みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『街の上で』についてお話していこうと思います。
映画の最初に、いきなり映画内映画の撮影が始まり、そこにナレーションが重ねられ、物語がスタートします。
そうして始まる物語はどこか不思議な内容になっていました。
というのも、普通の映画においては、劇中に登場する人物は映画内現実を生きる住人として描写され、キャラクターたちは自分が「演じて」いることに無自覚であるというのがセオリーです。
しかし、『街の上で』という作品は、極めてフィクショナルに作られており、さらに言うなれば、登場人物が自分たちが映画の中のキャラクターであるということを自覚しているようにも見受けられました。
作品の冒頭に、主人公の荒川青が劇中映画の撮影のためにカメラを向けられているのですが、この時に彼はカメラを意識してつい視線を向けてしまうのです。
この視線が、映画の枠組みの外にいる観客である私たちの視線と交わり、私たちは強烈な違和感と、「見られた」ことによるドキッとした気持ちを抱えて、本編を見進めることとなります。
物語の序盤には、この主人公の青がカメラに正対するようなカットが多く採用されており、映画というフレームそのものの存在感が強烈に印象づけられるのですが、一体なぜこんなにもキャラクターが「演じている」ことを明らかにするような、作為性が表出した作品を作り上げたのか。
そこには、映画という枠組みを通じて、失われてしまうもの、無意味だと切り捨てられてしまうものを掬い取ろうとする今泉監督の作家性が見え隠れしています。
今回の記事では、そうした本作のメタ映画性が一体何を取り戻そうとしていたのか?何に価値を見出そうとしていたのか?についてお話していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『街の上で』解説・考察(ネタバレあり)
今泉監督はなぜ「片想い」を描いてきたか?
まず、本作『街の上で』の監督を務めた今泉監督の作家性について軽く振り返っておきましょう。
しばしば「片想い映画の旗手」なんて言われる今泉監督ですが、『サッドティー』来、片想いに焦点を当てた作品を多く手掛けてきました。
とりわけ彼の作家性が色濃く反映されていたのは、最近の作品だと『mellow』なのかなと考えています。
『mellow』においては、片想いの肯定が可視化されていました。
「ふわっと消えてしまったら悲しい」という劇中のセリフが作品を通底しているメッセージにもなっているのですが、片想いという両想いになれないことで意味や価値が失われてしまう感情の存在に意義を見出していきます。
そして片想いの告白に「ありがとう。でも、ごめんなさい。」と答えることで、その感情を肯定していったのです。
そんな今泉監督が恋愛における「片想い」にフォーカスしている理由のようなものが一般化されて、クリアになってきたのが2021年2月公開の『あの頃。』だったように思います。
この作品には、時間の一方通行性に焦点を当てながら、もう戻ることのできない過去の大切な時間とその時間が今の自分にとってどんな意味や価値を持つのかという視点が見え隠れしていました。
そう考えていくと、今泉監督が焦点を当てているのは、単に「片想い」というよりは、むしろ、失われゆくもの、価値や価値を見出されないものなのではないかと思うようになりました。
その流れで2021年4月にようやく公開の運びとなった本作『街の上で』もその内容は恋愛映画としての「片想い」映画ではありません。
しかし、価値や意味を奪われ、失われゆくものを映画という媒体で掬い取ろうとする今泉監督の作家性が確かに宿っている映画でもあります。
とりわけ、本作が『街の上で』というタイトルになっていることからも、本作が「街」の映画であることも重要です。
劇中で、マンガに登場している下北沢の風景に憧れ、聖地巡礼(ロケ地巡り)に訪れている女性が描かれていました。
この描写は、今泉監督がフィクションを「失われゆくものの受け皿」と捉えていることが伺える描写でもあります。
『街の上で』で主人公の青が言及していたように、街の風景はどんどんと変化していき、過去にそこにあったものはなかったかのようにして上書きされていきますよね。
では、そこに確かに在った建物や店や看板や、風景や人間の営みは無意味なものになってしまうのか、忘れ去られてしまうのか…。
しかし、映画はそうした「街」をフィルムに焼きつけて、残すことができるメディアでもあります。
失われゆく街を、変わりゆく街を残し、その存在に価値や意義を与えようという今泉監督の作家性が『街の上で』というタイトル、そして2010年代終わりの下北沢の風景を映し出す本編にも反映されていました。
そして、そうした視座が、記事の冒頭にも書いた本作のメタ映画性にも密接にかかわって来ます。
それでは、ここからは本作『街の上で』の解説・考察に移っていきますね。
映画と「ファイナルカット」
映画の世界には「ファイナルカット」という言葉があるのをご存知ですか?
