みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『砕け散るところを見せてあげる』についてお話していきます。
もちろん「映画版しか見るつもりないよ!」という方は、映画版だけを見ても問題ありません。
しかし、映画版を一度見てしまうと、おそらくその先入観によって、原作を前情報なしで読んだときの「驚き」や「混乱」は失われてしまいます。
もし、作品を未見で、原作と映画の両方を鑑賞する予定の方は、とにかくまずは原作の方をチェックしていただきたいです。
(C)2020 映画「砕け散るところを見せてあげる」製作委員会
結論から申し上げますと、映画版の出来はすごく良いです。あの実写化不可能な原作をよくあそこまで落とし込んだと思います。
ただ、やっぱり良くも悪くも「分かりやすい」内容になっているので、その点で原作を先に読むほうが個人的には良いと考えている次第です。
なぜ、原作を先に読むべきかというと、それは「叙述トリック」があるからですね。
いわゆる叙述トリックが組み込まれた小説って、これまでにも多く読んできましたが、読み進めていると、何となく「違和感」めいたものはあるので、そこから何となく気づくこともあるんです。
ただ、今作については、私自身も最後の最後まで普通に読み進めてしまって、終盤の「種明かし」のところでもイマイチ全体像が掴み切れず、2回目を読んでようやく全貌を悟ったというくらいでした。
読み直してみると、確かに「伏線」に該当するものは散りばめられてはいるのですが、あまりにも自然に物語に溶け込み過ぎていて、先入観なしで読むと、それが「伏線」だと気がつかないようになっています。
ただ、小説という活字メディアだったからこそ、あれほどのインパクトがあったトリックではあると思いますので、映像にしてしまうと、驚きや衝撃という観点では及ばないだろうなとは思いました。
序盤から中盤ににかけてはいじめ問題を扱いながらも、少しぶっ飛んだヒロインと主人公の学園ラブコメ的な側面も強く、ライトノベルを読んでいるような感覚があります。
しかし、中盤に1つの事実が明らかになると、一気に物語が暗転していき、終盤には本当に予測もつかないような展開が待ち受けているのです。
作品としては、少年少女が自分たちの「セカイ」を守るために戦う青春譚というテイストなのですが、そこに残酷な描写や叙述トリックが組み込まれ、唯一無二の作品として確立されています。
今回はそんな『砕け散るところを見せてあげる』のトリックについての解説、主題性についての省察、映画版との比較などを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『砕け散るところを見せてあげる』
あらすじ
平凡な日々を送る高校生の濱田清澄は「ヒーロー」になることに強い憧れを持っていた。
ある日、学年一の嫌われ者で、クラスメイトから陰湿ないじめを受けている少女・蔵本玻璃を見かける。
「ヒーロー」に憧れる清澄はその正義感から玻璃を何とかして助けたいと考え、行動を起こす。
当初は、玻璃から強く拒絶されてしまう清澄だったが、彼女がトイレに閉じ込められていたところを助けたことで、2人の関係性が変化していく。
最初は言葉もまともに話せなかった玻璃は清澄に対して徐々に心を開いていき、明るい一面も見せるようになる。
クラスメイトの一部が玻璃の味方をしてくれるようにもなり、担任教師も「いじめ」の存在を認知したことから、徐々に彼女に対する「いじめ」もなくなっていく。
しかし、それでも玻璃の身体には、毎日のように痣や傷が増えており、清澄はその原因を探り始める。
徐々にその秘密に気づき始めた清澄と彼の母。
秘密に迫れば迫るほどに、彼の周囲の人に危険が迫ってくるのだが…。
スタッフ・キャスト
- 監督:SABU
- 原作:竹宮ゆゆこ
- 脚本:SABU
- 撮影:江崎朋生
- 照明:三善章誉
- 編集:SABU
- 音響効果:渋谷圭介
- 音楽:松本淳一
- 主題歌:琉衣
本作『砕け散るところを見せてあげる』の原作を著したのは、『とらドラ!』や『ゴールデンタイム』などで知られる竹宮ゆゆこさんです。
思春期の少年少女の爆発しそうな感情をダイナミックに描き切る作家で、特に『とらドラ!』についてはアニメ版も含めて高く評価されています。
監督・脚本・編集を手掛けたのが、『天の茶助』などの監督を務めたことでも知られるSABUさんです。
