みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね5月21日よりNetflixにて配信がスタートした映画『アーミーオブザデッド』についてお話していこうと思います。
というのも『バットマンVSスーパーマン』や映画『X-MEN』シリーズなどで知られるザック・スナイダーは、『ゾンビ』のリメイク作品『ドーン・オブ・ザ・デッド』で長編映画デビューを果たしたんですよ。
ロメロのオリジナル版『ゾンビ』とは違ったアクティブで躍動感あるゾンビ描写が「ゾンビ映画」のジャンルとしては革新的で非常に高く評価されました。
そんな彼が長い年月を経て、再びゾンビ映画に挑戦するわけですから、そりゃ興奮するでしょと。
また、本作に関連して、前日譚にあたる『Army of Thieves』が2021年に同じくNetflixで配信予定。さらに、アニメシリーズとして『Army of the Dead: Lost Vegas』が2021年に配信予定となっており、楽しみは続きます。
本編を見た上で、この関連作品について考えてみると、おそらく『Army of Thieves』がそもそも「ゼウス」と呼ばれるゾンビが冒頭に車のコンテナに収容されるに至った経緯を描くのではないでしょうか。
一方で、『Army of the Dead: Lost Vegas』はラスベガスをアメリカ兵たちが何とかして守ろうとしていた戦いや、今作の劇中で主人公たちが作戦の中で発見した先行部隊について言及するものになるのかなと思います。
『アーミーオブザデッド』は、アクションエンタメとして非常に面白く、ゾンビ映画として目新しい要素があるかと聞かれると微妙ですが、「良いとこ取り」をした王道の作りになっていました。
なかなか映画館に行きづらい日が続きますので、ぜひ「おうち映画」のラインナップに加えてください。
ここからは本作について自分なりに感じたことや考えたことをお話していきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
Netflix『アーミーオブザデッド』感想・解説(ネタバレあり)
そもそもタイトルはどういう意味なの?
(映画『アーミーオブザデッド』より引用)
さて、本作は「オブザデッド(of the dead)」というロメロ来続くゾンビ映画のある種の「勲章」とも言える言葉をタイトルに冠した作品となっています。
ロメロのオリジナル版『ゾンビ』は日本語タイトルこそこうなっていますが、そもそもの原題は『Dawn of the Dead』です。
『Dawn of the Dead』というのは、直訳すると「死体の始まり(夜明け)」となり、つまり一度死んだ人間が蘇ることを示唆したタイトルなんですね。
では、今回の『アーミーオブザデッド』が一体どんな意味なのかを考えてみましょう。
直訳すると、これは「死体の軍隊」となるわけですが、「the Dead」は「ゾンビ」という意味でもはや定着しているとも言えるで、「ゾンビの軍隊」ということになるのでしょう。
そう考えた時に、実は本作の中には「ゾンビの軍隊」が3つ存在していたことに気がつきましたか?
まず1つ目は、当然「ゼウス」がラスベガス内で構築しているゾンビの王国のことを指しています。
今作におけるゾンビの特徴は、単に知性があるというだけではありません。
彼らには「アルファ」と呼ばれる知性のある個体と「シャンブラー」と呼ばれる知性のない個体がおり、さらにその上に「ゼウス」と呼ばれるゾンビ生みの親が君臨しているという構造が出来上がっています。
つまり、王がいて、司令官がいて、そして兵士がいるという構造になっているわけで、その点で彼らは文字通り「アーミーオブザデッド」なんですよね。
また、主人公のスコットたちの小隊も、そもそもはマーティンという司令官と、田中という王に雇われた「駒」でしかありません。
そして彼らは、マーティンが首を回収しさえすれば、用済みであり、「死体」になることが宿命づけられているとも言えます。
その点で、主人公たちの小隊もまた、「アーミーオブザデッド=死体(になる運命にある者たち)の軍隊」と言い換えることができるでしょうか。
では、もう1つの「アーミーオブザデッド」はどこにあるのかというと、それは真田広之さんが演じた田中の野望のことです。
田中は、ゾンビたちのクイーンの首を持ち帰ることで、自分の思いのままに「ゾンビの軍隊」を作ろうと考えています。
このように『アーミーオブザデッド』というタイトルが単純にゾンビたちが王国を形成していることを示唆している様で、その他にも作品の後半にかけて明かされる展開の暗示になっているのが面白いところですよね。
独特の撮影スタイルは好みが分かれるか?
