みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『あのこは貴族』についてお話していこうと思います。
何と言っても主演の2人が門脇麦さんと水原希子さんということでこの2人が印象的に映し出されたポスターを見た瞬間に、まあこれは見に行くよね…って感じでした。
で、鑑賞するにあたって、流石にいろいろと調べていたのですが、何と原作は『ここは退屈迎えに来て』や『アズミハルコは行方不明』の山内マリコさんでした。
そして、監督を務めたのが『グッドストライプス』で知られる気鋭の女性映画監督、岨手由貴子さん。
この女性タッグが良い化学反応を生むのではないかということで、更に期待値はアップ。
さらにさらに初日に映画館で鑑賞した人からは絶賛評が続出しているというおまけつきで、もう見なければならない要素が「役満」状態でしたね。
物語としては、全く違う女性2人が出会うガールミーツガールもので、東京の上流階級の世界と地方の一般庶民の世界の両面から描かれていくものとなっています。
人と人が出会って物語を動かしていくタイプの作品が、山内マリコさんの真骨頂でもあると思いますし、それだけにかなり独特なテイストだけに、どこまで映像に落とし込めるかが肝になるでしょう。
そんな楽しみな要素だらけの映画『あのこは貴族』を早速鑑賞してきましたので、自分なりに感じたことや考えたことを書かせていただきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『あのこは貴族』
あらすじ
都会に生まれ、開業医の家系でいわゆる「箱入り娘」として育てられた姉妹の末っ子、華子。
彼女は、婚約していた相手に破談を切り出され、親戚の集まりでは「もう27歳なんだから、早く結婚を考えなさい。」と縁談を勝手に持ち込まれる始末。
親族の紹介、友人の紹介、行きつけのサロンの店員の紹介…と相手探しに奔走して、会っては幻滅する日を繰り返していた。
そんなある日、ハンサムで家柄も良い弁護士・幸一郎と食事をすることとなり、そのままトントン拍子に結婚が決まる。
一方、富山から上京し東京で働く美紀は、恋人もおらず仕事にやりがいもなく、都会にしがみつく意味を見いだせずにいた。
そんな彼女の東京での唯一の友人が、慶應大学時代に出会った幸一郎だった。2人はいわゆる「都合の良い関係」ではあったが、お互いに心のどこかで必要としている存在だった。
全く違う世界で生きてきた華子と美紀だったが、ひょんなきっかけで2人の人生が交錯する。
それぞれの世界に閉塞感を抱いていた2人は、この出会いをきっかけに徐々に自分の世界を手に入れたいと願うようになる…。
スタッフ・キャスト
- 監督:岨手由貴子
- 原作:山内マリコ
- 脚本:岨手由貴子
- 撮影:佐々木靖之
- 照明:後閑健太
- 美術:安宅紀史
- 装飾:佐藤桃子
- 衣装:大森茂雄
- 編集:堀善介
- 音楽:渡邊琢磨
『あのこは貴族』の原作を担当したのは、山内マリコさんです。
元々は『ここは退屈迎えに来て』や『アズミハルコは行方不明』のような地方の閉塞感やそこからの解放のような構図を作品に込めていた作家です。
『あのこは貴族』はそんな彼女の作品に通底する「閉塞感」のようなものを同様に内包していると同時に1つの転換を示すこととなる次作『メガネと放蕩娘』にも通じるところのある作品となっています。
監督を務めたのは、記事の冒頭でも触れましたが岨手由貴子さんです。
『グッドストライプス』でオリジナル脚本作品を映画化したということでも注目を集めた監督です。
撮影と照明には、『グッドストライプス』も担当した佐々木靖之さんと後閑健太さんが起用されています。前者は近年『PARKS』や『ジオラマボーイ パノラマガール』などの撮影も担当し注目されています。
編集には『本気のしるし』『洗骨』などの話題作を担当した堀善介さん、音楽には『美しい星』などの渡邊琢磨さんがクレジットされていますね。
- 榛原華子:門脇麦
- 時岡美紀:水原希子
- 青木幸一郎:高良健吾
- 相良逸子:石橋静河
- 平田里英:山下リオ
