みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ミナリ』についてお話していこうと思います。
先日アカデミー賞のラインナップが発表され、本作も作品賞を含む6部門にノミネートされるという快挙を成し遂げていますね。
評価が高いか低いかで言えば、割と高い方に入ると思いますし、映像の作り込みは本当に素晴らしくて、ずっと見ていたい気持ちになりました。
しかし、今作の「家族」というものに対する視座や描き方が、個人的に全く合わず、そこで微妙な気持ちになってしまったというのが本音です。
なぜ、合わなかったのかを考えてみましたが、この映画が端的に言うと「アメリカに移住してきた韓国人」が「アメリカ的な価値観と信仰」に飲み込まれて、迎合するような内容だったからなのかなと思います。
それもあって、映画を見終わった直後に「あ~アメリカでは受けそうだな…。」とストレートに思ってしまいましたし、アカデミー賞レースで高く評価されるのも合点がいきました。
脚本賞にもノミネートされているので、こうした主題性・物語性が受けているのは間違いないでしょう。
先ほども書いたように本作は1980年のアメリカで、厳しい自然の中で生きる日々、自分の大切な記憶の断片を愛おしく振り返るような温かな視座で描いていて、それが映像の色や温度にも投影されています。
こうした映像面の良さと物語の癖の強さが自分の中で喧嘩をして、何とも言えない気持ちになってしまったというわけです。
今回の記事では、本作の良さももちろんお話しつつ、「アメリカで受ける」その背景や、個人的には会わなかった理由などについても解説させていただきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ミナリ』
あらすじ
家族と共にアーカンソー州の高原へと夢を抱いて移住して来た韓国系移民ジェイコブ。
彼の夢は、広大な土地に自分の農場を構え、ひよこの選別の仕事から抜け出し、アメリカンドリームを実現することでした。
しかし、夢に胸を膨らませるジェイコブとは対照的に、妻のモニカは荒れた土地とこれから住むこととなるボロボロのトレーラーハウスに不安を抱きます。
新天地での仕事や暮らし、そして長女アンと心臓を患う弟のデビッドのことを巡り、口論をすることも増えてきた2人。
何とか、モニカも仕事を始め、ジェイコブも農地の開拓を始めた頃、破天荒な祖母スンジャが彼らの家にやって来ます。
弟のデビッドは特に祖母を嫌がり、最初は距離があったものの、次第に強い絆で結ばれていくこととなりました。
しかし、農業は上手く行かず、祖母も体調を崩し、金銭的にも苦しくなるなど、次第に彼らの暮らしは厳しいものとなっていきます。
そして、ジェイコブ一家を揺るがす、ある事件が起きるのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:リー・アイザック・チョン
- 脚本:リー・アイザック・チョン
- 撮影:ラクラン・ミルン
- 編集:ハリー・ユーン
- 音楽:エミール・モッセリ
もともとハリウッド版の『君の名は。』は『500日のサマー』のマーク・ウェブが監督に抜擢されていましたが、降板し、リー・アイザック・チョンに変わりました。
また、この『ミナリ』という作品は、彼の自伝映画的な側面も強いと言われています。
というのも、リー・アイザック・チョン自身が米コロラド州デンバーに韓国系移民2世として生まれ、アーカンソーの田舎の小規模農場で育ったという過去を持っているのです。
そう思うと、作中の弟デビッドのモデルが監督自身なのかな?なんて思いました。
ちなみにクリエイターとしては、低予算の長編監督デビュー作「Munyurangabo」が2007年にカンヌ国際映画祭で絶賛を浴び、一躍注目されることとなりました。
そこから徐々にキャリアを積んで来て、今作『ミナリ』で大ブレイクという流れですね。
ちなみに『ミナリ』はサンダンス映画祭で観客賞とグランプリを受賞し、ゴールデングローブ賞外国語映画賞にもノミネートされ、アカデミー賞にも6部門ノミネートされています。