『アーミーオブザデッド』は、物語そのものはかなり王道の「ゾンビもの」ではあると思いますので、グロ描写が酷いくらいで、それ以外は万人受けする内容だと思います。
というのも、『アーミーオブザデッド』は手持ちカメラ風の映像に被写界深度の浅い、遠景がピンボケした映像を組み合わせてあるんですが、これがかなり強烈です。
特に終盤のカジノでの戦闘シーンを見ていただけると、一番分かりやすいんですが、ものすごいスピード感で視点が動いていくのに、カメラがブレブレでしかも、ものすごい背景がピンボケしてるんですよ。
(映画『アーミーオブザデッド』より引用)
本作は、なんとザック・スナイダー自身が撮影も担当しているのですが、おそらく何が起きているのかわからないスピード感と臨場感を出すための演出だったのだとは思います。
ただ、手ブレ演出は良いとしても、この被写界深度の浅い映像がかなりキツいんじゃないでしょうか。
ザック・スナイダー監督の映画って、やっぱり「ケレン味」のある画作りが印象に残ります。
ただ、今回の『アーミーオブザデッド』は映像そのものが、こうした独特な撮影方法によって、全体的にぼんやりとしており、逆に持ち味を殺してしまった印象も受けました。
いつものような1つ1つのショットのパワーが感じられなかったのは、個人的には残念でしたが、今作のような撮影手法が好きという方もいるとは思うので、賛否は分かれるのかなと感じました。
伏線が伏線じゃなさすぎて笑っちゃう
そして、肝心の物語部分ですが、率直に印象を述べると、「面白いし、分かりやすいけど、なんか適当」って感じですね。
序盤の主人公のスコットによる仲間集めのパートが妙に『七人の侍』を思わせるものになっていたのは、テンション上がりました。
また、とにかくアクション、アクション、アクションで突き進んで行く構成は、エンタメ映画としてはもう満点だったと思います。
要約すると、こんな感じなんです…。
ナガ「これ、伏線やな…。」
ナガ「いや、これも伏線ちゃうか…?」
ナガ「俺の目はごまかせへんで!それ伏線やろ!」
ナガ「それ伏線やん。知らんけど。」
ナガ「ザッツ、伏線!」
映画「いや、それ全部伏線ちゃうねん…。」
もう、あまりの伏線の回収のされなさに、開いた口がふさがりませんでした。
まずは、あのゾンビタイガーですよ!
(映画『アーミーオブザデッド』より引用)
ゾンビたちの軍勢の中でも明らかに異質な存在で、そのビジュアルも恐ろしい。これはさぞかし面白い特性があるんだろう…と思わせておいて、
結局、ただのトラやないかい!!!!
人間の襲い方も普通のトラだし、全然「ゾンビタイガー」としての見せ場が無かったのは、あまりにもガッカリですよ。
(映画『アーミーオブザデッド』より引用)
何かやたらと強調して見せつけてくるから映画の中のここぞという時に登場して、観客を盛り上げてくれるんだと思うじゃん。
ぜんっぜん、出てこねえ!!(笑)
釘バットなんて序盤の回想で出て来たっきり、一度も出てこないし。
チェーンソーに至ってはあれだけ強調しておいて、終盤にコヨーテと呼ばれていた女性が地下室の壁に穴を開けるために使っただけですよ?
