みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ヤクザと家族』についてお話していこうと思います。
白石和彌監督も『孤狼の血』のような作品を手掛けましたし、日本の気鋭の映画監督の登竜門的な位置づけで、「ヤクザ映画」が復活してくるなんて趣もあるんですかね?
映画の中では、まさしくヤクザたちが2020年の世で居場所を見失っている様が映し出されていましたが、「ヤクザ映画」そのものも近年は下火で、かなりジャンルとしては弱いですよね。
『アウトレイジ』シリーズが気を吐いてはいましたが、それでも完結してしまいましたし、東映が社運を賭けたとも言われる『孤狼の血』は興行収入7.9億円とかなり厳しい数字でした。(それでも続編が決まりましたが)
そんな中で、今回お話する『ヤクザと家族』はどちらかと言うと、ヤクザの抗争や暴力にスポットを当てた作品としては描かれていません。
むしろその生き様に強烈にフォーカスし、その栄枯と悲哀を淡々と追い続ける「叙事詩」のような壮大な物語なのです。
そのため、本格的ないわゆる「ヤクザ映画」を期待して見に行くと、マイルドすぎて物足りないという印象を抱くのも無理はないでしょう。
しかし、この作品は主人公の賢治の視点を通じて、ヤクザとして生きる人間の弱くて、柔らかい部分を描き出そうとしています。
映画のパート割において、主人公の所属している組が衰退してからの2019年以降のパートにかなりの時間を割いているのもそのためと言えるでしょう。
もし、これからこの作品をご覧になる方がいて、本格的なヤクザ映画を期待しているのだとしたら、作品の後半はかなり退屈するかもしれません。
だからこそ、今作『ヤクザと家族』については、1人のヤクザ者の人生を「ポストヤクザ」の時代を通じて垣間見る物語だと思って、鑑賞していただくのがベターではないかと考えています。
さて、今回はそんな『ヤクザと家族』について個人的に感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ヤクザと家族 The Family』
あらすじ
1999年。薬物中毒で最後は覚せい剤を買うお金もなくなった父親を失った山本賢治。
彼は、行きつけの焼き肉屋で、周囲のシマを取り仕切っていた柴咲組の組長・柴崎博の危機を救う。
柴崎は、自暴自棄になっていた賢治を気にかけ、手を差し伸べようとするが、賢治は差し伸べられた手に反抗する。
ある日、賢治は友人たちと路上で薬物取引をしていた男から現金とシャブを奪って逃走するのだが、それが周辺で幅を利かせている侠葉会の人間だった。
賢治は身柄を拘束され、ボコボコに殴られると、香港行きの船に乗せられ、臓器を売られそうになる。
しかし、そんな賢治を救うのが柴崎だった。
俺達は薬を扱わない。男を磨き上げるのが「ヤクザ」だという柴咲の心意気と賢治を「家族」として受け入れようとしてくれる温かさに惚れこみ、彼はヤクザの世界へ足を踏み入れることを決断する。
2005 年。山本は組の中でも一目置かれる存在へと成長した。
この頃から警察がヤクザを一斉に排除するために動き始める。警察とバックで繋がりを持った侠葉会は大義名分を得たと言わんばかりに柴咲組に圧力をかけ、シマを奪ってしまおうと画策し始める。
そんな中で、ある日賢治は、自分たちのシマで横柄な振る舞いを見せる侠葉会の幹部を目撃し、思わず手を上げてしまうのだった。
その報復として狙われる親父の命。そして親父を守るために死んでいく「家族」の命。しかし、警察から圧力をかけられ、思うように動けない状況。
それでも賢治は、自分たちの組の誇りと尊厳を保つために、ある行動を起こす。
2019年。14年という長い時間を刑務所の中で過ごした賢治が直面したのは、暴対法の影響ですっかり衰退してしまった柴咲組の姿だった。
スタッフ・キャスト
- 監督:藤井道人
- 脚本:藤井道人
- 撮影:今村圭佑
- 照明:平山達弥
- 録音:根本飛鳥
- 美術:部谷京子
- 衣装:宮本まさ江
- 編集:古川達馬
- 音楽:岩代太郎