これは「映像作品の公開用最終編集版」という意味なのですが、簡単に言うと、映画やドラマなどを撮影して出来た映像の素材を編集して、劇場で公開できる状態になったものを指します。
「ファイナルカット」を作っていく上での編集作業は作品の印象を形作っていきますから、非常に重要な作業です。
とりわけ是枝裕和監督なんかは絶対に自分で「ファイナルカット」の権限を持つことにこだわっており、そのため彼の作品では基本的に「監督・脚本・編集」までが是枝裕和名義でのクレジットになっています。
ちなみに今泉監督も『サッドティー』のような初期の作品だと割と、ご自身で編集まで担当されていたようです。
海外の映画だと例えば、DC映画の『ジャスティスリーグ』で劇場公開版が「ジョス・ウェドン版」と呼ばれ、最近公開されたザック・スナイダーによって改めて編集されたバージョンが「ザック・スナイダーカット」と呼ばれます。
という具合に、映画を作り上げるプロセスにおいて、「編集」は撮影によって生まれたたくさんの素材の中から価値があるものだけを拾い上げ、必要ないものを切り捨てていくという作業でもあるわけです。
今泉監督は、おそらく今回ここに目をつけ、映画を作る過程で必要ないと切り捨てられていくようなカットを掬い上げ、それらの存在意義を担保し、肯定しようとしていたのではないでしょうか。
映画の最初のナレーションで、主人公の青がガチガチに緊張しながら喫茶店で読書をしているシーンについて「誰も見ることはないけど、確かにここに存在してる」という風に形容されていました。
確かに、物語の中でも青の演技が下手過ぎたが故に、劇中映画の中であのカットが採用されることはありませんでしたよね。
それでも、イハは物語の終盤で、あの劇中映画の中には「青のカットがあった。」と本人に古着屋で告げていました。
ここで「ファイナルカット」の概念が絡んできます。
本作『街の上で』の劇中映画の監督を務めたのは、萩原みのりさん演じる町子でしたよね。
つまり、あの劇中映画というのは、あくまでも町子の価値基準と物差しで、必要か必要でないか、映画になるかならないかを判断して、取捨選択し、作り上げられた映画に過ぎないのです。
そう考えると、イハが「青のカットがあった。」と彼に報告したのは、嘘ではなかったのだと思いました。
なぜなら、イハの「ファイナルカット」の中には、確かに青のカットがあるからです。
つまり、人間の数だけ「ファイナルカット」が存在し、誰かには必要とされない人間も、他の誰かには必要とされ、価値を見出されているかもしれないというのが、『街の上で』という作品に通底する考え方なのだと思います。
映画のラストに、映し出された賞味期限切れの誕生日ケーキ。
冒頭の青と雪が部屋にいた別れの場面でケーキは何の役割も持てず、食べられることなく冷蔵庫に閉じ込められてしまいました。
しかし、時が流れ、映画のラストで青と雪が再び付き合い始めた場面では、賞味期限切れにも関わらず、そのケーキはようやくケーキとしての役割を全うするのです。
必要ない、無価値だと思われたものにも、特に価値が宿ることがある。
それは、「賞味期限切れのケーキも案外いける」というような発想なのかもしれないと思わせてくれます。
こうした考え方が通底した『街の上で』という作品ですが、要所要所でそのメタ映画性をサポートするような演出が見受けられましたので、次はそれについて解説していきますね。
現実を「演じて」生きるということ
(C)「街の上で」フィルムパートナーズ
そして、何より本作がメタ映画的であると感じさせてくれるのは、本作のキャラクターの振る舞いや舞台設定の仕方です。
先ほど、「ファイナルカット」の話をしましたが、本作のキャラクターたちは映画内現実において自分という役を「演じて」いるような振る舞いを見せます。
今泉監督作品の特徴絵もありますが、口語的というよりは、文語的なセリフ回しと定点観測のようなカメラワークが融合することで、独特の作為性のある映像を作り上げていました。
