みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『彼女』についてお話していこうと思います。
『さよなら歌舞伎町』や『彼女の人生は間違いじゃない』などで知られる廣木隆一さんが本作『彼女』の監督を務めています。
元々はピンク映画畑のクリエイターで、一般の映画の方に活躍の場を移してからも、「濡れ場」や「身体性」を活かした作劇に定評のある人物でした。
とりわけ『彼女の人生は間違いじゃない』を制作した際に、廣木監督は「欲望に素直な女性たちを全肯定したい」と語っており、岡崎京子作品などからの影響を語っています。
上京して週末だけAV女優になる専門学校生が登場した『さよなら歌舞伎町』、そして被災地から上京して休日にデリヘル嬢として働く公務員の女性を描いた『彼女の人生は間違いじゃない』。
苦しい現実、退屈な毎日、女性として生きる苦悩。そうしたものから解放される瞬間としての「性」を描き続けてきた廣木監督が今回スポットを当てたのは、レズビアンの2人の女性の逃避行を描いたマンガ『羣青』。
中村珍さんが著した『羣青』は2007年に初めて発表され、大きな影響を与え、今も語り継がれている名作です。
そんな作品を廣木監督が撮るということで、個人的にはかなり期待しているところがありました。
今回はそんなNetflixで配信中の映画『彼女』について個人的に感じたことや考えたことをお話させていただきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
Netflix『彼女』感想・解説(ネタバレあり)
街から郊外へ、欲望を解放する旅
(Netflix映画『彼女』より)
廣木監督の作品、とりわけ『さよなら歌舞伎町』や『彼女の人生は間違いじゃない』では、地方と都会というある種の対比軸が常に見え隠れしています。
地方で専門学生をしている女性が、被災地で公務員として働く女性が、終末に都会へと出てきて、自分の「性」を解放するという構図が描かれていたのです。
逆に今回の『彼女』では、都会の片隅でレズビアンとして生きるレイと、夫からのDVに悩まされながら生きる七恵が、その息苦しさから「解放」を求めているという構図を描いています。
『彼女の人生は間違いじゃない』でも新幹線で主人公が東京と地元を行き来する場面をロングショットで捉えたカットは印象的でした。
今作『彼女』でも「移動」の場面は何度も何度もインサートされています。
- レイが久しぶりに七恵と会うために車で移動する夜の東京の風景。
- レイが七恵の夫に自宅へと持ち帰られる際の夜の東京の風景。
- 七恵がレイを乗せて、東京の外を車で目指す時の橋の風景。
同じ場所を走っていたとしても、それが遠景からのロングショットであっても、風景が与える印象は微妙に変わるんですよね。
また、「移動」というのは、あくまでも「プロセス」であるという点が重要です。
『彼女の人生は間違いじゃない』のような作品では、被災地が始発、東京が終着点でその間を繋ぐ「プロセス」が新幹線の移動ですよね。
ただ、たいていの映画ではこの「移動」は事実の描写としてしか描かれず、むしろその始発と終着の部分の描写に力を入れます。
これは当然なのですが、廣木監督はそこであえて「移動」にスポットを当てるわけです。
「移動」という行為は、ある場所から別の場所へと移る行為を指すわけですが、それに際して人間の心情も変化しますよね。
例えば、序盤のレイと七恵の再会に至るシークエンスでは次のようになります。
- レイが七恵から会いたいと連絡を受けた時:始発点
- レイが七恵の家に移動している時:プロセス
- レイが七恵と再会し、彼女の窮状を知ったとき:終着点
もちろん、始発の部分と終着の部分は「場所」が変化したことで、心情にも大きな変化が生じています。
そう考えると、電話を受けてから彼女の家に向かうまでの「プロセス」の部分には、その「端緒」ないし「助走」のようなものが見えているはずなんですよね。
その前後で比較した方が大きな対比が作れますから、この「プロセス」をカットしがちなところで、廣木監督は敢えてそこにスポットを当て、微細な感情を欠片を掬い取ろうと試みています。
昼の風景と夜の風景。東京の風景と郊外の風景。海の上に架かる橋の風景と山の風景。車での移動と徒歩での移動、バイクでの移動。
