みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回は映画『RUN ラン』についてお話ししていこうと思います。
毒親系というと、個人的には押見修造さんが著したマンガ『血の轍』なんかがパッと頭に浮かびます。
本作『RUN ラン』は、全編がモニターの中で進行していく『search』というミステリー映画で話題になったアニーシュ・チャガンティ監督の新作です。
『search』も今回の『RUN ラン』もミステリ要素が宣伝として、前面に押し出されているので、どうしても物語の部分に期待をして見に行く人が多いと思います。
しかし、アニーシュ・チャガンティ監督は映像表現の人であるという点を強調しておきたいのです。
おそらく、物語に期待してきた人であれば、「何か思ったほど意外な展開じゃなかったな…。」くらいの気持ちに落ち着いてしまう可能性がある作品だと思います。
それでも、そうしたプロットを「映画」として魅せる監督の手腕が卓越しており、だからこそ「見る」価値に溢れた映像作品になっていました。
フレームの中に収まっているあらゆる要素が映画技法的に計算されており、自然と登場人物の関係や設定が浮かび上がり、物語のイメージを膨らませていく「映画のお手本」と言っても過言ではない作品です。
そんな作品が、1人でも多くの人に届いて欲しいと思い、今回は『RUN ラン』の凄さを映画技法的な観点から紐解いていきます。
本記事は一部作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『RUN ラン』解説・考察(ネタバレあり)
今回は『RUN ラン』という作品に込められた映画の美学を「色」「形」「位置関係」という3つの観点から紐解いていきます。
本作は、その物語の至るところで「長方形(四角)」のモチーフを登場させているんですが、気がつきましたか?
実は、この「長方形(四角)」には、映画技法的にすごく重要な意味が込められていたりするんです。
ということで、ここからはそんな映画技法のお話になります。
「色」:自然と視線を引き寄せるギミック
映画において、「観客の注意や視線をどこに向けさせるのか?」は言うまでもなく、すごく大切です。
本編の時間は限られていますから、できるだけ簡潔に展開し、その上で観客が理解できずに取り残されてしまわないようにする必要があるわけで、これができるクリエイターが「一流」と評されます。
『RUN ラン』は、本編が90分ほどの作品であり、映画の中では短めな部類に入るため、余計にストーリーテーリングはスマートでなければなりません。
そうなると、当然観客の注意や視線を、物語に必要なところにきちんと向けさせることが大切になりますよね。
ただ、良くない映画は、これをセリフやナレーションと言った言語情報で無理矢理処理してしまって、ヒッチコック先生の言うところの「喋る写真」となってしまいます。
そんな中で、今回の『RUN ラン』は、「色」を使って、観客の視線が無意識のうちに「あるもの」に向けられるように計算されていました。
「あるもの」とは、言うまでもなく主人公のクロエが「口にするもの」です。
(C)2020 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved.
フライパンの上でソテーされている野菜が厭にビビッドに映し出されているのが分かりますよね。
ただ、今作の冒頭は母と子の穏やかな生活風景にスポットを当てているため、全体的にライティングが「暖色系」の穏やかなものになっており、映像全体が柔らかい印象を与えるように作られています。
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そんな中で、料理であったり、薬であったりといった「クロエが口にするもの」だけがやけに毒々しいまでの鮮やかさでフレームに収められているのです。
そうなると、観客の視線は必然的にそこに向けられるようになっていき、なるほど今作では「口にしているもの」に何か仕掛けがあるのか…と注意を払うようになります。
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「何かある…。」と思わせておくことで、物語が自然と進行していきますし、観客もスムーズにそれについていくことができます。
こうして話すとほんの些細な演出だと思うかもしれませんが、これをきちんと計算してストーリーテーリングの要素に落とし込むというのは容易ではありません。
そういう意味でも、「色」を上手く使い、観客の視線を無意識に物語のキーに向けさせた監督の手腕を評価したいですね。
「形」:映画技法における「四角形」を使ったストーリーテーリング
映画における「形」について考察する場合に、こんな意味を内包している場合が多いという話を体系的にまとめたブルース・ブロックの「The Visual Story」という本があります。
「秩序」「人工」「大人」「文明」「論理」
「四角形」は自然界に存在しない形であることから、こうしたニュアンスがあると読み解く場合が多いのだそうです。
とりわけ「大人」や「秩序」「文明」といったニュアンスは本作を読み解く上で非常に重要なものかもしれません。
スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』に登場する、生命体に知識を授けるモノリスというモチーフも「四角形」だったのを覚えていますか?
