みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『竜とそばかすの姫』についてお話していこうと思います。
ニッチでナイーブな路線から、大衆向け娯楽大作に舵を切り、一気に日本を代表するクリエイターとなった新海誠監督。
その一方で『時をかける少女』や『サマーウォーズ』といった作品で、一般人気を獲得しながら、『おおかみこどもの雨と雪』や『未来のミライ』と何だかニッチでパーソナルな映画へと舵を切りつつある細田守監督。
今回の『竜とそばかすの姫』は予告編の印象からして、『サマーウォーズ』の頃の細田作品を思わせる娯楽大作になるだろうとそう思っていました。作品を鑑賞するまでは…。
(C)2021 スタジオ地図
(C)2021 スタジオ地図
これだけ初期の細田守監督作品の匂いが漂っているのに、作風はまさかの『未来のミライ』並のとち狂い具合で、めちゃくちゃパーソナルな感情というか、「私怨」みたいなものを感じさせられる映画でした。
一言で言うと、「ネット上で、匿名で調子のいいこと言ってる奴、お前ら所詮は口だけで何もできねえんだろ!糞くらえ!」みたいな物語です。
夏休み興行をリードする日本が誇る超大作で、ここまで「私怨」めいたものすら感じさせる一見娯楽大作風なのに、実はパーソナルな映画を撮らせてもらえる細田監督、逆に凄いなとすら思ってしまいます。
何と言うか、エモーションの部分であったり、田舎のコミュニティの描写であったり、多くの人が細田監督作品で苦手なポイントとして挙げる要素は、「役満かよ!」ってくらいにご丁寧に全部盛り込まれているので、正直好みは別れることでしょう。
私としてもインターネットやSNSへの言及の仕方が好きかどうかは置いておいて、全体的なテーマ性としては魅力を感じる作品ではありました。
今回の記事では、そんな『竜とそばかすの姫』について個人的に感じたことや考えたことをお話させていただきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『竜とそばかすの姫』
あらすじ
高知県の山間の田舎町に住む少女、鈴は幼少期に経験したある事故がきっかけで心を閉ざし、いつも下を向いて生きている。
彼女がまだ幼い頃に、水難事故に巻き込まれて母親が亡くなってしまい、それ以来大好きだった「歌う」ことができなくなってしまったのである。
ある日、鈴は友人のヒロちゃんから『U』という全世界50億人が利用している仮想世界にアクセスできるアプリを紹介された。
軽い気持ちで「ベル」という名前のアバターを作った鈴は、仮想世界で別人に生まれ変わったような気持になり、長年封印してきた歌声を解放することができるようになった。
すると、その歌声を気に入った人たちが様々なアレンジや演出を加えて、ベルのパフォーマンスを世界中に拡散し始め、彼女は瞬く間に『U』の世界の人気者になる。
そんなベルの初めてのライブの日。大盛り上がりの会場に、突然傷だらけの竜のアバターが現れた。
『U』の住人たちは、そんな「竜」を非難し、心無い罵声を浴びせ、さらには『U』の世界の秩序を司るビジランテ集団を率いるジャスティスに竜は攻撃を受ける。
世界中の人たちがそんな「竜」に対して批判的な視線を向ける一方で、鈴はそんな「竜」を助けたいと密かに思うようになっていた。
「竜」の居場所を突き止め、心を通わせていく鈴(ベル)。
しかし、「竜」の身には危険が迫っていて…。
スタッフ・キャスト
- 監督:細田守
- 原作:細田守
- 脚本:細田守
- 企画:スタジオ地図
- 作画監督:青山浩行
- CG作画監督:山下高明
- 音楽監督:岩崎太整
- 音楽:岩崎太整 ルドウィグ・フォシェル 坂東祐大
- メインテーマ:millennium parade × Belle
- 制作:スタジオ地図
本作の監督・脚本を担当したのは、言わずも知れた細田守監督です。
前作の『未来のミライ』がかなりぶっ飛んだ作品だったということもあり、その評価が揺れている監督でもあるのですが、今回もなかなかクレイジーな作品を作ってくれました。
※ちなみに当ブログ管理人は、『未来のミライ』意外と気に入っています。
これ、意外と知られていないのかもしれませんが、細田守監督のいわゆる初期の『時をかける少女』や『サマーウォーズ』といった作品の脚本には奥寺佐渡子さんという女性の脚本家がクレジットされているんです。
正直、彼女の功績がかなり大きかったのではないか?という意見は、映画ファンの間で近年散見されるようになってきましたが、今回の『竜とそばかすの姫』のぶっ飛び具合を想うと、あながちその意見も間違っていないような気もしてきました。
何と言うか、ある程度細田守さんが書いたプロットをコントロールしてくれる人が必要なんじゃないかな…と感じてしまいます。
