みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』についてお話していこうと思います。
当ブログ管理人は個人的には、劇場公開版つまりジョス・ウェドン版の『ジャスティスリーグ』は嫌いではないです。
一方で、明らかにザック・スナイダーが撮ったんだろうなと思われるカットとそうではないカットが混在していて、映画としてのトーンが定まりきっていない印象を受けました。
特に映画の終盤のステッペンウルフとの最終決戦は明らかに、構図や1つ1つの画のパワーが落ちていて、一番盛り上がるべきクライマックスでまさかのトーンダウンという現象が起きていたことは否めません。
ただ、そんな劇場公開版に比較的好意的な印象を持っている自分でも、今回の『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』についてはもう手放しで絶賛する他ないと思いました。
全編にわたってザック・スナイダーらしい構図と演出を徹底し、彼が当初やりたかったことを全部盛り込むと、ここまでとんでもない映画になるポテンシャルを秘めていたのかと驚愕しましたね。
基本的なストーリーラインについては変化していないのですが、全く別の作品に感じられますし、彼が追求してきたヒーロー譚を「神話」として見せるというこだわりが全体を通底している極めて完成度の高い作品に変貌していたのです。
また、劇場公開版では、ストーリーの繋がりが良くなかったり、キャラクターの掘り下げが甘かったりと言った部分が目立ちましたが、それらも綺麗に補完されていました。
そして、ファンの多くが期待していた『バットマンVSスーパーマン』で描かれた「ナイトメアパート」の詳細が綺麗に描かれていたのもサプライズ要素だったのではないでしょうか。
今回の記事では、主に4つの観点から『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』の素晴らしかった点について語っていこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
そもそもザックスナイダーカットが公開された経緯とは?
監督の交代劇とファンによるムーブメント
今回のスナイダー・カット公開に至るまでの経緯を知る上で、まずこの2人について知っておく必要があります。
ザック・スナイダーは『マン・オブ・スティール』や『バットマンVSスーパーマン』の監督を務めた人物です。
彼は、コミックスへのリスペクトを込めた演出、外連味溢れるアクション、神話を想起させるような画作りがアメコミファンから高く評価されています。
ジョス・ウェドンは、MCUのヒット作『アベンジャーズ』成功の立役者とも言われる人物で、掛け合いの中でヒーローを掘り下げていくライトなアプローチに定評があります。
では、この2人を頭に入れた上で、「スナイダー・カット」公開に至るまでのタイムラインを見てみましょう。
- 2016年4月:ザック・スナイダー監督による『ジャスティスリーグ』撮影開始
- 2016年12月:撮影終了
- 2017年5月23日:監督のザック・スナイダーとプロデューサーのデボラ・スナイダーが完成間近で降板
- 2017年5月頃~:ジョス・ウェドン監督による大規模な再撮影がスタート
- 2017年11月17日:ジョス・ウェドンカットの『ジャスティスリーグ』が全米公開
- 2017年11月~:「スナイダー・カット」の公開を求める署名活動が始まり、18万人いじょうの署名が集まる
- 2019年3月:スナイダーが自身の撮影したカットがまだワーナーに存在していることを発表
- 2019年12月:スナイダーが自身のVeroアカウントに「Z.S. J.L. ディレクターズカット」と書かれたテープが入った箱の写真を公開
- 2020年2月:ワーナーが「スナイダー・カット」の制作を正式決定
- 2020年5月20日:スナイダーが『マン・オブ・スティール』のオンライン視聴パーティー後のQ&Aの中で「スナイダー・カット」の公開を発表
まず、ザック・スナイダーの降板についてですが、その理由は表向きには、2017年の3月に彼の娘で当時20歳だったオータムさんが自殺したことだったと発表されました。
しかし、その実は『バットマンVSスーパーマン』が興行的に振るわなかったことに対して不満を持っていたワーナーが、ザック・スナイダーの手掛けた『ジャスティスリーグ』のラフカットに対して不満を爆発させたことによる「解雇」に近かったと言われています。
次に、ジョス・ウェドンの監督就任と大規模な再撮影についてですが、これについてもいろいろとありました。
というのも、ワーナーは表向きには、ザック・スナイダーの意向をそのまま反映した作品に仕上げると発表しつつ、裏でジョス・ウェドンによる大規模な再撮影を進めさせたのです。