- 主題歌:millennium parade
藤井道人監督は『青の帰り道』で注目を集め、そこから『デイアンドナイト』『新聞記者』と言った話題作を経て、その評価を一気に高めてきました。
昨年公開された『宇宙でいちばん明るい屋根』もその美しい映像とやさしい視座で1人の少女の「居場所」の揺らぎを見事に描き切りましたね。
そして今作の撮影と照明には、藤井監督の作品ではお馴染みであり、そして今個人的に邦画界で最も注目すべき2人と言っても過言ではないと思っている今村圭佑さんと平山達弥さんが携わっています。
2人は『新聞記者』もそうですが、『ホットギミック』や『サヨナラまでの30分』と言った映像面が高く評価されている作品を多く世に送り出してきました。
加えて、昨年は今村さんの初監督作品でもある『燕 Yan』が公開され、こちらも素晴らしい映像作品となっておりました。
そんな黄金コンビが手がける「ヤクザもの」は、これまでのヤクザ映画とは一味違ったライティングやカメラワークが際立ち、重厚感がありつつもスタイリッシュな印象を与えてくれます。
編集にも、藤井監督作品ではお馴染みの古川達馬さんがクレジットされていますね。
劇伴音楽を提供したのは、『Fukushima 50』や『新聞記者』などの作品を重厚感のある音楽で支えてきた岩代太郎さんです。
また、人気バンドKing Gnuの常田大希さんが率いるmillennium paradeが主題歌の「FAMILIA」を提供しています。
- 山本賢治:綾野剛
- 柴咲博:舘ひろし
- 工藤由香:尾野真千子
- 中村努:北村有起哉
- 細野竜太:市原隼人
- 木村翼:磯村勇斗
- 川山礼二:駿河太郎
- 大迫和彦:岩松了
本作『ヤクザと家族』の主演を務めるのは、『日本でいちばん悪い奴ら』などでも知られる綾野剛さんです。
もう今作の演技も圧巻過ぎて、言語化するのが難しいのですが、今作で特に難しかったと思われるのは、やはり人生の3つの時期において、同じ役を演じていても、佇まいや言動、表情、空気感を変えていく必要があるということなんだと思います。
1999年期はとにかく無鉄砲で怖いもの知らずな、2005年期はクールだがうちに熱いものを秘めた「インテリヤクザ」風の、そして2019年になると少し牙の抜けた、でも凄みのある男として。
それぞれの時期に、最適な演技をきっちりと出せる綾野剛さんの役者としての凄みには驚かされました。
とりわけ2019年期のあの刑務所から出てきたときの、表情と空気感ですよね。
何と言うか少し老け込んでいて、以前ほどのギラギラ感や他を寄せ付けないような雰囲気は消えているのですが、それでも確かにその内に熱いものを秘めた、そういう人間性をファーストルックで観客に印象づけてしまう存在感があります。
そして、厳しくも温かい主人公の父親のような存在柴咲組の組長の役を舘ひろしさんが演じていました。また、主人公の賢治が好意を寄せるホステス役に尾野真千子さんが選ばれています。
また、今作『ヤクザと家族』において、特に2019年パートの磯村勇斗さんの演技は際立っていたと思いましたね。
綾野剛さんとはまた違った、スマートでセクシーな雰囲気があり、ヤクザものとの対比としての「半グレ」的な位置づけの人間を上手く表現してくれていました。
とにかくキャスト全員の演技が素晴らしく、非常に完成度の高い作品になったと言えるのではないでしょうか。
『ヤクザと家族The Family』感想・解説(ネタバレあり)
藤井道人という「居場所」を描く作家
(C)2021「ヤクザと家族 The Family」製作委員会
さて、ここまでにもご紹介してきたように今作『ヤクザと家族』の監督・脚本を担当したのは藤井道人さんです。
彼の作品においては、常に自分の「居場所」を求め、その身の置き所の無さに苦しみもがくキャラクターが描かれているように思います。
『デイアンドナイト』においては、社会で「居場所」のない子どもたちの学校を運営していくために、車泥棒をすることも厭わない男、この世界から「居場所」を奪われた父のために戦う男が描かれました。
