みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『OLD オールド』についてお話していこうと思います。
予告編で期待を膨らませすぎて、本編を見て肩透かしを食らうというパターンを何回やられてきたか分からないんですが、新作が出るとやっぱり期待しちゃいます。
今回お話していく『OLD オールド』はざっくり言うと、人間の50年に当たる時間が1日で経過してしまう不思議なビーチに迷い込んだ3つの家族と1組のカップルにスポットを当てたスリラーでした。
予告編などでは、「どんでん返しが!」みたいな煽りを感じますが、そうした物語の”ツイスト”を楽しむ映画というよりは、むしろドラマ性や人間のエモーションの部分が面白い作品なのかなと思いました。
ですので、シャマラン的な「どんでん返し」や「スリラー」の要素を期待しすぎると、物足りないと感じることでしょう。
で、皆さんが聞きたいのは結局「面白かったの?」ってところですよね。
正直に申し上げますと、題材や設定は面白いし、人間ドラマの部分はよくできているけれど、シャマラン特有のスリラー風味が害でしかないという印象が強かったです。
北米大手レビューサイトのRotten Tomatoesでも批評家、オーディエンス共に支持率が50%台とかなり厳しい評価を受けていますが、個人的にはそれも納得な内容でしたね。
そして記事を書こうと思っていろいろと作品情報を調べていると、実はこの『OLD オールド』には原作があるということを知りました。
ピエール・オスカー・レヴィが著した『SAND CASTLE』というグラフィックノベルが原作になっていたようなんです。
『OLD オールド』があんまり良い出来とは言えないのは、原作のせいなのか、それともシャマラン監督のせいなのかと。
ということで、今回の記事では、映画『OLD オールド』と原作の『SAND CASTLE』を比較しながら、いろいろと深堀りしてみようと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『OLD オールド』解説・考察(ネタバレあり)
スリラー要素があまりにも浮いている
(C)2021 Universal Studios. All Rights Reserved.
『OLD オールド』を見たときに、シャマラン特有のスリラー要素に「取ってつけたような」印象を受けました。
この映画の感情面での力点がどこにあるかを考えたときに、それはやはり夜の海で壊れた家族が再生し、静かに両親が息を引き取る美しいシーンだったと思うのです。
なぜ、このシーンが素晴らしかったのかを考えてみたのですが、それは時間に伴う人間の身体と心の変化に言及していたからなのだと思いました。
『OLD オールド』では、不思議なビーチの影響を受けて、人間の身体が急速に老化していく様を描いているのですが、変化していくのが身体だけではないというのが面白いポイントです。
つまり、身体の変化に伴って人間の内面、つまり心も目まぐるしく変化していくんですね。
例えば、物語の冒頭時点では7歳だったマドックスや6歳だったトレントは、身体の変化とともに自分自身の感性の変化や異性への感情の芽生えを実感していました。
そして、該当の夜のシーンでは、両親が徐々に老衰していき、自分たちの置かれている状況を「遠く」感じるようになるのです。
中島京子さんの『長いお別れ』という小説の中で、歳をとり、認知症気味になっていく祖父が「だんだんね、いろんなことが遠くなっていくんだよ」と発する場面がありましたが、この「遠くなる」という感覚が『OLD オールド』では、見事に表現されていました。
自分が急激に老化していくという恐ろしいビーチにいながら、そこが恐ろしい場所であるという実感すら徐々に薄れていき、離婚寸前までいった過去が静かに溶けていく。
人間の老いというものと時間というものの存在感を痛烈に感じさせるこのシーンは、『OLD オールド』の中でも最高の瞬間だったと言えるでしょう。
アメリカという国が急速に変化していく中で、ヒッピーの主人公が時間の流れに取り残されていくような無常さをひしひしと感じさせるラストシーンはいつまでも忘れられません。
『OLD オールド』でも、めまぐるしく変化していく状況に徐々に取り残されるかのように、世界の輪郭がぼやけ、愛する人と寄り添いながらその生涯を終える様が美しく、エモーショナルに演出されていて、グッときました。
ただ、この空気感のまま作品を見終えることができないのが、この作品の難点なのです。
ここから、謎のスリラー展開が加速していき、この老化が急速に進むビーチの存在や彼らがここに送り込まれた背景に隠された秘密を暴き出そうという方向に物語がシフトしていきます。
しかも、その「種明かし」も別段大したものではないので、映画の最も美しい瞬間の余韻を邪魔するノイズにしかなっていませんでした。
ですので、この映画、正直シャマラン特有のスリラー要素がなかったらもっと面白かったと個人的には思います。
人間の身体と心の変化を時間が急速に進むという設定の中で描くという哲学的なヒューマンドラマとして、確立された作品になれただろうと思うわけです。
では、そうならなかったのはなぜか。責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。
ということで、ここからは原作である『SAND CASTLE』を交えたお話をしていきます。
映画の良いところは原作の良いところ?