作画監督には、お馴染みの青山浩行さん、音楽監督には『モテキ』シリーズなどで知られる岩崎太整さんが起用されています。
また、millennium parade × Belleの主題歌が公開前にYouTubeなどで公開され、話題になっていますね。
- 鈴/ベル:中村佳穂
- しのぶ:成田凌
- カミシン:染谷将太
- ルカ:玉城ティナ
- ヒロ:幾田りら
- すずの父:役所広司
- 竜:佐藤健
- イェリネク:津田健次郎
主人公の鈴を声優初挑戦となるシンガーソングライターの中村佳穂さんが演じたり、物語のキーパーソンの1人であるヒロちゃんをYOASOBIの幾田りらさんが演じたりと異色なキャスティングが目立つ本作。
一方で、脇を固める面々は、成田凌さん、染谷将太さん、玉城ティナさん、役所広司さん、佐藤健さん…と超豪華。
まあ、ここまで本職の声優以外の起用に徹するのも何だか細田守監督作品らしい気もしました。
『竜とそばかすの姫』感想・考察(ネタバレあり)
伝えたいことはわかるけど、伝え方エグいな…(笑)
(C)2021 スタジオ地図
さて、この『竜とそばかすの姫』という作品ですが、一見すると、夏にふさわしい感動大作なのですが、よくよく考えてみると、主題の部分が尖りまくってるんですよね。
記事の冒頭にも書きましたが、その本質は
「ネット上で、匿名で調子のいいこと言ってる奴、お前ら所詮は口だけで何もできねえんだろ!糞くらえ!」
だったりするわけです。
物語の中心にあるのは、ナイーブで自分の殻に閉じこもった主人公の鈴が、母親の死という深い喪失感から立ち直り、誰かのために行動を起こすに至るまでの成長譚でした。
細田守監督は、『バケモノの子』の時にも思いましたが、成長譚を描かせると、やっぱり抜群に巧い印象があります。
今回の『竜とそばかすの姫』についても、鈴の成長譚の描き方は非常に丁寧でかつ、見せ方も巧くて、そのクライマックスでは思わず涙がこぼれました。
自分という存在がありながら、見ず知らずの子どもを助けるために命を落とした母親に複雑な感情を抱いていた鈴。
そんな彼女が、母があの時行動を起こした真意に触れ、そして鈴自身も見ず知らずの誰かを助けるために自らを危険にさらすという親子のシンクロをサラッと描き、1人の少女の成長を観客に印象づけたわけです。
ただ、この成長譚を描くために今回、細田守監督はインターネットないしSNSという舞台装置を用意したのですが、これがまた「クセが強かった」んですよ。
というのも、今回の『竜とそばかすの姫』では、やたらとネット上ないしSNS上の匿名の大衆による「声」が可視化され、その有害性が強調されていました。
ネット上の嘘の噂が真実を超越して拡散されたり、ネットの心無い意見が誰かを傷つけたり、当事者の心情を無視した身勝手な意見やコメントが渦巻いたり、無意識的に同調圧力や数の暴力が生まれたりといったネガティブな部分に徹底的にスポットを当てているのです。
そうしたネガティブな部分をポジティブに変換していく決定的な何かがあるか?と言われると、正直個人的には最後まで見出すことができませんでした。
というよりもむしろ、終盤の鈴がいざ行動を起こす描写については、ネット関係なくリアル世界を舞台にしていたので、余計にネット世界の無力さと言いますか、無意味さを強調しているようにすら感じられました。
つまり、ネット上でギャアギャアと騒いで、何もかもを知ったような気になって講釈を垂れている人間は、所詮は口だけで、現実世界で何も行動を起こしていない、何も成し遂げていないのだという冷笑的な視線すら垣間見えるのです。
ネット上の多くの人の声の無力さや無意味さと対照的に、勇気を出してリアル世界で行動を起こした鈴とその仲間たちを描くことで、この視線は一層際立っていると思います。
スティーブン・スピルバーグ監督の『レディプレイヤー1』なんかは、「現実世界の方が大切だ、でも空想の世界にいつでも帰っておいでよ」というバランスの取れた視座が作品を通じて感じられました。
しかし、『竜とそばかすの姫』はネット上やSNS上で形成される匿名性に担保された独特のカルチャーやソサイエティを強く批判し、現実世界で行動を起こすことの尊さを解いているようにも思えます。
もちろん、言わんとするところが分からないわけではないのですが、その伝え方があまりにも皮肉めいていると言いますか…。
正直、この作品が伝えようとしているテーマやメッセージそのものは好きという方は多いんじゃないかな?と思っています。
「口だけじゃなくて、自ら行動を起こせ!」うん。これ大事。
なぜ『美女と野獣』?もっと王道の成長譚でいいのに…
(C)2021 スタジオ地図
さて、ではここからは『竜とそばかすの姫』について、もう少し細かいポイントに注目しながらお話させていただきます。
映画において、同じセリフや描写を物語の最初と最後に配置して、それを違った意味合いで見せるというのは、1つの演出手法です。
