みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『すばらしき世界』についてお話していこうと思います。
こんなにもMr. Childrenのあの名曲を思い出す映画になっているとは…。
当ブログ管理人が良く聞いていた頃のミスチルの名曲「花言葉」の歌詞を強烈に思い出す映画でしたね。
君がくれた 僕に足りなかったものを
集めて並べて 忘れぬよう願う
僕の全て 君に知って欲しかったのに
コスモスの咲く季節に 君は去った
さよなら さよなら(Mr. Children『花言葉』より引用)
ちなみに「白いコスモス」の花言葉って「純粋」とか「純潔」と言われているようです。コスモス全体としては「調和」という花言葉もあるようで、そう考えると、作品にぴったりとハマっています。
いきなり映画から遠いところから話し始めてしまいましたが、とにかく2021年に見た映画の中で初めてビビッと来た、年間ベストTOP10に食い込んでくるであろう作品に出会えた喜びが大きいです。
西川美和監督の映画はこれまでも全てチェックしていますが、彼女のフィルモグラフィーを通じて考えても面白い作品ですし、何より1本の映画としてとんでもない出来栄えだと思います。
カメラワークや照明に始まり、役所広司さんのほぼ独壇場とも言える圧巻の演技、舞台やロケーションの選び方に至るまで全てが高水準でかつ惹きつけられるものでしたね。
物語としては1月に公開された『ヤクザと家族』のように、ヤクザから足を洗い、刑務所から出て来た人間が社会の片隅で社会復帰を目指すというものでした。
『ヤクザと家族』も素晴らしい映画なのですが、現代パートの展開やSNS描写には、かなり作為性めいたものを感じましたし、その点で若干リアリティは欠如していたと思います。
しかし、今作『すばらしき世界』は何ともリアルで、私たちの社会と地続きの世界のどこかに「彼」が存在しているのではないかという実体を感じられました。
公開前は、描き方によってはビジランテ的な暴力を肯定してしまったり、逆に反社会的勢力に属していた人間の更生を否定してしまったりするような内容になるのではないかという危惧もありました。
しかし、さすが西川監督と言ったところか、そのあたりのバランス感覚が凄まじく「すばらしき世界」というタイトルで全てを物語ってしまうあのラストには痺れましたね。
さて、今回はそんな映画『すばらしき世界』について個人的に感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『すばらしき世界』
あらすじ
殺人を犯し13年の刑期を終えた元極道の男、三上は、ようやく出所の日を迎える。
しかし、その道からは足を洗うのだと決めていた彼には頼れる人も少なく、保護の役を引き受けてくれた庄司夫妻の助けを借りながら何とかして自立を目指していた。
三上は、仕事探しと並行して、幼い頃に生き別れた母を探したいと考え、自らの身分が掲載されたノートをテレビ局のとある番組宛に送る。
それに目をつけたテレビディレクターの男、津乃田龍太郎とプロデューサーの女、吉澤遥が近づいてくる。
彼らは、三上の母親を見つけてあげたいこと、そして彼のような人が社会復帰をするサポートをしたいと告げるが、その真意は社会に適応しようとあがく三上の姿を番組で面白おかしく紹介することでしかない。
そのあまりにも純粋過ぎる性格のために、トラブルを起こすことも少なくない三上。
それでも、現代には珍しいその彼の愚直さに惹かれ、彼の周囲には次第に人々が集まってくるのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:西川美和
- 原案:佐木隆三
- 脚本:西川美和
- 撮影:笠松則通
- 照明:宗賢次郎
- 編集:宮島竜治
- 音楽:林正樹
本作の監督・脚本を務めたのは、『ゆれる』や『永い言い訳』などでお馴染みの西川美和さんです。
彼女の作品の中にはいつも「善悪に明確に分類できないもの」そして「死」が内包されているように思います。
今回の『すばらしき世界』も過去作から通底するテーマを扱っていると言えますし、過去作へのアンサー的な意味合いも込めて、この「すばらしき世界」というタイトルがつけられているような気もしました。
撮影には、李相日監督の『悪人』や『怒り』などを重厚な画作りで支えてきた笠松則通さんが起用され、非常に見ごたえのある永続作品となっています。
編集には『ゆれる』来、西川美和監督の作品には欠かせない宮島竜治さんがクレジットされており、劇伴音楽を林正樹さんが提供しました。
- 三上正夫:役所広司
