みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『さんかく窓の外側は夜』についてお話していこうと思います。
さて、いきなり「珍しい映画」という表現をしましたが、どういうことなのかご説明しますね。
まず、日本の邦画大作は、ドラマの延長線上で作られていることも多くて、映像にこだわった作品がどうしても少ない印象があるんです。
そのため、物語としては面白くても「映像作品」として、シーンやカット単位で印象に残るような映画に出会うことが稀だなとどうしても感じてしまいます。
ただ、この『さんかく窓の外側は夜』という作品は、既に多くの方がレビューしているように、若干物語や脚本の部分で弱い部分はありつつも、「映像作品」としてはかなりこだわって作られているタイプの映画なのです。
その背後には、映画もそうですがCMディレクターとしても多くの映像作品を手掛けてきた森ガキ侑大監督のスタイルがあるのかなと思います。
CMって基本的に時間が短いので、映像そのものの視覚的な訴求力が求められます。それを実現するためには、ワンカットワンカットを徹底的に作り込む必要があるわけですよ。
そういう環境で映像作品を手掛けてきた森ガキ監督だからこそ、今作のような物語性よりも「映像作品」としてエッジの効いた映画が出来上がったのかな?と思いました。
また、人間ドラマに対する比較的ドライな視座は彼の前作である『おじいちゃん、死んじゃったって』を思わせるものでした。
ということで、簡単に言うと、邦画大作ながら森ガキ侑大監督の顔が見える、色が強く反映された映画になっていると言えるわけです。
今回はそんな少し独特ながらも、非常によく出来ている映画『さんかく窓の外側は夜』について個人的に感じたことや考えたことを綴っていきたいと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『さんかく窓の外側は夜』
あらすじ
書店で働く三角康介は、幼い頃から幽霊が視える特異体質に悩まされ、周囲の人との人間関係に悩まされてきた。
ある日、康介は書店にやって来た除霊師・冷川理人に勧誘され、除霊の仕事に誘われる。
三角はその誘いに戸惑いを感じながらも、彼の助手として働くことを決意する。
事務所で働き始めたある日、刑事の半澤という男から1年前に起きた連続殺人事件の調査を依頼される。
2人は、犯人の自宅を調査し、そこにいた犯人の幽霊から遺体が放置された場所を突き止める。
2人は半澤と共に現場を訪れ、遺体を発見するが、その遺体は「呪いのためのハブ」として使われていたのだった。
この死体を使って世界に「呪い」を広めようとしている人間の存在があることを知った三角は、その正体を突き止めたいと考えるようになる。
その一方で、理人は「呪い」があることで、自分たちの事務所の収益性が上がるのだから対処すべきではないと考えていた。
2人はそうした考えの違いからすれ違い始めるが、ある日事件を追っていた刑事の半澤が「呪い」をかけて回っていた女子高生ヒウラエリカに遭遇してしまい…。
スタッフ・キャスト
- 監督:森ガキ侑大
- 原作:ヤマシタトモコ
- 脚本:相沢友子
- 撮影:近藤哲也
- 照明:溝口知
- 編集:キルゾ伊東
- 音楽プロデューサー:戸波和義
- 主題歌:ずっと真夜中でいいのに。
彼の前作に当たる『おじいちゃん、死んじゃったって。』を確かその年の個人的な映画ベストランキングでトップ3に入れたんじゃないかと思います。
良い意味での人間ドラマに対するドライさと、映像の積み重ね、そして終盤にかけて感情を爆発させるという巧みな手腕に圧倒されました。
また、森ガキ監督は人間の距離感の撮り方が本当に素晴らしくて、後程詳しく解説しますが、どの人物とどの人物を同じフレームに収めるのかであったり、やり取りのシーンではそれを構成している人間によってもショットを使い分けたりしています。
こうした工夫が前作においては親戚が一堂に会するという特異な場の空気感を見事に演出し、今回は自分と他人の境界線に悩むキャラクターたちの関係性の構築において効果的に機能していました。
脚本に『プリンセストヨトミ』や『本能寺ホテル』の相沢友子さんがクレジットされていますね。
基本的に今回お話している『さんかく窓の外側は夜』については褒めていくつもりですが、脚本については正直イマイチとは言っておきます。
また、今回の独特な映像を作り上げたのは、『一度死んでみた』で知られる近藤哲也さんと溝口知さんのタッグですね。