『新聞記者』では、内閣情報操作室という日本の中枢の内部にいながら、そこに身の置きどころの無さを感じ、自分の信念と目の前の仕事との間で葛藤する主人公像が描かれました。
彼が外部の新聞記者に情報を渡すのも、そこに自分の「居場所」を見出しているからと言えるでしょう。
そして昨年公開された『宇宙でいちばん明るい屋根』では、養子として迎えられた症状が両親の実の子の誕生に際して、自分の「居場所」を見失ってしまうという物語を描きました。
このように藤井道人監督の作品においては、人間が「居場所」の喪失や身の置きどころの無さを抱えており、そこから何とか「居場所」を手に入れようとする過程で物語が生まれるという構造になっています。
今作『ヤクザと家族』についても、もれなくそうした「居場所」の物語になっていると言えるでしょう。
主人公の賢治は、父親を亡くし、自分の「家族」という唯一の帰属できる場所を喪失しました。そんな彼は自暴自棄になり、ついにはヤクザ者からシャブと現金を強奪してしまいます。
そんな彼を温かく迎え入れ、居場所を与えてくれたのが、柴咲組の組長でした。
つまり、彼はどこにも居場所がない世界で、唯一ヤクザというコミュニティに「居場所」を与えられ、「家族」として迎え入れられたというわけです。
賢治は、そんな自分の「居場所」を守るために、懸命に戦い抜きます。そしてそれを阻もうとする者には、容赦のない攻撃を加えていきました。
そんな彼が兄貴分の殺人のケツをもって14年間刑務所で服役するのも、彼なりの「居場所」の守り方だったのだと思います。
しかし、2019年の世界では暴対法が成立したこともあり、ヤクザたちに「居場所」は認められていませんでした。
かつて賑やかだった柴咲組のオフィスはガランと静まり返り、あの温かだった「家族」の面影はどこにも残っていません。
外の社会では、ヤクザ者(もしくは過去にヤクザ者だった)というだけで差別され、社会的な権利をはく奪され、苦しい思いをすることになります。
かつてヤクザに「居場所」を与えられた男が、今度はヤクザであるが故に「居場所」を奪われていく立場になるわけですよ。
14年も服役した彼を温かく迎え入れてくれたかつて愛した女性である由香。温かな食事の風景はそこが彼の「居場所」なんだという安心感と温もりに満ちています。
(C)2021「ヤクザと家族 The Family」製作委員会
しかし、賢治が元ヤクザだったということで、彼女とそしてその娘の社会における「居場所」までもを奪ってしまうのです。
自分の「居場所」がないだけならまだしも、生きているだけで誰かの「居場所」を奪ってしまう。そんな彼は一体どこに行けばいいのでしょうか。
賢治が人生の最終章に選んだ行動は、ある種の「自慰行為」と言っても過言ではないと思います。
柴咲組の「居場所」を奪い、ヤクザ者の「居場所」を奪い、「家族」の「居場所」を奪い、そして子どもの頃からよく知る木村翼という青年の「居場所」までもが奪われようとしている。
彼は、そんな全ての「居場所」を奪われた者たちの、そしてこれから自分と同じような身の置き所の無さを抱えていかなくてはならなくなりそうな未来を生きる者たちのために戦うのです。
全ての罪とそして暴力性を一身に引き受けて、それらを抱えてこの世界からドロップアウトしようとする賢治。
私は彼がしたことは、結局は自己満足なのだと思いますし、彼自身が救われる為にやった「自慰行為」に他ならないのだと思います。
物語の最終盤には、賢治が未来を守った木村翼と、そして賢治の実の娘が現れ、彼の死んだ防波堤に、花束とそして愛煙していたセブンスターを供えます。
この世界のどこにも「居場所」がないと思っていた賢治が、最後の最後に大切な人たちから、世界の片隅に花束1つ分、たばこ1箱分の「居場所」を与えられるのです。
彼らのアンサーによって、この『ヤクザと家族』は「居場所」の物語として帰結します。
当ブログ管理人としては、今作『ヤクザと家族』には、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『インヒアレント・ヴァイス』に似たものを感じさせられました。
