“ジョゼのいうことは嘘というより願望で、夢で、それは現実とは別の次元で、厳然とジョゼには存在しているのだ。”
(田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』より引用)
みなさんこんにちは。
今回はですね2020年12月25日より公開となりました映画『ジョゼと虎と魚たち』についてお話ししていきます。
『ジョゼと虎と魚たち』は、1984年に発表された田辺聖子さんの同名の短編を原作とした作品で、2003年に公開された妻夫木聡さん主演の実写映画版をご覧になったという方が多いのではないでしょうか。
このアニメ版の公開が発表された時には、映画ファンの間でもかなり賛否が分かれました。
というのも、実写版の『ジョゼと虎と魚たち』は多くの映画ファンを惹きつけてやまない作品であり、その年の日本の主要な映画賞において好成績を残した名作中の名作という評価を受けています。
- 第77回キネマ旬報 日本映画ベストテン第4位
- 第26回ヨコハマ映画祭 日本映画ベストテン第5位
- 第47回朝日ベストテン映画祭 第5位
- 第46回ブルーリボン賞(ノミネート)
そのため、アニメ版が公開決定というニュースを聞いた多くの方が、田辺聖子さんの原作との比較というよりは、この実写版の方とのギャップに頭を抱えました。
マンガの実写版の公開が発表されると、原作ファンから批判が集まり「実写はマンガを超えられない」と評されるのは、日本映画ではよくあることです。
しかし、この『ジョゼと虎と魚たち』においては「アニメが実写を超えられない」と評されるという全く逆の現象が起きてしまったのです。
- 原作の持つ官能的な空気感を見事に表現した妻夫木聡さんと池脇千鶴さんの熱演
- くるりが手掛けた「ハイウェイ」「飴色の部屋」という名曲
- そして恋愛映画史に残る胸が締めつけられるような切ない結末
特に、実写版はかなり濡れ場が多いんですよ。
そうした官能的な映像が1つの魅力だったということもあり、アニメではそれらが再現できないだろうと僕自身も期待値は低めでした。
しかし、このアニメ版『ジョゼと虎と魚たち』ですが、これが想像以上の出来栄えでして、良い意味で完全に期待を裏切られましたね。
今回は、小説版とアニメ版の関係性、そして実写版とアニメ版の結末の違いにも触れながら、今作の魅力について掘り下げていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
動画レビューもぜひ!
2021年1月より「ナガの映画の果てまで」のYouTubeチャンネルがスタートしました。
ブログ記事ほどの情報量は詰めて込めていないのですが、まずはざっくりと情報を仕入れたいという方にはおすすめです。
良かったらご覧くださいませ。
アニメ『ジョゼと虎と魚たち』
あらすじ
大学で海洋生物学を専攻している恒夫は、いつかメキシコに生息すると言われる幻の魚を見る夢を追い求め、留学資金を貯めるべくバイトに勤しむ日々を送っていた。
ある日のバイトからの帰り道。いつもと違う道を通りがかった恒夫は、坂の上からものすごいスピードで転げ落ちてくる車椅子の少女を目撃する。
咄嗟に彼女を助けた恒夫は、彼女とその祖母のチヅに連れられ、彼らの暮らす家にお邪魔することに。
自らを「ジョゼ」と名乗るその少女は、子どもの頃から車椅子暮らしで、ほとんどを家の中から出ることもなく、外に出るのは人気のない夜の時間だけという生活を送っていた。
そこで晩ご飯を共にした恒夫は、祖母のチヅから1つの提案をされる。
それは、1日中家にいるジョゼの相手をすることだった。
自給が高額だったこともあり、その依頼を引きうけた恒夫だったが、ジョゼの傍若無人っぷりに振り回される日々を過ごすようになる。
「畳の目を数えろ!」
「四葉のクローバーを取ってこい!」
そんな日の連続の中で、ジョゼと恒夫は少しずつ心を通わせていきます。
夢のために勉強もバイトもおろそかにしない恒夫。ジョゼもまたそんな彼の傍で、自分の夢がかなうかもしれないと思い始める。
しかし、そんな2人の関係を一変させる出来事が起きて…。
スタッフ・キャスト
- 監督:タムラコータロー
- 原作:田辺聖子
- 脚本:桑村さや香
- キャラクター原案:絵本奈央
- キャラクターデザイン:飯塚晴子
- 総作画監督:飯塚晴子
- コンセプトデザイン:loundraw
- 劇中画:松田奈那子
- 色彩設計:梅崎ひろこ
- 撮影監督:神林剛
- 編集:坂本久美子
- 音楽:エバン・コール
- 主題歌:Eve『蒼のワルツ』
- 挿入歌:Eve『心音』
- アニメーション制作:ボンズ
今回のアニメ版『ジョゼと虎と魚たち』のアニメーションを手掛けたのは、数々の名作を手掛けた来た制作会社BONESです。
このBONESは圧倒的な作画量によって裏打ちされたアクション描写に定評があります。
テレビアニメ『血界戦線』の第1話では、通常テレビアニメは多くても1話あたり作画枚数5000枚と言われるところ、何と12000枚という気合の入れようを見せ、アニメファンを沸かせました。
ただ、今回の『ジョゼと虎と魚たち』はヒューマンドラマということでその強みが活きないのではないかと心配しておりました。
しかし、杞憂でしたね。人物のダイナミックなモーションであったり、まるで絵本が動いているかのような人物描写、背景描写、映像の色彩感覚には驚かされました。流石BONESですね!