本作では、『U』というアプリの設定そのものが物語の最初と最後で反転するという、少し面白い構造になっていたので、これについてお話させてください。
まずは、『U』にログインされた時に表示されるメッセージを引用してみます。
『U』はもうひとつの現実
「As」はもうひとりのあなた
現実はやり直せない
でも『U』ならやり直せる
さあ、もうひとりのあなたを生きよう
さあ、新しい人生を始めよう
さあ、世界を変えよう(『竜とそばかすの姫』より引用)
物語の冒頭時点で、まだ自分に自信が持てていない鈴が聞いたこの音声ガイダンスは、彼女にある種の現実逃避を促すメッセージになっていたのかもしれません。
「As」という自分を拡張した別の存在になることで、現実世界から隔絶され、まさしく「新しい人生」をスタートさせることができるのです。
しかし、物語の終盤に勇気をもって自ら行動を起こし、ベルとしてではなく、鈴として何かを変えよう、誰かを助けようとした彼女にとって、このメッセージは少し違った響きに聞こえたことでしょう。
でも『U』ならやり直せる
さあ、もうひとりのあなたを生きよう
さあ、新しい人生を始めよう
さあ、世界を変えよう(『竜とそばかすの姫』より引用)
『U』を通じて、現実逃避をするのではなく、むしろ現実世界で新しい自分になるためのきっかけを経験して、そして自分が生きている現実世界を変えることだってできる。
このメッセージには、裏返すと、そんな意味が内包されているような気がしてきます。
『U』で成功することだって、もちろんすごいことです。
しかし、それはあくまでも「きっかけ」に過ぎないのであり、大切なのはそこでの経験を糧に、現実を生きる自分自身がどう成長し、変わるのかではないのか?という問いかけが本作には見え隠れしていました。
だからこそ、本作ではあえてこのガイダンスメッセージを物語の最初と最後にあしらうことで、その意味合いの変化を観客に考えさせるように演出したのです。
人間の成長の神秘を描き続ける細田守監督らしい演出ですね。
細田監督は、どうやらインターネットの匿名社会を舞台に『美女と野獣』をやりたかったらしいんですよね。だから主人公の名前が「ベル」なんでしょうね。
ただ、あの物語って、現実世界で肉体に縛られているという制約があってこそ成立するファンタジーですし、そもそもの主眼は「人間の美醜ではなく中身を見るべし」という教訓に置かれています。
そうした作品性をベースに『竜とそばかすの姫』を作ったという割には、あんまり活かされていないような気もしますし、ベースにした意味あんのかな?とは感じました。
まず、主人公の鈴って別に自分の見た目にそれほどコンプレックスを持っている様子もなく、声にコンプレックスがあるわけでもなく、単に母親を失った喪失感を引きずっているナイーブな少女というだけなんですよね。
一方の「竜」も、詳細は伏せますが、別に自分の容姿に対して嫌悪感を抱いている様子は特になかったです。
また、インターネット社会で「竜」が大衆から糾弾されているのって、容姿が醜いからとかではなくて、単に素行が悪いからだったりします。
そのため、『美女と野獣』を引用するには、いささか設定も甘くて、しかも引用する意味も薄いんですよね。
物語の後半に、アバターの裏側にある自分の本当の姿が…という展開は確かにあるのですが、前提条件として、鈴も「竜」も自分の本当の姿に強いコンプレックスを抱いていた人間ではないので、何と言うか物語の軸がブレちゃってるんですよ。
本作における父親の物語の関与のさせ方を見ても、『未来のミライ』に続いて、細田守監督が描きたかったのは、ひと夏の子どもの成長の神秘なのだということはよく分かります。
ただ、今回持ち込んだ『美女と野獣』の構図や演出と、そうした描きたかった成長譚の部分の噛み合わせがすごく悪いと感じたのは、自分だけでしょうか。
主人公や「竜」の抱えている悩みやコンフリクトと、『美女と野獣』というビジュアルが想起させる悩みやコンフリクトが致命的なほどにズレてしまっているのが、本作の描きたいものをぼんやりとさせてしまったのかなと個人的には感じました。
とは言え、映像作品としては圧巻の出来
と、ここまで物語の部分について、かなり批判的な意見も書いてきましたが、その一方で映像表現の部分では高く評価できる作品だと思っております。
『竜とそばかすの姫』はリアル世界では2Dのアニメーション、一方で「U」の世界では3Dアニメーションを用いることで、映像の質感に違いを生み出していました。
まず、前者についてはいつもの細田監督作品らしい映像ではあったんですが、今回モブキャラの書き込みにかなりこだわりを感じましたね。
本作は『U』という「わたし」と「あなた」以外の不特定多数の第3者が共有する仮想空間にスポットを当てたわけですが、そうした物語の性質上、リアル世界でもいわゆる「モブキャラ」の存在感を印象づけておくことは大切だと思います。