撮影には、『37セカンズ』で国内外から高い評価を受けた江崎朋生さんがクレジットされており、映像作品としても印象的なものに仕上がっていました。
劇伴音楽を、アニメ、実写映画、特撮と幅広いジャンルで活躍する松本淳一さんが担当し、主題歌には琉衣さんが抜擢されています。
- 濱田清澄:中川大志
- 蔵本玻璃:石井杏奈
- 田丸玄悟:井之脇海
- 尾崎(妹):清原果耶
- 尾崎(姉):松井愛莉
- 真っ赤な嵐:北村匠海
- 清澄の母:矢田亜希子
- おばちゃん:木野花
- 玻璃の父:堤真一
まず、主人公2人には、それぞれ中川大志さんと石井杏奈さんが起用されています。
そして、清澄のクラスメイトの女子生徒尾崎(姉)を松井愛莉さんが、その妹を清原果耶さんがそれぞれ演じています。
この4人だけでもかなり豪華なのですが、主人公の親友である玄悟役に井之脇海さん、本作のキーパーソンでもある玻璃の父親を堤真一さんが熱演していました。
また、物語の根幹にも関わってくる「真っ赤な嵐」と呼ばれる青年を北村匠海さんが演じていますね。
という具合に若手からベテランまで、超豪華な面々が揃った映画版『砕け散るところを見せてあげる』となっています。
『砕け散るところを見せてあげる』解説・考察(ネタバレあり)
衝撃と混乱に飲み込まれる「叙述トリック」の妙
(C)2020 映画「砕け散るところを見せてあげる」製作委員会
ということで、本作『砕け散るところを見せてあげる』の原作の方の「叙述トリック」の凄みについて解説させていただきたいのですが、これ本当に凄いです。
前情報なしで読んでいたら、まず気づかないですし、らすと30ページは頭が混乱して、「一体何が起きているんだ?」と頭を抱えながら読むことになると思います。
しかし、2回目を読むと作品の構造が見えてきて、前半の些細な記述の節々に「伏線」が散りばめられていたことに気づき、思わず声が出ました。
結論から言ってしまうと、いわゆる「1人称トリック」に分類されるものではあるんですが、これが実にシームレスな繋ぎになっていて、1人称の表している人物がすり替わっていることにほとんど気がつき得ないんですよね。
おそらく多くの人が違和感を初めて抱いたのは、終盤のこの記述ではないでしょうか。
「清澄!お父さんも向かってるからね!連絡したらすぐ来るって!あんたに会うために、もう、新幹線乗ったからね!」
(竹宮ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』より引用)
ここで、当ブログ管理人も完全に自分の頭に「バグ」が生じているのに気がつきました。
なぜなら、ここまで読者は「俺」の父親は、嵐の日に川に飛び込んで人命救助をしたのちに命を落としたものだと思っていたからです。
一体全体どういうことなんだ?と。そうした驚きと混乱に巻き込まれたまま、読み進めても事態が一向に飲み込めません。
そして、物語を最初から読み直すことにしました。すると、見えていなかったこの物語の本当の構造に気がつきました。
以降、細かな設定や伏線について個人的に気がついた範囲で解説していきますね。
シームレスに変わる「一人称」が指し示す人物
この『砕け散るところを見せてあげる』という作品の一人称は基本的に「俺」なのですが、これがとんでもないミスリードを誘ってくるので、衝撃を受けます。
- ①「俺」と玻璃の会話。「UFOが撃ち落されたせいで、死んだのは2人。…」
- ②高校3年生の「俺」が部屋でヒーローの変身ポーズを取り、それを見た彼の母親が大爆笑している。
- ③「俺」が父さんの話を回想する。父さんは増水した川に沈みゆくワゴン車の中に乗っていた人たちを救って命を落とした。
- ④「で、ここからが俺の話」という記述と共に、長い学生時代の回想が始まる。ここでの「俺」は高校3年生で清澄のことであると明かされている。
- ⑤大人になった「俺=清澄」は玻璃と結婚し、彼女が息子を出産するその日に、増水した川で人命救助をして絶命したことが明かされる。
- ⑥語り手の一人称が「私」に変化する。「私」は玻璃であり、彼女が息子に「UFOが撃ち落されたせいで、死んだのは2人。…」と父親の真実を語る描写が挿入される。
- ⑦②の場面に戻って来て、「俺」が両親の話を聞いたうえで、感じたことを吐露して物語が幕切れる。
という流れになっているのですが、まず、①が多くの読者を混乱させる最大のギミックだと思います。