その結果、ジョス・ウェドンは当初の脚本に80ページ近くを追加し、ザック・スナイダーが撮影した映像は全体の10%程度しか使用されていないとも言われています。
こうした制作側の行動が生んだ不信感もファンをいらだたせたのですが、「スナイダー・カット」の公開を求める署名活動が起きる最大のきっかけになったのは、やはり2017年11月に公開された映画の出来が良くなかったことです。
先ほど、少しだけスナイダーとウェドンの作風の違いを説明しましたが、この2人の全く異なるアプローチが1つの作品の中でぶつかり合っていたのが大きな問題で、批評家からは「フランケンシュタイン」と揶揄されていました。
そうして、公開直後から展開された「スナイダー・カット」の公開を求める署名活動は#ReleaseTheSnyderCutというハッシュタグで拡散されていきます。
当初は、熱心なファンの間での盛り上がりに過ぎませんでしたが、『ジャスティスリーグ』のキャストやスタッフを初めとした業界関係者も巻き込み、徐々に大きなムーブメントとなっていき、最終的にはワーナーを動かすこととなったのです。
ジョス・ウェドンの功罪とキャスト陣による告発
ジョス・ウェドン監督は、ワーナーから再撮影も認められ、作品の全権を握るわけですが、完成間近の再撮影となるといろいろと障害もあります。
スーパーマンを演じているヘンリー・カヴィルは、既に本作の撮影を終え、『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』への出演に向けて、髭を伸ばしていたんです。
そんな中で再撮影が決定。ただ、髭をそるわけにはいかない。でも、髭の生えたスーパーマンはおかしい。
ファンの間ではジョス・ウェドンの撮影した映像か、ザック・スナイダーの撮影した映像かを見分けるには、ヘンリー・カヴィルの口元の不自然さに注目すれば良いなんてことが皮肉交じりに言われていました。
こうした苦難もありつつ、再撮影が行われ、ザック・スナイダーの当初考えていたものとは別物に近い形で、何とか公開に漕ぎつけたというわけです。
ちなみに『インセプション』などで知られるクリストファーノーラン監督は、ジョス・ウェドンの手で完成された劇場公開版について、ザック・スナイダーに「あの映画は絶対に見るな」と忠告していたのだとか…。
個人的には、ジョス・ウェドンは『ジャスティスリーグ』を「ライトなテイストで、2時間以内の映画にしろ!」という配給側のリクエストに応えた映画を作り上げた点で、凄腕の監督だとは思います。
ただ、後にこの再撮影のプロセスで様々な問題が起きていたことがキャスト陣による告発で明らかになっていきます。
その被害を最も受けたのがレイ・フィッシャーであり、彼の演じたビクター・ストーン(サイボーグ)でした。
彼は、2020年の7月に監督のジョス・ウェドン、ワーナーおよびDC Filmsのプロデューサー陣による差別的な扱いがあったと告発しました。
「ウェドンのセットでのキャストやスタッフの扱いはおぞましく虐待的でプロとは言えないものでありまったく受け入れられない。彼は色々な意味でジェフ・ジョーンズとジョン・バーグによって生かされていた。」
彼が声明の中で差別的・虐待的な行為として挙げていたのは、
- カジモド(『ノートルダムの鐘』の主人公)のようにサイボーグを演じてほしい
- サイボーグの男性器の存在を強調するために再撮影を強要する
といったものでした。
さらに、本作の脚本の書き直しが行われた際には、サイボーグの描写があからさまに減らされ、これについてレイ・フィッシャーがジョス・ウェドン監督に相談すると、「君の話を聞くつもりはない」と話を遮られたのだそうです。
こうしたレイ・フィッシャーに対する差別的な扱いが映画の中にも垣間見えます。
終盤にヴィランのステッペンウルフがサイボーグの足を引きちぎるシーンが2017年公開版にはあるのですが、今回のザック・スナイダーカットには存在していません。
おそらくこれはジョス・ウェドン監督によって再撮影されたカットの1つなのだと思います。当時、レイ・フィッシャーもこの描写を取り入れることに反対したそうですが、全く聞く耳を持ってもらえなかったのだとか。
そして、レイ・フィッシャーの告発に同調して、ワンダーウーマン役のガル・ガドットも自身も脅迫的な扱いを受けたとジョス・ウェドン監督を告発。
さらにアクアマンを演じたジェイソン・モモアもこの告発に賛同し、徐々に世間のジョス・ウェドン監督ないし『ジャスティスリーグ』の製作陣への批判が高まっていきました。
こうした現場でのゴタゴタやネガティブな部分がどんどんと表に出てきてしまったことも「スナイダーカット」を求める声を増長させる方向に働きましたね。
『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』解説・考察(ネタバレあり)
あまりにも違い過ぎた画力