今作は全体を通じてダークな映像が特徴的ですが、映像で作品のトーンや空気感を見事に作り出せていたと思いました。
- 冷川理人:岡田将生
- 三角康介:志尊淳
- 非浦英莉可:平手友梨奈
- 半澤日路輝:滝藤賢一
- 石黒哲哉:筒井道隆
- 非浦松男:マキタスポーツ
- 半澤冴子:桜井ユキ
- 慶子:北川景子
本作のW主人公を演じたのは、それぞれ岡田将生さんと志尊淳さんでしたね。
直接的な描写はもちろんないのですが、全体的にBL風味が漂っている作品だったので、お2人のファンの方は必見ではないでしょうか。
そして今作の物語の鍵を握る不思議な女子高生、非浦英莉可役には平手友梨奈さんが起用されています。
すごくダークな雰囲気が似合う女優だと思うので、何と言うか今作のようなタイプの作品に合いますよね。
他にも滝藤賢一さんを初めとする実力者が脇を固めています。
そしてカメオ?友情?出演を果たしているのが、北川景子さんなのですが、彼女は映画『響』で平手友梨奈さんと共演していたんですよね。
その時は、平手さんが天才女子高生小説家で、北川景子さんがその編集者という立場でした。
ちなみに北川景子さんは『君の膵臓をたべたい』つながりで浜辺美波さんの『センセイ君主』にちょい役で出演していたので、こういった役回りも引き受けてくださる器の大きい方なんだなと思いましたね。
『さんかく窓の外側は夜』解説・考察(ネタバレあり)
映像作品として丁寧で示唆的である!
さて、記事の冒頭でもお話しましたが、何と言っても『さんかく窓の外側は夜』という作品の凄みは物語というよりも映像の方にあると感じました。
今回の記事では、そんな本作の映像的な魅力を2つの観点から掘り下げてお話させていただこうと思います。
人物の関係性や距離感を演出するフレームとアングル
(C)2021「さんかく窓の外側は夜」製作委員会 (C)Tomoko Yamashita/libre
まず、今作の映像において、特徴的なのが人物の撮り方ですね。
とりわけ会話のシーンを見ていくと面白いのですが
・話している側を聞いている側を肩越しに捉える「オーバーショルダーショット」
・イマジナリーラインで切り返して、交互に人物を映し出していく単純な「クローズアップショット」
・あとは少し引いた位置から会話をしている人間を撮る「ワイドショット」
の3つが使い分けられています。
これらの3つは大半の映画で取り入れられてはいるのですが、明確な意図をもって演出的な機能を持たせた使い分けが為されていることは意外と少なかったりしますね。
まず、「オーバーショルダーショット」は登場人物同士の関係性を表現するのに適したショットであると言われます。
話している側の登場人物の表情にスポットを当てながらも、それを聞いている側の人間をフレームに収めることができるので、映像の中に視線の交錯を内在させることができるわけです。
そのため登場人物の関係性の構築を描けたり、信頼や恋愛感情と言ったものも強調できたりしますね。もちろんその他にもいろいろな使い方があります。
一方で、人物を単体で映し出す「クローズアップショット」の切り返しによる会話描写は、前者に比べると、双方向性に欠け、人物同士関係性の「断裂」「未熟さ」「敵対」などが表出する場合がありますね。
「オーバーショルダーショット」と「クローズアップショット」による会話を比べると、余計に後者のやり取りのドライさは伝わってくると思います。
そして、もう1つこれは、人物の感情よりも話しているという状況そのものや場の雰囲気や空気感を表現するうえで重要な「ワイドショット」ですね。
本作『さんかく窓の外側は夜』では、主人公の冷川と三角の会話においては基本的に「オーバーショルダーショット」が多用されています。
ただし、2人が物語の中盤に事務所で喧嘩になり、決別するシーンでは「クローズアップショット」による切り返しと、「ワイドショット」の割合が高まるように設計されています。
つまり、それまでの「オーバーショルダーショット」によって同じフレームに収められていた2人が、徐々に別々のフレームに収められるようになるという変化が生じているんですね。
このように同じフレームに収められていた人物が、映像的に隔てられることによって、観客は必然的に2人の心の距離が開いていったことや関係性の破綻を視覚的に感じるように仕向けられます。
一方で、会話シーンにおいて「クローズアップショット」による切り返しと、「ワイドショット」の割合が元々高くなるように計算されているのが、三角と半澤のやり取りですね。
