みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『空白』についてお話していこうと思います。
今作『空白』を映画ファン目線で見ると、やはり一番注目してしまうのは、監督が吉田恵輔さんである点ですよね。
有名なのは『ヒメアノ~ル』だと思いますが、個人的には『さんかく』や『犬猿』のような人と人がぶつかりながらも答えを見つけ出していくヒューマンドラマを撮らせると抜群の監督だと思っております。
今回も予告編の印象だと、どうしても古田新太さん演じる父親の暴力的でかつ脅迫的な演技が前面に押し出されていました。
そこに「『ヒメアノ~ル』の吉田恵輔監督」というフレーズまでついているので、どうしても多くの人がサスペンス的な展開であったり、バイオレンス要素であったりを期待してしまうのではないでしょうか。
ただ、映画本編を見終わった今言えるのは、古田新太さんの強烈な演技はあくまでもこの映画の一側面でしかなく、本質はそこではないということです。
映画『空白』は人と人とが関わり、同じ色や温度で物事を捉えられないことにより生じるジレンマや後悔、そしてそれが重なる喜びに焦点を当てた重厚なヒューマンドラマだと私は思っております。
すごく重たく、強烈な物語ではあるのですが、終盤にかけて張り詰めた空気が徐々に解きほぐされていき、ラストは思わずこの映画の持つ「やさしさ」に涙する、そんな作品です。
この映画が1人でも多くの人に届くことを願いつつ、ここからは個人的な解説や考察をネタバレになるような内容も含めつつ書かせていただきます。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
映画『空白』解説・考察(ネタバレあり)
本作全体を通底するテーマは何だったのか?
個々のキャラクターの物語にスポットを当てていく前に作品全体を通じてのテーマ性について考えてみようと思います。
まず、多くの人が気になるのは、この『空白』というタイトルにどんな意味が込められているのか?でしょう。
(C)2021「空白」製作委員会
映画のポスターに書かれているキャッチコピーを見てみると、「空っぽの世界に、光はあるか。」と書かれていました。
それも踏まえて、本作が何に対して「空白」であると言っているのかを考えてみますと、それは世界そのものであり、そこにある全てのものであり、そしてそこに生きる全ての人なのではないかと思います。
本作の劇中で、充の娘である花音について学校で実施したアンケートにて、クラスメートから「印象がない」という声が多数挙がっていたのが印象的でした。
例えば、クラスに周囲に迷惑をかけたり、暴力的な言動をしたりしている生徒がいたら、その人には「嫌な奴」「酷い奴」といったレッテルが貼られることでしょう。
これもネガティブではありますが、1つの「色」ですよね。
一方で、クラスでいつも誰かに手を差し伸べたり、積極的に厄介ごとを引き受けたりしている生徒がいたら、その人には「良い奴」「やさしい奴」といった「色」が与えられるかもしれません。
でも、「印象がない」というのは、他の生徒から特に気にも留められていないことを表しているわけで、それはつまり花音には「色」がないということになります。
いや、正確に言うと花音にも「色」はあるはずなのですが、それを誰からも認めてもらえないがために「透明」になっていて、見えません。
つまり、1人で生きている限りにおいて、元来「空白」でしかない私たちは、色を持ってはいるのですが、そこに他人からの視線が注がれ、何らかの価値が生じなければ、それは「色」として可視化されないわけです。
花音は少女マンガが好きで、化粧にあこがれていて、絵画を描くのが趣味で…といったたくさんの色を持っています。
しかし、それをきちんと「色」として認めてくれていたのは、元母親だけであり、クラスメートや父親の充、担任の先生は彼女の色を見ようとしませんでした。
私たちが生きていて、誰かと「通じ合えた」と感じるのはどんな瞬間でしょうか。
それは誰かと、あるものを同じ温度、同じ色、同じ価値で捉えることができた瞬間なのではないかなと思います。
この世界には様々なバックグラウンドに裏打ちされた人間がいるからこそ、それは難しいことなのですが、私たち人間は当初は異なっていた温度や色、価値をコミュニケーションを取りながらすり合わせていくことができる生き物です。
そうした過程を経て、相手と重なった時、初めて私たちの「空白」に「色」がつきます。
吉田恵輔監督は今作の中にそうした重なりがもたらす喜びと重なれなかった後悔を散りばめ、映画という「空白」に「色」を与えました。
そして、きっとそんな無数の人と人との相互の関わりが生む「色」がこの世界という「空白」を美しく彩っているのだという視座が見え隠れしています。
だからこそ、映画『空白』は人と人との関わりの難しさと美しさを描いた吉田恵輔監督なりの人間賛歌なのだと私は感じました。
では、ここからはこうしたテーマ性を体現するために本作の中で描かれた各キャラクターの物語に具体的にスポットを当てながらお話させていただきます。
マスコミと大衆
(C)2021「空白」製作委員会
まずは、特定のキャラクターというわけではないですが、本作の中で印象的に扱われていたテレビメディアをはじめとするマスコミとそこから情報を享受する大衆の関係についてお話していきます。
テレビから「東京で男が女性を刃物で刺す殺人未遂事件が起きました。」という端的な事実情報だけのニュースが流れてきたとして、どれくらい印象に残りますか?