というのも、作品全体を通して「俺」と玻璃の会話は数多く登場するのですが、そのケースでは、基本的に「俺」が指し示すのは、清澄のことです。
しかも、②でご丁寧に「俺」が自分の母親のことを「母さん」と呼称していることから、①と②における「俺」は全く別の人物なんだと印象づけることに成功しています。
そして、④の書き出しが、完全に読者の中での「俺」を固定化させてくるんです。
で、ここからが本当に俺の話。
愚かにも、本当にヒーローになろうとした濱田清澄の話。それと蔵本玻璃の話。(竹宮ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』より引用)
そんな書き出しから始まる回想パートで登場する「俺=清澄」が何と高校3年生で片親という設定なのも、読者の納得感に繋がって来ます。
つまり、冒頭パートを読んだ時点で、私たち読者の中では物語が次のように自然に整理できてしまうのです。
- ②の「俺」(高校3年生で片親)は清澄のことで、ヒーローポーズを取って母親を笑わせている。
- ③は「俺=清澄」が人命救助で命を落としたヒーローであった自分の父親のことを回想している。
- ④以降は②と連続した話で「俺=清澄」がヒーローに憧れ、玻璃を救おうとした青春時代の話が綴られている。
- そして①は「俺=清澄」が④の一連の出来事を振り返って、玻璃と会話をしている。
だからこそ先述した一節で、読者は完全に混乱します。
「清澄!お父さんも向かってるからね!連絡したらすぐ来るって!あんたに会うために、もう、新幹線乗ったからね!」
(竹宮ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』より引用)
あれ、父さんは人命救助で命を落としたんだよね?となるわけですよ。
そして、⑤のパートに突入していき、増水した川で人命救助をして命を落としたのが清澄だったことが明かされます。
(C)2020 映画「砕け散るところを見せてあげる」製作委員会
そうなると、先ほど読者の頭の中で出来上がっていた物語の構図が完全に崩壊しますよね。
人命救助をして死んだ父親に憧れてヒーローになりたいと考えていた清澄自身が他でもないその人命救助をして死んだ父親だったことが明らかになったからです。
どうやって、この矛盾を埋めるのか?と読み進めていくと、⑥のパートで①で示された「俺」の前提条件が完全に破壊されます。
「ちょっと長い話をするね。その間でいいから、玻璃って私を呼んでいて」
(竹宮ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』より引用)
つまり、ここで①で会話の相手を「玻璃」と呼称していた「俺」が清澄ではなく、彼の息子であったことが明らかになるのです。
(C)2020 映画「砕け散るところを見せてあげる」製作委員会
そうして、⑦のパートは完全に清澄と玻璃の息子のモノローグへと転じ、幕を閉じることとなります。
ということで、先ほどの物語の流れを改めて整理すると、次のようになりますね。
- ①「俺=清澄の息子」と玻璃の会話。「UFOが撃ち落されたせいで、死んだのは2人。…」
- ②高校3年生の「俺=清澄の息子」が部屋でヒーローの変身ポーズを取り、それを見た彼の母親(玻璃)が大爆笑している。
- ③「俺=清澄の息子」が父さん(清澄)の話を回想する。父さんは増水した川に沈みゆくワゴン車の中に乗っていた人たちを救って命を落とした。
- ④「で、ここからが俺の話」という記述と共に、長い学生時代の回想が始まる。ここでの「俺」は高校3年生で清澄のことであると明かされている。
- ⑤大人になった「俺=清澄」は玻璃と結婚し、彼女が息子を出産するその日に、増水した川で人命救助をして絶命したことが明かされる。
- ⑥語り手の一人称が「私」に変化する。「私」は玻璃であり、彼女が息子に「UFOが撃ち落されたせいで、死んだのは2人。…」と父親の真実を語る描写が挿入される。
- ⑦②の場面に戻って来て、「俺=清澄の息子」が両親の話を聞いたうえで、感じたことを吐露して物語が幕切れる。
こうして整理してみると、パズルのピースがぴったりとハマるように作られているのですが、初見でこんなの分かる人がいるわけないだろ…と衝撃を受けた感覚は今でも忘れられません。
時代性を感じさせる微細な「伏線」に気づけるか?