- 津乃田龍太郎:仲野太賀
- 松本良介:六角精児
- 井口久俊:北村有起哉
- 下稲葉明雅:白竜
- 下稲葉マス子:キムラ緑子
- 吉澤遥:長澤まさみ
- 庄司敦子:梶芽衣子
- 庄司勉:橋爪功
長澤まさみさんは、予告編では結構映っていたので、主要キャストなんだろうなと思っていたのですが、まさか予告編の出演シーンが本編の出演シーンのほとんどだとは思いませんでしたね…。
本作の主人公である三上を演じたのは、日本を代表する俳優である役所広司さんですね。
もう何と言うか、彼の存在なしに成立しない映画だと思いましたね。
元極道という経歴に対する説得力があり、冷徹さや狂気、暴力性を漂わせながらも、人を惹きつける愛嬌があるんです。
このバランスをここまで完璧に作り出せてしまうその圧倒的な演技力には脱帽するほかありません。
そして、物語のキーマンである津乃田龍太郎役には、仲野太賀さんが起用されています。
他にも、六角精児さん、北村有起哉さん、梶芽衣子さん、橋爪功さんら名バイプレイヤーがずらりと並び、作品を支えていますね。
『すばらしき世界』解説・考察(ネタバレあり)
クローズアップショットの多用、「枠」を意識させる映像
まず、この映画をご覧になった方が最初に目撃するカットは、主人公の三上が刑務所の個室の格子のついた窓から外の世界を眺めているショットです。
彼が受刑者であり、そこから差し込む陽光が何となく彼がもうすぐ外の世界に出て行くのであろうということを予感させてくれます。
そうして彼は出所を果たすわけですが、彼はまずバスに乗り込みましたよね。
そして、カメラはバスに乗り込んだ三上をクローズアップショットで映し出すのですが、この構図はどこかファーストカットの刑務所のシーンに似ています。
さらにそれに続く新幹線のシーンは、冒頭のカットとほとんど同じ構図になっています。窓の内側にいる三上と窓、そしてそこから差し込む光。
その後、彼は好意にしてくれていた弁護士の先生を尋ね、その援助にも支えられながら、何とか古いアパートの一室での生活をスタートさせます。
ここでまた三上が窓の傍らに腰掛け、窓の外を見つめるショットがインサートされていましたね。
こうしたショットの反芻により、三上が刑務所を出たものの、まだ自分の世界の内側に閉じこもることしかできず、「外側」の人間でしかないということが印象づけられるわけです。
(C)佐木隆三/2021「すばらしき世界」製作委員会
その後も、彼が囚われている言いも知れぬ閉塞感や疎外感を、公衆電話の透明なボックスや教習所の車、そして何より昼間の野外のシーンが極端に少なく、ほとんどが屋内のシーンで構築された映像が物語っています。
彼は社会に出たにもかかわらず、常に自分の世界の「内側」に囚われていて、一向にそこから出ることができず、「社会」の外側の人間のままなのです。
さらに、本作は野外のシーンで三上を移す際は、徹底的にクローズアップショットを用いています。
映像のフレームを三上の像で埋め尽くし、他の情報がほとんど入ってこないその映像は彼の抱いている閉塞感を端的に表現していると言えるでしょう。
そんな閉塞感と疎外感に満ちた映像が、変容していく転機がこの作品の中には2つありました。
1つ目は、三上がヤクザ時代の旧友である下稲葉を尋ねて九州へと向かうシーンですね。
まず、彼が下稲葉と電話をしている時に、少しレトロな劇伴音楽と共に東京タワーを映し出す何とも昭和感満載の映像が使われていたのに気づきましたか。
あれって、冒頭に彼が電車に乗っているシーンで薄っすらと見えた東京スカイツリーとの対比で使われている映像だと思います。
スカイツリーのある東京が三上にとっての現在なのだとしたら、あの時使われていた東京タワーの映像は明確に「過去」を表しています。
つまり、彼はヤクザの世界への復帰に着実に近づいていた、「過去」に逆戻りしようとしていたことが端的に表現されていたわけです。
そして、それに伴って「昼間の野外のシーン」が増えているんですよね。彼が昼の海で釣りをしているシーンはこの映画の中で1番最初の解放感に満ちた開けたショットだったように思います。
どこにも居場所がなかった、誰にも受け入れられなかった彼が、結局ヤクザの世界に戻ることで、自由を手にしようとしていたことが映像からも分かります。
しかし、下稲葉が警察の厄介になったことで、その希望も打ち砕かれ、彼は再び居場所を奪われてしまいました。
ここで、2つ目の転機が訪れます。
それは彼に取材をしていた龍太郎が、母親にルーツに纏わる調査をしていると電話をくれたことですよね。
三上はそうして龍太郎と落ち合うわけですが、彼らが再会する場面のカメラワークに注目して欲しいのです。