『SAND CASTLE』を読み終えて、率直に思ったことを言わせてください。
「あ、これ映画の良いところは大体原作の良いところで、映画のダメなところは基本原作に描かれてないところじゃん…。」
ということで、早々に『OLD オールド』がイマイチな理由の所在が原作ではなく、シャマラン監督の方にあるという種明かしをしてしまったわけですが、原作の方がすごく哲学的で静かな美を感じる内容になっていたのは事実です。
まず、『OLD オールド』と『SAND CASTLE』のどのあたりが違うのかという話をしていきますが、最も大きなポイントは例の「種明かし」パートですね。
映画の方では、あのビーチに家族がなぜ放り込まれたのかについての「種明かし」をしていくサスペンス性があるのですが、これは原作の方には存在していません。
原作も展開は同じなのですが、複数の家族がビーチに集まることになったのは、誰かに連れてこられたからではなく、偶然ということになっています。
そして、もう1つ大きなポイントが中盤で生まれた赤ん坊が生きるor死ぬという違いですね。
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映画『OLD オールド』では、トレントとマドックスの2人を主軸に据えて物語を展開していく都合上、トレントとガールフレンドの間に生まれた赤ん坊は命を落としました。
一方で、原作の『SAND CASTLE』では、この生まれた赤ん坊が物語の鍵を握り、作品を主題を体現する存在としてフィーチャーされます。
こうした部分が、主な原作と映画の違いなのですが、先ほど私が挙げた『インヒアレント・ヴァイス』のラストシーンを思わせるような余韻のまま物語がフェードアウトしていくのが、まさしく原作の『SAND CASTLE』の方なんですよ。
キャラクターたちが夜の間にどんどんと老いていき、バタバタと命を落としていく中で、朝になり、新生児だった男の子だけが浜辺に取り残されるという含みを持たせたラストは時間の流れの残酷さを強烈に印象づけてくれます。
また、原作を読んでみて、改めてこのプロットのどこに魅力を感じたのかが自分の中でより明確になったような気がしました。
それは、人間の身体と心が変化するスピードが異なるという点なのだと思います。
人間の心というものは、時間をかけてゆっくりと変化していくものであり、その速度は身体の成長速度とはズレがあることも稀ではありません。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION』と『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の2つの作品を使って庵野監督が1つ面白い試みをやってくれました。
それは、主人公のシンジが世界の急速な変化に心が適応できない戸惑いとそれに対してゆっくりと適応させていく過程を分けて描写したことです。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION』では、シンジを突如全てが変化した世界の中に放り込み、その中で戸惑いと不安に襲われながら自分の心を何とかして安定させようとする姿を描きました。
一方の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の冒頭では、第三村でシンジがゆっくりとした時間の流れの中で、世界の変化に心の変化が追いつくまでの過程をじっくりと描きましたね。
この2つの異なる時間の流れの速度とそこに置かれた人間の心の変化や適応を描き分けるという試みが非常に素晴らしかったと思っています。
そして、『SAND CASTLE』にもまさしくこうした類の時間と人間の心の相関が描かれていました。
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身体が30歳に成長しても10歳の子どものように両親に反抗する娘。身体は大人になっているのに、ベットタイムストーリーに胸を躍らせる「子ども」たち。
外見と内面のギャップが何気ない描写の中でさらりと可視化されており、人間の心というものが肉体の成長に追いついていない「ズレ」を読み取ることができます。