記事の冒頭でも書きましたが、主演の2人は門脇麦さんと水原希子さんが演じています。
2人ともかなり癖があるというか、個性派な役者さんで、だからこそこういう役をやらせると本当に抜群ですね。
特に門脇麦さんの存在感は圧倒的で、これまで出演していた作品の中でもトップクラスのハマり役に思えました。
一方で、その脇には『横道世之介』などでもお馴染みの高良健吾さんや『ばるぼら』などにも出演し、注目を集めている石橋静河さんも起用されています。
本当にトータルで見ても、良い役者がそろった映画だと思いました。
『あのこは貴族』感想・解説(ネタバレあり)
映像のディテールへの執念とも言えるこだわり
さて、今作『あのこは貴族』が映画として素晴らしいのは、その映像のディテールの作り込みでしょう。
この映画は、映像の中に自然と上流階級と一般庶民、東京と地方という対比構造を忍ばせており、その上でそこに言及せず、ただ映像で淡々と観客にそれを現前させます。
華子や幸一郎の世界における食事シーンでは、基本的にテーブルでの食事もしくは御膳がきっちりと一人前用意された座敷での食事が主です。
(C)山内マリコ/集英社・「あのこは貴族」製作委員会
一方で、美紀の実家での食事のシーンはと言うと、和室に座敷机がドカンと置かれていて、そこで全員が胡坐をかいてラフに食卓を囲みます。
もちろん一人前の御膳がセッティングされているなんてことはありませんから、大皿から自分の食べたい分だけを取って食べるというシステムですよね。
私たち庶民からすると、後者の食事のシーンの方が、どうしても馴染みがあって、逆に前者は堅苦しいというか、「あんな状況で飯食って味するんけ?」と思ってしまいます。
また、食事や軽食の場での会話もすごく丁寧に構築されていますよね。
例えば、冒頭の高級な料亭での会食シーンですが、主人公の親戚一同はやたらと身内の話が外部の人間に聞かれるのを嫌っている様で、給仕の人間が入って来ると、咳払いをして知らせたり、妙な沈黙が流れたりします。
私なんかは、「どうせ聞かれても大した話やないんやから!」と会話を続けてしまうタイプの人間ですが、やっぱり上の階級の人間としては身内の醜聞が外部に漏れるのは世間体的に…という自負があるのでしょうか。
他にも、大学時代の美紀が東京の友人とアフタヌーンティーに行った時の会話の描写も普通に話しているだけなのに、そこに「見えない壁」のようなものの存在を感じさせるものでした。
彼らが話しているのは、大学生なら誰でもしている所謂「この間食べたあれ美味しかった!トーク」なのですが、そこでピックアップされる内容がハイレベルすぎました。
この手の格差や見えない壁のようなものを物語の中で扱う作品は多くありますが、今作『あのこは貴族』は、それを観客に端的に伝えようというよりは、空気感の中に観客を巻き込むことで、追体験させてくるのです。
自分は映画館にいて、ただ映画を見ているだけなのに、華子が置かれているヒリつくような身の置き所の無さや緊張感がスクリーンを超えて観客のところまで届くんですよ。
「お前らは主食がアフタヌーンティーなんか!」ってくらいに、アフタヌーンティーにばかり行く上流階級の女性たち、格下の「都合の良い女性」と会う時は、決まってその辺の中華料理屋をセッティングする男。
それを言葉にはせず、ただそこに現前させ、淡々と積み重ねる。
その積み重ねが、やがて「空気」を作り、私たちはその渦の中に巻き込まれていきます。
しかし、そうした「空気」というものは壊れやすく、敏感なものです。
言わばちょっとした違和感を観客が抱くだけでも、簡単に崩れてしまいますし、一度違和感を抱けばそこから引き戻すことは難しくなるでしょう。
だからこそ『あのこは貴族』は、並々ならぬディテールへのこだわりによって、観客がそうした違和感を抱き得る隙を徹底的に排除しています。
東京から田舎の実家に戻った美紀は縦書きで漢字が書かれた日本酒の箱の前に置かれる、英語が横文字であしらわれたお土産の紙袋。
そして最寄りの駅のトランクを抱えなければ改札に辿り着けない階段。
喫茶店で物が落ちた時、声を上げることもなく、自分の手で取ることもなく、さっと手を挙げる華子。