そして、本作の監督を務めたのはテレビアニメ『ノラガミ』などで知られるタムラコータローさんです。
彼は細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』で助監督を務めるなど、繊細な人物描写、感情演出に定評があります。その点でも、今作の監督に適任でしょう。
キャラクターデザインないし総作画監督には、『リトルバスターズ!』や『たまゆら』シリーズなどでも知られる飯塚晴子さんが起用されています。
当ブログ管理人は、アニメ版の『リトルバスターズ!』のキャラデがかなり好きだったので、この人選は嬉しいです。
また、後ほど詳しくお話しますが、今作においては「絵本」が1つの重要なモチーフとして扱われています。
そういった背景もあり、今作には絵本作家として活躍しておられる松田奈那子さんが協力しております。この点も注目ですね。
主題歌・挿入歌には『呪術廻戦』のOPを担当していることでもお馴染みのEveさんが起用されました。
アニメ『ジョゼと虎と魚たち』感想・解説(ネタバレあり)
田辺聖子さんの小説をいかに膨らませたか?を考察
皆さんは、田辺聖子さんが著した『ジョゼと虎と魚たち』の原作って読まれたことがありますか?
実写版は見たことがあるけど、原作は読んだことないって人、意外と多いんじゃないかな?と思います。
冒頭にも書きましたが、実写映画版があまりにも有名すぎるので、そちらで鑑賞したという方がどうしても多くなるのは無理もありません。
そこで、皆さんに1つ驚きの事実をお伝えしておくのですが、実はこの『ジョゼと虎と魚たち』の原作はほんの30ページほどの短編なんですよ。
そのため、実は2003年に公開された実写版についても、ストーリーのオリジナルは大半ですし、原作には登場しないキャラクターが多く登場し、原作とはまるで違う展開が描かれています。
つまり、何が言いたいのかと言うと、実写版と今回のアニメ版の物語が異なっているのは、当然だということです。
今回のアニメ版は、実写版と同様に、田辺聖子さんの短編に着想を得て、そこからプロットを膨らませて行った結果、生まれたものなんですよ。
そして、このアニメ版は映画版とは少し違った部分にスポットを当てています。
実は、それがこの記事の冒頭で紹介した一節なのです。
“ジョゼのいうことは嘘というより願望で、夢で、それは現実とは別の次元で、厳然とジョゼには存在しているのだ。”
(田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』より引用)
今回のアニメ版は、小説においてはほんの一節に過ぎないこのト書きを膨らませ、全く新しい物語を作り上げました。
「夢」とその断絶
(C)2020 Seiko Tanabe/ KADOKAWA/ Josee Project
では、先ほど引用した一節のどこに注目したのか?それは「夢」というキーワードなんですよ。
アニメ版のジョゼは、絵を描くことが大好きで、いつかそれを仕事にできたらという「夢」を持っています。
しかし、祖母に付き添われなければ家の外にも出ることができない自分にはそんな「夢」は叶えられないだろうと半ば諦めているのです。
ただ、彼女は眠っている間に見る夢の中では、自らが描いた絵の海の中を自由に泳ぎ回っています。
これはまさしく原作における「現実とは別の次元で、厳然と存在しているジョゼの夢」を視覚的に表現したものなんですよね。
一方で、そんなジョゼと運命的な出会いを果たす恒夫には、今回「海洋生物学を専攻している」という設定が与えられました。そして、彼の「夢」はメキシコの海で幼少の頃に見た幻の魚の群れを見ることです。
- 「夢」がいずれ「現実」に変わることを信じてやまない恒夫
- 「夢」は永遠に「現実」に変わることはないと諦めていたジョゼ
この2人が出会い、影響し合い、ジョゼもまた自分の絵を仕事にするという「夢」を叶えられるかもしれないと信じるようになるのですが、この物語に1つの大きな転機もたらされます。
恒夫が交通事故に見舞われ、決まっていたメキシコ留学の話が無くなり、さらには後遺症でもう海には潜れない可能性があるという状況に直面するのです。
これにより2人の関係性が反転し、一転して恒夫が自分の「夢」は永遠に「現実」になることはないだろうと絶望してしまいます。
「夢」と「現実」の断絶が恒夫とジョゼを翻弄する様に心が痛みました。
こうして、ジョゼもそして恒夫でさえも、自分の「夢」とそして「現実」の間に深い断絶を抱えることとなります。
もう1つ注目したい「海」の「断絶」
(C)2020 Seiko Tanabe/ KADOKAWA/ Josee Project