では、その「ズレ」というものは如何にして埋められていくのか。
ここは映画版の方が意識的に描いていたと思いますが、その人を取り巻く「環境」なんでしょうね。
原作の『SAND CASTLE』は逆らえない老いと死への無常観のようなものが提示されていましたが、映画版の『OLD オールド』はもう少し明確なメッセージ性を持っていたような気がしました。
それは、大人の影響で、子どもの身体ないし肉体でありながら「大人」になることを強いられる環境への問題提起です。
『OLD オールド』では、子どもたちが基本的に複雑な家庭環境を抱えていました。
とりわけ主人公の家族にいおいては、両親が離婚寸前で常に喧嘩をしているという状況であり、この環境要因は子どもに「大人になることを強いる」ものであると見ることもできます。
その歪さがラストで、6歳なのに50歳の中年の姿になって親戚に会いに行く主人公の姉弟の姿に皮肉を込めて表現されていたわけです。
総じて原作の方が優れているとは思いつつも、原作の設定を独自に解釈して、肉体と心の「ズレ」を違った形で描いたのは、『OLD オールド』の面白さだったのかもしれません。
ただ、やはり時間の流れの残酷さや無常観のようなものを漂わせ、その余韻の中で心地よく物語が終わる原作の方が私は好きですし、そこにサスペンス/スリラー要素をぶち込んで謎の味付けがされた『OLD オールド』が良いとは思えなかったのが事実です。
シャマランは脚色でもって何を描こうとしたか?
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と、ここまでかなり『OLD オールド』に対して懐疑的な目線で語ってきましたが、脚色について良かったと思う部分もあります。
それが、人間が「過去」そして「未来」に対して抱くベクトルの描き方なんですよね。
映画の序盤に、トレントとマドックスの両親が離婚を巡って喧嘩をしているときに、「あなたはいつも未来ばかりを見ている。私には現在しかないのに。」というセリフが飛び出していたのが印象的でした。
人間の身体というものは常に、老いに向かって突き進んでいて、そのベクトルは不可逆ですよね。
子どものころは大人という未来が明確に存在しており、それに向かって成長していくという未来志向のベクトルが明確に存在しています。
しかし、人間は大人になりある程度成熟した段階で、そのベクトルが未来に向いたままの人間と、逆に過去に目を向ける人間に分かれるんですよね。
『OLD オールド』で言うと、トレントとマドックスの両親が当初は現在や未来のことで言い争っていたのに、老いが進むにつれて、ビーチでの現在を肯定し、過去を懐かしむ方向に意識のベクトルを向けるようになりました。
そしてこうはっきり言いましたよね。「ビーチからでなくても良い。」と。
この発言は、彼らが「未来」に向かって進むベクトルを喪失したことを端的に表していたのだと思います。
他にも、自分の容姿に異常なこだわりを見せていたカーラの母親は、容姿にコンプレックスを抱えていた過去に目を背けていると同時に、自分の老いていく未来を尋常じゃないほどに恐れている人間として描かれました。
そんな人間がビーチに入り、急速に老化する現象に巻き込まれると、今度は「現在」すら安全圏ではなくなってしまうんですよね。
過去に目を向けることもできず、未来に対しても恐れがある人間が、現在にも居場所を見出せなくなる。そんな人間の末路をシャマラン監督はセンセーショナルに描き出しました。
このように「未来」へのベクトルを持った大人が次々に命を落としたり、そのベクトルを失ったりしていく中で、最後に残ったのがトレントとマドックスです。
2人は、クライマックスに向けて明確な「未来」へのベクトルを持ち続け、あのビーチから脱出することを望みます。
シャマラン監督が『SAND CASTLE』を脚色して描きたかったのは、この「未来」へのベクトルを持ち続ける勇気と信念なのだと思いました。
原作のラストには、諦念とともに時間の流れの無常さや老いを受容するような趣があります。
しかし、シャマラン監督の『OLD オールドには、そうした諦念や無常さに打ちひしがれてもなお前を向き続ける人間の力強さを感じました。
