みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ラーヤと龍の王国』についてお話していこうと思います。
『アナと雪の女王』『モアナと伝説の海』といった系譜のディズニープリンセス映画ではあるのですが、やはりコロナ禍で十分な宣伝ができていないこともあり、そもそも作品が公開されるということが知られていないような印象があります。
というより当ブログ管理人も、本当に公開直前まで完全にノーマークでして、鑑賞予定にすら入れていませんでした。
比較的映画が好きな人間でもこのレベルですから、年間に映画館に1,2回いくくらいの層には、全然リーチできていないんじゃないかな?なんて思います。
そして、今回の『ラーヤと龍の王国』は、映画館での公開とディズニープラスでの配信が同時に解禁という少し新しい試みになっていますね。
ちなみに映画館だと一般料金「1900円」で鑑賞できますが、ディズニープラスでプレミアムアクセス権を購入すると、「3240円」かかります。
ですので、1人で鑑賞したいという方は、映画館で見た方がお得ですね。家族でご覧になられる方は、ディズニープラスで鑑賞も「アリ」だと思います!
当ブログ管理人は、こういったブログを書いている都合もあり、何度も作品を鑑賞できる方がありがたいので、ディズニープラスでの鑑賞を選びました。
年末の『ソウルフルワールド』は映像と音響の魔法みたいな映画でしたし、映画館で見られず、少し悔しい思いもありました。
今回は配信で鑑賞して、もし映画館で見たければ、それも可能ということで選択肢が広がっているのは素晴らしいです。
前置きが長くなりましたが、今回はそんな映画『ラーヤと龍の王国』についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ラーヤと龍の王国』
あらすじ
世界は、かつて聖なる龍たちに守られていた。
ある日、人びとが平和に暮らす世界に邪悪な悪魔ドルーンが現れ、次々に生き物を石に変えていった。
龍たちは自らを犠牲にして、「龍の石」を作り出し、その力を使ったシスーが最終的に王国を守った。
しかし、残された人びとは圧倒的な力を有する「龍の力」を前に、争い合い、次第に信じる心を失っていく。
そして、ついにハートの国に保管された「龍の石」を巡って、他の4つの国同士の争いがおき、その過程で石が5つに割れてしまう。
その刹那、ふたたび魔物ドル―ンが復活し、人々を次々に石へと変えていく。
王国の主たちは割れた「龍の石」のかけらを持ち去り、それぞれの国に立て籠もり、人々は対立し、お互いを疑い合いながら生きることとなる。
聖なる龍の力が宿るという「龍の石」の守護者一族の娘ラーヤは、世界に平和を取り戻すため、散らばった「龍の石」の欠片を集める旅に出る。
彼女は幼少の頃に手に入れた地図を頼りに、とある廃船を見つけ、そこでかつて世界を救った龍であるシスーと出会うのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:ドン・ホール/カルロス・ロペス・エストラーダ
- 脚本:クイ・グエン/アデル・リム
- 編集:ファビエンヌ・ロウリー/シャノン・ステイン
- 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
- 主題歌:ジェネイ・アイコ“Lead The Way“
本作の監督を務めたのは、まずアカデミー長編アニメーション賞を受賞したディズニーアニメ「ベイマックス」のドン・ホールですね。
そして、もう1人、実写映画「ブラインドスポッティング」のカルロス・ロペス・エストラーダも名を連ねています。
アニメーションでアクションを描く技術が優れている前者と人種差別への視座が特徴的な後者がタッグを組むことで、強いメッセージ性を持ちながらも、アクション性の高い本作が生まれたのだと思います。
脚本には、テレビアニメシリーズで活躍してきたクイ・グエンと、『クレイジーリッチ』などの作品で注目されたアデル・リムが起用されていますね。
編集には、『ズートピア』などでもお馴染みのファビエンヌ・ロウリーとシャノン・ステインのコンビがクレジットされました。
劇伴音楽を『ファンタスティックビースト』シリーズなどで知られるジェームズ・ニュートン・ハワードが提供しており、主題歌はジェネイ・アイコが歌う“Lead The Way”です。