登場人物たちの会話もなぜかぎこちなく、不自然な間ができていたりと「会話劇」として評価するなれば、いささか堅苦しいと評するほかないのかもしれません。
しかし、『街の上で』においては、むしろそうした「演じている」感が重要です。
面白かったのは、青と雪の別れのシーンと、間宮武と雪の別れのシーンを妙にリンクさせて描いていたところですね。
青と間宮は劇中映画の撮影現場で一度出会っているのですが、2人は実に対照的な人物として描写されています。
青は演技素人であり、劇中映画の中で自分役をを演じる際に映画内現実と同じような振る舞いを見せることができません。
しかし、間宮はプロの俳優であるが故に、映画内現実と映画内映画で同じように振舞うことができるのです。
(C)「街の上で」フィルムパートナーズ
この間宮の存在が『街の上で』という作品内の現実と映画の境界線を破壊する役割を担っていたといっても過言ではないでしょう。
そして、彼と青がそれぞれ雪という1人の女性と別れを選択する場面をリンクさせて描くことで、青という人物もまた青というキャラクターを「演じて」生きているという状況を明確にしたわけです。
今作『街の上で』においては、作品の中で同じ店や風景が何度も反芻され、繰り返し用いられていました。
例えば、マスターの経営するバーはそうですよね。
バーという舞台は1つしかないですが、そこに誰が座るかによって、違う会話ややり取りが生まれ、その数だけ物語が生まれます。
「映画」という観点で見た時に面白かったのは、イハの自宅の扱いでしょう。
イハの自宅は当初、劇中映画撮影のための控室という扱いを受けていました。
(C)「街の上で」フィルムパートナーズ
そのため、リビングには間宮や青を初めとした4人の演者がスタンバイをし、それぞれの時間を過ごしていましたよね。
この時、イハの自宅はただの映画の控室であり、劇中映画には登場しない舞台ということになります。
加えて言うなれば、控室の場面で、主人公の青は映画の端役の1人でしかなく、監督からすれば、使えなければカットすれば良いくらいの扱いだったわけです。
しかし、時が流れ、イハの自宅がちゃんと「イハの自宅」として機能する局面に入ると、そこでは映画撮影においては端役だった青とサポートスタッフの1人でしかないイハがメインキャラクターとなります。
(C)「街の上で」フィルムパートナーズ
しかも「映画の控室」でしかなかった場所が、今度は「映画の舞台」へと転じて知るのですから面白いですよね。
つまり、あのイハの自宅という空間は誰かにとっては、「映画撮影のための控室」であり、誰かにとっては「友人の家」であり、そして誰かにとっては「元カノの家」であり、そしてイハにとっては「自分の家」なんですよね。
映画撮影ってまさしくそうで、例えばですが、少し変わったデザインの住宅を設定上宇宙人のアジトということにして撮影を進めることもできます。でもそこを住居として暮らしている人もいるわけです。
人間だけでなく場所や物もどんな設定を与え、どう価値を付与するかによって、その存在意義が変化していくというのが映画の醍醐味なんですよね。
このように『街の上で』という作品は、人間もそして場所やものまでもが誰かの物語の中で、何かを「演じて」いるという構造を明らかにしています。
そして、そうした構造が、人間の数だけ「ファイナルカット」が存在するという本作の主題性の後ろ盾にもなっているわけですね。
物語になる前の「物語」を映し出していく
また、今作の作劇的な面白さは、やはり何か面白そうな出来事が「視点」の及ばない範囲で起きていることを予感させるような作りにしていたことではないでしょうか。
この『街の上で』という作品は、あくまでも青という人物の視点で見た下北沢の風景やその街での営みを切り取ったに過ぎないものです。
そのため、彼の視点の及ばない範囲で起きている出来事については、その多くが存在を仄めかされつつも、描かれないままにされています。