(映画『アーミーオブザデッド』より引用)
いや、ゾンビに使うところが見たいねん!!(笑)
という具合に、あれだけ印象的な武器を出しておいて、銃とナイフと素手以外ほぼ使わないという縛りには驚かされました。
本作における知能のない「シャンブラー」と呼ばれる最下層のゾンビたちは、太陽で干からびるのですが、雨が降って水分を取り戻すと、再び行動を開始するという設定が明かされていました。
わざわざセリフで説明させていたから、当然作品の後半の重要な局面で雨が降って、主人公たちが窮地に陥ると思うじゃないですか。
しかも、仲間集めのパートで『七人の侍』オマージュやってたんだから、絶対に終盤は雨の展開になるだろうという臭いがプンプンしてるじゃないですか。
それで、なんで雨降らんねん!!いや、そこは降れよ!!(笑)
何で、雨が降ったら復活するという設定出しておいて、干からびたままにしとくねん…。高野豆腐あったら水で戻すやろ。それと一緒やん…。
作戦がスタートする前にヘリコプター担当の女性が、こんなことを言い始めたのを覚えてますか。
「トリアージはもう済んでる?」
つまり、命の選択を迫られた際に誰の命を優先して守るべきかという話をしていたわけです。
当然、こんな話題が挙がれば、後にヘリコプター担当や金庫担当を生かすために、命の選択を迫られるシーンがあるんじゃないかと思うじゃないですか。
いや、ないやん…。全然なかったやん…。
任務中に主人公たち一行は、自分たちと同じ任務を任された先行部隊の亡骸や彼らが残したマップを目撃していました。
その上で、彼らのうちの1人がこんなことを言っていましたね。
「彼らは未来の僕たちなのかもしれない。僕たちは田中の「駒」で終わらないループの中でこの作戦に繰り返し参加し、その度に失敗し続けているんだ…。」
いや、このセリフなんやったん???(笑)
え、前日譚で回収するから許してくれってこと…?
そして、終盤にゾンビの軍勢がカジノに押しかけて来る直前のケイトのあの行動。
親父が通路は塞いどけと言っていたのに、ゾンビの亡骸の手を挟んで、微妙に隙間を開けておいたやつ。
いや、それはちゃんと伏線なんかい!!(笑)
という具合に当ブログ管理人の心の中の「おいでやす小田」を思わず召喚したくなる作品でした。
まあ、こういうツッコミどころというか、あまりにも放置されまくった伏線の数々には衝撃を受けましたが、そこも含めて楽しめたので良しとしましょう。
「家族」や「女性」のテーマの描き方は雑すぎる
(映画『アーミーオブザデッド』より引用)
本作『アーミーオブザデッド』は端的に言うと、「家族」がテーマの作品で、そこに「女性」のテーマ性も絡んでくるという内容だと思います。
ただ、これは本当に雑すぎて、いろいろ酷いな…という印象を受けました。
まず、「家族」についてですが、本作は人間の側にも「家族」がある一方で、ゾンビの側にも「家族」があるという構図を作り上げていました。
とりわけ主人公のスコットはかつて自分の行いによって家族の関係を壊してしまい、さらにはゾンビと化した妻を自らの手で殺めたことで完全に娘と冷戦状態に突入しています。
そうした壊してしまった家族の繋がりを取り戻すための戦いを描き、終盤に娘のケイト自身が父を殺さなければならないという同じ立場に置かれることで、父の愛の深さを知るという展開はすごく美しかったと思いました。
愛しているからこそ、引き金を引かなければならないという状況に置かれて、ケイトは初めて引き金を引けるということがどれだけ愛情深い行為なのかを知ったわけです。
というのも、彼が『ジャスティスリーグ』を撮影していた時に、20歳の愛娘オータム・スナイダーが自殺しているんですよ。
そう考えると、本作における娘のケイトが迎える結末というのは、ザック・スナイダー自身の娘に対する「生きていて欲しかった。死とは別の新たな人生を選んで欲しかった。」という思いの表出なのかもしれません。
ただ、ゾンビ側にも「家族」がいるという展開を描いた割に、そっちの「家族」はめちゃくちゃ雑に扱って、平気でぶっ壊していくのが個人的には良いとは思いませんでした。
というのも、本作におけるゾンビって、自分たちの国のようなものを作り始めていて、それはもはや人間さながらなんですよ。