ポップスですが、どこか民俗音楽のような趣のある、独特の楽曲となっていますので、こちらもぜひチェックしてみてくださいね。
- ラーヤ:ケリー・マリー・トラン
- シスー:オークワフィナ
- ナマーリ:ジェンマ・チャン
- ベンジャ:ダニエル・デイ・キム
- ヴィラーナ:サンドラ・オー
- トング:ベネディクト・ウォン
『スターウォーズ』のシークエルトリロジーでローズ役を演じ、一時は世界中から酷いバッシングに晒されていたケリー・マリー・トランです。
ローズというキャラクターが良くなかっただけで、彼女自身への差別的な中傷に繋がっていったのは、本当にあってはならないことだと思います。
今作での彼女のラーヤの演技は非常に素晴らしかったですし、すごく引き込まれるものがありました。
一方で、ソウル歌手のような独特のハスキーボイスの龍シスーを名女優オークワフィナが演じています。
彼女は『オーシャンズ8』や『フェアウェル』などで評価を高め、第77回ゴールデングローブ賞主演女優賞も受賞していますね。
そんな2人がメインキャラクターを演じているという点も要注目です。
また、その他のキャストにもジェンマ・チャンやベネディクト・ウォンらが起用されており、非常に豪華な顔ぶれとなっております。
『ラーヤと龍の王国』感想・解説(ネタバレあり)
ちぐはぐで、でも温かい「家族」の冒険
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さて、この『ラーヤと龍の王国』という作品は、「少年漫画」のような趣があります。
ありったけの~♪
ゆ~めをかき集め~♪
探しも~の、さ~がし~にいくのさ~♪
〇ンピース!!
というメロディがふとよぎるような内容で、冒険をしながら、仲間と出会い、そして信頼を深めていき、荒廃した世界を救おうとするという物語なのです。
まず、主人公のラーヤのパートナーがアルマジロ的な生き物で、名前が「トゥクトゥク」なんですよね。
この名前を聞いた時に、いや小さくてかわいい生き物に、そんなタイの観光で役に立つ乗り物みたいな名前をつけるなよ!と思わずツッコミそうになりました。
ただ、この「トゥクトゥク」ですが、大きくなると、ちゃんと乗り物として活躍するんですよね。
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あのひっくり返ったら、自分で元に戻れなくなる感じも可愛くて、最高の冒険のパートナーだと思います。
そんな主人公のラーヤの7つのドラゴンボ…ではなく、5つの「龍の石」の欠片を探す物語の醍醐味は、やはり何と言っても「仲間集め」ではないでしょうか。
日本の童話『桃太郎』でも、鬼を倒すために、きびだんごで犬、猿、きじを仲間にして、鬼が島へと向かうという展開がありますが、本作の『ラーヤと龍の王国』の中盤でもそうした「仲間集め」の展開があります。
まず、主人公が出会うのは、自分に自信が持てない龍のシスーですね。
明るく活発な性格ですが、石と化してしまった、兄弟姉妹の龍たちと比べても自分には何もなく、泳ぎくらいしか取り柄がないと、どこかで自分を卑下しているようなところがありました。
ラーヤはテール国で、家族が石になってしまい、1人ぼっちの少年ブーンと出会い、その後もタロン国で両親が石化してしまい、オンギたちと窃盗をして暮らしている赤ん坊のノイに出会います。
さらには、スパイン国でドルーンとの戦いの中で、自分だけが取り残されてしまった戦士のトングにも出会いました。
彼らの共通点は、ドルーンによって自分たちの家族を奪われているという点ですね。主人公のラーヤもドルーンによって父親を石にされてしまいました。
このように実の家族を奪われ、世界の片隅で孤独に生きる人間たちをラーヤが旅の中で仲間にしていき、そうして身を寄せあった彼らが旅の中で本当の家族のようになっていくという光景が温かく描かれているのです。
バックグラウンドも、生きてきた人生も、抱えている思いも、年齢も、人種も、種族も。
多様な人が集まるということは、料理におけるスパイスの感覚に似ているのかもしれません。
劇中で、ブーンが作っているテール国の料理にトング「辛い!」とコメントしているシーンがあり、そこにラーヤがハートの国のスパイスを加えていました。
それはテール国に閉じこもって、他の国の人との交流を断っている状態では決して生まれることの無かった「味」です。