そして、『砕け散るところを見せてあげる』において何よりも驚きなのは、その伏線のあまりにも自然すぎる散りばめ方なのだと思います。
本作の伏線の散りばめ方は、大きく分けると2種類に分けられますね。
- A:時代の隔たりを仄めかす記述
- B:同じセリフやモノローグなどのリンクする記述
まず、Aについてですが、これは正直2回目読んでみてようやく気付けるレベルですね。初見でサラっと呼んでいるとまず気がつきません。
先ほどの②の高校3年生の清澄の息子のパートで次のような記述があります。
置かれた場所で咲いてみたり、嫌われる勇気をもってみたり、魔法の片づけでときめいてみたり、瞑想、断食、もっと最新のわけのわからないことまでいろいろやらされた。
(竹宮ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』より引用)
この記述って、いわゆる「時事ネタ」なんですよね。
『置かれた場所で咲きなさい』は2012年に発売された書籍です。
『嫌われる勇気』は2013年の書籍ですね。
こんまりの『人生がときめく片づけの魔法』は2010年に出版されています。
つまり、この記述が②のパートにおける「俺」のいる時代設定が紛れもない現代であることを明らかにしているわけです。
しかし、④の清澄と玻璃の回想パートに入ると、途端に時代設定が古くなるんですよね。
まず、高校生がスマホを持っていないという事実が最大の時代性の違いを示すシグナルになっていると思います。
とりわけ終盤の玻璃が清澄に命の危険を知らせに来てからのパートは、現代を舞台にしていれば、スマホで警察に電話をすれば済む話じゃないですか。
ただ、この当時の高校生はまだ携帯電話すら持っていないという状況なので、家の固定電話で電話するか、公衆電話に駆け込むという発想しかないんですね。
他にも明らかに2000年以前の人にしか通用しないであろうノストラダムスの大予言のくだりが出て来たりと読み返してみると、時代の違いに気がつくような記述が作品のいたるところに散りばめられていました。
そして、Bの方ですが、とりわけリンクしていたのは「ヒーロー3箇条」だと思います。
先ほどのチャートで言うところの③の中で「母さん」が「父さん」から過去に「ヒーロー3箇条」を聞かされていたことを明かしています。
- ヒーローは決して悪の敵を見逃さない
- ヒーローは自分のために戦わない
- ヒーローは決して負けない
そして④の中で清澄が玻璃に聞かせるのも、全く同じ3箇条なんですよね。
ただ、これは最初の時点では、「母さん」が清澄に「父さん」の語っていたヒーロー3箇条を伝えただけなのだろうと勘違いするギミックにもなっています。
しかし、勘の鋭い方は、ここでこの継承関係が反転していることに何となく勘づくかもしれません。
そして、もう1つ読み返していると感動するのは、この記述ですね。
そうして俺は、玻璃が目にする全てのものになる。カーテンにもなる。本にもなる。かべの傷にも、コーヒー豆にも、歩道橋にも、袋麺にも。太陽にも、月にも、目には見えなくとも確かに在る遠い星々にもなる。そうして玻璃を愛し続ける。永遠に愛し続ける。
(竹宮ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』より引用)
実は、この記述は②のパートの「俺=清澄の息子」のモノローグの中で、リテリングされています。
つまり、清澄の思いを「母さん=玻璃」が息子に語って聞かせ、それを継承したという流れが整理できるように記述がリンクしているわけです。
(C)2020 映画「砕け散るところを見せてあげる」製作委員会
こうした些細な記述の中で、「伏線」や「繋がり」が示され、2回目に読んだときに物語の全体が自然と整理されるような構成になっている点は本当によく出来ていると思いました。
映画版と原作の違いについて
さて、次に『砕け散るところを見せてあげる』の原作と映画版の違いについてお話していきます。
結論から申し上げると、映画版の脚本はかなり原作に忠実に作られたものです。
ただ、ここまでにも申し上げてきたように原作にあった「叙述トリック」は小説だからこそできたものなので、映画版には反映されていません。
