みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ホムンクルス』についてお話していこうと思います。
かつて三池崇史監督が実写に挑戦した『殺し屋1』などでも知られる山本英夫さんの同名漫画を今回、清水崇監督が映像化しました。
本編を見れば、実写化が難しい作品であることは一目瞭然ですが、『呪怨』や『樹海村』などで知られる清水監督はかなり巧く作った印象です。
とりわけ彼の直近の作品である『樹海村』も、かなりVFXないし視覚効果を多用したリッチな映像作品になっていて、物語もオカルトチックと『ホムンクルス』に近いものがありました。
そのため『樹海村』などで得たノウハウが今回の映像化に活かされているような気がしますね。
タイトルになっているホムンクルスという言葉は、劇中でも説明されていましたが、「ヨーロッパの錬金術師によって作り出された人造人間」という意味合いがあるようです。
つまり、人間によって作り出された「人であり人ではない何か」と解釈するのが、本作を理解するうえでは都合が良いでしょう。
『ホムンクルス』という作品は、まさしく私たちが今見ている世界そのものに「揺らぎ」を与えるようなポストモダン志向の物語となっています。
映画の最後に原作者からのコメントで、「劇場を出ると手で右目を隠さずにはいられなくなるだろう」というものがありましたが、この言葉が端的に本作を表していると思いました。
本作は世界や人間の「見え方」の物語なのです。
脚本が全体的にゆったりとしていたので、もう少しテンポよく進めて欲しいという思いもありましたが、あの異様な世界をゆっくりと見せつけられるというのもまた悪くないですね。
かなりハードでグロテスクな表現も含まれるので、見る人を選ぶ映画だとは思いますが、気になる方は見ておいて間違いない1本だと思います。
さて、ここからは本作について個人的に考えたことをお話していきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ホムンクルス』解説・考察(ネタバレあり)
なぜ、『ブレードランナー』のオマージュを取り入れたのか?
さて、映画好きなら本作『ホムンクルス』を見て、ピンとくる映画があるかもしれません。
それは、『ブレードランナー』です。
というのも、『ホムンクルス』のファーストカットとラストカットは完全に『ブレードランナー』のオマージュになっているのです。
ここからは、その意図を個人的な解釈ではありますが、紐解いていきますね。
ファーストカットの眼に込められた意味とは?
『ホムンクルス』の最初のカットは、ドリルで開いた頭蓋骨の穴から「眼」がギョロリと覗き込むものでした。
(C)2021 山本英夫・小学館/エイベックス・ピクチャーズ
これは、『ブレードランナー』の「眼」が開くファーストカットへのオマージュでしょう。
(映画『ブレードランナー』より引用)
『ブレードランナー』の原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の著者であるフィリップ・K・ディックのSF的な要素の最たるものとして挙げられるのが、「目覚め」や「起きる」です。
これは、畑中佳樹のディック論『目覚め、叫び、走る』でも印象的に論じられているポイントです。
例えば、『火星のタイム・スリップ』の中では、こんな一節があります。
シルビア・ボーレンは、フェノバルビタールの微睡の淵で、何か叫ぶ声を聞いた。鋭く、それは彼女が沈んでいた眠りの層を突き破り、完ぺきな忘我の境を傷つけた。
「ママ」息子が家の外で呼んでいた。
ベッドの上に起き上がり、枕もとのコップの水をひと口飲み、素足を床におろして、のろのろと立ち上がる。時計の示す時刻は九時半である。ガウンをつかんで、彼女は窓際に歩み寄った。
(『火星のタイム・スリップ』より引用)
そして、『ブレードランナー』の原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の中では、次のように書かれています。
ベッド脇の情調オルガンから、自動目覚ましが送ってよこした小さな快い電流サージで、リック・デッカードは目をさました。びくっとして起き直り、急に目がさめると、いつもびくっとなる。七色のパジャマ姿でベッドから出て、大きく伸びをした。かたわらのベッドでは、妻のイーランが不機嫌な灰色の目を開き、まばたきし、それから呻きを上げて、また目をつむってしまった。
(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』より引用)
このようにディックの小説の大半が「目覚め」や「起きる」という動作から始まっています。
ただし、ここで言う「起きる」というのは人間の基本的生活習慣の一環としての眠りからの目覚めではありません。
意識がある空間に突如として浮上する、つまり無から意識が生じることを指してディック的「目覚め」は定義づけられるのです。
そして上でも挙げたように、原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』もこのディック的「目覚め」から物語が始まっています。
一方で、同作を原作として作られた『ブレードランナー』も、「眼」のクローズアップショットから始まりますよね。
映画評論家の町山智浩さんは自身の著書『ブレードランナーの未来世紀』でこの「眼」のことを観客自身の「眼」であると解釈しています。
つまり、あの未来世紀を、眼前に広がる2019年の風景を、今まさに垣間見ようとしている自分自身の「眼」であるという風に捉えたわけです。
一方で私は「眼」のカットは、観客自身の意識が映画『ブレードランナー』の中の2019年の世界で「目覚め」たというディック的な「目覚め」を表していると考えています。
『ブレードランナー』のラストでは、そうした「目覚め」と対極にある描写がインサートされています。
「最終版」や「ファイナルカット」のラストシーンでは、デッカードがレイチェルと共にエレベーターに乗り込んで、そのまま意識がぷつんと途切れるかのように幕切れました。
これは、「意識の断線」を表現していると言えるでしょう。
つまり、ファーストカットで映画の世界に「目覚め」た観客の意識が、ラストカットで断線するという1つの円環構造になっているわけですね。
ちなみに原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、妻のイーランの下に帰ってくることがそのまま現実世界への帰還を示していました。
少し話が脱線しましたが、『ホムンクルス』も同様の構造を受け継いでいます。
ファーストカットに用いられた眼はトレパネーション手術によって頭蓋骨に開いた穴から覗き込む「眼」でした。
つまり、これは観客の意識が映画『ホムンクルス』の描く異質な世界に「目覚め」た瞬間を表現していると言えます。
こうしたディック的な「目覚め」を踏襲することで、本作が人間や見えている世界に対して「揺らぎ」を与える作品であることが強調されていました。
ラストカットに込められた意味とは?
