みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『私をくいとめて』についてお話していこうと思います。
というのも大九監督と綿矢りささんの原作という座組が映画ファンの期待値をかなり煽るものだからなんだと思います。
2017年に公開された『勝手にふるえてろ』という松岡茉優さん主演で作られた、全く同じ座組の映画がありまして、こちらがとんでもなく高く評価されたんですよ。
ミュージカル仕立ての演出、コミカルさとシリアスの絶妙なバランスと反転、松岡茉優さんの熱演。どれもすごく魅力的でした。
ただ、当ブログ管理人に関して言うなら、それほど『勝手にふるえてろ』にはハマらなったので、評価が高いというわけではないんです。
そこから大九監督の映画は『美人が婚活してみたら』『甘いお酒でうがい』と見続けてきましたが、正直お世辞にも出来がいいとは言えない内容でした。
特に『美人が婚活してみたら』と『甘いお酒でうがい』の2作品はシソンヌのじろうさんが脚本を手掛けたこともあり、良くも悪くも「コント映画」の色が強かったのです。
見せ場や笑いという「点」ばかりを意識した脚本になっていて、物語という1つの「線」で見た時に、断線が多すぎて深みに欠けたんですね。
そのため『勝手にふるえてろ』では確かに存在していた主人公の感情の深い掘り下げができておらず、全体的にインスタントな「笑い」に走ってしまったというのがその実でしょう。
ですので、今回の『私をくいとめて』に関して、私は個人的には期待値が高くはありませんでした。大九監督の作品に、これまであまりハマったことがなかったからです。
しかし、今作は粗がありながらも、そして映画としては少し歪な構成や演出ながらも、すごく見ていて引き込まれる内容になっていたと感じました。
何と言っても、主人公を演じたのんさんの演技が抜群に良いんですよ。おそらく大九監督ものんさんが演じる前提でこの脚本を作ったのだと思いますし、演出面を組み立てていったのだと思います。
元々の設定であった「こじらせ31歳OL」という設定は、のんさんが演じたことでどこにいったのやら…とは思いますが、これはこれで面白かったのでOKです。
そうなんです。映画本編を見ていると、20代後半くらいかなと思ってしまうのですが、想像よりも少し上でした。あとのんさんより林遣都さんが演じる青年の方が年下と言うのが、これまた無理があるような気はしました(笑)
さて、今回はそんな映画『私をくいとめて』について自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきます。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『私をくいとめて』
あらすじ
31歳のOLであるみつ子は、何年も恋人がおらず、いわゆる「おひとりさま生活」を満喫していた。
休日になると、食品サンプルの制作、焼き肉、郊外の公園…とどこへでも1人で出かけて行き、1人きりの休日を謳歌していたのだ。
そんな彼女も取引先の男性、多田くんに好意を抱いていた。
彼との関係は不思議なもので、自炊が苦手で近所に住んでいる多田くんがみつ子の家にやってきて、手料理を受け取って帰っていくというものだった。
不器用な多田くんもどこか1歩踏み込めない様子で、そんな様子にみつ子も彼が自分に好意を持ってくれているのかどうかの確証が持てず、行動を起こせないでいた。
そんな彼女の脳内にはもう1人の自分であるイマジナリーフレンドのAが存在し、Aはいつもみつ子にアドバイスをくれる。
みつ子はAのアドバイスも受けながら、何とか自分の世界を広げよう、そして多田くんとの恋愛を進展させようと、行動を起こすのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:大九明子
- 原作:綿矢りさ
- 脚本:大九明子
- 撮影:中村夏葉
- 照明:常谷良男
- 編集:米田博之
- 音楽:高野正樹
さて、記事の冒頭にもご紹介したように本作の監督。脚本を担当したのは大九明子さんです。
2017年の『勝手にふるえてろ』で一気に注目を集め、その後も吉本系列とタッグを組んで『美人が婚活してみたら』や『甘いお酒でうがい』などの監督も担当してきました。
そして、原作は『インストール』や『勝手にふるえてろ』などで知られる綿矢りささんですね。彼女の作品の独特な空気感と大九監督の演出の愛称は非常に良いと思います。
撮影には、これまでの大九作品を支えてきた中村夏葉さん、照明には先日公開された『アンダードッグ』も担当された常谷良男さんが起用されています。
編集にも『勝手にふるえてろ』などで知られる米田博之さん、そしてコミカルとエモなサウンドを見事に使い分ける劇伴音楽を高野正樹さんが提供していますね。