撮影には『リトルモンスターズ』のラクラン・ミルン、編集には『デトロイト』のハリー・ユーンが起用されています。
そして、アカデミー賞作曲賞にもノミネートされている素晴らしい劇伴を手掛けたのはエミール・モッセリです。劇伴は本当にノスタルジックで温かい旋律が心地よかったので、ぜひ劇場で聴いて欲しいですね。
- ジェイコブ:スティーブン・ユァン
- モニカ:ハン・イェリ
- デビッド:アラン・キム
- アン:ノエル・ケイト・チョー
- 祖母:ユン・ヨジョン
今作は何と言ってもモニカ役のハン・イェリが素晴らしかったと思います。
夫を支える妻という役割を脱し、徐々に自分が生活を支えるための柱にならなければと決意し、成長していく様を見事に演じておられました。
一方で、デビッドやアンを演じた子役の2人も絶妙で、特にデビッドのあの「悪ガキ」感を嫌見なく演じてくれたアラン・キムは際立っていたと思います。
そして、アカデミー賞助演女優賞でも高く評価され、ノミネートに至ったユン・ヨジョンの存在感ですよね。
特に脳卒中で、言葉や動きがぎこちなくなってからの演技は圧巻で、前半とのギャップも相まって引き込まれましたね。
『ミナリ』解説・考察(ネタバレあり)
家族における女性の物語としての面白さ
©2020 A24 DISTRIBUTION
まず、『ミナリ』の物語の部分で個人的に好きだったのが、家族の構成員としての女性の役割の変化を描き出した点です。
1980年代のアメリカを描いているということもあり、家族の中での女性の役割は、「母」としてというのがまだまだ強かったと思われます。
『ミナリ』の本編最初のシーンは、ジェイコブ一家がアーカンソー州の高原にあるトレーラーハウスへと引っ越す一幕です。
この時、前を走るトラックにはジェイコブが乗っていて、その後ろからついていく車をキョロキョロと辺りを不安そうに見回しながら運転しているのが妻のモニカでした。
後に彼女は「約束が違う」と発言し、何も知らないままに、夫に言われるがままこの地への移住をさせられているという状況が見えてくるのですが、ここで明示されているのは、あの一家における主導権がジェイコブにあるという事実です。
その他のシーンでも、ヒヨコの選別の仕事で、ジェイコブの方が圧倒的に速くできたり、2人が同じフレームに収まるときは決まってジェイコブが手前にいて、彼に映像のピントが合っていたり、という形で彼の家族における主導権の在り処は何度も強調されています。
しかし、物語が終盤に近づくにつれて、そうした状況が変化していくのがこの作品の面白いところです。
モニカは、農場が上手く行かず稼ぎの乏しい夫に代わって、自分が家族を食べさせていくと決意し、ヒヨコの選別の作業もいつしか夫よりも速くこなせるようになっていきます。
また、終盤の病院に行くシーンで明確に使われた演出ですが、ジェイコブが画面の手前、モニカが奥に腰掛けていて、最初はジェイコブに合っていたピントが突然モニカの方へと移され、手前のジェイコブがぼやけるようになっていました。
さらに、それからしばらくするとカメラの位置が反転し、画面の手前にモニカ、奥にジェイコブという位置関係に変化するようなカメラワークが使われています。
これはまさしく映像の「ピント」を「家族の中心」に準え、それを誰に当てるかによって、その時家族の主導権を誰が握っているのか?を表現しようとした演出なのだと思いました。
このように、家族の中で夫を支える立場にいて、自分の身の振り方を決められない立場にいたモニカが徐々にその役割から脱し、自立した女性になっていくというプロセスと物語と映像演出をリンクさせながら描きだしたのが『ミナリ』の1つの魅力なのです。
韓国とアメリカ。セリ。「水」が合うということ。
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さて、今作『ミナリ』の中でぜひとも注目していただきたいのが「水」のモチーフです。
この作品には本当に多くの場面で「水」が登場しています。
- 農作物を育てていくための地下水
- ライフラインである水道水
- セリを植えた場所の清らかな水
- 子どもたちが飲んでいた炭酸飲料