劇場公開版と今回のザック・スナイダーカットを比べて見て、やはり目に見える最大の違いは、映像の持つ画の力だと思います。
劇場公開版については、ザック・スナイダーが制作途中で降板したため、『アベンジャーズ』などで知られるジョス・ウェドンが後を引き継ぎ完成へと導きました。
そうした事情もあり、映画の前半から中盤にかけては、比較的ザック色の強いカットが配置されているのですが、後半になるにつれて目に見えて画力が落ちていくのが感じられました。
個人的に2つを見比べて見て、最も大きな差を感じたのはスーパーマンの描き方です。
市街地のスーパーマンの像の前で戦闘を繰り広げるシーンについては、一部カットが異なりますが、それほど大きな差はありません。彼が郊外の家でロイスと穏やかな時間を過ごす一幕も同様です。
しかし、劇場公開版だとその後スーパーマンが登場するのは、ステッペンウルフがサイボーグを襲おうと試みた場面でした。
ただ、『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』では、スーパーマンが研究施設に置かれている宇宙船を訪れ、そこで父の声を聴いて「復活」を遂げるカットが描かれていました。
スーパーマンが飛翔し、大気圏を超えて地球の輪郭と太陽の光が交わる交点で、手を広げ十字架のような格好になるシークエンスが追加されているのですが、ここにザック・スナイダーが志向する「神話」としてのヒーロー譚の醍醐味が凝縮されていますよね。
© 2021 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
死して復活を遂げるという聖書におけるイエスの物語にスーパーマンを重ね合わせ、文字通り「十字架」を再現することで、救世主としての役割を視覚的に明確にしたわけです。
そして、スーパーマンがサイボーグの窮地に駆けつけるシーンにしても、その登場のさせ方の画のパワーに雲泥の差がありました。
劇場公開版では、ステッペンウルフの背後から声が聞こえてきて、振り返るとスーパーマンがいるという演出が為されていました。
確かに、「救世主は遅れてやって来る」のコンテクストとしてはよくある演出なんですが、スーパーマンという圧倒的な存在を観客に印象づける上では、明らかに力不足なんですよね。
しかも、このシーンでサイボーグは足を引きちぎられているんです。そんな状況で、のんびりと現れるスーパーマンなんかどう考えてもあり得ません。
それを踏まえて、『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』の方を見てみると、その歴然とした差に衝撃を受けると思います。
ステッペンウルフが大鎌を振り下ろすと、ものすごいスピードで飛んできたスーパーマンがマザーボックスを解除しているサイボーグの背後に立ちはだかります。
ここで、流石だなと思ったのは、次の2点。
- サイボーグからの攻撃をしっかりと庇っている点
- 他のヒーローたちが苦戦していた大鎌による攻撃を手すら使わずに涼しい顔で受け止めている点
バットマンを初めとする他のジャスティスリーグの面々も確かに強いのですが、ステッペンウルフの前には苦戦を強いられていましたし、あの大鎌の攻撃にはかなりダメージを受けていました。
© 2021 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
そうした前提があるからこそ、涼しい顔で手すら使うことなく大鎌を受け止めてしまうスーパーマンという存在の異質さ、ずば抜けた強さが際立つんです。
その上で、息を吹いただけであの鎌を破壊してしまう描写が、彼がいればもう大丈夫という安心感を与えてくれるのも大きかったですね。
画面中央の光源をバックに立つスーパーマンと画面手前に倒れているステッペンウルフ。
© 2021 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
この構図を見ただけで、どちらが優位なのかが分かりますし、何よりこれもう「宗教画」の領域に達していると言っても良いくらいの構図ですよね。
スーパーマンに纏わる一連の描写が個人的に劇場公開版で不満だったこともあって、ザック・スナイダー版でようやく求めていたものを見れた感覚があったので、何とも感慨深かったです。
その他にも多くの部分で、映像のパワーやアクションシーンの外連味が向上しており、これを見た後に劇場公開版を見ると、どうしても「弱く」感じられてしまうと思います。
ヒーロー譚を「神話」として描くザック・スナイダーの真髄が垣間見える作品でした。
大きく補完されたヒーローたちのバックグラウンド
そもそも『ジャスティスリーグ』の劇場公開版は、かなり映画の順番としては特殊な位置づけでした。
MCUだと『アベンジャーズ』が公開される前に、アイアンマン、ハルク、キャプテンアメリカ、ソーの単独作品がそれぞれ公開されていました。
