを見せていますよね。
というよりは、佐々木の日ごろの明るい振る舞いが、そうした影の部分へと向けられる視線を逸らしていると表現する方が正しいのかもしれません。
しかし、物語に大きな転機が訪れます。それは佐々木の大好きだった父の死でした。
ただ、そんな人生に暗い影を落とすような出来事を経験しても、佐々木は気丈に、そしていつものように明るく振舞い、「佐々木コール」を要求するのです。
悠二たちが「佐々木コール」を教室や廊下、場所など構わずに繰り出し、それに応えるかのようにして、佐々木は服を脱ぎ、全裸になるというのが彼らの定番でした。
しかし、この時だけは。この時だけは、彼らも「佐々木コール」をすることができなかったのです。口を突いて出た言葉は「無理すんなよ…。」でしたね。
悠二や多田、木村たちは、この時、佐々木という人間が抱えていた闇の部分を初めて直視することになったのです。自分たちとは決定的に違う世界に生きている佐々木という人物をまざまざと感じ取ったのです。
(C)映画「佐々木、イン、マイマイン」
気がつくと、もう感情は止まりません。
「何とかあいつを救ってやれないだろうか…。」
そう彼らは思ったはずです。そして観客もそんな感情をスクリーンの向こうの佐々木という男に対して抱いたはずです。
大人になって1度だけ悠二と再会した佐々木は、パチプロになっており、就職もできず、そして取り巻きに金銭を借す、哀愁漂う人間に変貌していました。
何とかしてやりたい。でも、どうしようもないこともあるんですよ。劇中劇の『ロンググッドバイ』の状況に自分を重ねる形で、悠二は「俺にはあいつを救えない…。救う勇気がない。」と心情を吐露しています。
彼は生乾きの独特の臭いを放つ洗濯槽に残された衣類を見下ろすような視点で、佐々木を見つめていたのかもしれません。
そして、高校生の頃にその洗濯物を引っ張り出して自分で何とかしてやろうという気概が無かったのと同様に、彼にはどん底に堕ちた佐々木を救い出す勇気が備わっていないのです。
救いたい。でも積極的に何かをしてあげる勇気は出せない。
こんな感情は、自分にも身に覚えがありました。
「救いたい」という感情が内包するエゴ
大学生の時、1人の女性に出会いました。笑顔が素敵で、愛想も良く、誰からも好かれる人でした。
個人的に特別好意を寄せていたなんてことはないのですが、彼女のことを嫌いな人はあんまりいないだろうなと思うような良い子だったんです。
でも、身の上について話していると、家庭環境の複雑な事情やアルバイトをして自分で学費を稼がないと学校に行けない状況なんかを耳にすることになり、その笑顔の裏に隠された壮絶なものの一端をしばしば垣間見ることとなりました。
そんな彼女が、ひょんなことから妙な男と付き合うこととなり、その様子が少しずつ変わっていきます。
その彼氏の男はフリーターで、明らかな「ひも」属性の人間で、彼女よりも年上なのにも関わらず、金の無心をしているというのです。
彼女は、その男のために自分が学費のためにとアルバイトをして貯めていたお金を切り崩し始めたのですが、それを知って、自分も含めて、周囲の人間は彼女を思いとどまらせようと試みました。
きっと、この時の自分も漠然と「救いたい」って感情に憑りつかれていたんじゃないかなと、今振り返ってみると、そう思います。
居酒屋で「別れなよ。」と皆が口を揃えて言う中、彼女はこう言い放ちました。
「私は今、これで幸せなんだからほっといてよ!みんなには関係ないじゃん。」と。
もうそれ以上、誰も何も言えませんでした。結局、学費が払えなくなった彼女はしばらくして大学を辞めてしまいました。私もそれから連絡は取っていません。
これは全て実話なのですが、彼女のことを思い出して、私は今でも「ああ、救えなかったなぁ…。」と後悔の念に駆られることがあります。
でも、「私は幸せなんだからほっといてよ!」という彼女の言葉が不意に頭をよぎり、でも「救いたい」って自分のエゴなのかもしれないな…なんて思うんです。
あの時、あの居酒屋で「救いたい」と思っていた私たちに対して、彼女は「救われたい」なんて微塵も思ってなかったのかもしれない。
今となっては、彼女がどう思っていたのか、そして今どこでどんな生活をしているかは分かりません。
でも時が経ってみて、どうしようもない、自分にはどうしたって救えない、救えなかったであろう彼女のことを思うと、もはや「祈り」に近い感情がこみ上げてくることに気がつきました。
どこかで元気に生きていて欲しい。あんなことがあったけれども幸せであって欲しい。ちゃんと生きていて欲しい。
『佐々木、イン、マイマイン』という作品における悠二たちの佐々木に対する思いに触れて、私はまさしく自分のこの不思議な思いが代弁されたような気がして、思わず涙が出ました。
佐々木への「祈り」
その夜、突然電話がかかってきます。電話の向こうの女の声は確かに「佐々木の死」を伝えていました。
悠二たちは翌朝、佐々木が暮らしていた家に集います。そこで、部屋の中で横たわっている彼の姿を見ると、もう涙が止まらなくなのです。
その涙は、もちろん親友が亡くなったことに対する悲しみからくるものです。
しかし、そこには佐々木がどんどんと堕ちていっていることを知りながら、何もできなかったことに対する無力感のような感情が渦巻いているのだと直感的に感じ取りました。
なんで自分はあの時、あの場所で手を伸ばしてあげられなかったんだろうか…。
自分たちが救えなかった親友の命を前にして、彼らは己の不甲斐なさを深く悔いているのです。
ただ、やっぱり「救えなかった」という感情は、どこまでも悠二たちのエゴでしかなかったのかもしれません。
俺たちが、佐々木を脱がせていたのか。
佐々木が勝手に脱いでいるのを俺たちが盛り上げていただけなのか。
きっと、悠二たちは前者だと思っていたのだと思います。
前者だと思っていたからこそ、父が亡くなった後の学校で、コールを要求する佐々木に「佐々木コール」をしてあげることができなかったんですよ。
俺たちのエゴで、佐々木を脱がせているという意識があったからこそ、彼のためにも会の状況ではコールはできないという判断だったのでしょう。
でも、後者だったのだとしたら?