映画版では、回想のモノローグの語り手が一応伏せられてはいるのですが、思いっきり北村匠海さん演じる息子が出てきて、「自分の父は…」と言ってしまっているので、その点であまり驚きはありません。
- 清澄の1年生の頃の友人だと思っていた人たちに裏切られたエピソード
- 尾崎(妹)が清澄に校章をもらいに行き、「来年は同じ大学に行く!」と宣言するシーン
- 母さん(玻璃)が夫(清澄)に対する思いを吐露するモノローグ
清澄のエピソードは映画版でも軽く触れられていますが、ディテールは伏せられていました。
清澄がクラスメイトの陽キャグループに馴染んだつもりだったのに、ある休日に遊びの約束をしたときに、待ち合わせ場所に来たのが自分だけで、他の面々は来なかったという形で裏切られてしまいました。
その結果として、1年生の残りの時間をずっと孤独に耐えて過ごし、学年が変わったときに田丸という心から分かり合える友人に出会えたのです。
この清澄のバックグラウンドが詳細に描かれることで、彼が玻璃を救おうとするに至る心情が明確になるので、意外と重要なエピソードではありますね。
そして、2は個人的に原作では大好きなシーンだったので、清原果耶さんの演技で見たかったなというのが本音です。
映画版でも尾崎(妹)が清澄を気にかける描写は何度かインサートされていましたが、原作ではよりそれが「好意」という形で明確になっていたので、そこは大きな違いでしたね。
というのも映画版は、物語の軸と「父と息子」に絞ろうとしていたので、物語をコンパクトするために、現在パートの玻璃のモノローグを基本的にカットする形で作ったのだと思いました。
ただ、これをカットしてしまったので、映画版では清澄が子どもが生まれるというのに、他人を救って命を救って、自己満足でUFOを撃ち落としたと語っている少しぶっ飛んだ奴というニュアンスで描かれていたのは気になりましたね。
他でもない玻璃が原作の方では、「二つ目のUFOは私の命を燃料に空に浮いているようだった。」と語っていて、彼女自身があの増水した川で先輩が救おうとしてくれていたのは、あの頃の自分だったのだと納得しているんですよ。
ここは、映画版では少しカット気味に描写されているのですが、清澄の行動を「独りよがり」で終わらせないためにも重要なものだったかなとは思っています。
次の章で詳しく解説しますが、ここは本作のテーマを鑑みてもすごく印象的な脚色でした。
「愛には終わりがない」という世界観と主題性
そして最後に『砕け散るところを見せてあげる』の物語を貫くテーマ性についてお話しておこうと思います。
本作において描かれたのは、「愛の円環」なのだと感じました。
この映画の「愛」の原点は、他でもない清澄にあります。
玻璃は、母親を失い、父親からは虐待され、クラスメイトからは壮絶ないじめを受けるなど、愛を与えられずに育ってきた子どもです。
しかし、そんな玻璃に清澄が「愛」をもたらします。
その「愛」の1つの形が劇中でも描かれた「ヒーロー3箇条」だったのだと思いました。
- ヒーローは決して悪の敵を見逃さない
- ヒーローは自分のために戦わない
- ヒーローは決して負けない
玻璃は清澄からそうした誰かに「愛」を注ぐことを教わり、教室でのおはぎ事件に際して、尾崎(妹)を庇うという形で行動を起こします。
この瞬間が、初めて清澄から玻璃に「愛」が継承された瞬間だったとでも言えるでしょうか。
そして、物語はクライマックスに突入していき、「逃げてください」と語る玻璃を包み込み、清澄は彼女を守るために戦うという「愛」の選択を下します。
しかし、玻璃の父の暴力性を前に2人は窮地を迎え、そんな中で最終的に清澄を守ってくれたのは、玻璃でした。
つまり、玻璃があの時トイレで手を伸ばし、必死に「愛」を与えてくれた清澄に対して、ここで逆に「愛」を与える側になっているというのが物語の大きな転換になっているわけです。
ただ、この事件がきっかけで玻璃は「玻璃」という名前を放棄して生きざるを得なくなり、その結果として「2つ目のUFO」が出現してしまいました。
それは、青春時代に取り残してきてしまった「玻璃」を救えなかったという後悔の念が生じさせたもので、清澄はそんな「玻璃」から目を背けて生きてきました。