多様な人々が寄り添って生きていくということは、そういった自分たちの世界だけで生きていくだけでは、出会うことのできない「味」に出会うということなのかもしれません。
そういう意味でも、本作でラーヤたちが築いた不思議で、どこかちぐはぐで、でも温かい関係性には、彼らにしか出せない「味」があったように思います。
何もかもが異なる一見すると「ちぐはぐな」彼らが、冒険の家庭で繋がりを強めていく、プロセスには思わず胸が熱くなります。
そして、物語の終盤には、ラーヤにとっても因縁の敵であるナマーリに直面し、最終的には彼女をも「家族」の輪の中に取り込みました。
個人的にグッときたのは、ドルーンを倒す切り札としての「龍の石」を蘇らせるために、ラーヤたちがナマーリに自分の持っている欠片を託していく場面ですね。
彼らが別々の国に出自を持つという事実が、ミニマルに5つの国の協働を表現しているのも素晴らしいのですが、石を手渡した後、彼らが石になる時に誰かと寄りそうんですよ。
1人きりで孤独にドルーンに飲み込まれるのではなくて、「家族」と寄り添って立ち向かおうとする光景に思わず涙が出ました。
もう1人じゃない。私たちは「家族」なんだ。1つなんだ。
理想を現実に、神話を人の物語へ
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さて、この『ラーヤと龍の王国』という物語において、個人的に注目したのが本作における「神話」の位置づけなんですよ。
通常、私たちの世界でもそうですが「神話」の類は、私たち人間の世界を超越した世界にあって、現実とは切りはなされたある種の「フィクション」ですよね。
本作『ラーヤと龍の王国』の世界においても、「シスーを初めとする龍たち」が世界を救ったという話は「神話」として語り継がれています。
龍たちが力を合わせて、この世界を救ったという「神話」が存在していて、人々はそれを大切に思っているのですが、その一方で現実世界では、いかにして「龍の石」を手中に収めるかを巡って争いが起きていますね。
このような形で、神話というものが「理想」として存在しつつも、人々はそれを「現実」にする勇気を持たないと言うのが、この『ラーヤと龍の王国』という作品における前提なのです。
そうした人間側が「理想」や「神話」を信じない様は、主人公のラーヤの行動の節々にも表れていました。
龍のシスーはとにかくどんな時でも、まずは相手を信頼し、贈り物を贈るところから関係をスタートさせようと試みます。
しかし、一方のラーヤは、そうしたシスーの真っ直ぐすぎる行動をけん制していて、まずは相手を疑うことから始めるように諭していました。
この2人の態度のギャップこそが、まさしく理想と現実のギャップの具現化なんですよね。
ラーヤもシスーが掲げるような「理想」を体現出来たら良いと心の中では分かっているのですが、分かっているのですが、それを「現実」にする勇気が持てません。
だからこそ、ラーヤはシスーを信じてあげることができず、偶発的とは言え、シスーの命を奪う結果を生んでしまいます。
そうして、世界は完全に崩壊する方向へと突き進んでいくのですが、ここでラーヤたちはようやく手を取り合い、「理想」を取り戻す道を選択します。
終盤のラーヤたちがナマーリに石の欠片を渡していくシーンは本作を象徴するものと言えますが、これって言うまでもなくシスーたち龍が世界を救った時の「神話」の再現なんですよね。
つまり、「理想」でしかないと切り離して、憧憬の眼差しで見つめることしかできなかった「神話」をラーヤたちは人間たちの手で再構築して見せるわけです。
「理想」を「現実」に変える。神話を人間の物語へと落とし込む。
そうしたコンテクストを可視化することによって、本作は綺麗ごとかもしれませんが「お互いに信じあう」という理想を現実に変えることに成功しました。
こういった物語の構図の作り方と、その展開のさせ方の巧さに驚かされましたね。
ただ、この物語にはもう1つ大切なメッセージが込められています。
まずは自分が「最初の1歩」を踏み出す勇気を
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この『ラーヤと龍の王国』という作品を通底していたのは、相手と歩み寄るための「最初の1歩」自分が踏み出せるか?という問いだったのだと思います。
かつて、ラーヤはその一歩をナマーリに対して勇気をもって踏み出したのですが、その勇気を踏みにじられ、他人を信頼することができなくなってしまいました。