『ヤクザと家族』における工場から立ち昇る煙。『インヒアレント・ヴァイス』における霧。それらはどこかその景色を淀ませ、視界を悪くします。
そしてヤクザ者の文化の行き詰まりに直面する主人公。ヒッピー文化の行き詰まりに直面する主人公。
時の流れに取り残されていき、この世界に「居場所」を見失っていく者の物語として、非常に共通点が多いのではないかと思います。
汚いモノを排除して、自分たちは綺麗なったと思い込んで…
(C)2021「ヤクザと家族 The Family」製作委員会
藤井道人監督の映画においては、1つ作品の主軸になるようなモチーフが取り入れられ、重要な意味を与えられていることが多いですね。
『宇宙でいちばん明るい屋根』においては、タイトルにもある通りで「屋根」が重要な役割を果たしていましたが、『デイアンドナイト』では「風力発電機」にその役割が与えられていました。
では、今回の『ヤクザと家族』においては何だったのだろうかと考えてみますと、それは工場と煙突、そこから排出される「煙」だったのではないかと思いました。
1960年代には、日本の煙突からまだ黒い「煙」がもくもくと排出されており、そこにはたくさんの有害物質が内包されていながら、大気中に平然と垂れ流されていました。
しかし、1970年代に入ると「四日市ぜんそく」などの公害問題が浮上し、次第に法整備が為され、煙突から有害な黒い「煙」が排出されることはほとんどなくなりました。
今作『ヤクザと家族』において工場の煙突から排出されているのは、そのほとんどが白い「煙」でしたよね。
白い「煙」は有害物質を基準値以下に抑えるように処理が為されているため、その構成要素の大半は水蒸気だとされています。
それでもゴミの焼却施設や火力発電所など有害物質が混じりやすいということもあり、煙突の高さに基準を設けることで、地上に排ガスが蔓延しないように配慮がなされているのだそうです。
かつては当たり前のように表を肩で風を切って歩いていた彼らは時代の流れと共に肩身が狭くなっていきました。
そして、暴対法の整備に伴い、一般市民としての人権を喪失し、ヤクザを辞めてから5年を待って経歴を「綺麗に」するか、ヤクザ者として肩身が狭い思いをしながらも、それでも生き続けるかという選択を課されるわけです。
しかし、後者を選択したとしても、社会に居場所なんてあるわけがありません。要は高い煙突を経由して、地上に広まらないような場所に排出される「煙」と同様の扱いを受けることになります。
ただ、そうやってヤクザ者を排除したからと言って、この世界が「綺麗に」なったのかと言われると、やっぱりそうではないんですよね。
それに代わる例えば「半グレ」のような組織が台頭したり、警察と手を結んで裏社会で暗躍し続けるヤクザ者が残存したり。
彼らの人間としての権利を奪ってまでして、徹底的に排除しても、ちっとも社会は「綺麗に」などならないのです。
もちろん彼らのような暴力団組織の存在を肯定することはしません。
しかし、現代社会と言うのは、そうした「有害なもの」を排除する行為からロジカルさや大衆の同意が抜け落ちているような気がしています。
この『ヤクザと家族』において、私が最も残酷だと思ったのは、賢治と一緒にいたというだけで由香が職場を追われることになったシーンです。
彼女の職場の人間は、自分が直接ヤクザに何かをされたというわけでもありません。ただSNSで彼女が反社会的な組織にいた人間と関わりがあったというSNS上の個人の噂を見知ったに過ぎません。
しかし、それだけの情報で彼らは由香を「有害物質」だと判別し、自分たちが「綺麗で」いるために彼女を排除しようとするのです。
娘の学校でも同様のことが置き、彼女は徹底的に孤立させられました。
(C)2021「ヤクザと家族 The Family」製作委員会
「煙」にも「ヤクザ」にも一応は法的根拠があって、「排除」が為されていますが、由香の場合は違います。
社会を生きる小さな個人の抱える「自分たちは「綺麗で」いたい」という思いによって、「居場所」を奪われるのです。
