みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『あの夏のルカ』についてお話していきます。
『あの夏のルカ』といい、『ソウルフルワールド』といい、とんでもなく映像が美しく、映画館で見てこそそのパフォーマンスが最大限発揮されるであろう作品たちをガンガン配信送りにしていく「おくりびと」ことディズニーさん。
しかも日本のディズニー+は画質や音質面で考えても最悪の環境で、なぜこんな状況で作品を公開されなければならないのか?という怒りが沸々と湧いてきます。
ただ、『あの夏のルカ』は本当に、「ディズニー良い加減にしてくれ…。」と愚痴りたくもなるくらいの傑作です。
本作は、ひと夏のルカたちの冒険とチャレンジを描いた「ジュブナイル小説」のような趣が強い作品となっています。
それ故に少年少女の出会いと別れが描かれ、ラストは少し切ない気持ちになるのですが、この「あの夏の」という過去を懐かしんで思い出すような視点から出て来た言葉が、その「切なさ」を温かく、懐かしい感情へと昇華させてくれるような気がするのです。
正直、こんなに「夏休み映画」として映画館で上映するに適した作品は他にないと思いますし、これが映画館で見られない現状が悔しすぎます。
愚痴は一晩中語れるくらいありますが、ここからは本作『あの夏のルカ』について個人的に感じたことや考えたことをお話させていただきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『あの夏のルカ』感想・解説(ネタバレあり)
今度のピクサーアニメは映像から「風」が吹く
まず、今作を見た時に驚かされるのはその圧倒的とも言える映像表現でしょう。
私は『ソウルフルワールド』を見た時に、そのあまりの映像の美麗さから「映像から匂いがする」と表現しました。
そして、今作『あの夏のルカ』について言うなれば、アニメーションから「風が吹いている」とでも表現しておきましょうか。
本作の舞台となった北イタリアの港町ポルトロッソは、イタリア北西部のリヴィエラ海岸沿いの街をモデルにしていると言われています。
このリヴィエラ海岸沿いは、温暖な地中海性気候で有名で、年間を通じて暖かく、多くの観光客がリゾート地として訪れることでも知られていますね。
そして、この地中海性気候の地域における特徴は「夏は日ざしが強く乾燥する」というものです。
まず、太陽がギラギラと照りつける様は映像全体の彩度の高さが物語っていますよね。特に空の「青」がビビットであるため、「晴れ」というよりも「快晴」という印象が強いです。
(C)2021 Disney/Pixar. All Rights Reserved.
そこに、街を作る石畳や砂壁などの乾いた質感が見事に合わさることで、地中海性気候特有の「暑く乾いた風」がモニター越しに見ている私たちのところまで吹いてきているような感覚を味わえるのです。
(C)2021 Disney/Pixar. All Rights Reserved.
それに加えて、終盤に雨が降るシーンがありますが、これがまた巧い。
これまで、カラッとした暑さが続いていたのに、急にじめっとした「蒸し暑さ」に映像の温度感が転じるわけですよ。
こうした映像が観客に与える感覚の部分で、絶妙な「ギャップ」をつけることで、多様性が生まれ、私たちもポルトロッソの港町でひと夏を過ごしたかのような不思議な錯覚に陥ります。
例え、実写の美麗な映像で同様の映画を作ったとしても、同じ現象が起きたかどうかと言われると疑問符がつくと思います。
なぜなら、これはアニメーションと言う細部まで作り込めてしまうメディアだからこそ為せるわざだと思うからです。
海と陸。2つの世界が繋がる物語。
ピクサーは、私たちのいる現実とアニメーションの中の虚構の世界を繋げてしまう「魔法」をかけてくれます。
ぜひ、多くの人に『あの夏のルカ』という作品から吹いてくるあの「暑く乾いた地中海の風」を体感して欲しいですね。
爽やかで切ないジュブナイルと2つの世界
『あの夏のルカ』は、物語としてはすごく王道の「ジュブナイル」だと思います。
少年少女が出会い、ひと夏の冒険とチャレンジを経験し、そして最後は別れを選ぶという流れは鉄板と言えば鉄板でしょう。