- 黒田みつ子:のん
- 林多田くん:林遣都
- ノゾミさん:臼田あさ美
- カーター:若林拓也
- 澤田:片桐はいり
- 皐月:橋本愛
- 吉住:吉住(本人役)
主人公を演じたのは、のんさんです。
彼女も『あまちゃん』で一気にフィーチャーされ、その後事務所とのトラブルがあり、本名の能年玲奈で活動できなくなるという憂き目に会いました。
そういう事情がありつつも、やはり彼女は女優として圧倒的な才能がありましたし、『この世界の片隅に』で声優として再び注目を集めた時には、思わず涙が出ました。
そして、今回の『私をくいとめて』で再確認できました。やっぱり唯一無二の女優さんだなと。彼女にしか出せない味、空気感が確かにあります。
また、そんなのんさんが紆余曲折を経て、作中で橋本愛さんと再会するのが、『あまちゃん』を見ていた人間からすると、これまた泣けてくるんですよね。
2人がイタリアで再会するシーンが、さながら同窓会なのですが、ほんとに『あまちゃん』とそれからの2人のキャリアのことを思うと、涙があふれてきました。
そんな2人以外にも林遣都さんや臼田あさ美さんなどが脇を固めています。
あとは、先日のThe Wで優勝した芸人の吉住さんがこのタイミングで本人役で出演していたというのが、何とも面白いですね。
『私をくいとめて』感想・解説(ネタバレあり)
のんさんの演技で物語の推進力を補完する
(C)2020「私をくいとめて」製作委員会
さて、事前に流れてきた映画ファンの方の感想も読ませていただいておりましたが、やはり今回の『私をくいとめて』もこれまでの大九監督作品のウィークポイントは引きずっている気はしました。
というのも、映画的な作り方というよりは、コント的な作りをしている側面が強くて、点で見るとすごくパワフルで見る人の感情を揺さぶるようなシーンや演出も多いのですが、それが「線」として繋がっていかないんですよね。
あくまでも「点」で見た時の良さがあるのですが、それが物語として1本の「線」で見た時に、どうしても弱いなという印象が拭えないのです。
その傾向は『勝手にふるえてろ』の時もありましたが、やはりシソンヌのじろうさんの脚本を映画化した『美人が婚活してみたら』と『甘いお酒でうがい』の2本で一気に強くなり、そのまま今作にも引き継がれていると思いました。
まず、映画の脚本における非常に重要なポイントの1つが「物語の推進力」なんですよね。
登場人物が何かを成し遂げたい、変えたい、成長したいといった動機を持っていたり、逆に周囲の世界や環境が人物に何らかの変化や行動を求めたり、といった形でキャラクターを動かしていく「見えざる力」を作品に内在させる必要があるのです。
これが備わっている物語、ないし脚本は、作り手の都合で進められているというよりは、キャラクターたちが自ら主体的に動かしているような印象を与え、優れた作品として評価されます。
今作『私をくいとめて』に関して言うなれば、脚本の部分でそうした「推進力」を生み出せていないんですよ。
シーンが変わるたびに主人公が抱えている悩みが変わっているように見えたり、彼女がどこに向かって進んでいるのかがイマイチ提示されていなかったりと、物語を「線」で結びつけて、進行させていくという意識が薄いのです。
『勝手にふるえてろ』に関しては、この点がまだ意識されていたので、見やすかったんですよね。
なぜなら、物語の軸が「恋愛」に絞られていたからです。
主人公の動機、悩み、迷い、その解決への原動力。一応これらをきちんと「線」で結べていたのが『勝手にふるえてろ』だったのですが、今回の『私をくいとめて』はそこが散漫な印象を与えます。
みつ子は確かに多田くんとの「恋愛」に悩んではいるのですが、もっと根本的に他人とのコミュニケーションの問題を抱えていて、それ故に物語の軸がすごく多いんですよ。
例えば、先輩にもらったチケットで訪れた温泉旅館で芸人の吉住に絡んでいる男たちに向かって叫びたいけど叫べないみたいなシーンがありましたが、あれは恋愛絡みというよりは、彼女自身が抱えている問題やトラウマの話ですよね。
また、イタリアパートに入ると急に多田くんの存在感が薄まり、ここでは大学時代からの親友である皐月との友情物語へと転じていきます。
こうした「点」で見ると面白いけれど、みつ子の恋愛物語からは少し距離を置いたサブプロット的な要素が作品の中に点在しており、物語をキャラクターが動かしていく推進力や原動力が脚本面のサポートでは生み出せていないんですよ。
ただ、これほどまでに脚本が散漫にも関わらず、映画としては何だか「勢い」があるように見えてしまうのが不思議ですよね。
それを実現したのが、のんさんという本作を語る上では欠かせない女優の存在です。