そこに法的な根拠はありませんし、その根拠はと言うと体裁や空気と言った抽象的で、不可視なものでしかありません。
でも、そういうものが力をもっているのが今の社会であり、社会を「綺麗に」するために個人が勝手に「有害物質」と認定したものを、裁いて排除できる時代になってしまったんですよね。
『ヤクザと家族』という作品は、そうした個々人のビジランテ的振る舞いの危うさをも内包して作られた作品だと思います。
自分は綺麗だ。自分には何の罪もない。自分はよくできた人間だ。自分は…。
そうやって、自分が内包している負の部分から目を背け、他人の負の部分は一切許すことができないという風潮。
きっと私たちは、自分たちが「綺麗で」いるために誰かを排除して、虐げて、そしてその過程を通じて結局は自分をどんどんと汚していっているのだと思います。
自分たちが「綺麗で」いるために、誰かを排除する。そういう考え方をどこかでやっぱり変えていかなくてはならないんだとこの『ヤクザと家族』を見て、実感しました。
工場から排出される煙は、失くしてしまうことは難しいでしょう。だからこそ、私たちの社会に共存するために、法律が設けられ、基準値が設けられ、今では私たちの社会に溶け込み、ある種の共存をしています。
もちろん有害物質が全くなくなったというわけではないのにです。
舘ひろしさんが演じた柴咲博は、自分の言いつけを守らずライバル組織の幹部を殺害して戻ってきた賢治を殴るのではなく、強く抱きしめました。
そんな遺志を受け継いだ賢治は、自分の父の仇を取るために手を汚そうとしている翼を強く抱きしめます。
(C)2021「ヤクザと家族 The Family」製作委員会
私たちの時代に今欠けているのは、まさしく求められるのは、間違いを犯した者を、「汚れ」を内包している者を強く抱きしめてあげるようなそんな「包容力」なのかもしれませんね。
「家族」が故に家族を失う物語
最後に、本作『ヤクザと家族』がタイトルに「家族」という言葉を冠した作品であるという視点で読み解いていこうと思います。
(C)2021「ヤクザと家族 The Family」製作委員会
主人公の賢治は、冒頭に唯一の肉親であった父親を失い、その後柴咲に「ヤクザ」の世界へと迎え入れられました。
「柴咲組」は本当の家族を失った彼にとっての”疑似家族”であり、彼の唯一の居場所となったのです。
しかし、彼はそんな「家族」を守るために必死で、最終的には兄貴分の罪を被って刑務所に入るという選択をします。
そうして14年の刑期を経て、組へと戻って来た彼が直面するのは、疑似家族の崩壊でした。
暴対法により、ヤクザの人間は肩身の狭い思いを強いられ、社会に居場所を失っていたのです。
「柴咲組」で本当の兄弟のように慕い合っていた弟分の竜太は、ヤクザの世界から足を洗い、本当の家族を持ち、妻と子と共に生活を送っていました。
それ故に、彼はもう”疑似家族”との繋がりを断とうとしているのです。
「ヤクザ」という”疑似家族”の一員であることが、本当の家族を手に入れるための足かせになると言うのは、何とも残酷なことですよね。
そうして、賢治はかつて愛した由香と再会を果たすわけですが、彼女は14年前に彼の子を身に宿し、出産していたのです。
知らない間に、父親が亡くなって以来の本当の血のつながった家族の存在を知らされた賢治は、後ろ髪を引かれながらも、ヤクザという”疑似家族”との繋がりを断ち、家族のために勤め始めます。
しかし、そんな彼を再び”疑似家族”の因果が襲います。「ヤクザ」であるという過去が故に彼が手に入れた本当の家族は音を立てて崩れ去ってしまうのです。
賢治や竜太は、「家族」を手に入れ、大切にしていたことが原因で、家族を失うという何ともアイロニックな状況に直面します。
賢治は、「家族」もそして家族も守りたかった。
そして、最終的には「家族」である翼のために再び「殺し」をすることを決意し、家族である実の娘のためにあの家から去る決断をしたのです。
「家族」もそして家族も大切にしたいと、そう願って死した賢治は、ラストシーンで2人の人に弔われることとなります。
