みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ターミナル』についてお話していこうと思います。
スティーブンスピルバーグ監督×主演トムハンクスのゴールデンコンビによって実現した本作『ターミナル』はアメリカの空港に閉じ込められ、身動きが取れなくなった1人の男にスポットを当てたヒューマンドラマとなっております。
2004年に公開された本作は、今も多くの人を感動させ続けている名作中の名作です。
空港でひたすら「待ち」続け、その内に空港で生活を始める男は、周囲の人と交流し、関わった人たちの人生をも動かしていきます。
本作の見どころは何と言っても、1つの空港を丸ごと使用するかのような大胆な舞台装置なのですが、何と撮影にあたってセットを組み立てたんだそうです。(その実は空港の撮影許可が下りなかったから)
(映画『ターミナル』より引用)
ドイツのデュッセルドルフ空港を模して作られたセットに、実際の飲食店やテンポが協力し、実にリアリティのある空港が完成しました。
また、今作の主人公ビクターにはモデルとなった人物がいるとも言われています。
1988年から18年間にわたってパリのシャルル・ド・ゴール空港で生活したイラン人のマーハン・カリミ・ナセリという人物がおり、彼の日記の映画化権を本映画の制作者が購入し、映画化に至ったのだそうです。
そうして実現した本作が語り継がれる名作となり得たのは、単にヒューマンドラマとして優れていたからだけではありません。
そこには、当時のアメリカ社会を通底したリアルな空気感が投影されていたのです。
今回はそんな『ターミナル』をスピルバーグ監督が込めたバックグラウンドにも目を向けながら、作品について考察していこうと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『ターミナル』(ネタバレ考察)
「ターミナル」という言葉に込められた2つの意味
さて、まずは本作のタイトルでもある「ターミナル」という言葉から、本作のドラマ性の素晴らしさを紐解いていきましょう。
「ターミナル」というタイトルは、もちろん「空港」を意味する言葉です。
空港という空間がどんな意味を持つ場所なのかについては、本作のファーストシーンがきちんと説明してくれています。
次々に入国管理のスタッフにパスポートを手渡し、自分がアメリカへとやって来た「目的」を述べる人たち。ある人は観光、ある人はビジネス。
つまるところ、空港という場所はそれ自体が「目的地」や「終着点」ではなく、むしろそこへ向かうための経由地であり、プロセスの1つに過ぎないんですよね。
本作の主人公であるビクターにも、もちろん空港を経由して向かいたい「目的地」が存在します。それは亡き父が大ファンだったというジャズミュージシャンに会って、サインをもらうことでした。
しかし、ビクターは母国のクラコウジアの情勢の影響を受け、空港から身動きが取れなくなってしまいます。
「terminal」という単語にはもう1つ「終点の」「最終の」という意味があり、「終わり」を想起させるニュアンスが内包されています。
このダブルミーニングが表しているように、「経由地」とするはずだった空港がビクターにとっての「終着点」になってしまうという悲劇が起きてしまうんですね。
加えて、本作に登場する他のキャラクターたちも、空港という場所に囚われており、人生を悲観しているようなところがありました。
例えば、キャサリン・ゼタ=ジョーンズが演じているアメリアは、次から次へと男を乗り換えてしまう癖のある客室乗務員の女性で、それを悪い癖だと分かっていながらも抜け出せずにいます。
クマール・パラーナが演じたグプタという清掃員の男性は、母国のインドで犯した犯罪から逃げてきた人物であり、残りの人生を空港で息をひそめて生きるしかない自分を悲観していました。
このように、彼らがいる場所もまた人生の「ターミナルな=終点の」ポイントであると言えるでしょう。
彼らは「空港」という、目的地への「出発点」にいるにも関わらず、そこが「終着点」になってしまっているのです。
しかし、主人公のビクターとの出会いが、彼らを「出発」へと導いていきます。
どんなに危機的な状況にあれど、彼は常に前を向き、「赤色のハンコ」が押されると分かっていても、いつか「緑色のハンコ」が押されると信じ、愚直にもトライを繰り返すのです。
そんな彼の姿は、確かに周囲の人たちに「目的」を果たそうとする勇気を与えてくれます。
そうして様々な人に勇気を与え続けたビクターが空港を遂に飛び出していく『ターミナル』の物語のクライマックスは非常にエモーショナルなものでした。
アメリアは、自分が本当に追い求めていた恋愛のカタチを見出し、一方のグプタも自分が過去に犯した罪と向き合う覚悟を決め、ビクターの背中を押します。
終盤にグプタがニューヨークでの目的を果たすことなく、故郷のクラコウジアに戻ろうとする姿を見て、激怒するシーンがありました。
あの時、グプタが怒ったのは、いつだって自分たちに前を向くことを教えてくれた、「終着点」はここじゃないと教えてくれたビクター自身が、空港を「終着点」だと諦念とともに受け入れ、後ろを向いて故郷に戻ろうとしたからなのだと思います。
つまり、今作のクライマックスはビクターとの出会いによって、どんな時でも前を向き「目的地」を目指し続ける勇気を受け取った人たちが、その勇気をビクター自身に還元するという構図になっているのです。
スピルバーグ監督は、そうした構図を、空港の人たちが去り行くビクターを見送るラストシークエンスに投影しています。
ここがまた憎い演出なのですが、空港のゲートからニューヨークの街へと踏み出したビクターが後ろを振り返ることはありません。
(映画『ターミナル』より引用)
それはビクターという人物の気質を表すものではありますが、それと同時に空港で働くすべての人たちが未来に向かって前向きに生きる自分自身を投影したアイコンとして機能しているようにも見えます。
また、もしかすると本作の終わり方が中途半端だと不満を持つ人はいるかもしれません。