そうだったとすれば、あの日佐々木は、コールをかけてくれることを心から望んでいたのかもしれません。悠二たちには、いつものように接して欲しいと思っていたのかもしれません。
(C)映画「佐々木、イン、マイマイン」
数多の夢の残骸のような部屋で、何者にもなれないという絶望の中で生きる佐々木にとって、あのコールが鳴り響いている間だけは、教卓の上で裸になっている時だけは。「何者」かになれたと実感できていたのかもしれないと、私はそう思いました。
あの場所は、彼が唯一輝ける場所だったのだと。
物語の終盤に、悠二たちは佐々木の晩年の生活の一端を垣間見ます。
佐々木は、あれほど自嘲気味にできないだろうといっていた彼女を作り、そして無謀だと馬鹿にされていたバッティングセンターのホームラン記録を樹立していました。
俺たちが「どん底」で生きていると思っていた佐々木は、あいつなりの世界で、あいつなりに幸せにやっていて、そして夢を叶えていたのかもしれません。
(C)映画「佐々木、イン、マイマイン」
そんな彼の人生の爪痕を見ているとさ、もう「救いたい」なんてエゴは自分の中から綺麗に消えてなくなってしまうんだよね。
ただ、彼の人生が幸せだった。そう信じたい。
もうこれは「祈り」に近いものです。
でも、自分の中にあった後悔や諦念、エゴが、そうした軌跡に触れるにつけ、「祈り」に近い感情へと転じていくのは、すごくリアルだと、自分自身の経験も相まってそう思いました。
悠二たちの心の中に、彼らのエゴで踊らされていた絶望のどん底に生きる「救い」の対象としての佐々木はもういません。
しかし、彼らの「祈り」は、「マイマイン」に佐々木を確かに蘇らせるのです。
俺たちが、佐々木を脱がすんじゃない。
佐々木が勝手に脱いでいるのを俺たちが盛り上げているだけだ。
彼は輝いていた。希望に満ちていた。そして夢を叶えた。幸せな人生を送った。俺たちが救う必要なんてなかった。
悠二たちは、もう「祈る」ことしかできません。
結局、「祈り」という感情もまた、一方的な思いに過ぎないのかもしれません。それでも、現実のあいつがどうであったとしても、「マイマイン」に生きるあいつだけは幸せでいて欲しい…。
そんな感情を具現化したのが、まさしく本作のラストシーンではないでしょうか?
小説を読むことは、他者の生を自らの経験として生きることだ。見知らぬ土地、会ったこともない人々が、いつしか親しい存在へと変わる。小説を読むことで世界と私の関係性が変わるのだ。それは、世界のありようを変えるささやかな、しかし大切な一歩となる。世界に記憶されることのない小さき人々の尊厳を想い、文学は祈りになる。
(岡真理『アラブ、祈りとしての文学』帯文より引用)
私たちも、この『佐々木、イン、マイマイン』という作品を通じて、そんな佐々木の友人としての人生を追体験することとなります。そうしていつしか佐々木が親しい存在へと変わっていくのです。
そして、この物語を通じて、私とそして佐々木の関係は大きく変わっていきます。
私たちにスクリーンの向こう側にいる彼を救ってあげることはできません。彼に降りかかる出来事を変えてあげることもできません。
そんな無力感と諦念をまざまざと追体験させられたのちに、私たちは彼の満たされた人生を「祈る」ようになるのです。
世界は変わらない。しかし、私とあいつの関係性はちょっとしたことで変わる。
佐々木は死んだ。それは動かない事実だ。
しかし、「祈り」は「マイマイン」において、その事実を変える力を持っている。
「祈り」は変えられない、救えない、どうしようもないものへの、ささやかなる抵抗だと今は思う。
『佐々木、イン、マイマイン』は救えないものばかりの世界で、さよならばかりの人生を生きていくための「祈り」というものの力を強く感じさせてくれました。
私の人生の一幕に登場したあの子も、どこかで幸せに生きていて欲しい。
そんなささやかな「祈り」と共に劇場からの帰途へとつきました。