そのため、ヒーローたちのバックグラウンドをアッセンブル作品の中で掘り下げずとも、ある程度映画として成立するというアドバンテージがあったのです。
ジョス・ウェドン監督は、そうしたアドバンテージを活かしたアプローチを『アベンジャーズ』で取り、見事に成功へと導いた功労者でした。
しかし、『ジャスティスリーグ』の場合は『マンオブスティール』『バットマンVSスーパーマン』そして『ワンダーウーマン』の3作品しか公開されていない状況でのヒーローアッセンブルだったんですよね。
つまり、同作に登場するアクアマン、サイボーグ、フラッシュの3人については、この映画で初登場なので、ある程度バックグラウンドをこの作品の中で掘り下げる必要がありました。
結果的に、劇場公開版では3人のヒーローのバックグラウンドについては、かなり雑な描写に終始していて、あまり愛着もわかないという散々なことになっていました。
しかし、今回の『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』は、尺が4時間近くあったということもあり、3人の初登場のヒーローたちのバックグラウンドをかなり掘り下げて描けていたように思います。
2017年版では正直「魚と話せる大男」くらいのイメージしか持てなかったキャラクターですが、今回は
- アーサーがアトランティスの王国と距離を取っており、王座を継承することから逃げている
- アトランティスでは異母兄弟オームが侵略戦争を計画しており、ヴァルコはその動きを封じるためにアトランティスに戻ってきて欲しいと考えている
- 人間の父親とアトランティスの母親の間に生まれた複雑な境遇の持ち主である
といった2018年に公開された『アクアマン』にもリンクするアーサーのバックグラウンドがしっかりと掘り下げられていました。
彼については、2017年版でも刑務所で不当に有罪判決を受けた父親を救おうとしているという設定については描かれていました。
その一方で、今回のスナイダーカットでは、暴走トラックからアイリス・ウェストという女性を救出するシーンが追加されました。
このアイリスという女性は、主人公バリー・アレンが恋に落ちる女性であり、コミックスでは後に彼の妻となる重要なキャラクターです。
おそらく後の『フラッシュ』単独作への布石として取り入れられる予定だったシーンなのでしょうか、2017年版では完全にカットされていました。
特に、良かったのは監督も力を入れたと語っているサイボーグの描写ですね。
劇場公開版では、父親との関係性についても掘り下げがかなり甘く、そのコンフリクトと成長が見えづらくなっていました。
『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』では、サイボーグについて以下のような描写が追加されています。
- 父親がキューブの位置を可視化するために命を落とす
- サイボーグの人間離れした姿であっても生きて欲しいと願ってくれた父の思いを胸にキューブの分離を成功させる
- 父がボイスレコーダーに残した音声を聞きながら、ヒーローとして生きる覚悟を決める
劇場公開版だと、彼の父親との関係性の描写がすごく弱いんですが、『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』では、父親が命を落とす展開が加えられたことで、一気に物語に深みが出ました。
© 2021 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
とりわけ、彼が抱えているコンフリクトが「こんな姿にしてまで自分を生き返らせた父に対する怒り」として明確に描かれていたのが、良かったのではないでしょうか。
そして、父の本当の思いに触れた彼の成長の可視化として、マザーボックスの分離シーンを位置づけたのも素晴らしいと言う他ありません。
劇場公開版では、単にサイボーグとスーパーマンが協力してマザーボックスを分離させるというだけだったんですが、ザック・スナイダーカットには、サイボーグの見た幻影が追加されました。
ここで、サイボーグは自分がまだアメフト選手として活躍していた3人家族だった時の幸せなビジョンを見ます。
しかし、彼は今を受け入れ、そして父が何とかして生きさせようとした結果としてのサイボーグの姿を受け入れる形で、そのビジョンを引き裂こうと試みるのです。
3人の家族と3つのキューブ。これを重ね合わせ、コンフリクトとそこからの脱却を可視化するという演出には思わず拍手をしてしまいました。
アクアマンについては、後に公開された単独作で描かれていた内容への布石として、弟の存在に言及されていたり、彼が手にする銛の位置づけが明確になっていたりと、アトランティスに対して彼自身がどういう立場をとっているのかがより具体的に描かれていたのが良かったです。