というのも、『ターミナル』はビクターが故郷に戻る姿を描くことはなく、彼がニューヨークでの「目的」を終え、タクシーの運転手に「故郷に戻る」と告げたところで終わるのです。
しかし、この終わり方こそが『ターミナル』という言葉をタイトルを冠した作品にこの上なくふさわしいことは言うまでもありません。
なぜなら、「ターミナル」は「終着点」ではなく、あくまでも「経由地」であり、ここから出発する起点なのです。
(映画『ターミナル』より引用)
だからこそ、この映画は、物語を明確な「終着点」に辿り着かせるのではなく、これから「目的地」を目指すという「出発点」のところで終わらせているのだと思います。
「ターミナル」という単語の2つの意味を巧みに込めた物語性、そして「出発点」としての空港を体現する作品性。
あまりにもスマートで洗練されたそのプロットには、賛辞を贈るしかありません。
自由が管理を要請するポスト9.11時代の人間ドラマとして
(映画『ターミナル』より引用)
さて、ここからは本作『ターミナル』のバックグラウンドの話をしてみようと思います。
本作の監督を務めたスティーブンスピルバーグは、『ターミナル』『ミュンヘン』『宇宙戦争』を発表した2004年~2005年のかけての3作品で、いずれも2001年に起きたアメリカ同時多発テロ(9.11)に言及していました。
とりわけ『宇宙戦争』公開時のインタビューにて、彼は「9.11事件の恐怖を反映すると同時に、極限状態における人間の姿を描いていた」とメディアに語っています。
『宇宙戦争』は未知の生命体の地球への襲来への恐怖を可視化した作品であり、基本的にコミュニケーションで解決するという道はなく、ひたすらに武力闘争を描きました。
こうした描写からも透けて見えますが、スピルバーグが当時関心を持っていたのは、ポスト9.11時代に成立した管理社会における人々の「未知のものに対する根源的な恐怖」と「ディスコミュニケーション」だったのではないかと思うのです。
それを踏まえて本作『ターミナル』について改めて考えてみると、作品の設定そのものがアメリカ同時多発テロ(9.11)の影響を強く受けていることに気がつきます。
まず、空港(ターミナル)が舞台になっているという設定が、テロが航空機によって引き起こされたという事実に影響を受けていないはずがないでしょう。
そして、クラコウジアという主人公のビクターの故郷で、不安定な情勢にある架空の國は、当時のアメリカが戦争に踏み切ったイラクのような国をモデルにしているとも考えられます。
クラコウジアないしビクターは、アメリカという国、そしてそこに住む人間からすると「未知の存在」であり、コミュニケーションの取れない人間であり、それは言わば恐怖や排除の対象なのです。
ポスト9.11時代には、アメリカは徹底的な管理社会に突入し、岡本裕一朗氏はそれを、「自由」が「管理」を要請する逆説の時代であると評しています。
本作の撮影にあたって、空港に撮影許可を取ろうとしたのですが、テロへの懸念があるため許可が下りなかったというのは、有名な話です。
スピルバーグ監督は、このようにアメリカという国、そしてそこに住む人たちが9.11を境に「自由」よりも強い「管理」を求めるようになったことに着目しているんですね。
そうした時代背景を踏まえて考えると、クラコウジア出身の主人公のビクターがあの空港で異質な存在として扱われ、とりわけ主任のフランク・ディクソンがさっさと「逮捕」されて欲しいと考えているのも頷けます。
しかし、物語の中でディクソンの上司であるサルチャックがとても大切なことを言いました。
それは、「管理」や「規則」も大切だが、「人間」を見ることを忘れてはいけないという言葉でしたね。
空港で、「未知の存在」であったビクターは、徐々に英語を覚え、空港にいる人たちとコミュニケーションを取るようになり、受け入れられていきます。
「未知の存在への恐怖」「ディスコミュニケーション」に由来する、相手を知ろうともせずに拒絶し、排除しようとする行動は極限状態に置かれた人間としては当然の心理なのかもしれません。
アメリカ同時多発テロ(9.11)は「自由」をバックグラウンドに持つアメリカという国とそこに住む人々の意識を一変させるほどの影響力がありました。
あのような悲劇を繰り返してはいけない。それはもちろん大切なことです。
しかし、そうしたネガティブな感情から、管理や規制が先行し、人間を顧みることが、コミュニケーションで解決することが軽視される時代になるのではないかというのが、スピルバーグ監督が持っていた危機感なのだと思います。
だからこそ、彼は、コミュニケーションを取り、相手を理解しようとすることで、ビクターという人物に「親近感」を感じるようになるプロセスを映画として可視化したのです。
『ターミナル』は人間が人間を受け入れるという当たり前のことを描いた作品でしかありません。
しかし、それはポスト9.11の時代に向けた、スピルバーグ監督なりの、「未知の存在への恐怖」「ディスコミュニケーション」を乗り越えていく未来への希望の物語なのでしょう。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ターミナル』についてお話してきました。
『宇宙戦争』や『ミュンヘン』と関連づけながら見ることで、本作でスピルバーグ監督が描こうとしたものがより鮮明に見えてくると思います。
また、こうした悲劇的なシチュエーションに置かれながらも、それをポジティブに解決しようとする人間を演じさせると、トムハンクスの右に出る者はいないと改めて実感させられます。
彼の演技はバランス感覚に優れており、ネガティブなシチュエーションでも、決してポジティブさを失わず、かと言って楽観的になりすぎることもありません。
そうしたトムハンクスの見事な演技が、『ターミナル』という作品の実現において、欠かせないものであった点は、最後に強調しておきたいですね。
もし、まだ『ターミナル』をご覧になったことがないという方がいましたら、ぜひチェックしてみて欲しいです。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。