- 祖母が用意した韓国式の薬湯
- デビッドと祖母のおしっこ
- ダウジングおじさんと水脈
そこには日本語で言うところの「水が合う」という言葉が関係しているような気がしました。
まず、農場に関わる水にスポットを当ててみますと、主人公のジェイコブは自分の力で住み脈を掘り当てることに並々ならぬこだわりを持っています。
彼はダウジングで水を探し出すアメリカ人に頼りたくない、お金を払いたくないという素振りを見せ、同時にライフラインの水道水に頼ることも当初は拒んでいました。
つまり、自分の力で掘り当てた水で農場をやりくりするのだという強い意志を持っているのです。
でも、それこそが彼のアイデンティティであり、彼が「アメリカの水に馴染みなくない」と考えていることの証左でもあります。
これは彼が友人のポールにアメリカの野菜を育てることを推奨されながらも、韓国野菜を育てることにこだわり、韓国人コミュニティ向けの販売を計画していたことからも明らかです。
一方で面白いのは、息子のデビッドの描写ですよね。
彼は、アメリカ的な炭酸飲料を好んでよく飲んでおり、しかも韓国語よりも英語を使うケースが多いのが特徴的です。
そんな彼のところに、強く「韓国の匂い」を漂わせる祖母がやって来るのですが、当初は強く拒絶していましたよね。
その象徴足るのが祖母の作る韓国式の薬湯で、彼はその薬湯の代わりにアメリカ的な炭酸飲料を飲んだり、それを自分のおしっこと入れ替えて祖母に飲ませるなんていたずらをしたりしていました。
こう考えてみると、デビッドは父親のジェイコブとは違って、韓国というよりはアメリカの方に自分のルーツやアイデンティティを見出しているのだと思います。
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このように「水」のモチーフが、ジェイコブとその息子であるデビッドのアイデンティティやルーツに対する意識を表現するモチーフとして機能しているのは非常に面白いですよね。
そして、2人に変化をもたらすのも、実は「水」でした。
そのカギになったのが、タイトルにもなっている「ミナリ=セリ」です。
ジェイコブは当初、祖母が「ミナリを森の水が清いところに植える」という話をした時に、興味を示そうとしませんでした。
しかし、ラストシーンで祖母の作ったセリ畑を見た時に、彼は自分を「ミナリ」に重ねたんだと思います。
アメリカの大地に自分の力で見つけ出したわけではないけれど、そこにあった「水」。その上に繁茂する韓国にルーツを持つ野菜ミナリ。
頑なにアメリカという国の「水」に迎合しようとしなかったジェイコブにとっては青天の霹靂だったのかもしれません。
自分たちは「韓国」にルーツを持つのだから、そのアイデンティティを失わないためにも、アメリカ人には頼ってはならない。自分の力で手に入れたものにしか頼ってはいけない。
そういう考え方が静かに崩れていき、「ミナリ」に自分の新しいアイデンティティの形を見たのでしょう。
それ故に、彼は物語の冒頭で拒絶したアメリカ式のダウンジングによる水脈探しを受け入れます。
彼はアメリカの「水」に迎合したところで、失われることのない自分自身を確立することができたのです。
また、デビッドも祖母とミナリを育てた経験からその考え方が大きく変化していきます。
彼は最終的に、火事に際して責任を感じて、家から去っていこうとする祖母を「行かないで、あなたの家はあっち!」と発言し、彼女を家族として認める発言をしていました。
デビッドには、自分が韓国人なのかそれともアメリカ人なのかという葛藤があり、まだ幼いこともあり、アメリカの「水」に合わせる形で、自分はアメリカ人なのだと言い聞かせ、それに基づいた行動を取っていたのでしょう。
彼は劇中で、何度も「強さ」にこだわっているような節がありました。
子どもの頃から心臓が弱いために、親から心配され、「身体が弱い子」だと言われ、その保護下で生きることを求められる彼は、「強い自分」に憧れているのです。
しかし、祖母はそんなデビッドを「ストロングボーイ」だと言って、認めてくれました。
その言葉が彼にとってどれほど嬉しいものだったのかは、劇中の表情を見ていただければお分かりいただけるでしょう。