そしてラストカットの方も、『ブレードランナー』へのオマージュなのですが、ここは少し複雑です。
というのも、『ブレードランナー』はバージョンによってラストカットの描写が微妙に異なります。
「最終版」や「ファイナルカット」のラストシーンでは、デッカードがレイチェルと共にエレベーターに乗り込むところで物語が終わりました。
一方で、元々のオリジナル版では、デッカードがレイチェルと共に車で走り出していくラストシーンが用意されていたのです。
(映画『ブレードランナー』より引用)
どちらかと言うと、このオリジナル版のラストはフィリップ・K・ディックの原作に近いものです。
原作のラストで主人公は愛するマーサーの下へと帰還を果たし、その安らぎに満ちた時間の中で物語をフェードアウトさせていきます。
では、『ブレードランナー』のオリジナル版と「最終版」や「ファイナルカット」の間になぜこのような違いが生じているのでしょうか。
まず、この作品には、公開前の時点で複数のバージョンが存在していたことを知っておく必要があります。
監督のリドリースコットによる絵コンテ版のラストでは、デッガードとレイチェルがエレベーターに乗った後、ロサンゼルスを出て、生き物の死に耐えた砂漠へと向かっていくというラストが描かれていました。
一方で、初号試写で流れたいわゆる「ワークプリント版」のと呼ばれるバージョンでは、「最終版」や「ファイナルカット」に近いラストカットが採用されていたようです。
しかし、この「ワークプリント版」が試写で不評だったため、製作陣は公開にあたって当初の絵コンテ版に近いラストに差し替えたという経緯があります。
ただ面白いのが、予算の兼ね合いもあって、この「オリジナル公開版」のラストでは同時期に撮影されていた「シャイニング」の未使用フィルムを流用したんですよ。
そのため、『ブレードランナー』の世界では環境が破壊されているという設定にもかかわらず、豊かな緑が残っているという何とも言えない矛盾を引き起こしてしまいました。
つまり、この有名な『ブレードランナー』のラストカットは半ば人為的に作られた強引なハッピーエンドだと解釈することもできるわけです。
そして、今回の『ホムンクルス』は「最終版」や「ファイナルカット」ではなく、「オリジナル公開版」の方のラストカットを意識したラストになっていました。
なぜ、「オリジナル公開版」でなくてはならなかったのか。それはあのラストカットが物語とは別の次元の意思決定によってもたらされた強引なハッピーエンドという「歪み」を抱えたものだったからではないでしょうか。
『ホムンクルス』のラストカットも、ハッピーエンド風に見せてはいますが、自分の妻の死に故意ではなくとも加担した女性と、残された夫という異常なカップリングです。
(C)2021 山本英夫・小学館/エイベックス・ピクチャーズ
しかし、それにも関わらず2人はすごく幸せそうなんですよね。
だからこそ、ラストカットの光景には、言いも知れぬ「歪み」ないし「不気味さ」が残っていました。
ただ、『ホムンクルス』という作品が描きたかったのは、まさしく「歪み」や「揺らぎ」を拒絶するのではなく、直視し、受け入れるということだったと思うのです。
歪んでいることが間違っているのではなく、元々私たちの世界は「歪み」に満ちているのだという視点を今作は私たちに指し示したと言えます。
そうした主題性の部分について次の章でお話させていただきますね。
「揺らぎ」や「歪み」を愛すること
(C)2021 山本英夫・小学館/エイベックス・ピクチャーズ
文芸評論家のデーモン・ナイトはディックの作品を次のように評しました。
「フィリップ・K・ディックの描く未来世界は、われわれ自身の世界の歪んだ鏡像だ。その歪みがそれをSFにし、そのイメージが急所をえぐり出す」
『ブレードランナー』ないし『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で描かれたのは、まさしく「人間とは何か?」というテーマであり、人間という存在の「歪み」や「揺らぎ」に焦点を当てました。
そして、今作『ホムンクルス』もまた、そうした私たちの認識する世界の「歪み」や「揺らぎ」にスポットを当てています。
物語の開始時点で名越という男には記憶がありません。しかし、彼自身は記憶がないことを特に気に留める様子もなく、そうした「歪み」を抱えたまま平然と生活を続けていました。
そんな名越は、研修医の伊藤によるトレパネーション手術を受けることで、この世界の「歪み」に気づきます。