この2人は、物語が進行するにつれて、確かに信頼関係のようなものを獲得していくようにも見えるのですが、前提として「信じているもの」が決定的に異なります。
それは冷川が言及している通りで、半澤にはオカルトや霊魂の類を「信じない」というある意味で強力な結界が備わっていました。
ですので、三角の存在や力を認めつつも、どこかでは彼の見ている世界や言っていることに対して「信じない」というスタンスを崩さないわけですよ。
そうした少し不思議な関係性が、2人の会話のシーンの中に「オーバーショルダーショット」があまり介在させないことによって、氷川とのやり取りと対比的に表現されているのです。
また、三角と非浦英莉可とのやり取りについても、最初にベンチで出会った時には、出会い頭にミディアムショットで2人を映し出し、それ以降は切り返しのクローズアップで2人を別々のフレームに収めていました。
(C)2021「さんかく窓の外側は夜」製作委員会 (C)Tomoko Yamashita/libre
この時点では、「呪い」をかける側の非浦英莉可と、人を「呪い」から救いたいと考えている三角の立場は相容れないものですから当然と言えば当然です。
しかし、終盤に2人が共闘する算段になり、再会した際にはある種の共闘態勢となり、同じフレームに収まることとなります。
人物同士のやり取りを映し出す中で、巧妙にショットの種類を使い分けることで、その関係性や距離感を演出していくというアプローチは、『さんかく窓の外側は夜』という作品の1つの大きな特徴だったのかと思いました。
あの結界は、人間のパーソナルスペースや「信じるもの」の領域、自分の信じている「世界」を表現しているものなのだと個人的には解釈しています。
そう思うと、その中に入り込む人間と言うのは、自分が信じても良いと思える人間であり、パーソナルスペースに踏み込まれても受け入れられる人間ということになります。
だからこそ、結界と映像のフレームを重ねることで、「同じフレームの中に納まる」という行為に登場人物同士の「信頼」の情を表出させようとしたのではないかと感じたのです。
MV的な映像で物語を紡いでいく!
(C)2021「さんかく窓の外側は夜」製作委員会 (C)Tomoko Yamashita/libre
2つ目に、本作『さんかく窓の外側は夜』が、何ともMVのような手法で撮影されている点について言及していこうと思います。
MVは映画やドラマとは違い、セリフを使うわけにはいきませんから、映像だけでそのドラマ性や人物の行動の意図や考えを見ている人に伝えていかなくてはなりません。
そうしたMV的なアプローチが本作の中では散見されるのですが、まずは、セリフでの説明を極力減らそうとしたことが伺えるシーンについて言及していきましょう。
1つ特徴的なところを取り上げるとすると、終盤に非浦英莉可と三角が「怨念の貯金箱」になっている建物の一室に踏み込む場面ですね。
この時、2人はセリフを交わすことはありません。ただ映像は、2人の顔を順番に映し出し、そして非浦英莉可が手をかけたドアノブにクローズアップショットを向けています。
その後、扉が開いて、まずは部屋に初めて入る三角の驚きの表情にスポットが当たり、その後の切り返しで突然スクリーンいっぱいに異様な光景が広がるという流れになっているわけです。
これよくある映画だったら、ドアを開ける非浦英莉可に「行くよ。」みたいな台詞を言わせて、三角が「うん。」と息を飲みながらそれに応えて、ドアが開き、その向こう側に広がる世界が映し出され、三角が驚くという流れなんじゃないかなと個人的には思うんです。
ただ、この『さんかく窓の外側は夜』の一連のシークエンスは登場人物の「視線」や「動線」をすごく意識した映像になっていて、セリフなしでも観客の興味が自然に意図したところへ向くように計算されています。
ドアノブにクローズアップされれば、当然観客の関心は「それを開けるという動作」そして「開けた先に何があるのか?」に移ります。
その後に、すぐに先にあるものを映し出すのではなく、それを見た三角の驚きの表情と視線にカメラを向けることで、「視線の先」を観客に強く意識させることができるんです。
こうした映像の中で今観客にどこを見て欲しいのか、そしてどんな流れで注意を向けて欲しいのかという計算がすごく丁寧に為されているんです。しかもそれを言葉なしで映像だけでやっているので、これはかなりハイレベルな芸当だと思いました。
また、MV的だと言われるのは、やはり本作の劇伴と編集のスタイルにも起因していると思われます。