私個人の考えを述べさせていただきますと、おそらくそれを聞いた30分後には、もうほとんど考えることもなくなっていると思います。
でも、「殺人未遂」という本来とんでもない事件がほんの数十分で忘れられてしまうくらい私たちの世界の毎日は様々な情報に溢れているのです。
だからこそ、そうした「ありふれた情報」には特に興味を示さないくらい麻痺してしまっているんですよね。
では、少し内容を変えて再度質問させてください。
テレビから「東京で男が女性を刃物で刺す殺人未遂事件が起きました。男性は無職で大学生の被害者女性をを近所のコンビニで見かけ、好意を持ちストーカー行為をしていました。女性はストーカー行為のことを警察に相談しましたが、警察は対応しなかったようです。」という情報が流れてきたとしたらどうですか?
急に事件やその登場人物に「色」がつきましたよね。
加害者は無職。被害者は若い女性。ストーカー行為。そしてストーカー行為にまともに対応しなかった警察。
こうした「色」がつくと大衆は手のひらを返したようにこのニュースに関心を示し、「警察の責任だ!」「これだから無職は!」などと好き勝手にコメントするようになるわけです。
そうして、事件の周囲にある目を引きやすい要素ばかりが注目され、殺人未遂や被害者といった事件の本質が「空白」になったままで、情報が広がりを見せる。
まさしく私たちの世界で日常的に起きている出来事と言えるのではないでしょうか。
映画『空白』の中では、まさしくマスコミが事件を大衆に注目させようと、あの手この手で情報を報道し、「色」をつけようとする様が描かれていました。
暴力的な被害者の父。どこかヘラヘラとした様子の若いスーパー店主。そして彼らの周囲の人間の語る偏った印象コメント。
マスコミはあくまでもどこまでも「空白」でしかない事件の周囲の人たちや些細な出来事を取り上げ、事件に「色」をつけようとしているに過ぎません。
しかし、残念ながら、マスコミがこんなことをするのは、そこから情報を共有する大衆がどこかでそれを望んでいるからに他ならないんですよね。
つまり、マスコミは事件を中立の立場で構成に報道したり、事件の関係者の目線に立った情報発信をしたりというよりは、大衆が望む「色」を提供するという大衆目線の行動を取っているわけです。
ぶっきらぼうな父親を煽って暴力を振るわせれば、注目される。スーパーの店主が誠実ではなく、ヘラヘラと被害者をあざ笑うような態度なら面白い。
こうした「色」を大衆は半ば無意識的に望んでいて、だからこそマスコミは彼らの望む「色」で事件とその周囲を脚色します。
ただ、そうした「色」がつけばつくほどに、人々の関心は女子中学生の尊い命が失われたことではなく、暴力的な父親やヘラヘラとしたスーパー店主を糾弾することへと向かっていきました。
誰も事件の本質なんて見ていなくて、そこはいつまでも「空白」のままなんですよね。
『空白』というタイトルに絡ませて、マスコミと大衆の関係性に言及し、彼らの報道が作り出す事件の周囲の脚色とそれに伴う本質の空虚さに言及したのは素晴らしかったと思います。
草加部麻子と正義
(C)2021「空白」製作委員会
では、次に寺島しのぶさんが演じた草加部麻子という人物について見ていきましょう。
このキャラクターは正義感が強く、常に「正しい」行動を取りたいと考え、それを実際に行動に移す実行力もあります。
周囲の人物に気を配り、休日には炊き出しやゴミ拾いなどのボランティア活動に従事するなど、客観的に見ても、よくできた人という評価になるでしょう。
しかし、自分がこうしたいからこうしているという範疇に留まっているのであれば、何の問題もないのですが、彼女は自分の信じる「正しさ」を世の中の絶対的な正義として他人に押しつける傾向があります。
つまり、相手に対して物事を自分と同じ色や温度で見ることを強いるようなところがあるのです。
例えば、スーパーのパートの同僚でボランティア活動にも手を貸してくれていた女性が「ランチの用事があるから参加できない」とコメントすると、暗にそれを糾弾するような態度をとりました。
彼女には、友人とのランチをボランティア活動よりも優先するという価値観は理解できないが故に、「正しくない」という判断になってしまうんですよね。
そして、そんな草加部麻子はスーパーの店長である青柳に対しても、行き過ぎた「お節介」を焼いてしまうこととなります。
彼が自分が亡くなった花音やその父親である充に対してどんな行動を取ればよいのか、そして自分がとった行動は正解だったのかと悩みを抱えている状況で、彼女は「あなたは正しい。充は正しくない。」という一方的な正義を振りかざしました。
草加部にとっては、それが「正しい」行動だったのかもしれませんが、青柳にとってはそれが息苦しかった。これが本音なんです。
だからこそ同じ色で物事を捉えることができなかった2人は決定的にすれ違ってしまいました。
映画の終盤に炊き出しの活動のシーンが映し出され、カレーをこぼした女性に対して声を荒げる一幕があります。