モブキャラは近年かなり予算のかかった映画でも3DCGで処理しているケースが多いのですが、そうした物語性とリンクする形で『竜とそばかすの姫』は、モブキャラまでしっかりと作画されてましたね。
ただ、割と書き込んでいて、動きもしっかりつけてあるのに、あえて表情を書き込まない(のっぺらぼうにしてある)ことで、没個性化し、「他者」「大衆」と言った形で一括りにしてあったのは非常に巧い演出だったと思います。
また、人物のコミカルな動きや表情のつけ方については、何となく湯浅政明監督作品っぽさを感じました。
そして、『U』の世界での3Dアニメーションについては、本当に視覚的な快楽物質がドバドバと出てくる圧巻の作り込みでしたね。
キャラクターもそうなんですが、『U』の世界の細かい美術の作り込みなんかは、ほんと職人芸だと思いました。
ただ、あれほど視覚的に魅力的なのに、今作の『U』という仮想世界にイマイチ乗れなかったのは、おそらく結局のところあの空間の存在している目的であったり、ポジティブな面をあんまり描いてくれなかったからなのかなと。
『竜とそばかすの姫』を見て、『U』が本来何をする場所なのか読み取れた人っていますか?私は全然読み取れなかったです。
この手の異世界系は、観客に「あの世界に自分も行ってみたい!」と思わせられなかったら「負け」だと思っていますので、そういう意味では視覚的な作り込みの一方で、設定や世界観が全く掘り下げられなかったのは非常に勿体なかった気はします。
また、細田監督作品と言えば「雲」みたいなところがありますが、今作も雲や雨といった天候の使い方や川といった風景の使い方が抜群に巧かったのは、評価したいポイントです。
まず、個人的にグッときたのが、「川」という舞台装置の使い方なんですよ。
「川」は主人公の鈴にとって、自分の母親が命を落とした忌むべき場所と言えるでしょうか。
(C)2021 スタジオ地図
彼女の母親は、川に取り残された子どもを救うために、荒れた川に飛び込み、見事子どもを助け出した後に下流に流されて命を落としてしまいました。
今回の映画では、幾度となく川沿いの道を鈴が歩いていくシーンがインサートされているんですが、彼女は絶対に川の流れとは逆方向に向かって歩いています。(画面の左側が上流、右側が下流という構図が全編にわたって踏襲されている)
つまり、母が流された下流とは逆方向に歩いているということになるんですね。
(C)2021 スタジオ地図
これは、母が亡くなったという事実に未だに背を向け続けている彼女の心情であったり、彼女が母のような勇気をまだ持っていない人間であることを象徴する動線だと言えます。
しかし、物語の後半のとあるシーンで、鈴の動線が画面の左側から右側へに変わる瞬間がありました。
それが、彼女が東京に向かうバスに乗っているシーンなんですよね。
この動線の変化が、鈴が母親があの時起こした行動に向き合い、そして母親と同じように勇気を出して誰かを助けるために行動を選択したことを視覚的に表しているのです。
そうして、東京行のバスのシーンで、初めて画面の左から右へという動線を描くことで、彼女の変化と決意を際立たせつつも、彼女が高知へと戻って来るラストシーンでは、再び画面の右から左へという動線が反芻されていました。
これは、言わば彼女の「帰還」を表現していたのだと思います。
危険を冒して、子どもの命を救ったけれども、下流に流されてそのまま戻ることはなかった母。
そんな母と対照的に、「下流」へと向かったけれど、ちゃんと「下流=画面右側」から「上流=画面左側」へと戻ってきた鈴の姿を印象づけ、英雄譚における「リターン」の部分を視覚的に強調したんでしょうね。
「川」という舞台装置1つで、ここまで多層的なコンテクストを内包させられる細田監督の映像によるストーリーテーリングはやはり卓越していると改めて感じます。
今回の『竜とそばかすの姫』では、ラストシーンで描かれた、雨上がりの空の、太陽が顔を後ろから覗かせている積乱雲の描写がすごく心に残っています。
積乱雲は激しい雷雨をもたらす雲であるわけですが、そうした時間が過ぎ去り、穏やかさがもたらされ、物語の終わりないし夏の終わりを感じさせる見事な風景描写だったと思います。
寂しくも無性に愛おしい、そしていつまでも見ていたい美しい空と雲でしたね。
このように『竜とそばかすの姫』は、お話しの部分は「う~ん」ですが、映像表現は抜群だと思いますので、その点については安心して劇場に足を運んでいただければと思います。
なぜ「歌」でなくてはならなかったのか?
(C)2021 スタジオ地図
本作『竜とそばかすの姫』では、「歌」が物語の鍵を握っています。
細田監督が主人公の鈴の声優にミュージシャンを起用したのも1つ象徴的と言えるでしょうか?