『ベイビードライバー』なんかがそうですが、今作『さんかく窓の外側は夜』も1シークエンスに対して1つの劇伴音楽が付与されていて、シーンが切り替わるタイミングで新しい劇伴音楽が始まるというスタイルが取られていました。
そして1劇伴1シークエンスの小さなユニットを積み重ねることで、1つの映画にしていったというイメージが強いですね。
ただこうした作りにした時に問題となるのが、物語に「ぶつ切り」感が出てしまう点ですよね。
連載漫画の実写化にありがちなのですが、小さいエピソードを積み重ねて1つの物語にしていくという脚本にすると、どうしても繋がりが弱くなってしまって、全体としてまとまりに欠けることがあります。
本作『さんかく窓の外側は夜』もそういうきらいは正直に申し上げるとあるとは思いました。脚本の段階では、おそらく小エピソードの羅列だったのだと思います。
そのため、それを感じさせないために「MV的」なアプローチを取って、その脚本・構成的な弱さに観客の目が向かないようにしているのだと個人的には感じましたね。
音楽アーティストが手がける「アルバム」という音楽の発売形態は、もちろん別々の10数曲から構成されているのですが、作り手側はその内容や順番に明確な意図をもって、1つのイメージやストーリーを紡いでいるわけですよね。
『さんかく窓の外側は夜』も実はそうした作りになっていると感じるんですよ。
この作品は1つの大きな物語軸や世界観こそ共有していますが、実は4人の人間の物語の断片を見ているような趣があるのです。
それぞれのキャラクターの物語の軸を見ていきましょう。
三角:子どもの頃に例から逃げ出してしまったトラウマ
→ラストでそういった存在から逃げない、困っている人から目を背けない決意をする
冷川:子どもの頃に人から「信じられた」ことに対するトラウマ
→誰かを信じてみても良い、信じられてみても良いと思えるようになる
非浦:教団のために自分の持っている不思議な力を使わされている
→そうした柵や束縛からの解放
半澤:自分の妻が「呪い」にかけられてしまう
→自分の妻の「呪い」から解放
それぞれのキャラクターに、それぞれ別のトラウマや動機があって、それぞれのベクトルの先にたまたまラストシーンのあの場所が存在していたと言うのが、『さんかく窓の外側は夜』の大きな物語の作りなんですよ。
つまり、物語の構成の作り方は「群像劇」に近いわけで、だからこそそれぞれの登場人物の物語を断片的に映し出していくというプロセスがラストシーンに向けてすごく活きていたと個人的には思うのです。
そして、「つぎはぎ感」を無くすために、音楽と映像をリンクさせるMV的な手法を取り、観客の関心がウィークポイントに向かないように仕向けていたのは、良かったのではないでしょうか。
物語は横断歩道から始まり、そして横断歩道で終わります。
しかし、冒頭時点では、どこか不安げに歩いていた三角。ラストシーンでは、どこか堂々と歩いており、その先には冷川の姿がありました。
物語を通じて何が変わって、登場人物が何を得たのか?それを最初と最後で同じシークエンスを用いて視覚化するというのは、映画でもそうですが、ドラマ性のあるMVでもかなり使われる手法ですね。
さらに言うと、本作のラストで非浦に生じる新たな異変を見せるのは、何となくマイケルジャクソンの「スリラー」のMVを想起させます。
思えば、マイケルジャクソンの「スリラー」のMVも、最初に日常パートがあって、そこから異変が生じて、また日常に戻って来るけれど何かが変わっているという構成になっていました。
『さんかく窓の外側は夜』もそれに近い構成だと言えば、そうですよね。
こういう少し変わったテイスト、アプローチで作られた作品なので、今作は見ておいても損はないと思いますし、普段の邦画大作では、あまり見られない映像を見られるのではないかと思います。
他者を自分の領域に入れるということ、信じるということ
(C)2021「さんかく窓の外側は夜」製作委員会 (C)Tomoko Yamashita/libre
この映画、おそらくオカルト系のミステリだと思って見ると、相当な肩透かしを食らうと思います。
なぜなら、事件そのものの展開や謎はそれほど掘り下げられませんし、何か明確な解決がもたらされるわけでもないからです。
この作品が描いているのは、むしろもっとパーソナルな領域の話なのだと個人的には感じましたね。
本作『さんかく窓の外側は夜』には、タイトルにも入っているように「三角形」の形状をした結界のようなものがしばしば登場します。