集合場所が大衆居酒屋ではなく、隣のおしゃれなイタリアンだと勘違いする一幕。
映画の出来栄えは、ディテールに宿るのだと改めて思い知らされる恐ろしい映画だと思いました。
1度見ただけでも、小さな発見の連続でしたし、きっと2度、3度と見返すごとにそのディテールに感動させられ、新たな発見がある映画なんでしょうね。
性別、世代、階級を巡る「見えない壁」
そして、この映画が描いているのは、単なる経済的な格差や日本の社会に残存する階級の壁だけではないことは言っておかなくてはなりません。
むしろこの映画の中で描かれているのは、親と子の世代の物語であり、同時に女性の物語でもあります。
本作『あのこは貴族』は、自宅でもそして職場などの社会的な空間においても、「見えない壁」に阻まれ、断絶される女性の姿を描いてきました。
例えば、華子は幸一郎と結婚をしたわけですが、彼の仕事のことについては何一つ話してもらえず、そこに割り込むことはできません。
印象的だったのは、祖父の葬儀のシーンで、幸一郎は写真を撮影した後に、突然親戚の1人に呼ばれ、扉を開けて外へと出て行き、華子のいないところで仕事の話をしています。
(C)山内マリコ/集英社・「あのこは貴族」製作委員会
彼女と幸一郎は扉に隔てられ、それは華子にとって「壁」のように感じられると言っても過言ではないでしょう。
こうした描写の中には、女性が男性優位な社会から切り離され、家という閉鎖的な空間に閉じ込められていく様が映し出されています。
一方で、家族の中で見ても、女性というものは何気ない会話の中で無意識に虐げられている者描かれていました。
美紀は実家に帰ると、食卓の何気ない会話の中で、父親から「女なんだから料理くらい…」と小言を言われています。かつて自分が失業したせいで美紀は大学を辞めざるを得なかったにも関わらずです。
華子も、青木家の親戚から、しきりに跡継ぎの話をされ、夫の多忙が原因にも関わらず、彼女の側に問題があると勝手に断定され、不妊治療を勧められる始末です。
女性たちが社会と切り離され、家族の中で当たり前のように子どもを産む家政婦のような役割を課されていく中で、感じる「見えない壁」を今作は実に残酷に描き出していたと思います。
劇中で逸子が言っていましたが、「女性が自ら女性同士の対立構造を再生産してしまう」という構造が現に青木家なんかでは起きているわけですよ。
世代を超えて、しかも男性ではなく女性が自分たちの置かれてきた息苦しさを次の世代に再生産していくという何とも残酷な構造がこの映画には込められています。
しかし、この映画はそんな女性たちが自分たちの意志でそうした「壁」を突き破り、外へと飛び出していくような物語になっていました。
誰にも指示されず、あなたの意志で笑って
山内マリコさんは映画化もされた『ここは退屈迎えに来て』に代表されるように、自身が生まれ育った地方ないし田舎と都市を対比し、その閉塞感を強く感じさせるような内容を描いてきました。
本作における美紀というキャラクターは、実に彼女の作品らしいキャラクターですし、田舎から「壁」を突き破ろうと東京に出てきて、結局「壁」を突き破ることは叶わず、東京という都市に搾取される側になってしまった人間です。
一方で、華子というキャラクターは経済的に裕福ですが、結婚していないという理由で家に居づらく、結婚しても結局は夫の飾りにしかなれず、妻という役割に縛りつけられ、子どもを産むこと以外は何も期待されていないある種の「ひな人形」です。
美紀は上流階級の世界に行ければ、自分の感じている閉塞感は打破されるのではないかと思っていて、華子は結婚さえすれば自分の閉塞感は消えるのだと思っていました。
しかし、そうして2人が辿り着いた世界は、やっぱり同じように閉塞感に満ちた世界でした。
美紀は自分の役割を「男性を喜ばせるためのサーキュレーター」だと自嘲し、華子は自分が夫に何も期待されていないことを嘆きます。
結局、今自分がいる場所を脱したとしても、次の場所には新たな閉塞感が待ち受けているだけで、人はどうやってもそこから逃れることは叶わないのだというある種の諦念のようなものをこの作品から、そして山内マリコさんの作品群からは感じますよね。