これまで徹底的にクローズアップショットで捉えていた三上を、ここでズームアウトして明確に俯瞰のショットで捉えているんですね。
このショットないしズームアウトは、先ほどとは対照的に彼が少しずつ「堅気」の世界で人生を取り戻そうとしていることが伺える描写でもありました。
そして、ここからクライマックスにかけて注目したいのは、カメラがしきりに「空」を映し出すようになることです。
彼が、孤児院で子どもたちとサッカーを楽しんだ日。
彼が、就職が決まって喜び勇んで空を見上げた日。
そして彼が、前妻からの電話で人生への希望を取り戻した日。
しきりに「空」を映し出すようになると共に、三上は社会へと復帰していくのですが、同時にこの映像の積み重ねは再び閉塞感を演出するようになります。
刑務所の独房でもなく、安アパートの一室でもなく、公衆電話のボックスでもなく、狭い教習車でもなく、彼を閉じ込めているのは「社会」そのものなのです。
(C)佐木隆三/2021「すばらしき世界」製作委員会
中盤までは狭い室内のシーンが多かったのに対し、中盤以降は野外のシーンが増えていきます。それに伴い「空」の映像が映し出されるようになることで、不思議と閉塞感だけが全編を貫いていきます。
社会復帰をし、そこに順応すればするほどに居心地の悪さも感じ取るようになる三上は再び解放を求めて「空」を見上げるようになるわけです。
「空」を見上げるあまりにも純粋過ぎた男
(C)佐木隆三/2021「すばらしき世界」製作委員会
さて、ここまで「空」を見上げるシーンが映画の後半にかけて急増するというお話をしました。
最初に彼が空を見上げたのは仕事が決まった日の夕方の帰り道だったと思いますが、そこで彼が見上げた空には「北極星」が輝いていました。
この時、三上は自分の目指すべき場所を見出し、社会復帰のために努力しようと考えていたはずです。
しかし、彼は介護職の見習いとして働き始めてから気がつき始めました。この世界には善人ぶった人間の陰湿な悪がはびこっていて、自分のような人間にはとても見過ごすことができないのだと。
そして、彼は母親という様々なことを「教えて」くれる存在に恵まれず、ヤクザの世界で暴力を武器に成り上がって来たがために、対話やコミュニケーションで何かを解決する術を持ちません。
私は三上の生きざまを見ていた時にふと伊藤計劃氏の『セカイ、蛮族、ぼく』という短編を思い出しました。
「父さんはそういってガハハと下品な笑い声をあげる。ぼくの気持ちにはおかまいなしだ—マルコマンニに生まれてきたことを心の底から嫌悪している、このぼくの心には。」
(「The Indifference Engine」収録「セカイ、蛮族、ぼく」伊藤計劃 早川書房 より引用)
この短編の主人公は「マルコマンニ」という蛮族の生まれで、彼自身は文明に順応し、理性的に生きたいと考えているのですが、彼の中に流れる血がそうさせてくれないというコンフリクトに苦しんでいます。
そして、この短編では主人公の心情がこうも綴られていました。
「セカイは、ぼくを、ぼくがそうありたいようには決してさせてくれない。」
(「The Indifference Engine」収録「セカイ、蛮族、ぼく」伊藤計劃 早川書房 より引用)
つまり、自分がこうしたいという思いがあっても、それをすることを許してくれない周囲の状況があるという苦悩が描かれているわけです。
『すばらしき世界』における三上という人間もまさしく、「そうありたいようには決してさせてくれない」という葛藤に常に悶えているように見えました。
彼の根源にあるのは、「善良な人を助けたい」「困っている人間を見捨てられない」という純粋な思いです。
しかし、母親に捨てられ、ヤクザに育てられた彼はそれを実現する術を、暴力以外知らないんですよね。
私たちには理解できないことかもしれませんが、根本的に異なる人生を歩み、異なる価値観や道徳観の中で育ってきたい彼には、私たちとは見えている世界が、感じている世界が違います。
そんな彼が、自分を通底する価値観や考え方、理想をかなぐり捨てて、私たちが普通に生きている「社会」に適応しようとするわけですから、ここで当然「生きづらさ」が生じることとなります。
だからこそ、社会復帰へと近づいていくほどに、彼の葛藤は大きくなっていくのです。
介護センターの職員たちによる、障がいを抱えた従業員に対するいじめを何とか喉元で飲み込んで見て見ぬふりをしてやり過ごした三上。
しかし、そんな彼が、コスモスの花を抱えて三上に声をかけてくれた時に、そんな思いが決壊してしまうのです。
「ここは、自分の居場所ではないのかもしれない…。」