そしてもう1つ、後者のジョゼと恒夫の2人が追い求めていた「海」の「断絶」についてです。
- 恒夫は、まだ見ぬメキシコの「海」への「夢」への希望に胸をふくらませています。
- 一方でジョゼは絵で「海」を表現すること、そしてそれを仕事にすることを「夢」みています。
2人にとっての「海」はそれぞれの「夢」と密接に関わっているわけですが、前者は現実のレイヤーに存在しており、後者はフィクションのレイヤーに存在しているわけですから、文字通り「別次元に」存在していると言えます。
このように2人の「海」は次元の壁によって「断絶」しているのです。
個人的に象徴的だと感じたのは、ジョゼが恒夫のアルバイト先であるダイバーズショップに訪れるもすぐに帰ってしまうシーンでした。
この時、ジョゼは恒夫の「海」を知りたいと思ったのではないでしょうか。しかし、その勇気が持てず、怖くなり逃げ出してしまいました。
一方で、恒夫はジョゼの「海」のような装飾が施された部屋に入っており、後に仲直りをする際も魚の形をしたランプを持っていくなどし、2人の「海」を繋ごうとしていたようにも思えます。
また、2人の関係性の変遷においても「海」という場所は非常に重要な役割を果たしていましたよね。
まず、2人の関係を大きく進展させるきっかけになったのは、海でした。
ただし、対照的に2人の関係を分断するきっかけになったのも海でした。
こういった描写の数々からも、本作が「海」という場所にかなり大きな意味を持たせてあることは明白です。
しかし、2人の「海」が交わることがありませんでした。終盤に至るまで…。
「断絶」を飛び越える絵本というモチーフ
「夢」に絶望した恒夫。
そしてそれを救うのは、もちろん他でもないジョゼです。
皆さんにぜひとも注目していただきたいのは、今回のアニメ版においてジョゼが恒夫を救うために選んだのが、「自作の絵本」というツールだった点です。
(C)2020 Seiko Tanabe/ KADOKAWA/ Josee Project
絵本。それは、物語の冒頭においてジョゼが「夢」でしかないと諦め、自分の世界に閉じ込めていたものと言えます。
そんな「夢」の中の産物でしかなかった絵本を彼女は自分の外の世界、つまり「現実」へと持ち出し、絶望のどん底にいた彼を救うのです。
これは、まさしく原作において「現実とは別の次元で、厳然と存在していた」に過ぎないジョゼの「夢」が「現実」と交わった瞬間でもあったわけですよ。
加えて、ここまで「海」という場所が重要な意味を持っていたことを繰り返しお話してきましたよね。物語の終盤に至るまで2人の「海」はあくまでも「別の次元で存在」しているに過ぎませんでした。
しかし、このシーンでもって、ジョゼの「夢」であった絵で形作られた「海」が、恒夫が「夢」見てきたメキシコの「海」と重なり、1つになるのです。
(C)2020 Seiko Tanabe/ KADOKAWA/ Josee Project
「絵本」の中に描かれた「奇跡の海」と呼ばれるその場所は、まさしくジョゼと恒夫のそれぞれ「夢」へのベクトルの交点です。
- ジョゼの「夢」であった絵で形作られた「海」
- 恒夫が「夢」見てきたメキシコの「海」
原作に存在していた「ジョゼの夢」というエッセンスを、見事にアレンジし、「夢」と「現実」の断絶、そしてジョゼと恒夫の「海」の断絶を「絵本」というアイテムでもって飛び越えていくという特大のカタルシスを描いた今回のアニメ版は本当に素晴らしかったと思います。
実写版を超えることはないだろうと侮っていましたが、これは完全にやられました。
ドラマ版とアニメ版の結末の違いについて
(C)2020 Seiko Tanabe/ KADOKAWA/ Josee Project
ここからはドラマ版とアニメ版の結末の違いにスポットを当てていきます。
まず、ドラマ版の結末ですが、冒頭にも「恋愛映画史に残る切なさ」と表現したように、ジョゼと恒夫が「別れ」を選択するというものになっています。
ジョゼは、別れを選択し、1人で出かけたり、料理をしたりするなど自立した生活を始めます。
一方の恒夫は、ジョゼと一緒にいる状況に耐えられない自分の弱さに涙しながら、香苗(大学の同期生)と生きていくことを決めるのです。
これは原作とは全く異なる内容なのですが、原作の締めくくりから想定される「後日譚」としてはあながちあり得ない話でもないんです。
原作の最後では、「別れ」そのものこそ描かれませんが、ジョゼのモノローグで「恒夫がいつか去るかもしれない」という別れの予感が綴られています。
恒夫はいつジョゼから去るか分からないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。