それでも華子や美紀は、自分の意志で今いる自分の世界から飛び出そうと決断します。
印象的だったのは、2人が美紀のアパートの一室で会話をしているシーンです。
つまり、部屋の奥のソファーに華子が座っていて、手前のダイニングテーブルのところに美紀が座っているという配置です。
しかし、会話を続けていくうちに2人は、ベランダを出て、その柵に手をかけて同じレーンで会話をするに至ります。
2人の間にある、見えない「壁」がコミュニケーションを通じて、静かに壊れていくプロセスを映像と人物の動線で表現した実に美しいシーンです。
また、この時華子が美紀の部屋についてこんな言葉で賞賛するのが印象的でした。
「ここにあるものは、全部美紀さんのものだから。」
美紀は東京に来て、大学に行きながら自分の物語を始めるはずでしたが、それは叶わず結果的に幸一郎に従属する存在を強いられていました。
一方で、華子も東京にいながらずっと閉じた世界に暮らしてきて、結局のところ家系が裕福なだけで自分では何一つ成し遂げず、結婚しても友人を家に呼ぶだけで夫の許可が必要な状況です。
彼女たちは東京という魔物の中で、自分の主導権を見えざる何かに絡めとられていました。
だからこそ、2人は物語の果てに人生の主導権を取り戻そうと、大きな決断を下します。
その決断は、安定した生活や周囲の人からの信頼、これまで生きてきた人生を失う「痛み」を伴う決断です。
それでも、華子と美紀は躊躇うことはありません。
『あのこは貴族』という映画において、最も重要なモチーフは「写真」だと私は思いました。
美紀は大学の入学式で、華子は家族での会食や結婚式の折に写真を撮られていて、2人とも笑顔で映り込んでいます。
(C)山内マリコ/集英社・「あのこは貴族」製作委員会
しかし、2人は他人から促されて笑っているに過ぎません。言わばTPOに応じた服装をするかのように、笑顔を自分の顔に貼り付ける作業をしているだけに過ぎないのです。
そんな2人の変化がクライマックスでは演出されています。
美紀は起業した友人にカメラを向けられ、促されることもなく、心からの笑顔を見せます。
(C)山内マリコ/集英社・「あのこは貴族」製作委員会
そして、本作のラストカットにもなっている笑顔の華子の姿は、冒頭の会食での撮影シーンと対になっていました。
必要に迫られて、他人に要求されて笑顔を見せていた彼女はもういません。
そして、そこにもう「フレーム」という彼女を閉じ込めるものも存在しません。
自分の意志で、そして今置かれている場所を心から楽しんで、自らの心の奥底からこみ上げてくる感情を「笑顔」という形で表現して見せます。
誰かに強いられたわけでもない、状況に求められたでもない、自分のありのままの感情を表現するための「笑顔」。
女性は「ひな人形」でも「サーキュレーター」でもない。
自分が笑いたいから笑う。ただそれだけを望んでいるのに、なぜ、誰かに、何かに迫られて笑うことを選択しなければならないのか?
そんな「笑顔」を取り戻すと言うところに、女性の主体性の奪還の物語のゴールを置いたところに、感動しました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『あのこは貴族』についてお話してきました。
やっぱり映像にこだわって作られた映画ってグッときますよね。
山内マリコさんの小説の映像化はこれが3度目になります。
『アズミハルコは行方不明』は松居大悟監督というこちらも癖の強いクリエイターが自分の土俵に持ち込んで上手くやったという印象で、『ここは退屈迎えに来て』は原作のパワーに映画が力負けしたという印象でした。
一方で、今回の『あのこは貴族』は正統な山内マリコさんの小説の映像化だと感じましたし、すごく題材に真摯に作られていると思いました。
そういう意味では、山内マリコ原作の映画の中では、最もよく出来た映画と言えるでしょう。
公開規模がそれほど大きな作品ではないのですが、ぜひとも多くの人にご覧になっていただきたい1本です。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。