今作を見ていて、考えさせられるのは、歪んでいる世界と歪んでいない世界のどちらが正常なのだろうか?という問いなのだと思いました。
我々の世界において、多くの人が平静を装って生きているわけですが、その内側にはトラウマ、後悔、罪悪感と言ったネガティブなものを抱えています。
しかし、私たちは、それを表に出さないように生きていますよね。
つまり、そうした自分自身の内部に生じた「歪み」を隠して、社会に適応する過程で歪みを生じさせているという見方ができるわけです。
そう考えると、名越が右目を隠して見えている世界こそが、私たちの本当のありのままであり、むしろ普通に見えている世界の方が「歪み」に満ちているのかもしれません。
『ホムンクルス』において、名越はそうした世界を異常だと切り捨てようとしますし、研修医の伊藤は自分がどんな風に「見えて」いるのかを気にするばかりです。
そんな名越の世界に大きな影響を与えるのが、「奈々子」を名乗る赤い服の女性でしたね。
しかし、彼女もまた名越が自分の世界を最適化するために作り出した「歪み」の一種であり、その実は、自分の妻の死に加担した、加害者側の女性だったのです。
つまり、名越は自分の目の前で妻が死ぬという強烈な体験を経て、自分の中に生じたネガティブなものを排し、正常を取り戻そうとする過程でこうした「歪み」を生み出したんですね。
それに気がついた名越は、真実を知って尚、「奈々子」を名乗っていたその女性を受け入れようとします。
「奈々子」を受け入れるという行為は、まさしく「歪み」を受容するという行為でした。
そうして描かれたラストカットは、先ほども述べたように『ブレードランナー』の「オリジナル版」を模した描写になっています。
ここで、名越は車のミラーに視線をやり、そこに映し出されている彼女の姿を左目で見ていました。
そこに映っていたのは、歪んだ彼女の姿だったのか、はたまた自分の姿だったのか。
しかし、その時の名越は笑顔でした。
なぜなら、彼はもう知っているからです。「歪み」こそが私たちの世界の本質であり、ありのままであるということを。
私たちがなぜ「歪み」を表に出すまいと考えるのかと言うと、それは誰かに「見られる」ことを意識しているからなのだと思います。
つまり、他人に「正常」だと思われたいからこそ、自らの「歪み」を隠ぺいするという歪みを生じさせるのです。
かつて、名越は自分の妻がそうした「歪み」を屈折なく表出させたときに、それを直視してあげることができなかったんですよね。
そして、彼女の「歪み」は劇中で何度も言われていたように、翻っては彼自身の「歪み」でもあります。
研修医の伊藤も同じで、自分の父親に「見て欲しい」という思いばかりが先行して、父の「歪み」ないし自分自身の「歪み」を見ることから逃げてきました。
だからこそ、彼らは「歪み」を肯定し、愛し、それを直視することを物語の果てに選択したのです。
だからこそ、ラストシーンでは、まだ名越に見えている世界は「歪み」に満ちているのだと思います。
しかし、心配することはありません。
それこそが私たちの世界の本来のカタチなのですから。
「歪み」を隠ぺいするための歪みに満ちた私たちの「正常」な世界のメッキが音を立てて剥がれていき、「歪み」という本質が顔を出す。
そんなある種のパラダイムシフトを『ホムンクルス』という作品は、名作『ブレードランナー』の構成に準えて描き切ったのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ホムンクルス』についてお話してきました。
もし『ホムンクルス』をご覧になった方で、『ブレードランナー』や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を鑑賞したことがない方は、ぜひチェックしていただきたいです。
全体的にマンガ実写特有の短編を繋ぎ合わせたような構成が緩くて、散漫な印象はありましたが、綾野剛さんや成田凌さんのぶっ飛んだ演技で何とかやりきったという印象は受けました。
あとは、清水監督らしい視覚効果の使い方とオカルトテイストな演出はかなりハマっていて、個人的にはなかなか好みでしたね。
このところ、邦画の傑作が立て続けに公開されているので、そんな状況で「おすすめ!」と声高に言えるタイプの映画ではないですが、好きな人は好きな作品だと思うので、気になる方はぜひチェックしてみてください。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。