『砂の城』というタイトルに込められた意味
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最後に、原作の『SAND CASTLE』つまり「砂の城」というタイトルに込められた意味について簡単にお話をして、記事を締めくくろうと思います。
映画『OLD オールド』でも終盤に、トレントとマドックスがビーチから脱出する前に「砂の城」を作っていましたが、モチーフとしては添え物程度でした。
しかし、原作の方ではタイトルになっていることからも分かる通りで、「砂の城」が物語において中心的なモチーフとして扱われています。
先ほど少し言及したように、原作のラストは夜の間に大人が全員老いで命を落としてしまい、新生児の男の子だけがビーチに残されるというものでした。
この時間の演出に「砂の城」が密接に関わっていることがまずは指摘できます。
昼と夜の海では、潮の満ち引きがありビーチの風景が様変わりしますよね。
これを考えたときに、昼には砂地だった場所に作った城が、夜の間に潮が満ちてきて水に浸かり、朝に潮が引いていくにつれて破壊されてしまうなんて現象が起きることは想像に難くありません。
1日が人間の寿命を表しているとされる今作の設定を鑑みると、まさしくこの「砂の白」というモチーフは人間の命を表現しています。
砂の城を作った時には、誰も潮が満ちてきてこの城が水に浸かり、最後には流されてしまうなんて想像もしません。
人間にとっての人生の終わり、つまり「死」というものも、まさにそんな風に見えているのでしょう。
しかし、時間とともに確かに潮は満ちてきて砂の城は最後には流されて、跡形もなくなってしまいます。
そうした時間の流れの残酷さや無常さ、人間の命の儚さや有限性が「砂の城」というモチーフには投影されているのだと思いました。
加えて、原作には終盤に大人が「子ども」たちに聞かせたベットタイムストーリーとして、とある「城」にまつわる寓話が語られています。
その内容は、身体が半分しかない悪魔にお前の命を奪ってやると脅された王様が、幾重にも城を増築し、警備を強化して外部からの侵入者に備えたけれども、結局は自分の作り上げた孤独な空間の中でその生涯を終えるという皮肉めいたものでした。
どんなに頑強な城であっても、時間の流れを前にしては「砂の城」と何ら変わりないのだという教訓が込められていたと言えるでしょう。
『OLD オールド』ないし『SAND CASTLE』は、人間の寿命を圧縮することで、迫りくる「死」の恐怖に人間を直面させます。
スリラーにおいては、多くの場合で殺人鬼などの外的な要因によって「死」が突きつけられますが、今作においてはあくまでも寿命という人間の内的な要因が迫りくるという斬新な設定が採用されました。
その設定そのものに意義を見出し、哲学的で静かな余韻とともに描き切った原作か。その設定を自分の十八番である「どんでん返しスリラー」の枠の中にぶち込んだシャマラン監督の映画版か。
ぜひ2つの違ったバージョンを比べて、味わいを深めてほしいと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『OLD オールド』についてお話してきました。
元々この映画は、シャマラン監督が父の日に子どもから『SAND CASTLE』のグラフィックノベルをプレゼントされ、その内容に感銘を受けたことから企画がスタートしたそうです。
しかし、原作の設定や面白さを、自分の「どんでん返しスリラー」の枠に当てはめて、設定や背景の「種明かし」に映画の力点を置いたことが良かったとはお世辞にも思えません。
シャマラン監督が映画において「種明かし」をしようとこだわった部分は、本来「マクガフィン」として処理されて然るべき要素だったと思っています。
そこが可視化されることで、物語の哲学性が損なわれた気がしていますし、設定そのものが矮小化されたような気もしました。
シャマラン監督はスリラーの名手ではありますが、何でもかんでもそうしたジャンルに当てはめることが良いとは言えないのだと痛感させられる1本でしたね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。