だからこそ、増水した川に溺れそうになっている人を見た時に、清澄はそこに自分があの頃に置き去りにしてきた「玻璃」の幻影を見ます。
そして、清澄が死んだ時、病院の分娩室で、「息子=真っ赤な嵐」が生を受けました。
「死」と「生」がシームレスにリンクすることにより、息子に清澄の「愛」が受け継がれた瞬間が表現されています。
そんな息子が成長して、清澄が語っていたヒーロー3箇条を口にし、父親と同じようなヒーローに憧れている描写から、確かに清澄に端を発する「愛」が玻璃とそしてその息子にも継承されていることが明らかにされるのです。
「愛」というものは、誰かの中に固有のものとして留まっているものではなくて、人と関わり、心を通わせる中で、互いに与え、与えられるものとして存在しています。
清澄が玻璃に向けた「愛」が尾崎に伝染して、彼女のいじめ問題の解決に繋がっていったように、まず自分が誰かに「愛」を向けることで、世界のカタチは大きく変化していくのです。
そして、「愛」は人にしか宿らないものというわけでもありません。
そうして俺は、玻璃が目にする全てのものになる。カーテンにもなる。本にもなる。かべの傷にも、コーヒー豆にも、歩道橋にも、袋麺にも。太陽にも、月にも、目には見えなくとも確かに在る遠い星々にもなる。そうして玻璃を愛し続ける。永遠に愛し続ける。
(竹宮ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』より引用)
清澄は、様々なものにその形を変えて、息子に対して「愛」を注ぎ続けています。
そして、その「愛」は彼の息子から、また誰かに継承され、この世界を美しく彩っていくのでしょう。だからこそ「愛に終わりはない」のです。
そうなんです。そして映画版はこのラストカットが本当に素晴らしかったですね。
物語の序盤の清澄が独り言を言っていた通学路のシーンを玻璃視点で見たものがラストカットとして採用されていたわけですが、なぜこのシーンが重要だったのでしょうか。
それは「双方向性」を可視化したシーンだからなのだと思います。
つまり、基本的に今作においては清澄から玻璃へというベクトルが目立つようになっていて、彼の「救いたい」という思いが物語全体の原動力になっているわけです。
しかし、このラストシーンでは玻璃が自分を変えて、清澄に声をかけようとしていた、「愛」を向けようとしていたという逆向きの矢印が明確に示されているんですね。
確かにこの時の玻璃の言葉は清澄には、届いていませんでした。
それでも、2人の思いはちゃんと交錯していたのだと、観客はこのラストカットで知ることができました。
また、このシーンをラストカットに持ってくることによって、物語全体が1つの円環構造として成立しているのも重要です。
清澄が「愛」を向けることで始まった物語を、清澄が「愛」を向けられることで終わらせるという形で、まさしく「円」を描く物語の構成になっていんですね。
「円」はまさしく終わりがない形であり、だからこそ本作は物語を「円」の形で結ぶことで、「愛には終わりがない」という主題を表現しようとしたのではないでしょうか。
そう考えると、映画版の構成は、原作の叙述トリック要素には欠けますが、非常によく出来たものだったと思いました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『砕け散るところを見せてあげる』についてお話してきました。
最初の前提条件の作り方と整合性の取り方があまりにも完璧すぎて、終盤も終盤に至るまで、物語のギミックに気がつかないようになっています。
こうした「叙述トリック」は映画版の方には、全くもって反映されていません。
もちろんそれ故に映画版の出来が悪いなんてことはなく、むしろ出来は良いのですが、映画版を先に見てしまうと、どうしてもこの「驚き」や「混乱」は二度と味わえないものになってしまいます。
だからこそ、本作については原作→映画の順番が望ましいのだと個人的には考えております。
ぜひ、『砕け散るところを見せてあげる』という作品を映画で、そして小説で何度も読み返しながら、細かい記述に目を向けながら、堪能して欲しいと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。