三角形は「強度」という観点で見ると、最も強い形とも言われますが、これって人間が他人との間に無意識に引く境界線のようなものなんじゃないか?と思うのです。
今作の主人公2人は、自分の持っている力が原因で、それぞれに苦しんできました。
そして、そんな現実から逃れる方法として、冷川が選んだのが「カレイドスコープ(万華鏡)」であり、三角が選んだのが「メガネ」でしたよね。
彼らは、現実をそのまま見るのではなく、現実以外のものに思いを馳せたり、見たくないものを見ないようにしたりすることで、現実と付き合ってきたわけです。
つまり、自分が世界で生きていくための「フレーム」のようなものを自分自身で作っていたということですね。
そしてそれを象徴的かつスピリチュアルに可視化したものがあの「三角窓」なのだと思います。
「強度」という観点で、安定した三角形の形をした結界を身に纏い、自分と他人の境界に線を引く。そうすれば、彼らは自分の世界を守ることができます。
誰も信じない。誰からも信じられない。誰にも干渉しない。誰からも干渉されない。
そういう生き方を冷川や三角は選んできたんですよね。
しかし、そうして生きて来た2人が出会うことで、変化することを求められます。
最初は、三角のパーソナルスペースに強引に冷川が介入してくるという形式をとっていましたし、それが映像的にも反映されていました。
(C)2021「さんかく窓の外側は夜」製作委員会 (C)Tomoko Yamashita/libre
そして三角窓に入り込もうとする幽霊たちを祓い、自分たちの世界の安定を維持していくのです。
ただ、人間の関係性って一方的なものとしては成立し得ません。物語の冒頭時点では、少なくとも冷川が強引に三角の領域に入り込んでいただけで、冷川は三角が自分の領域内に入っていることを拒んでいました。
それでも物語の終盤には、三角が冷川の心的領域の奥深くに入り込み、彼の心の弱さに寄り添います。そして「信じること」「信じられること」に絶望していた彼を救うのです。
お互いの領域に踏み込み合うことで、2人は初めて分かり合うことができました。
でも、これって、人間関係の構築そのものですよね。
物語の序盤から中盤にかけて、ひたすらに冷川から三角へと歩み寄る構図を描き続け、ラストシーンの雑踏のシーンでは三角が冷川の方へと自発的に歩いていく光景を映し出します。
望む、望まれる。信じる、信じられる。2人の関係にもう契約書は必要ありません。
三角形の結界の中で生きることは、きっと他者を拒んで生きるということなのですし、それはとても安心できるものでしょう。
だからこそ、誰かと関わって、関係を築いていくということはとてつもないエネルギーを要するものなのです。
それでも他人は必要なのか、他人のために安定した「三角形」を変える必要があるのか。
そう思うと、『さんかく窓の外側は夜』のメッセージ性ってどこかテレビシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』ないしその劇場版『Air/まごころを、君に』にも通じるところがあるような気がしました。
自分だけで「三角形」を構築することもできます。
しかし、世界とは「わたし、あなた、そして第三者(他人)」によって構築されるものであり、そういう意味でも「三角形」なのだと思います。
その上で「あなた」に存在して欲しいのか、「第三者(他人)」に存在して欲しいのか?
ここに本作の問いかけがあるように感じましたし、その問いに対して「いてもいい」という回答を提示したのが本作の結末だったと感じています。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『さんかく窓の外側は夜』についてお話してきました。
とにかく映像へのこだわりが傑出した作品でしたし、だからこそ映画館で見ても損はないのではないかな?と思っています。
また、脚本や構成の部分では難はありましたし、オカルトミステリを求めて見に行くと、完全に肩透かしを食らうでしょう。
しかし、作品性としては『新世紀エヴァンゲリオン』ないしその劇場版『Air/まごころを、君に』を思わせる、自己と他者の関係性の映画だったのではないかと個人的には感じています。
それが映像や演出にもしっかりと反映されており、融和性が高かった点で、やはり本作は映像作品としてはかなり優れていたのではないでしょうか?
皆さんはこの『さんかく窓の外側は夜』という作品を見て、どう感じましたか?何を考えましたか?
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。