フラッシュについての最大のサプライズは、彼の時間を移動する能力を取り入れた点だと思いますが、バックグラウンドの描写についても父との関係がより深堀されていて、涙を誘うものになっていました。
もちろん作品の尺に大きな違いがあるので、一概には比較できないのですが、それでも『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』は限られた時間の中で、見事に各ヒーローたちにスポットを当てることに成功していたと思います。
ザック・スナイダーとオータム・スナイダー
映画のラストに「オータムに捧ぐ」という言葉が出てきましたが、これは今回の『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』が作られる経緯にも関係する非常に重要な献辞です。
というのも、2017年の3月にザック・スナイダーの愛娘オータム・スナイダーさんが自殺しました。当時大学生で、まだ20歳でした。
このことがあり、ザック・スナイダーは完成を間近に控えていた『ジャスティスリーグ』から降板する運びとなったわけです。
そして、今回新たに作られた『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』は、彼の愛娘であるオータムさんへの思いが込められた映画になったことは間違いありません。
とりわけ、先ほども触れたサイボーグと彼の父の関係性の描写には、監督の思いが強く感じられます。
事故で致命傷を負った彼をマザーボックスという禁忌の力を使ってでも蘇らせようとした父の姿には、ザック・スナイダー監督自身の娘に生きていて欲しかったという強い思いが感じられました。
もちろんこのメッセージは父からビクターへと向けられたものではあるんですが、そこにザック・スナイダー自身から彼の娘に向けた思いが重なっているようにどうしても聞こえてしまうので、もう涙が止まらなくなります。
『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』は、劇場公開版以上に「家族」ないし「親子」の物語になっていますし、喪失から立ち直る物語という色が濃くなっていました。
ダイアナも、アーサーも、ビクターも、バリーも、みんな誰かの「子」であり、そして親との関係に何らかの葛藤を抱えています。
そうした葛藤がジャスティスリーグとして団結して戦っていく中で少しずつ解けていくプロセスを丁寧に描いていたのは印象的です。
これって、ザック・スナイダー監督にとってのオータムさんの存在のことを指しているような気がしています。
生きていた頃も、亡くなってしまった今も、そしてこれからも彼女はザック・スナイダー監督の心の中の「ヒーロー」であり続けるのだと、そう言っているように感じられたのです。
この『ジャスティスリーグ』という作品が辿った経緯を鑑みても、今回のザック・スナイダーカットのエピローグには思わず胸が熱くなりますね。
ようやく回収された「ナイトメアパート」の伏線
そして、もう1つ『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』が作られた大きな意義として挙げられるのが、「ナイトメアパート」の詳細が明かされた点です。
この「ナイトメアパート」は『バットマンVSスーパーマン』で描かれ、様々な憶測を呼びました。
まず、『バットマンVSスーパーマン』では次の2点が描かれていましたよね。
- バットマンがスーパーマンに殺される
- 未来から現れたフラッシュが「ロイス・レインが鍵だ!」と告げる
(映画『バットマンVSスーパーマン』より引用)
『バットマンVSスーパーマン』の作中で、この伏線が回収されることはなく、さらにフラッシュが登場するのが『ジャスティスリーグ』だと明言されていたこともあり、そこで何らかの伏線回収がなされるだろうというのが多くのファンの見立てでした。
ただ、劇場公開版では、この「ナイトメアパート」についての言及がほとんどなく、完全に宙に浮いた状態になっていました。
しかし、今回の『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』でようやく、この伏線が回収される運びとなったのです。
まず、サイボーグがマザーボックスに触れた時に見たビジョンが非常に重要なものでした。
- ワンダーウーマンが死んでいて、火葬されようとしている
- アクアマンがダークサイドに銛で貫かれて絶命している
- スーパーマンがロイス・レインの亡骸を抱えて絶望している(その背後にダークサイドがいる)
- グリーンランタンがスーパーマンに蹴散らされている
- スーパーマンがバットマンのマスクを手に持っている
まず、一連のビジョンの中で「スーパーマンがバットマンのマスクを手に持っている」が描かれていましたが、おそらくここに『バットマンVSスーパーマン』でスーパーマンがバットマンの心臓を攻撃したシーンが繋がってくるのだと思います。