しかし、そこに海と陸の2つの世界、そして陸で蔓延しているシーモンスターへの差別が絡んでくることで、物語はより一層奥行きを増していきます。
海岸の小さな塔でルカとアルベルトが遊んでいた時は、どこまでも自由でした。彼らを縛るものも、彼らを虐げる者もいません。そこにはただ無限の自由があったのです。
ただ、彼らが人間の街に足を踏み入れると、事情は変わってきます。
人間の街に足を踏み入れるということは、そこには「社会」が存在しますよね。
北イタリアの港町ポルトロッソの「社会」において、シーモンスターは排除すべき外敵であり、それ故にルカたちの居場所はありません。
街に居座るためには、海にいるときの姿を隠して生活するしかないという状況の中で、ルカたちは様々なトラブルに見舞われながらも、レースでの優勝を目指して生活を続けていきます。
しかし、ポルトロッソで生活をしていく中で、ルカとアルベルトの友情関係に、徐々に亀裂が入ってしまいました。
アルベルトはジュリアに唯一の友人であるルカを取られてしまったと感じ、嫉妬をしていたというのは多分にあるでしょう。
ただ、そもそもルカが学校に通いたいという願望に目覚めたことで、2人の目指す場所が決定的にずれてしまったんですよね。
街に出てくる前のルカとアルベルトは、「ベスパに乗れば、自分たちの知らない世界に辿り着ける」と信じてやまなかったはずです。
(C)2021 Disney/Pixar. All Rights Reserved.
しかし、ルカは空の向こうにあるのが「宇宙」であり、そこに輝いているのが「星」であると知ったことで、学校で学ぶことが「自分の世界を広げる」術だと悟ったわけですよ。
つまり、ルカとアルベルトはお互いに「もっと広い世界で自由に生きたい!」という願望を持ちながらも、自分たちの世界をいかにして広げるかというアプローチの部分で決定的に違う道を選んでしまったのです。
アルベルトが海辺で、ジュリアにシーモンスターとしての姿を見せる場面がありましたが、なぜルカはアルベルトを外敵扱いしたのでしょうか?
まず、アルベルトは人間の「社会」に受け入れられることを望んでいるわけではありません。自分のことを見てくれる、一緒にいてくれるルカが何よりも大切なんですよね。
だからこそ、ルカがいなくなった父のように人間の「社会」に受け入れられ、自分の下から去っていくのは、どうしても受け入れ難い、だからこそ全てを壊してしまおうと思ったのでしょう。
しかし、ルカは違いますよね。学校に行きたいと語っていることからも、彼は「人間の社会」に受け入れられることを望んでいます。
そうした内に秘めた願望が咄嗟に表出し、ルカは自分が「人間」の側にいるための方便を口走ってしまったのです。
そんな2人のわだかまりが解けるのは、クライマックスのレースの最中でした。
ルカを助けるためにやって来たアルベルト。しかし、雨に濡れてしまい、「シーモンスター」の姿が露呈してしまいます。
先述の海辺での出来事と同じ状況が再現され、アルベルトはルカを想って、「お前はまだ人間だ。」と助けようとする彼を静止します。
ルカは自分が「シーモンスター」の姿になってしまうことをも顧みず、自転車で雨の中に突っ込んでいき、アルベルトに手を差し出します。
このシーンの何がすごいのか。
「ルカ=人間」が「アルベルト=シーモンスター」を拒絶するという構図は、人間たちが「シーモンスター」たちを差別していた構造の再生産に過ぎません。
しかし、このレースのシーンでは、このまま人間の世界に潜り込むことができたかもしれない「ルカ=人間」がその状況を放棄してでも、「アルベルト=シーモンスター」に手を差し伸べたんですよね。
つまり、ルカは図らずも「人間とシーモンスターが手を取り合う」という新しい世界の在り方を自らの身を賭して見せてくれたわけです。
2人の友情を表現しているというだけでも泣いてしまうほどに熱いシーンなのに、ここに差別問題を絡めた構造の深さが合わさることですごく重層的に心に響いてくるシーンになっていました。
「ジュブナイル」の最後に待っているのは「別れ」です。
ただのセリフ、日本語字幕だと微妙にニュアンスが違う気がしています。