今作におけるモノリスは、人類を猿人から進化させ、「秩序」をもたらし、文字通り「文明」を授けたわけですよ。
そう考えると、「四角形」には野生と文明、子どもと大人、混沌と秩序といった対照的な2つの世界を結ぶポータルのような役割があるのではないかと考えられます。
というのも『RUN ラン』において登場した大半の「四角形」のモチーフは、扉や窓、パソコンのモニター、大学の合格通知書などであり、これらは主人公のクロエをまさしく母親の庇護下から脱し、外の世界へと出て行くためのポータルとしての機能を果たしているのです。
しかし、今作では「四角形」のモチーフとセットで必ず「あるもの」が映し出されるように計算されています。
その「あるもの」は、これも言うまでもなく母親のダイアンですよね。
例えば、クロエが「四角形」の窓の外を見ると、いつもそこにはダイアンの存在があります。
また、ダイアンが「四角形」の扉の前に立っているカットは非常に多く、夜中にクロエがパソコンを見に行った夜も、廊下とダイニングを繋ぐ四角いフレームに見事にダイアンが収まっていました。
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それは彼女が、クロエが大人になって、外の世界へと飛び出していってしまうことを防ぎたいからです。
だからこそ、その「ポータル」の役割を果たし得る「四角形」のモチーフには、必ずダイアンが映り込んでいたのでしょう。
また、面白いのは、登場人物と「四角形」、そして「光」の配置のさせ方です。
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例えば、このシーンですが、画面の手前にクロエがいて、「四角形」の扉が奥にあり、扉と向こう側の境界線上にダイアンが立っているという構図になっていますよね。
その上で、ダイアンの背後には「光」が見えています。
つまり、扉の向こう側に存在している「光」こそがクロエの幸せ、希望を象徴しており、それらを遮るものとしてのダイアンが存在しているのだという構図が見事に可視化されているのです。
面白いのは、終盤の病院のシーンでのクライマックス。ここでも似たような構図が反芻されます。
奥には、「四角形」のワシントン大学の巨大なポスターボードがかけられており、クロエとそのボードの間にダイアンが被るような位置関係が使われていました。
つまり、ここでも「四角形」のポスターボードが、ワシントン大学という外の世界へ続くポータルとして描かれ、そこに立ちはだかる母ダイアンという構図が使われているわけです。
もちろん、この時は警察の発砲によりダイアンが倒れ、ついに彼女が「四角形」を越えることを邪魔する存在は無くなります。
母との面会のために、刑務所でクロエが金属探知機を通過するシーンがあるのですが、これの描き方に注目してほしいのです。
彼女は車椅子から立ち上がり、自分の足で「金属探知機=四角形」を越えていきました。
「四角形」を新しい世界や概念へのポータルなのだとして読み解くと、この描写は言うまでもなく「クロエが自分の足で新しい世界に立った」ことを表しています。
そして、その結末こそ彼女が目指してきたものであり、この映画が目指してきたものではなかっただろうか?
クロエ→ダイアン→「四角形」→「光」(=希望)
この構図を映画の中で、何度も見せ、そして最後にそこに自分の足で辿り着く姿を見せる。
映像表現として、あまりにも完璧だったと思います。
「位置関係」:逆転する物語構造とは?