例えば、冒頭に古着屋を訪れて会話をしていた男女は、男の方が1番好きな相手に告白し、フラれたら2番目に好きなその子と付き合うといった内容を話していました。
(C)「街の上で」フィルムパートナーズ
しかし、その古着屋の中で繰り広げられた会話の後に、彼らがどんな物語を繰り広げたのかは見えないんですよね。
ただ、映画の終盤に、仲睦まじそうにあの2人が会話をしながら歩いていく描写があることで、下北沢の街のどこかであの2人の「物語」があったということの痕跡が残されているのです。
それはライブで出会ってタバコを渡してくれた女性についていもそうですし、ラーメン屋で再会した風俗嬢もそうなのでしょう。
彼らの物語は、この『街の上で』という作品の「ファイナルカット」には存在していないのですが、確かにこの「街」のどこかに存在していたはずの物語です。
そうした情報は、この映画を中心にして考えるならば、本編に関係のない些末な情報と切り捨てられるようなものかもしれません。
しかし、仮にあの風俗嬢にスポットを当てた映画を撮ったとしたら、たばこを渡してくれたお姉さんにスポットを当てた映画を撮ったとしたら…。
そうなると、きっと青や雪と言った本作のメインキャラクターたちは一転して些末な情報へと降格させられてしまうのでしょう。
しかし、映画というものは得てしてそういうもので、結局は監督ないし「ファイナルカット」の権限を持っている人間の尺度で必要性や価値が推しはかられ、取捨選択された結果に過ぎないのです。
だからこそ、見えない、もうそこにはない物語やカットにだって、もしかすると誰かの「ファイナルカット」になれるだけの価値があるかもしれないわけですよ。
今作が「街」の映画として洗練されているなと思わされたのは、下北沢という場所をそこに生きる人間の物語の「器」として描いた点だと思っています。
「街の上」では、たくさんの人間が生活をしています。会話をしています。恋をしています。失恋しています。仕事をしています。食べています。音楽を聴いています。タバコを吸っています。
物語の器としての街。
住民を演じる住民。
そうした人間の数だけ存在する膨大な物語の器としての「街」を今泉監督は、メタ映画的なアプローチから描き切ったのです。
私たちは自分の人生の「編集」の権限を持っています。
自分にとって本当に必要なものは何なのか、価値のあるものは何なのか。
そして、大切なものは誰に何と言われようと、大切なのだと口に出さなくてはなりません。
賞味期限切れのケーキなんてやめておけよと言われても、自分にとって意味があるなら食べれば良い。演技が下手だったと断罪されても、自分にとってそれが愛おしいと思えるならば使えば良い。
大切なものは、人間の数だけあって良い。
『街の上で』という作品は、見終わった後にそう思える優しい映画でした。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『街の上で』についてお話してきました。
「片想い」という焦点化された主題から、それをもっと大枠で捉え、「失われゆくもの」「価値や意味を見出されないもの」たちを掬い取り、肯定していくという今泉監督らしさが前面に出た1本でした。
『mellow』などと同様に定点観測のような独特の固定カメラによる長回しが作品全体を通して一貫しており、実に作為的な映画を作り上げることに成功していましたね。
そうした映画という枠組みを意識させるアプローチが、物語そして主題にも還元されていき、全ての人の物語を肯定する人生讃歌を作り上げていきました。
また、「街」の映画としても、「街」を器や受け皿として捉えるという視点が面白く、タイトルの意図が見終わってからじわじわと見えてくるという感覚も心地良いです。
ぜひぜひ、今作『街の上で』を1人でも多くの人にご覧いただきたいですね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。