そして「スーパーマンがロイス・レインの亡骸を抱えて絶望している」描写がありましたが、これはおそらくバットマンがロイス・レインを救うことができず、スーパーマンが悲しみに暮れているという状況でしょう。
© 2021 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
その上で、スーパーマンの肩に手を乗せるダークサイドの姿が描かれていましたが、おそらくここで不安定になったクラークにダークサイドがつけ入って、心をコントロールするんでしょうね。
そうしてダークサイドのコントロール下に入ったスーパーマンがヒーローたちを殲滅してしまうというのが、「ナイトメアパート」の真相だと思われます。
『バットマンVSスーパーマン』で登場したフラッシュは、今回の『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』のエピローグに登場した彼と全く同じビジュアルです。
つまり、「ロイス・レインの死」がクラークの動揺の契機となり、ダークサイドがつけ入る隙を与えてしまった結果、最悪な未来が来るということを、フラッシュは過去のブルースに伝えているわけです。
『アベンジャーズ エンドゲーム』でもタイムトラベルを利用した展開が描かれていましたが、『ジャスティスリーグ』もそうした時間を超えて、事象を改変していくような物語を当初想定していたのかもしれません。
つまり、ロイス・レインが殺されたことでスーパーマンが敵になる絶望的な未来を回避するために過去に干渉して、物語を再構築していくような構造ですね。
ただ、この「ナイトメアパート」の伏線が回収されてしまったことで、余計に『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』の続きが気になりすぎます。
だってダークサイドの軍勢がやって来るのもこれからという状況で終わっていますし、明らかに物語は完結していないわけじゃないですか…。
何とか続きを見れる方法はないんですかね(泣)
今回の「ザックスナイダーカット」が公開された意義とは何だったか?
© 2021 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
今回の「スナイダー・カット」のエピローグのサイラスによるモノローグの中で、「世界は過去ではなく未来に続いている」という言葉がありました。
僕は、この言葉こそが今回改めて「スナイダー・カット」が公開されたことの意義を体現しているのではないかと考えています。
先ほども述べたように、彼が当初考えていたユニバース構想は現状では、今後継続されることはありません。だからこそ、彼の作ってきたユニバースはこの『ジャスティスリーグ』で幕切れを迎えます。
しかし、「ナイトメアパート」はこの終わり行くユニバースに「未来」を与えました。
サイボーグやバットマンが垣間見た恐ろしい「未来」のビジョンは近い将来、あの世界に訪れるかもしれませんし、回避されるかもしれません。
ただ、そうした「未来」に向けて、映画としては描かれずとも、バットマンやスーパーマンたちの物語が確かにあのユニバースの中で続いていくのだという予感が私たちに残されたのです。
「世界は過去ではなく未来に続いている」
この言葉における「世界」とはまさしくザック自身が構想した物語なのだと思います。
ザック・スナイダーが描きたかったDCユニバースが、ここで幕切れになったとしても、「ナイトメアパート」として描かれた「未来」の描写がある限り、私たちは、その空白を埋める物語をそしてそれを乗り越える物語の存在に思いを馳せることができるのです。
それこそが、「スナイダー・カット」が公開されたことの最も大きな意義だったのではないかと考えています。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ジャスティスリーグ ザックスナイダーカット』についてお話してきました。
しかも、見た人は気がついたと思いますが、今作って4:3のアスペクト比に近い映像になっていて、これはつまりIMAXシアターでの鑑賞に最適化された映像なんです。
いや、ほんとどこかの劇場でIMAX上映やってくれないですかね。もちろんこのアスペクト比のポテンシャルを生かすには、グランドシネマサンシャインかエキスポシティのIMAXじゃないと無理なんですが…。
ほとんど同じストーリーなのに、映像と演出でここまで印象が変わるものなのかと驚かされると共に、改めてザック・スナイダーが描こうとした「神話」としてのヒーロー譚というコンセプトが素晴らしかったことを再確認しました。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。
関連記事
記事を取得できませんでした。記事IDをご確認ください。