その帰り道に彼が見上げた空は、黒い雲に徐々に覆われていき、次第に雨になりました。
この時、雲の切れ目に僅かに見えていた光が彼のこの社会における「希望」だったのだとしたら、雨が降るという形で、それは閉ざされてしまったのかもしれません。
そして、その夜三上は自室で静かに息を引き取ります。
白いコスモスの花の香りを嗅ぎながら、一体彼は何を思っていたのでしょうか。
「すばらしき世界」というタイトルに込められた意味を読み解く
(C)佐木隆三/2021「すばらしき世界」製作委員会
さて、本作のタイトルである「すばらしき世界」という言葉は、まさしく作品の最後の最後にスクリーンに表示されます。
三上の死に際してあの古いアパートに集った彼を生前に支えた者たち。
悲嘆にくれる中で、彼らは静かに青空を見上げ、そこで「すばらしき世界」というタイトルがスクリーン中央に表示されるというわけです。
なぜ、このタイミングでなくてはならなかったのかという点にも個人的にはすごく意味があると思っています。
そしてこのタイトルに込められた意味として、当ブログ管理人としては2つあるのではないかと考えました。
まず1つ目は、三上が私たちの生きている社会に向けた皮肉であり賛美としてつけられたタイトルであるという側面です。
三上は、真っ直ぐすぎるが故に社会への適応に苦しみ、もどかしさを抱えながら生活を送っていました。
介護センターで垣間見た人間の陰湿で残酷な部分は、三上からしたら許すことのできない蛮行だったと言えるのではないでしょうか。
臭い物に蓋をして、厄介事を見てみぬふりをしてやり過ごせば、平和でかつ穏便にやり過ごすことができます。
しかし、そうした人間がいる一方で、罪を犯して長い間服役していた彼を思い、コミュニケーションを取ってくれる人間が、サポートしてくれる人間がたくさんいたわけです。
見て見ぬふりをして厄介事を避ける人間と、そんな厄介事にまで真摯に向き合ってくれる人間がいる。
その両面性に触れたからこそ、三上はこの世界は「すばらしい」と皮肉と賛美交じりにそう思ったのかもしれません。
そして、もう1つ彼が死して旅立った世界は「すばらしき世界」であって欲しいという残された者たちの祈りが込められているのではないかという指摘をさせていただきますね。
先ほどまでも述べてきたように、三上は私たちのいる社会に生きづらさを感じ、最後には命を落としてしまったようにも見受けられます。
彼が命を落とす直前に嗅いでいた「白いコスモス」の花が意味するのは、「純粋」「純潔」です。
(C)佐木隆三/2021「すばらしき世界」製作委員会
そうです。彼はこの世界に生きるには、あまりにも「純粋」過ぎたのです。
彼の周囲にいた人間は、三上があまりにも愚直で、正義漢で、そして理想を実現する術を暴力しか持たない男であることを知っています。
だからこそ、暴力を封じるために、「見て見ぬふりをするしかない」「逃げるしかない」と繰り返すことしかできません。
三上がコミュニケーションや対話を通じて問題を解決できる人間であったならば、事情は変わっていたと思いますが、彼はそういうことができる人間ではありませんでした。
周囲の人間も三上の葛藤を知りながら、彼に「純粋さ」を放棄するように勧めるしかなかったわけです。
そんな彼の生きざまに触れ、死に触れ、彼らは青空を見上げながら、彼がどこかで報われて欲しい、苦しむことなく生きて欲しいと思ったのではないでしょうか。
三上が生きられる世界があるとすれば、穢れの無い、罪のない、善人が虐げられることのない「すばらしき世界」なのでしょう。
だからこそ、青空を見上げる彼らは、去り行く彼がどこかの「すばらしき世界」で受け入れられ、平穏に暮らしていくことを祈っているのだと思いました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『すばらしき世界』についてお話してきました。
同じ構図を反芻したり、同じ構図をモチーフを変えて再構築したりしながら、登場人物の置かれている状況や抱いている感情を可視化する技術に長けているのです。
とりわけ彼女が評価を高めるきっかけとなった『ゆれる』は卓越していますが、今回の『すばらしき世界』も絶賛に値する作品だと思います。
私たちとは全く違う世界で育った人間が、私たちの世界に適応しようとする苦しみを徹底的に描き、最後にはそんな彼の旅立ちにコスモスの花と共にささやかな祈りを捧げました。
「すばらしき世界」という皮肉と賛美と祈りに満ちたこのタイトルを、映画を見終えた私たちは何度も噛み締めることになるのでしょう。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。