まず、鈴にとって「歌」は、大好きだった母親との幸せな記憶を司るモチーフになっています。
それ故に、彼女は母親を亡くしてから、大好きだった「歌」を歌うことができなくなってしまったのです。
また、「歌」は鈴にとって家族を象徴するものなのだと思います。
だからこそ、「歌」を失った彼女は母だけでなく、父との関係もこじれてしまい、ほとんど会話もしない状況になっているのです。
そして、物語の中盤においては、「ベル」としては歌うことができるのに、鈴としては依然として歌うことができないという葛藤が描き出されていました。
「ベル」になることで、現実の柵から解き放たれ、自由になり、何も気にせずに歌うことができるのですが、現実の彼女は何も変わっていないわけです。
しかし、そんな彼女が物語のクライマックスで、竜を助けるべく、ベルではなく鈴として『U』の世界で歌うことを決心します。
この時、彼女の周囲にいた人たちが皆、口をそろえて、「自分が鈴の母親代わりだと思って生きてきた」と言い、鈴を支えようとしてくれるのです。
そうして、喪失した「母親」との繋がりを取り戻すことで、鈴は再び自分自身として「歌」を歌うことができるようになるんですね。
このように『竜とそばかすの姫』においては、「歌」というモチーフを母親との思い出と強く結びつけ、「歌」を取り戻す=家族を取り戻すという図式を確立させていました。
また、個人的には「言葉」ではなくて、「歌」を物語のキーに据えたのが、すごく良かったなと思うんですよね。
というのも、言葉ってどうしても「言語」に縛られてしまうところがあって、全世界50億人が利用している仮想世界で、人に呼びかけるツールとしては弱いです。
一方で、「歌」ももちろん「言語」の制約は受けるのですが、そこにはメロディがあり、豊かな感情表現が内包されており、「言語」が通じなくとも、そうした言葉を超えたニュアンスが伝えられるという特性があります。
とりわけ今作に出演していた幾田りらさんがボーカルを務めるYOASOBIなんて世界中で人気がありますよね。
例え言葉が伝わらなくても、そこに込めた思いや感情は伝わる。そんな可能性を秘めているからこそ『竜とそばかすの姫』の物語を動かすのは、「歌」でなければならなかったのだと思います。
細田監督はいかに『サマーウォーズ』をアップデートしたか?
(C)2021 スタジオ地図
最後に私なりの『竜とそばかすの姫』という作品が描こうとしたものについての解釈を書かせてください。
インターネットやSNSは何を変えたのかを考えてみますと、まず名もなき個人が自由に全世界に向けて発信できるようになったというのはすごく大きな変化だと思います。
YouTuberと呼ばれる存在はその代表格とも言えますし、SNSを通じて個人の意見が一気に拡散され何百万人もの人に一瞬で届けられるという光景は、もはや日常茶飯事と化しました。
そして、そうした自由に発信できる場を支えているのは、インターネットという場における「匿名性」です。
自分自身の顔や声を晒して発信すると、どうしてもリスクがあるわけですが、インターネット上においてはそうした自分のプライバシーを守った状態で、自由に発信ができるというのは大きなポイントだと思います。
しかし「匿名性」は、もちろんこうしたメリットも抱える一方で、デメリットも持ち合わせていますよね。
「匿名」であるのを良いことに、リアルでは絶対に言えないような発言や、できないような行動を平気でしてしまうある種の無責任さを助長してしまうのは、大きなデメリットの1つです。
私は、インターネットが普及し、SNSが当たり前のものになった今の時代をこんな風に捉えています。
他者を「助けたい」と簡単に言えるようになった一方で、誰も助けようとはしなくなった社会。
本作『竜とそばかすの姫』の劇中で、鈴の母が中洲に取り残された子どもを救うべく、増水した川に飛び込んだとき。あの時、傍で傍観していた人たちをみなさんはどう思いますか。
私は、あの人たちは決して責められるべきではないと思います。
自分にはどうしようもないという無力感と目の前で子供が命を落とす様を眺めているしかないという絶望感。
そんな苦い思いを噛み締めながら、あの場所に立ち尽くすということがどれだけ苦しいことかを推し量ると、どうしたって彼らを責めることなんでできません。
しかし、インターネットないしSNSという匿名の空間においては、あの場にいなかった何の関係もない人間が、「こうしたら良かったのに」「自分だったら助けられたのに」「周囲にいた人たちは何をしていたんだ!」みたいなことを平気で書き込めてしまうんですよ。
そうした書き込みをした人間は、自分が何か行動を起こしたわけでもなく、あの場に無力に立ち尽くす絶望感を味わったわけでもなく、高みからもっともらしいことを言って、何か自分がとても素晴らしいことをしたと錯覚しているような節もあります。
『竜とそばかすの姫』の劇中で、様々な人たちが「竜の正体を晒せ!」とコメントをしていましたが、その中に誰か1人でも「俺の手で竜の正体を暴いてやる!」と言っていた人がいましたか?いませんでしたよね、
彼らは、ジャスティスという存在がいるのをいいことに、「竜の正体を晒せ!」と安全圏から、あたかも自分が正義の行いをしているかのように陶酔し、意見を発信しているだけに過ぎません。