アルベルトがルカに「君は大丈夫?」と聞かれた際に、「お前と島から出た」って言っているんですよね。
ここ英語のセリフそのものは「You got me off the island, Luca. I’m okay.」で「お前があの島から連れ出してくれたんだ、ルカ。」と言っています。
おそらく字幕の文字数の関係か何かだと思いますが、日本語吹き替えだと「お前が島から連れ出してくれた」と言っています。
アルベルトにとって、これからマッシモが父親代わりのような存在になっていくのだと思いますし、きっと夏が来るたびにルカとジュリアはあの町にやって来て、アルベルトと交友を交わすのでしょう。
「島から連れ出してくれた」=「大丈夫」というのは、ルカが連れ出してくれたおかげで「僕はもう1人じゃない」という言葉が省略されているような気がしています。
父親がいなくなり、孤独に生きることに慣れてしまったアルベルトに「寂しい」という感覚を思い出させてくれた、誰かと生きることの喜びを思い出させてくれたルカ。
だからこそ、彼はもう大丈夫なんですよ。
別れの言葉というのは、皆まで言ってしまうと蛇足感もあるので、ある程度余白を残しつつ、余韻に委ねるのが望ましいと思います。
それだけに、本作のアルベルトとルカの別れのシーンは本当に大好きです。
皆まで言わずとも、お互いに言いたいことは分かっている。そんな感じがします。
『ソウルフルワールド』にも重なるhappily ever afterではない物語
(C)2021 Disney/Pixar. All Rights Reserved.
子ども向けの説話には、日本でも「めでたし めでたし」という決まり文句が存在しています。
つまり「物語のラストに幸せが訪れ、それがこれからも続いていきました」という視点なのですが、近年のピクサーは少しそうした終わり方とは趣向を変えてきている印象を受けます。
昨年末に同じくディズニー+で配信された『ソウルフルワールド』も主人公的位置づけの22番がこれから人間の世界で生を受けて生きていくんだ!というまさにその瞬間で物語が幕切れていました。
こうした描かれ方には、近年の先行きが不透明な社会の状況も関連しているのかなと思います。
新型コロナウイルスの流行で、これまでの私たちの社会の「当たり前」が音を立てて崩壊したように、今現在の当たり前がもはや2年後3年後に「当たり前」なのかどうかすらも分からないほどに、世界はとんでもないスピードで変化していますよね。
そのため、今「幸せ」だからと言って、それがその後もずっと続いてくなんて考え方は、文字通り「御伽噺」の産物になってしまったのです。
『あの夏のルカ』は、世界のカタチが大きく変貌して「めでたしめでたし」の大団円的な終わり方を決して見せてはいません。
ルカないし「シーモンスター」たちは、あくまでもポルトロッソの町で受け入れられただけであって、きっとジェノヴァの町に行けば、また容赦のない差別と偏見がルカに降り注ぐでしょう。
それでも、今作の結末は、ルカであればそうした荒波を持乗り越え、いつか海と陸が繋がる世界を見出してくれるだろうと確信させてくれるものになっています。
何の努力もせず、現状維持としての「幸福」が存在し続けるのではなく、ルカがこれから自分の手で掴み取り続けていくものとして「幸福」を位置づけているのです。
こうした物語の終わり方にも、時代性を感じますし、そこにピクサーが今の子どもたちに向けたメッセージも存在しているのでしょう。
人生には、明確なゴールが存在しているのではなく、ゴールを通過し続けるものなのだと。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『あの夏のルカ』についてお話してきました。
しかも物語的に巧いだけじゃなくて、ジュブナイル路線でガチガチに王道のエモを煽って来るのがまたズルいんです!
そして、映像的にもさらに進化しているわけですから、ほんと言うことないですよね。
唯一言うことがあるとすれば、これをなぜ映画館で見せてくれないのだ…ということくらいでしょうか(笑)
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。