そして、もう1つ面白いのは、「見上げる」「見下ろす」の関係ですね。
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このポスターはクロエとダイアンが階段を挟んで対峙している様子を描いているのだとは思いますが、どちらが上でどちらが下にいるのかが分からなくなっています。
つまり、この2人の位置関係が「入れ替わる」ことが何となく示唆されているポスターなんですね。
物語の序盤においてダイアンは「母親」として、クロエの面倒を朝から晩まで診ていたわけですが、この時の視線の向きに注目してください。
常にダイアンがクロエを「見下ろ」し、逆にクロエがダイアンを「見上げる」という構図になっていました。
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高山宏氏が自身の著書『殺す、読む、集める』の中で『シャーロックホームズ』における「見上げる」行為と「見下ろす」行為に焦点を当てて批評しているものがあります。
この中で、「見上げる」という行為が病院のベッドで天井を見つめている構図を想起させることから「死」や「危険」に結び付けられ、対照的に「見下ろす」という行為が「生」や「安全」に結びつけられました。
『RUN ラン』においても、まさしくこうした「見上げる」「見下ろす」の視線の向きが物語に投影され、それが反転していく様を物語の中に込めてあります。
そもそも、ダイアンがクロエの足を筋弛緩剤で悪くし、車椅子生活を強いたのは、彼女自身が「弱い人間」であるが故に、そんな自分よりもクロエを「弱く」することでしか、「見下ろす」視線を保つことができなかったのだと思います。
「見下ろす」視線を保つというのは、言うまでもなく「母親」と「子」という絶対に覆ることのない上下関係を維持することですね。もしくは「介護士」と「患者」かもしれません。
しかし、クライマックスの病院のシーンで階段からダイアンが落ちていくことにより、その「見上げる」「見下ろす」の関係が反転し、クロエがダイアンを「見下ろす」といシーンを描きました。
そして、本作のラストシーン。刑務所のベッドで衰弱しているダイアンに、クロエは自分がかつて飲まされていた犬用の筋弛緩剤を飲ませようと試みています。
この時、物語の前提であった「介護士」と「患者」という母娘の関係性が綺麗にひっくり返り、「見下ろす」クロエが安全圏に、そして「見上げる」ダイアンが危険な状況に置かれていることが分かりますね。
登場人物の立場の変化を、視線の向きだけで表現してしまうという、これまた映像表現の美学が詰め込まれたストーリーテーリングに感動しました。
自分の「足」で立つまでのイニシエーション
さて、最後に本作『RUN ラン』の物語について総括していきます。
今作の中では、いろいろな出来事が描かれていましたが、それらが結局何を描こうとしていたのかと言うと、クロエが「大人」になるためのイニシエーションなんですよね。
まず、食べ物を与える・与えられるという関係性は、自然界に生きるあらゆる生物の生態において、「親と子」「強者と弱者」という構図を際立たせます。
食べ物を自分だけで手に入れることができない野生の生き物は「1人前」ではなく、そうした子どもたちは親に食べ物を取ってきてもらい、成長するとようやく自分で食べ物を調達できるようになり、「1人前」と見なされるのです。
そう考えると、「食べる」という行為の全てを掌握するというダイアンの行為が、彼女とクロエの力関係を明示しており、さらには崩れ得ない「母と子」「強者と弱者」の関係を表していることは言うまでもありません。
だからこそ、クロエがそんな関係を覆すために取る最初の行動は、自分が口にしているものの正体を知り、自分が「食べる」ものを自分でコントロールしようとすることなんですよね。
与える・与えられるという構図を何とかして覆そうとすることが、クロエにとっての最初の反撃となるわけです。
しかし、最終的にクロエが親の支配から脱し、「大人」になるためにはダイアンを打倒するより道がないことが示されます。
神話の時代から、「親殺し」が子どもにとっての1つのイニシエーションであるということは言われてきたわけですが、今作にもその要素が盛り込まれています。
最終的に母親を階段から落としたのは、警官が発砲した銃弾ということにはなるでしょう。
しかし、彼女を圧倒したのは、他でもないクロエの「私はあなたなしでも生きていける」という力強い宣言であったことは言うまでもありません。
このように、『RUN ラン』はクロエが自分の足で立てるようになる、つまり母親の支配から脱し、「大人」になるまでのイニシエーションを描いている物語なのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『RUN ラン』についてお話してきました。
本作は、物語だけを見ると、それほど奇抜ではなく、意外とシンプルだと思います。
しかし、そんな物語を魅せる映画としての美学が炸裂しており、映像作品として見ることで視覚的に観客を虜にする作品に仕上がっていました。
よく映画はあらすじだけを読んで満足するという人がいます。
そういう楽しみ方を否定するつもりはありませんが、映画におけるストーリーテーリングは単なるセリフや語りだけによって行われるものではなく、本来その映像全てでもって行われるものです。
『RUN ラン』は、物語と映像の親和性が非常に高く、映像によって無意識に観客の頭の中に刷り込まれていく情報もたくさんあります。
そうした、映像作品として見る意義を、映画として見る意義を本作の中から多くの人に感じ取ってもらえたらな…と個人的には思っている次第です。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。