実際に誰かを助けるために行動を起こすことが今も昔も難しいことに変わりはありません。
しかし、「匿名性」が担保されたインターネットやSNSがもたらしたのは、安全圏から意見を発信することで、自分が何らかの貢献をしたと錯覚させてしまうという恐ろしさではないでしょうか。
『竜とそばかすの姫』の終盤に、恵がこれまでに口では自分たち兄弟のことを「助ける」と言ってくれた人たちのことを強く糾弾しています。
それは、口では助けると言っているのに、1歩踏み込んで助けようとはしてくれなかった人たちへの怒りなのですが、これはネット上で口先だけで正義を気取っている「私たち」に向けられたものなのかもしれません。
安全圏にいれば、何だってできる、何だって言える、そして何かに貢献した気になれる。
そういう人間をインターネットとそれに付随する「匿名性」が生み出してしまったのではないか。
ここに、本作『竜とそばかすの姫』を描いた細田監督の問題意識があるんじゃないかと個人的には作品を見ていて感じました。
だからこそ、物語のクライマックスで、この映画は鈴という1人の少女による、「匿名性」という名の安全圏の放棄を描きます。
安全圏から口を出すのではなく、自らリスクを冒してでも手を差し伸べる。
そして、この物語のもう1つのキーは「何者でもない少女が、会ったこともない、名前も知らない誰かを助ける」というところにあると思っています。
今作において、竜の正体をそれまで物語にほとんど関与していない、名も明かされていない少年に設定したのは、非常にユニークな展開だったと思いますし、『竜とそばかすの姫』のテーマを描き切るには、この展開でなくてはダメだったと今は思います。
父親から虐待を受けているあの兄弟は、インターネットがない時代であれば、逃げ場もなく、ただただ父親からの暴力に耐え続けることしかできなかったでしょう。
しかし、インターネットというツールが、彼らにSOSの声を上げることを可能にしました。
鈴が暮らしている田舎町には、まだ昔ながらの地域の人たちが支え合う温かなコミュニティが残存しています。しかし、恵が住んでいる東京では、そうした地域コミュニティはおおよそ崩壊しており、地域の人々がお互いに支え合うという気風も薄れてきています。
失われてしまったコミュニティや繋がりの部分を、インターネットが提供するコミュニティや繋がりが補完してくれる可能性があるというのは、ポジティブな側面と言えるかもしれません。
つまり、インターネットやSNSの世界というのは、言い換えれば、何者でもない個人が、名前も知らない誰かのSOSに応じたり、手を差し伸べたりすることを可能にする「場」という見方もできるのです。
細田守監督の映画は、基本的に「英雄譚」の作りを踏襲しています。
それは「旅立ち」「隠された親との出会い」「リターン」といった『オデュッセイア』などに代表される「英雄譚のマザータイプ」を物語の構成にあしらっていることからも明らかです。
『竜とそばかすの姫』においてもそうした構成が少なからず踏襲されているわけですが、その中で細田監督が描きたかったのは、数多のデメリットやネガティブな部分がある一方で、インターネットやSNSが与えてくれた、誰しもが「手を差し伸べる」チャンスというメリットの部分なのかもしれません。
何者でもないあなたが、名前も知らない誰かのSOSに応じることができる。
これはインターネットやSNSが可能にした新しいコミュニティのカタチだと思いますし、連帯の在り方だと思います。
確かに本作は、インターネットやSNSの醜悪な部分にスポットを当てている節があり、その点では当ブログ管理人が記事の序盤で書いたように、細田監督の私怨めいたものすら感じる作りになっていました。
それでも、改めて考えて見た時に、彼が本当に今の世界を見て描きたかったのは、インターネットやSNSが旧来的な助け合いのコミュニティに取って代わるという可能性だったのではないでしょうか。
そういう意味では、細田監督は本作においてアニメーションの面だけでなく、物語の部分においても近年失われつつある家族や親せきの繋がりを中心に置いた『サマーウォーズ』のアップデートに挑戦したと言えるのです。
『竜とそばかすの姫』のラストを見て、「結局何も解決していないじゃないか!」と言う人がいてもおかしくないでしょう。
しかし、この物語は「解決」に力点を置いていません。
この物語の主眼が置かれているのは、「つながり」なのです。
2009年に公開された『サマーウォーズ』で「つながりこそが、ボクらの武器」というキャッチコピーを打ち出して描いたある種の古き良き家族や親せきの「つながり」。
それを10年以上経過した世界で描き直した時に、監督が力点を置いたのは「つながり」を感じられず、家族というコミュニティを柵のようにすら思っている少年と、何者でもない1人の少女の「つながり」の部分だったのではないでしょうか。
だからこそ、この作品は、何かを「解決する」ことを物語のゴールには据えず、その「つながり」を可視化したところで物語を閉じました。
でも、その「つながり」が鈴と恵の2人に、確かな逆境に立ち向かう勇気を与えたはずです。
そう考えると、『竜とそばかすの姫』は「つながりこそが、ボクらの武器」とフレーズをシチュエーションと時代を変えてアップデートしたと言えるわけですよ。