だからこそ、彼女は食べ物を勧められると「毒」を疑い、道を歩いていても「罠」を警戒し、街を歩いていると「スリ」を警戒する始末でした。
つまり、他人はいつだって自分に危害を加えようとしてくる者なのだという、過去のトラウマからくる自己防衛のための鎧のようなものを身に纏っているのです。
それ故に、何の疑いもなしに「最初の1歩」を踏み出そうとするシスーに対して、ラーヤはけん制するような言葉をかけています。
加えて、勇気をもって「最初の1歩」を踏み出そうとしたシスーを妨害してしまい、偶発的とは言え、その命を奪ってしまうのです。
「マタイによる福音書」にはこんな一節があります。
「あなたがたも聞いているとおり『目には目を,歯には歯を』と命じられている。しかし,わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら,左の頬をも向けなさい。」
(マタイによる福音書 5章38節~39節)
でも、私はこれを読むたびに思うんですよ。右の頬を打たれているのに、それに対する怒りや屈辱をこらえて、左の頬を差し出せるだろうか?と。
普通の人間であれば、「やられたらやり返す、100倍返しだぁ!!!」と叫びそうなところですよね。
しかし、「マタイによる福音書」におけるイエスは、相手に攻撃されたり、裏切られても、それでも自分は攻撃をしない、やり返さないという意志を示すべきだと言っているのです。
『ラーヤと龍の王国』という作品の根底には、まさしくこの教えが通底しています。
だからこそ、ラーヤは物語のクライマックスで、因縁の相手であるナマーリに自らの持っている石の欠片を差し出すという「最初の一歩」を踏み出します。
そんな彼女の行動により、堰が切れたかのようにして、他の面々もナマーリに石の欠片を託していきました。
自分が損をするかもしれない、相手に裏切られるかもしれないと思いつつも、それでも相手を信じようとする勇気はなかなかでないものです。
だからこそ、私たちは、ラーヤの取る少し過剰とも言える他人を疑ってかかる行為の数々に共感できる部分も多いんですよね。
しかし、それでは変えられ
そういう状況ないことがやっぱりあります。に直面したときに、誰も「最初の1歩」を踏み出せずに終わってしまうのか、それとも誰かが「最初の1歩」を踏み出して、状況を打開するのか。
ディズニーが作り出した本作には、子供たちにその1歩を踏み出せる人になって欲しいという願いが込められています。
石の欠片を手渡されたナマーリは当初それをもって逃げようとしましたよね。
ここの演出が見事だったと思うのは、意志を携えた彼女が見上げると、僅かに岩に亀裂ができていて、そこから光が差し込んでいるという構図を作り出した点です。
つまり、ここでナマーリにとっては、逃げ出す方がイージーで希望に満ちた選択だと思わせているわけですよ。
それでも、ナマーリはその「光」を追うことを選ばずに、今いる場所で仲間からの信頼に応えようと決意します。
きっと、彼女が逃げるという選択をしなかったのも、ラーヤの踏み出した1歩と同じくらい勇気が求められる行動だったのです。
こうして、踏み出した「1歩」によって、世界のカタチは大きく変わり、これまでには見えなかった景色が広がっていきます。
綺麗ごとかもしれない。理想かもしれない。
それでもフィクションは「綺麗ごと」を描き続けなければならない。
この作品を見た子どもたちにその思いが届くことを信じて。
そんなディズニーの物語に対する強い思いが込められた一作になったと言えるのではないでしょうか。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ラーヤと龍の王国』についてお話してきました。
『2分の1の魔法』もそうでしたが、近年のディズニーは地味なんですが、すごく丁寧に作られたアニメ映画を作ってくれている印象を受けます。
また、記事の中では触れませんでしたが、今作は一段と映像表現が進化していたと思いました。
特に印象的だったのは、女性の「濡れた髪」の表現ですかね。
『モアナと伝説の海』の時にもありましたが、今回のラーヤの濡れた髪の表現は、何と言うか「艶のある」という表現がぴったりな美しさでした。
ぜひ、こうしたアニメーション面の素晴らしさも含めて、ご覧になっていただきたい1本です。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。