そして、彼らはあくまでもラスベガスのコンテナの中の領域に留まって生活を続けているのであって、今のところ外の世界に繰り出して、危害を加えてやろうと言った素振りを見せてはいませんでした。
そういう領域に外から人間がズカズカと入っていって、平気でその文化圏を破壊していくという構図は、異民族を侵略している構図にも見えてしまいます。
つまり、自分たちの「家族」を守るためであれば、彼らの「家族」は平気でぶち壊しても良いというような印象を与えかねないのです。
ゾンビ側にも「家族」がいるという設定を打ち出したのであれば、そこに寄り添う展開は必要だったと思いますし、その設定を出した割にゾンビが単なる殲滅の対象にしかなっていないのは、明らかな脚本の力不足でしょう。
そして、もう1つ「女性」のテーマの描き方もなかなか酷いものがありました。
まず、保安官のバートの扱いはいくらなんでもやりすぎかな…と思います。
彼は、隔離された人たちのコロニーでセクハラ行為やレイプ行為をしていたと言われていますが、劇中で描写されていたのはあくまでもセクハラ描写の身でした。
そんな彼は、ラスベガスに足を踏み入れると、早々に生贄としてゾンビたちに差し出されてしまいます。その理由というのが、先ほど挙げたセクハラ行為やレイプ行為でした。
もちろん、こうした行為は許されるべきものではありません。しかし、劇中でバートの悪行として描かれたのは、あくまでも冒頭のセクハラ発言だけなんですよね。
つまり、バートの「観客から見える悪行」に対して、彼が受ける罰があまりにも重すぎて、釣り合っていないように見えるのです。
もう少し、観客から彼へのヘイトが溜まっている状態だったら、彼が生贄として差し出される展開に少しは納得できたかもしれませんが、あれだけの描写しかないのに、いきなり序盤に「死刑宣告」キツすぎませんかね。
近年の女性に対するセクハラ問題やレイプ問題に対するメッセージ性を込めることそのものはすごく重要だと思うのですが、正直、この描写の仕方を見ると、作り手は興味ないんだろうな…と思ってしまいます。
そして、個人的にもう1つ気になったのが、ゾンビたちのクイーンの首の扱いですね。
個人的に、あの首を取っておいたのは、てっきり「ゼウス」に首を返して、何とか平和的な解決を図るという結末をめざしているからだと思ったんですよ。
でも、映画を見ていただければ分かりますが、あの首は最終的にビルの屋上から地面に叩き落されて木端微塵になるだけです。
「人間の女性を陥れた男は許せない!」とあれだけ言っていたリリーが、夫の下に帰りたいと願っているゾンビの女性の首はあんな扱い方するんだ…と衝撃を受けました。
結局、この映画の綻びは大体、「ゾンビにも家族がいる」という設定を打ち出してしまったことに起因しています。
これがあるが故に、ゾンビが人間に近い存在となり、言わば「異民族」的なコンテクストを帯びているのです。
それにも関わらず、人間の「家族」や「女性」は尊重して、ゾンビのそれは尊重せず、単なる殺戮の対象として雑に処理していくというダブルスタンダードが目立つので、絶妙に嚙み合わないんですよね。
中途半端に作品にメッセージ性を出そうと色気を出した結果、作品として自己矛盾してしまったのかなという印象です。
こうなるくらいなら、もっとアクションエンタメ全開で、ドラマ性は極力出さないというアプローチで良かったと思います。
それでも、ゾンビにも「家族」がいて…という設定で生きたいなら、
- ラストでの核爆弾が撃ち込みは中止される
- ゾンビのクイーンの首は「ゼウス」に返却される
- ゾンビたちのテリトリーがコンテナの内側に維持される
という3点は描くべきだったのではないでしょうか。
この3つが描けていれば、テーマ的にはかなり矛盾なく、最後まで行けたんじゃないかなと思いました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『アーミーオブザデッド』についてお話してきました。
とにかく伏線が回収されなさすぎるジレンマにもどかしい思いになり、そしてテーマ性の雑さに思わずため息をついてしまうところはありました。
ただ、アクションの部分やゾンビ映画の面白いところを詰め込んだ作劇については満足できるものになっていると思いますので、一件の価値がある作品だとは思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。