現在の世界に蔓延するインターネットやSNSのネガティブな部分に心を痛めながらも、それらのメディアがもたらしてくれる「名もなき英雄譚」の可能性を信じる。
それこそが、「何者でもない主人公」が成長し、ヒーローになるひと夏の英雄譚を描き続けた細田監督の辿り着いた1つの境地だった。
「セカイ系」と細田監督の「英雄譚」におけるコドモ
最後に少し違った視点で、『竜とそばかすの姫』についての批評をさせていただければと思います。
先ほどもチラッと書きましたが、細田監督の作品は基本的に「英雄譚のマザータイプ」を踏襲したプロットになっていますよね。
何者でもない主人公が旅立ち、隠された「父(親)」に出会い、目的を達成して故郷へと帰って来る。
『サマーウォーズ』や『バケモノの子』などがこの構成を意識して作られたことが顕著な作品だと思いますが、『おおかみこどもの雨と雪』や『未来のミライ』にも通底していると言えます。
つまり、細田監督の描いてきたのは、一貫して「英雄譚」なのです。
一方で、近年90年代、2000年代に一世を風靡した「セカイ系」と呼ばれるジャンルが1つのターニングポイントを迎えています。
少年少女の背中に世界の運命が重くのしかかり、個人の物語と世界の運命がリンクするような構造になっている物語を総称するとも言える「セカイ系」。
しかし、近年『天気の子』や『シンエヴァンゲリオン』に代表されるように、「セカイ系」ジャンルの作品で、少年少女をそうした責任や運命から解放しようとする動きが顕在化しています。
『ほしのこえ』や『雲の向こう、約束の場所』などの作品を手掛け、「セカイ系」の旗手の1人とも言われた新海誠監督は、『天気の子』で主人公の少女を世界の運命に対する責任から解放しました。
世界のための決断ではなく、少年少女が自分たちのために願い、選択することを肯定して見せたわけです。
一方で、庵野秀明監督が手がけた人気シリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』も2021年に公開された完結編にあたる『シンエヴァンゲリオン』にて明確に少年少女の解放を描き出しました。
ゲンドウやユイ、冬月といったキャラクターたちの「大人の責任」を強調する形で、子どもたちを世界の運命を背負う責任から解放し、新しい世界を再構築する物語は、まさしく「セカイ系」のコンテクストの脱構築です。
このように、「セカイ系」を代表するクリエイターないしシリーズが、こぞって子どもたちを世界や社会に対する責任から解放し、自分たちのために選択し、生きることを要請するような映画が立て続けに公開されたんですね。
そんな風潮の中で、細田監督が作り出したこの『竜とそばかすの姫』は、本来社会や制度が負うべき責任を子どもに追わせるという物語になっていたことは間違いありません。
虐待問題というものは、1人1人が考えて何ができるかを考えていかなければならない問題ではあります。
しかし、そうした問題の解決のために、1人の少女が素性を全世界の人たちに晒し、さらには暴力的な父親のいる場所に女性1人で向かうというリスクを背負うことが美談として描かれて良いのか?という疑問はつきまとうはずです。
私が細田監督の作品を見ていて常々思うのは、彼の作品には「社会」が存在していないということ。
今回の『竜とそばかすの姫』で「結局『U』が何をするところなのか?」が見えづらいという指摘が多くの人から出てきていたのもそれが原因だと思います。
細田監督の作品は、個人とそれをとりまく家族や地域の人たちによる共同体によるミニマルな物語を、今回の『U』であったり、『バケモノの子』のような人間とバケモノの2つの世界という壮大な「器」に入れて展開する傾向が強いですよね。
ただ、描く気がないのか、興味がないのかは分かりませんが、細田監督は作品の中でその「器」そのものを掘り下げようとしないのです。
そのため、『バケモノの子』におけるバケモノの世界の全体像や人間の世界との違いは見えづらく、今作における『U』の何たるかも全く分からないままになっています。
この「器」というのが、すなわち「社会」や「世界」のことなのですが、ミニマルな物語を小さな「器」に入れて物語を作り上げる上では、それほど「器」の存在を強調する必要はありません。
例えば、ワンシチュエーションで展開されるような映画や、1つの家族だけにスポットを当てるような物語において、「社会」というものが必ずしも透けて見える必要はないと考えます。
しかし、細田監督は物語そのものが個人とそれを取り巻く共同体を中心にしたミニマルな物語でありながら、それをものすごく壮大な「器」にいれて展開しようとする癖があるのです。
そうなると、当然のように「器=社会」というものが、どうなっているのかを描く責任が生じてくるはずですよね。
しかし、『竜とそばかすの姫』において『U』のディテールの描写は放棄され、虐待問題に際して登場すべき社会や制度はまともに描かれず、なぜか個人が責任を負い、問題の解決にあたらなければならない流れになっています。(ちなみに程度の話で「48時間問題」の話は挙がりましたが…)
確かにそうなんですが、今回の『竜とそばかすの姫』が決定的に違う点は、極めて直接的な描写で、本来鈴という少女が負うものではない重い責任を彼女1人に背負わせているという点なのです。