そうして、最終的には「韓国の匂い」がする祖母を自分の家族の一員として認めます。
どんな場所でも根を生やし、育つことのできる「ミナリ」はデビッドにとっては「強さ」の象徴でもあるのです。
このように「水」が物語の重要な役割を果たし、タイトルにもなっている「ミナリ」とも密接に関わり合っていたのは、決して偶然ではないでしょう。
アメリカでは受けそうな建国史と信仰の肯定譚として
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さて、ここまでは本作の物語や作劇について好意的な内容を書いてきましたが、ここからは少し個人的に考えた疑問点などをお話させていただきます。
まず、記事の最初にも書きましたが、私自身は『ミナリ』について「アカデミー賞の会員が好きそう」という少し穿った視点で見てしまいました。
今のアメリカ人のルーツは他でもない「ピルグリムファーザーズ」たちです。
カート・アンダーセンは自身の著書『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史』の中でこう綴っています。
つまりアメリカは常軌を逸したカルト教団により建設されたのである。
(カート・アンダーセン『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史』より)
なぜ、「ピルグリムファーザーズ」は「カルト集団」と表現されているのか。
そもそもピューリタンの急進派たちが自分たちの宗教的な理念に基づくユートピア国家を建設することを夢見て、どんな運命が待ち受けているのかを顧みることもなく、アメリカ大陸に渡ったのがアメリカという国の始まりです。
彼らはヨーロッパの外の新大陸にどうやら「エデンの園」があるらしいという「幻想」を信じて、海を渡り、プリマスに上陸しました。
海を渡るという受難が、アメリカ新大陸の「エデンの園」としての価値を高めており、彼らは自らを苦しみの中に置くことで、むしろ救われると考えていたのでしょう。
カート・アンダーセンはこうした建国の背景ないしピルグリムファーザーズたちが讃えられ、ある種の神話のように受け入れられていることから、アメリカ人には「幻想」好きな国民性があると分析しています。
つまり、存在するかどうかも分からない幻想を信じ、主への信仰を貫けば、自分の望み通りの生活ができるだろうと何の疑いもなく信じる理想主義者が賞賛される国だというわけです。
この点を踏まえて、『ミナリ』の物語を振り返ってみると、いくつか合点がいく描写があると思います。
まず、畑を見た1人のアメリカ人の男性が水をダウジングで探し当てると言い始めたシーンなんかは典型的ですよね。
こうした行動を見たジェイコブが「アメリカの奴らはでたらめを信じている。」と吐き捨てていましたが、まさしくアメリカ人らしい幻想を追い求めるキャラクターが描かれていました。
そして、彼の農場を手伝うことになるマークも典型的な「ピルグリムファーザーズ」気質の持ち主と言えるでしょうか。
信仰を重んじ、主に祈りを捧げることで自分たちは救われると考え、何かにつけて祈ったり、香油を塗ったりといった行動を繰り返していました。
また、巨大な木製の十字架を持って日曜日になる道路を歩く光景は、自らに受難を課すことで、救いがもたらされるという思考であり、これも完全に「ピルグリムファーザーズ」たちの思考と同じなんですよ。
そして、こうした典型的な幻想を愛する「アメリカ人」をジェイコブは拒絶し、自分の力で手に入れたものしか信じないという考え方を貫いています。
しかし、ジェイコブはそうやって自分の考えを貫いて行動してみても、なかなか上手く行かないんですよ。
自分で掘り当てた地下水がすぐに枯渇してしまったり、家が雨漏りをしたり、納屋が火事になったりといった災難に次々に巻き込まれていきます。
私が個人的に気になったのは、こうした主人公に降りかかる災難がアメリカ的な「幻想を信じる」という行為を否定してきたが故であるという風な描写になっているように感じさせる点です。