(田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』より引用)
つまり実写版はその別れの予感を漂わせる原作の一節に着想を得て、2人の別れの結末を描いたんですね。
ただ、僕はあの結末はむしろポジティブだったと思っています。
なぜなら、ジョゼと恒夫が別れを選ぶことで、「自立」を獲得するフィナーレになっていたからです。
こうしたドラマ版のイメージが強く、特にあの「別れ」と「自立」のフィナーレに思い入れがある人は、今回のアニメ版の結末に少し違和感を抱くかもしれません。
しかし、僕は今回のアニメ版の結末を見た時に、とある言葉を思い出しました。
“自分自身の主体性を奪われる恋ではなくて、自分自身の主体性を知るための恋が、もしもこの世にあるのなら、そのようなものをこそ今、新しく生まれる青春映画に映し出してみたい”
これは『溺れるナイフ』や『ホットギミック』などで知られる山戸結希さんがTwitterに投稿していた言葉です。
僕はアニメ版の『ジョゼと虎と魚たち』の結末って、まさしくこの言葉を体現するものなんじゃないかな?と思っているんですよ。
1人で生きると決め、恒夫の下から去ろうとした彼女は、1人で虎と立ち向かいます。
しかし、恒夫は彼女をそれでも追いかけて行き、最終的には、最初に出会った坂のところで、全く同じシチュエーションで再会を果たすのです。
2人が結局再会を果たしてしまう、恋愛関係になりその後も寄り添っていくというラストは確かに実写版とは対照的ですよね。
ただ、私としては、実写版とアニメ版のラストの「本質」の部分はぶれていないと思うんです。
なぜなら、どちらもあくまでも2人の「自立」を描くことからは逃げていないからですよ。
「別れ」という形ではない、ジョゼと恒夫の「自立」や「主体性」を描いてみたい。
そんな思いを強く感じる結末でしたし、だからこそ今『ジョゼと虎と魚たち』という物語を改めて語り直す意義があったと思うのです。
「恋愛関係になることイコール自立していない」と言うのは、極めて短絡的な考え方ですよね。
冒頭の坂のシーンとラストの坂のシーンは明確にその意味が異なっています。
冒頭の時は、何者にもなれないと諦めていた彼女を恒夫が受け止めました。しかし、ラストの時には、ジョゼは何かに挑戦しようとして、前に進む中で躓いてしまい、それを恒夫が受け止めているのです。
(C)2020 Seiko Tanabe/ KADOKAWA/ Josee Project
何もかもを諦めて誰かに支えてもらうのは「依存」ですが、何かに挑戦しようとして「支え合う」のは、「自立」した者同士だからこそできることではないでしょうか。
そしてラストシーンで「キス」をする描写を描いてくれたのは、個人的に良かったと思います。
「想像してたんと全くちゃうかったから」
「悪いほうにか、ええほうにか」
「ええほうや」
「……よかったね」
(田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』より引用)
これ、実は原作で2人が初めて身体を重ねたシーンでなされた会話の引用なのです。
このように原作の持つ田辺イズムをきちんと受け継いだ作品になっているというのも、個人的にはグッときたポイントでした。
さらに言うと、ポストクレジット映像として、留学に行った後、一時帰国した恒夫とジョゼが桜並木の下で再会する描写がありましたよね。
おそらくこの映像は、ジョゼという名前の元ネタでもあるサガンの小説『一年ののち』を意識していると思います。
春に出会った2人が、夏、秋、冬を経て、そしてまた春に再会する。
そんな1年の周期を視覚的に見せ、変わったけれども、変わらない2人の関係性にスポットを当てることで、サガンの小説の構成を踏襲しているとも言えるのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回はアニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』についてお話ししてきました。
原作の再解釈として、こんな素敵な作品もないでしょう。
もちろん実写版も素晴らしいのですが、原作の要素を丁寧に拾い上げて、新たな物語を作り出したという点では、アニメ版の方が上回っているような気すらしてきました。
まさしく2020年を締めくくるにふさわしい爽やかで、感動的なアニメ映画に仕上がっていると思います。
ぜひぜひ、多くの人に劇場でご覧いただきたいですね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。