(Netflix映画『彼女』より)
走る道によって、時間帯によって、移動媒体によって、そしてそこに映し出される人間の心境によって、「移動」という行為は多様性を帯びるのです。
また、廣木監督はこうした「移動」のショットをロングショットで捉えます。
それは、人物の表情でダイレクトに「感情」を描くのではなく、その周囲を取り囲むものから間接的に「感情」を描こうとするアプローチなのではないでしょうか。
物語そのものが大きな1つの「円」となる
(Netflix映画『彼女』より)
先ほどは映像的な部分での「道=プロセス」の演出にスポットを当てて解説しました。
次に物語ないし構成的な部分で本作が「道=プロセス」を意識したものになっている点についてお話していきます。
少しずつ都会の喧騒から離れていき、秘めていた、閉じ込めていた感情を解放していく物語になっているという点で、本作『彼女』そのものが大きな1つの「道」になっていたのも何とも廣木監督らしい作劇だったと言えるでしょう。
出会った時、レイと七恵はお互いに不思議な、でも特別な感情を抱きましたが、それを表には出すことなく、閉じ込めて生きてきました。
それを象徴する1つのモチーフが2人が分かれた時の割り勘のレシートと550円です。
心の奥深くにくしゃくしゃになっても大切にし続けた思いが、七恵の夫のDVを契機に少しずつ溢れ出していきます。
そうしてレイが七恵のために行動を起こし、逃避行が始まり、海辺の小さな小屋へと辿り着くというのが、映画『彼女』の物語のなりゆきです。
- 始点:レイが七恵と高校生時代の美術の時間に出会う
- プロセス:映画『彼女』における2人の再会~逃避行
- 終着点:レイと七恵が辿り着く海辺の小屋、ガソリンスタンド
このように、本作における2人の「移動」ないし逃避行がそのまま、2人の物語にとっての「プロセス」になっているんですよね。
こうした物語の構成の部分にも、廣木監督の作家性が洗われていることが伺えます。
また、現在軸の物語の進行方向と、回想の進行方向が逆向きになっていて、ラストシーンで始まりと終わりがピタリと重なるように作ってあるのが本当に見事だと思いました。
現在軸ではレイが殺人を犯したことを契機に、2人の物語は次第に「終わり」へと近づいていきます。
しかし、回想の過去軸では2人が喫茶店で別れを選んだ場面から始まり、徐々に高校生のパートに戻っていきます。
そして、現在軸のパートでの彼女たちの終着点である海辺の小屋に辿り着いたところで、過去軸では2人の美術の授業中の出会いの場面へと立ち返りました。
このように「始まり」と「終わり」を重ねることで、2人の物語が1つの「円」を結ぶような構図に仕立てているのです。
そして、2人がガソリンスタンドに向かうシーンは、そうした美しい「円」構造からのある種の脱線ですよね。
レイが逮捕されてしまえば、彼女たちがこれまで延命し続けてきた物語は幕を閉じてしまいます。
ただ、七恵はそんなレイに対して「待ってるから。」と声をかけ、今度はレイが七恵に対して笑顔を向けるんですよね。
つまり、七恵がレイに向けた笑顔から始まった物語が終わり、その「終わり」がレイが七恵に笑顔を向けることで始まる次の物語の「始まり」へと転ずる瞬間を本作のラストシーンは演出しているのです。
この映画『彼女』はレビューサイトなどでも評価が低いのですが、意外とこうした構成面の「美しさ」にスポットが当たっていない印象を受けます。
ぜひ、今作の脚本構成の巧さ、そして回想パートの使い方の巧さに注目して、もう1度チェックしてみて欲しいと思いました。
「居場所」と家、車、駅、小屋…
本作『彼女』における1つのキーワードは、やはり「居場所」だったと思います。
学生時代にレズビアンとして周囲から疎まれていたレイの「居場所」になってくれていたのは、真木よう子さんが演じる女性でしたね。
しかし、学校に「居場所」を見出すことができない彼女の逃避場所が彼女の家として描かれていたようにも思います。
一方で、七恵もまた貧乏な家の育ちで学校に自分の「居場所」を見出せず、唯一そうした苦悩から解放される瞬間が陸上に取り組んでいる時だったのでしょう。
七恵はそんな「居場所」を守るために、万引きをしてしまい、怪我をして陸上を失ってしまいました。