1人は、彼が守った「家族」である翼。
そして、もう1人は彼が守りたかった家族である実の娘です。
「家族」と家族。どちらもがかけがえのないほどに大切な状況で、どちらかしか守れなかった。
どちらかを大切に思えば思うほど、もう一方を失ってしまうという「天秤」のような状況に賢治は、最後まで苦しみました。
それでも、あのラストシーンでもって、彼の家族への思いは、ちゃんと届いたのだと実感させられます。
ただ、家族が欲しかった、家族を大切に思っていた、家族を守りたかった。そんな男の運命を余すところなく描き、その人生に優しい救済をもたらした本作のラストには本当に涙が止まりませんでした。
黒へのこだわり、灰色のスーツ
最後になりますが、本作『ヤクザと家族』は衣装にもかなりこだわって作られた作品だと思います。
制作秘話の中でも、「黒」の色味にかなりこだわって作られたということが明かされていることからも、本作の色へのこだわりは強く感じられると思います。
たとえば “黒”というイメージひとつでも、すごくいろんな色味の黒があるんですよね。衣装合わせでは100種類以上の黒い生地の中から、衣装の宮本まさ江さんと剛さんと一緒にイメージにあう“黒”を探すということもありました。
(QUIより引用)
物語の冒頭、ヤクザになるまでの賢治の衣装は「白」色のダウンジャケットでしたよね。
(C)2021「ヤクザと家族 The Family」製作委員会
この時の彼は、まだ何にも染まっていない「白」色の人間でした。
しかし、ヤクザに捕らえられ、その「白」が次第に血にまみれていき、その後彼は柴咲組の「家族」になることになりました。
そうすると、彼の身につけている服は「白」から「黒」のスーツへと変わっていきます。
(C)2021「ヤクザと家族 The Family」製作委員会
という具合に、ヤクザの世界へと足を踏み入れた彼の服は、「黒」に変わるわけです。
その後、彼は兄貴分の罪を被って逮捕されてしまうわけですが、14年後にようやく出所の日を迎えます。
この時に着ていたのが、親父から手配してもらった「グレー(灰)」のスーツなんですよね。
(C)2021「ヤクザと家族 The Family」製作委員会
2019年のパートでは、このスーツルックに限らず、彼「グレー(灰)」の衣服を身に纏っているシーンが格段に多くなります。
「朱に交われば赤くなる」ということわざもありますが、一度「黒」になった人間が、元の「白」に戻ることはできないということを、この色遣いが端的に表現していると言えますよね。
これはおそらく物語の冒頭のまだ「黒」に染まる前の賢治のカラーリングを意識しているのだと思います。
その上で、「黒」そして「灰」の時代を知った彼が、そうなって欲しくはないと願い、過去の自分に翼を重ねて、彼を救うのです。
こうした衣装ないしカラーへのこだわりに着目して映画を見てみるのも非常に面白いと思いますよ。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ヤクザと家族』についてお話してきました。
- 1999年の頃のビビッドな色使いと光と影のハイコントラスト。
- 2005年の夜の町のネオンがかった風景。色調の濃さ。
- 2019年の映像全体に靄がかかったような白色光の強さ。
すごく時代と時代で映像そのものも対比させるように作られているのが分かります。
とりわけ2019年の映像の作りなんかはマーティン・スコセッシ監督の『アイリッシュマン』を思わせるものがありましたね。
また、2019年の映像についてはワイド画面ではなく、スマホで撮影したかのような横にかなり狭い正方形に近いフレームの映像になっていました。
おそらく主人公たちの肩身が「狭く」なってしまったことを表現するための映像表現なのだと思います。
ぜひ、こうした趣向が凝らされた映像を味わうという意味でも劇場でご覧になっていただきたい作品です。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。