つまり、300ドルを払ってダウジングで水脈を見つけてもらうことを否定したから水が止まり、信仰を重んじなかったからこそ災難に見舞われたという状況に見せてしまっているわけですよ。
しかも、この映画の最後には、ジェイコブが300ドルを払って結局ダウジングをしてもらっている描写があります。
要は、彼がアメリカ的な「幻想を信じる」価値観に飲み込まれていることを表現していて、しかもそれが「正しい」ことのように演出されているのです。
つまり、「郷に入っては郷に従え」的にアメリカで成功するためには、アメリカ人の方法でなければならないというある種の「押し付け」めいたものがこの映画の中に垣間見えるわけですよ。
こうした作劇の仕方が為されていたが故に、「あ~アメリカ人が好きそうな映画だ。」と率直に思ってしまいました。
「ピルグリムファーザーズ」を神話として讃えている国民性から考えれば、こうした自分たちの建国に纏わる思想や行動を肯定してくれるような映画は受け入れやすいというものでしょう。
また、こうした「幻想を信じる」という行為の成功に、本作の家族の物語としてのメッセージ性が乗っかっているような印象を受けたのも個人的には疑問を抱いた点です。
©2020 A24 DISTRIBUTION
物語の中で、ジェイコブとモニカは一度「別々に暮らす」という決断をしたわけですよね。
それはあくまでも子どもたちのためであり、祖母のためであり、自分たちの暮らしのためでもありました。彼女はこのままあそこで暮らしていたら私たちは「破滅する」とまで言い切っていました。
しかし、終盤に納屋が燃えた事件を契機として、2人は最終的にアーカンソーのトレーラーハウスに残り、2人で一緒に暮らす道を選択するのです。
農作物は燃え、そんな状況から再びやり直すことは容易ではないでしょうし、当初のジェイコブなら合理的でないからと引っ越しを選択したと思います。
それでも、農場を2人でやり直す決断をしたのは、彼らが苦しい道のりを歩めばいつか救われるというピルグリムファーザーズ的な幻想に憑りつかれたことの証左です。
そして、「家族」で共に過ごすという決断が、ある種その「受難」の中に取り込まれてしまっている点に、個人的には「う~ん」と思ってしまいましたね。
家族で一緒にいることが合理的ではないのだと一度は判断したジェイコブとモニカが、最終的に「家族」という神話や幻想を再び信じるようになり、共にいることが救われるためには必要だと、合理的な選択を切り捨てるラストが個人的に良いと思えなかったのです。
もちろん、彼らが離れ離れになってしまえば良いなんてことは言いませんが、「非合理的だけど、破滅するかもしれないけれども、信ずれば救われる」みたいな考え方に2人が飲み込まれて結末がすごく自分としては受け入れ難いものでした。
ただ、こうした物語がアメリカで好まれるのは分かりますし、アカデミー賞で高く評価されるのも当然でしょう。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ミナリ』についてお話してきました。
温かくノスタルジーを掻き立てるような映像は素晴らしかったですし、カメラワークや「水」ないしミナリというモチーフを散りばめた作劇もお見事でした。
ただ、いわゆる「アメリカ的な」幻想を信じる価値観への迎合が描かれ、家族で共にいるという選択がそうした迎合の中の一側面のように描かれている点に疑問を感じました。
合理的で、自分の力で何とかしたいと考える主人公のジェイコブがことごとく不幸な災難に見舞われ、最終的に信仰や幻想に傾倒するというのが、果たして良い結末だったのでしょうか?
もちろんいろいろな考え方があると思いますが、昨今「家族」というものの枠組みが多様化してきているわけで、映画もその流れを汲んで作られるようになってきています。
そんな中で従来的な「家族」という枠組みの神話を信仰するに至るような物語が今どう受け入れられるのか…。
いろいろ考えてみましたが、自分としてはやっぱり「家族映画」として『ミナリ』に好意的な意見は持てないですね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。