そんな七恵に学校という場所で「居場所」を守ってあげようとしたのがレイであり、一方のレイは七恵に自分の本当に場所を求めていましたね。
ただ、彼らはお互いがお互いの「居場所」になるよりも前に別れを選択し、別々の人生や暮らしを見つけ出します。
しかし、2人が再会したときに、レイはパートナーとの関係で家族における居心地の悪さを感じており、一方で七恵も夫からのDVで家にいることを嫌悪している状態でした。
つまり、お互いの「居場所」になれるはずだった2人が別れを選択したことで、結局彼女たちはどこにも根を張ることができず、身の置き所の無さを抱えて生きてきたわけです。
落ち着いた2人暮らし用のアパートも、都心のタワーマンションの上層階の部屋も彼女たちの落ち着ける場所ではありませんでした。
そうして、2人は七恵の車に乗って、旅に出るわけですが、この時2人の「居場所」は彼女の車へと形を変えたと言えるでしょうか。
こうして2人はとにかく逃避行を続けるために、ヤドカリのようにその場その場のなりゆきに任せて自分たちの身の置き所を見出していきます。
七恵の実家。新聞配達用のバイク。田舎の無人駅。レイの別荘。
しかし、どれも2人が安心して居られるような場所ではなく、身を落ち着けることはできませんでした。
そんな2人が初めて分かり合えたのは、別荘で七恵が「割り勘のレシートと550円」を大切に持っていたことが判明したシーンです。
この時、2人は初めて成り行きではなく、自分たちの行くべき場所を明確に見定めたんですよね。
別荘の窓から、2人が飛び降りるシーンは、まさしくそんな彼女たちの「解放」を象徴するものでした。
(Netflix映画『彼女』より)
だからこそ、終盤に描かれた海辺の木造の小さな小屋は、これまで彼女たちが身を置いてきた場所とは決定的にその性質が異なります。
小さなボロボロの木の小屋。しかし、あれこそが2人が物語の見出した本当の「居場所」だったんですよ。
ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ザ・マスター』という映画でも、空間をその人間自身の「居場所」として描写する演出が取り入れられ、これが高く評価されていました。
『彼女』におけるアパート、マンション、駅、車、別荘…といった空間の使い方も、それに通ずるものがあると感じます。
そしてラストシーンで、彼女たちはようやく見出した「居場所」を警察に逮捕される形で奪われてしまいましたよね。せっかく安住の地を見出したのに、そこに留まることは叶わなかったわけです。
しかし、もう2人の「居場所」は、可視のレイヤーから不可視のレイヤーへと移動していたのだと思います。
2人が最後の時間を過ごしたあの小屋はアレゴリー化され、2人の心の中にずっと存在し続けるはずです。
だからこそ七恵はレイに言うのです。「待ってるから。」と。
物語の序盤に灯油を被って自殺することを考えていたような七恵が、ラストシーンでは車にガソリンを給油しています。
それは彼女が2人で過ごす「未来」のために前進することを、そしてレイのための居場所を守る決意をしたことを表していると言えるでしょう。
家でも乗り物でもない。物理的な空間を超越し、2人がお互いの「居場所」になれた瞬間がラストシーンでまさしく描かれたのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『彼女』についてお話してきました。
というより廣木監督の作風が炸裂した映画だと思いますし、そもそもピンク映画畑の監督で、性による女性の解放にスポットを当ててきたクリエイターだという点は加味されて然るべきでしょう。
原作がありながらも、らしさを映像や構成の節々に散りばめ、見事に『羣青』という作品を基に映像作品を作り上げたと思います。
そして、本作の主人公の2人を演じた水原希子さんとさとうほなみさんは本当に役に入り込んでいましたね。
隠すものもないかなり大胆な濡れ場を演じていましたが、近年どうしてもこうした「身体」と「愛」をリンクさせる描写は減少傾向にあるので、そこから目を逸らさないという姿勢も素晴らしかったです。
ぜひ、本作の演出や構成面の巧さにも目が留まり、評価が伸びていってくれると個人的にも嬉しいですね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。