というよりも、この『私をくいとめて』という映画は、のんさんの爆発的な演技でもって脚本に不足した「エンジン」を補っています。
彼女が演じるみつ子は、確かに当初の設定である31歳OLにはとても見えません。ただ、何と言うか痛さと愛くるしさの絶妙なラインを突く演技を見せてくれているんです。
だからこそ、観客は脚本に乗せられるというよりは、のんさんの魅力に引っ張られる形で「みつ子の物語」に感情移入していくという側面が強いのだと思います。
時には鬱陶しくて、突き放したくなるんだけれども、なぜか目が離せない、応援したくなる、背中を押したくなる。
そういう「みつ子」というアイコンを作り上げた時点でこの映画はもう「勝ち」なんですよ。
そのため、この『私をくいとめて』は、コントというよりはむしろキャラクター映画に近い作りなんじゃないかなと思うのです。
物語を通じてキャラクターを深堀していくというよりは、のんさんが演じるみつ子という圧倒的な個性を活かすための「点」の見せ場を配置していくという映画の作りに思えました。
それは確かに映画としてはいささか歪なものと言えるでしょう。
基本的に役者にばかりスポットが当たっていたり、役者が目立ちすぎている作品は、あまり良い映画と評価されない現実もあります。
それでも、のんさんという女優の可能性に賭けたくなる。そんな作り手の思いは、この映画を見れば理解できるんですよ。
だからこそ、私は映画としては歪ながらも、のんさんの魅力やパワーで強引に物語を突き動かしていくこの作品が好きなんです。
理想と現実、自分と他人のチューニング
(C)2020「私をくいとめて」製作委員会
さて、大九監督×綿矢りさの前作『勝手にふるえてろ』は基本的に恋愛を主軸に置いた作品でした。
しかし、今回の『私をくいとめて』は恋愛要素もありながら、もっと広義の人と人とのコミュニケーションの映画だなって思いましたね。
人と人とのコミュニケーションってすごく難しいものです。
まず、自分が自分自身をどう捉えているか。そして相手が自分をどう捉えているか。自分が相手をどう捉えているか。相手が相手自身をどう捉えているか。
こういった様々な視点が複合的に絡み合うため、そのバランス調整と言うかチューニングが難しいんですよね。
今作『私をくいとめて』にてのんさんが演じた主人公のみつ子は、そういった「チューニング」に悪戦苦闘している印象を受けました。
例えば面白いのが、多田くんはみつ子に対して家庭的で、料理上手で、生活もきちんとしていてというイメージを持っています。
しかし、みつ子の生活は決してそんなことはなく、料理なんて凝ったものはしないし、掃除も先送りにしてしまうズボラなところがあります。
そんな2人が町の肉屋さんで出会ったシーンで、多田くんは「晩ご飯はなんですか?」と尋ね、それに対してみつ子は「鴨鍋です。」と答えました。
この時、彼女の自転車の前かごにはスーパーで買った普通の鶏肉が垣間見えていましたね。
自分が自分に抱いているイメージを相手の望むものへと置き換えて、チューニングし、コミュニケーションを円滑にしようとしているわけです。とりわけここではみつ子の「好意」がありますから、恋愛関係を発展させるための「チューニング」ではありましたね。
ただ、みつ子は長い間1人で生きてきて、いわゆる「お一人様」生活に慣れてしまったがために、そうした「チューニング」が自分で上手くできなくなっているんですよね。
なぜなら、1人で生きていく限りにおいて、そういう「チューニング」は必要にならないからです。
1人でいれば、自分が望む自分でいればいいだけですから、相手から自分がどうみられるかなんて気にする必要はありません。下着を部屋に思いっきり干していても何の問題もないわけですよ。
しかし、多田くんの存在がそうしたみつ子の世界の安定を崩壊させていきます。
本作において、主人公の家の下の階からホーミーの声が聞こえてきたり、電灯が点滅したりする描写が繰り返し使われていましたが、あれは彼女の「チューニング」の乱れを視覚的に表現していたのだと思います。
ただ、面白いのが、多田くんはみつ子の世界の調和を見出すものであると同時に、再び調和をもたらす存在でもあるんですよね。
彼が初めてみつ子と食事を共にした日、彼は玄関の切れかかっていた電球を取り換えてくれました。
このシーンは、まさしくみつ子の乱れた世界の「チューニング」において、多田くんという存在が欠かせないということを間接的に表現していると言えます。
みつ子は過去の恋愛にすごくトラウマを抱えています。
年上の歯科医に一目惚れをして、食事に行ったら、いわゆる「不倫関係」「愛人関係」を提案されたからです。