『サマーウォーズ』は世界の運命が主人公の少年少女に託されることになりますが、家族や親せきが協力し、その後押しをしたりしますし、何よりゲーム感覚のビジュアル演出によって、ある種の「毒抜き」がされています。
『バケモノの子』もファンタジー要素が強い上に、人間であり、バケモノに育てられた主人公にしかできないことという流れを確立することによって、主人公の少年が責任を負うことを正当化していました。
しかし、『竜とそばかすの姫』において、主人公の鈴があの虐待問題に対して責任を負う必然性は極めて薄いのです。
この章の最初に挙げた「セカイ系」と呼ばれるジャンルは、確かに少年少女に世界の運命に関わる責任を負わせてきましたが、新海誠監督の映画でも、『新世紀エヴァンゲリオン』でもそうですが、きちんと「社会」が描かれていて、その中で個人がそうした「責任」を追わざるを得ない事情がきちんと描かれていました。
だからこそ、『竜とそばかすの姫』のように社会や制度といった本来責任を負うべき主体を不在にした状態で、個人が何とかしなければならないというプロットに一抹の恐ろしさを抱いてしまうのです。
そうした点も含めて、細田監督の作品は、「セカイ系」ではなく、あくまでも「英雄譚」なんだなとは思うのですが、今作は今までの作品とは比べ物にならないほどに、その「クセ」が全面に出ていました。
というのも、クライマックスの場面で鈴1人に東京に行かせる描写がどう考えてもダメなことは、誰が見たって分かりますし、一番作品のことを知っている作り手が認識していないはずがないと思うのです。
そうなると、少し視点を変える必要がありますよね。
つまり、なぜダメだと分かっていて、あのような展開・演出を採用したのか?という見方が必要になるわけです。
ここで、改めて持ち出したいのが、近年の「セカイ系」ジャンルのターニングポイントの話ですね。
『天気の子』や『シンエヴァンゲリオン』が描いた「大人や社会の責任の所在」「少年少女の解放」といったコンテクストは、言わば現実社会に対してこうあるべきだという理想を打ち出す形で描かれているような気がしました。
確かに今の日本という国は、コロナ禍でますますその傾向が顕著になっていますが、「自己責任論」が強い社会になっています。
つまり、社会や制度ではなく、個人が本来負うべきではない「責任」を背負わされている状況にあるということです。
上記の2作品は、そんな社会に対して、フィクションとしての「あるべき理想」を打ち出したという方向性が強いのだと思いました。
一方で、細田監督の『竜とそばかすの姫』は、「理想」ではなく、むしろ「現状」を映し出すことで、観客に問題提起をしていると見ることもできるような気がするのです。
つまり、『竜とそばかすの姫』は自己責任論が蔓延し、社会や制度が放棄した責任を個人が負わされている私たちの世界の映し鏡であるという視点ですね。
本作において『U』を創造した賢者「Voices」の設定として、劇中でこう言及されていました。
『Voices』は「公平であるために必要なものは既にある」として取り合わない
(『竜とそばかすの姫』より引用)
この設定は、言わば体制側や社会の側が、そこで起きることに対して「責任」を負わないという姿勢が表出したものと言えますし、それは私たちの生きている社会そのものという見方もできますよね。
そう考えていくと、『竜とそばかすの姫』は過度な責任を少女に背負わせることによって、逆説的に現状の社会に対する問題提起をしようとしているのかもしれません。
つまり、『竜とそばかすの姫』と『天気の子』や『シンエヴァンゲリオン』では、描いているものは真逆なのに、言わんとしていることは全く同じなのではないでしょうか。
社会にたいして「あるべき理想」を打ち出し観客に訴えかけるのか、それとも現状の問題点を可視化することで観客に訴えかけるのか。
アプローチが違うだけで、目指しているところは同じなのかもしれないと思いますし、何より「セカイ系」と「英雄譚」は似て非なるものです。
だからこそ、今作における極めて意図的な「社会の不在性」は、「英雄譚」を描いてきた作家、細田守監督なりの「大人や社会の責任の所在」「少年少女の解放」への希求だったのかもしれないとそう思わされました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『竜とそばかすの姫』についてお話してきました。
『サマーウォーズ』みたいなド直球な娯楽大作を作っていたクリエイターが、ケモノ好きに目覚めたかと思えば、自分の子育ての経験に着想を得た極めてパーソナルな映画を撮ってみたり、ネット社会への私怨めいた感情をぶつけてみたり…。
というか、ほんと夏休み興行の目玉映画でこんなぶっ飛んだことやらせてもらえるの細田守監督くらいじゃないですかね?
こうなってくると、逆にどこまでやれるのか、ちょっと応援したくなっちゃいます(笑)
映像はとにかくディテールが繊細でしたし、劇伴音楽や挿入歌もエモさの極みみたいな感じだったので、映画館映えすることは間違いない作品です。
賛否は真っ二つだと思いますが、見て損はない1本だと思いますので、ぜひぜひ劇場でご覧くださいませ。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。