この時、彼女は自分が相手に対して抱いていたイメージが崩れたのもありますが、それ以上に相手が自分に対して抱いてくれていると思っていたものが理想でしかなく、現実は都合の良い不倫相手くらいにしか思われていなかったことに落胆したんですね。
誰かと関わることにおいて、自分が相手に抱いていた印象が崩れることよりも、「自分が自分に抱いていた印象」ないし「相手が自分に抱いてくれていると思っていた印象」が崩れることの方がよっぽど辛いんですよ。これは間違いないです。
だからこそ、みつ子は多田くんとの関係でもなかなか1歩を踏み出すことができません。
「自分は多田くんに好意を寄せられているかもしれない」と彼女は評価しています。しかし、多田くんと関われば関わるほどに、その印象が間違ったものだったと気がつかされるかもしれません。
それはとても恐ろしいことですよね。
そのため、みつ子はイマジナリーフレンドのAとやり取りをしながら、少しずつ折り合いをつけるためにチューニングをしていくのです。
何とも面白いなと思ったのは、みつ子と皐月の関わりや、みつ子と上司の澤田の関わりです。
みつ子は皐月に対して「どこにでも行ける」「どこででも生きていける」という印象をぶつけますが、皐月は、自分はイタリアまで来たけれども、怖くてカフェより先に1人で行けなくなってしまったと悩みを吐露します。
また、みつ子は上司の澤田に対して少しネガティブな、近寄りがたいイメージを持っていました。しかし、ある日旅行の話をした時に、堅物だと思っていた澤田は結婚もしていて、意外と抜けているところもあるのだと、その人間性に触れます。
1人で生きていく。その選択は尊重されるべきですし、誰にも否定されるものではありません。ただ、誰かと生きる選択も悪くない。そういう視点でこの映画は描かれているような気がしました。
きっとみつ子は、自分の世界の安定を守るために、他人に自分のイメージや印象を貼り付け、固定化してきたのでしょう。
それはすごく楽なことである反面、世界が自分の中で完結してしまうという危険性も帯びています。
人と関わってみて、そうした自分が持っていた印象やイメージが変わっていく。みつ子はその変化を、過去のトラウマからネガティブに捉えていました。
しかし、皐月や澤田とのやり取りの中で、それは必ずしもネガティブではないんだと気がついていくんですよね。
ああ、人と関わって、そしてそのイメージが変わっていくことって自然で、とても面白いことなのだと実感することで、みつ子の世界は少しずつ広がっていきます。
そんな変化が、彼女が多田くんからの告白を受け入れる原動力にもなっていました。
みつ子の部屋に置かれたリフティングテーブルは1人でも使うことができます。でも誰かがやって来た時には2人で使うこともできます。
あのテーブルは必ずしも1人で使わなければならないものではなく、かと言って必ずしも2人で使わなければならないものでもないんですよ。
でも、きっとそれくらいの気持ちで他人と関わってみるので良いと思うんですよね。
1人でいるときにしか見られないもの、経験できないもの、得られないものももちろんあります。そして2人でしか見られないもの、経験できないもの、得られないものもたくさんあります。
そこに優劣はなくて、どちらも大切で、尊いものなんですよ。
でも、みつ子が1人でできることに限界を感じていて、もう私だけではどこにでも行けないと感じてしまったのなら、2人でいるという選択も悪くないではないですか。
1人で使っても、2人で使っても本質的には同じであるみつ子の部屋のリフティングテーブルのように。
何も変わらない。でもほんの少し遠くまで。違うところまで。
誰かと関わることでしか見られない景色を。
そんなコミュニケーションと世界の関係性をコミカルにそして時にエモーショナルに描き切った『私をくいとめて』という作品に拍手を贈りたいです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『私をくいとめて』についてお話してきました。
『勝手にふるえてろ』って恋愛にかなり主軸が寄った作品だったこともあって、あまり共感はできなかったんですよ。
ただ、今回の『私をくいとめて』は本当に共感しまくりでしたね。
多くは語りませんが、当ブログ管理人も人間関係は結構悩んできました。まあ詳しくはこちらの『けいおん!』の記事を読んでいただけると分かりやすいですね。
相手が求めるものに自分を適応させようとして、そのギャップに疲弊していくのが、コミュニケーションの難しさです。
でも、それを「チューニング」していけば、きっと今までには見えなかった新しい地平が開けてくるんでしょうね。
ぜひ、多くの人にご覧になっていただきたい1本です。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。