自分と同じ熱量でボランティア活動に取り組んでくれない周囲の人間への苛立ちとも取れるこの行動は端的に彼女の問題を表していました。
映画『空白』において、草加部というキャラクターは他人と同じ色で物事を見ることの難しさ、そして自分の見ている色を相手に押しつけることで生じる息苦しさを体現しています。
彼女はコミュニケーションを取っているつもり、目線のすり合わせをしているつもりなんですが、相手からすると押しつけられている、強要されているといった印象を受けるのです。
いつも自分の「正しさ」を全面に押し出してきたけれども、気がつくと自分と同じ「色」で物事を見てくれる人は周りにいなかった。
そんな悲哀が彼女の迎えたラストシーンには漂っています。
青柳直人と焼き鳥弁当
(C)2021「空白」製作委員会
では、本作の主人公の1人ともいえる松坂桃李さん演じる青柳直人にスポットを当てていきましょう。
彼のバックグラウンドについては、映画中盤の居酒屋でのシーンで少しだけ明かされます。
父親が亡くなる寸前に自分に電話をかけてきていたこと、自分はその時にパチンコをしていて苦しんでいる父を助けてあげられなかったこと。そんな父への罪悪感にも似た気持ちからスーパーを受け継いだこと。
彼の中には、「父親」というものに対する罪悪感と反抗心が入り混じったような複雑な感情があり、父が残したスーパーに対してもどこか懐疑的で、冷笑的な視線を持っています。
飲み会の場で草加部に「スーパーにお客さんが戻ってくる」と言われたときも、「戻ってこないし、うちが潰れても、近所にイオンもできたし誰も困らない」と発言していました。
つまり、彼は父が残したあのスーパーを父と同じ「色」で見ておらず、それを特に意識することもありません。
ただ、そんな時に、彼の前に思わぬ形で「父親」が現れます。
それが、万引きをした後に交通事故にあい、命を落とした花音の父である充です。
彼は「父親」という肩書で、青柳の前に現れ、彼に謝罪を迫り、死亡した状況を再現させ、話し合いを求めます。
しかし、青柳はそんな充を徹底的に避けようとしました。
その理由は、彼が充を自分の父親に重ねたからではないでしょうか。
充は自分の父親の再三の連絡を無視し、その間に父親が亡くなってしまうという経験をしました。
だからこそ、そんな父を冷笑しながらも、心のどこかで自分があの時電話に出ていれば…という罪悪感を抱えているのです。
青柳が充との話し合いを避けようとするのは、彼が自分の「父親」と向き合うことを避けているからであり、彼が花音の死亡状況を再現しているときに震えるのは、目を背けてきた自分の父親の死と向き合うことを強いられているように感じられたからだと思います。
そして、青柳が震える声で充に対して「自分はどうしたらよいか分からない。ただ謝ることしかできない。」と言っていました。
これは、充に対しての言葉でもあり、同時に亡き父に対しての懺悔の言葉でもあったのでしょう。
物語のクライマックスに、冷静になった充が青柳に「まだ赦すことはできないが、いつかその日が来ると思う。」と温かい言葉をかけます。
それに対し、青柳はただただ土下座をし、謝罪の言葉を繰り返すことしかできません。
彼の中には、ずっと向き合うことを避けてきた、負い目を感じてきた「父親」に赦しの言葉をもらえたような安堵があったのかもしれないですね。
そして、充と別れた後、青柳は1人の青年に声をかけられます。
「スーパーアオヤギの焼き鳥弁当が美味しかった。いつかあの味をまた食べたい。」
青柳はこの言葉を聞いたとき、父がなぜあのスーパーを守りたかったのか、あの場所にどんな「色」を与えていたのかを理解したのでしょう。
そして、同時に父と同じ「色」であのスーパーを見ることができず、結果的に店を畳むことになってしまったことに対しての後悔を嚙み締めたのです。
青柳直人というキャラクターは、「父親」とのディスコミュニケーションを充との関わりを通じて乗り越え、その先で亡き父と初めて同じ「色」で世界を捉える瞬間を迎えます。
自分は父親のことをお金を貸してくれるけど鬱陶しい存在だと思っていたのに対し、父親は自分のことを思っているよりも信頼して、死の間際に連絡を取ろうとしていたこと。
自分にとっては「イオンに取って代わられても何の問題ないスーパー」は父が必死に守り続けた大切な場所だったということ。
そうしたすれ違いが映画の中で少しずつすり合わされていき、最後の最後に彼は父がこの世界に見ていた「色」を知るのです。
何もかもを失ってしまった後でそれを知った後悔の苦みが「空白」だった彼の世界を変えていく。
切なくもこれからの希望を感じさせる青柳の物語の最後だったと思います。
添田充とイルカの形をした雲
(C)2021「空白」製作委員会
そして、最後にお話させていただくのが本作の主人公である添田充についてですね。
彼は自分の娘が交通事故で命を落とし、冷静さを欠いた状態で、スーパーアオヤギや学校、マスコミに対して脅迫的、暴力的な態度をとります。
しかし、彼のとる行動やいらだちの背後にあるのは、彼の元妻が言及していたように、自分の娘に対する無知なんですよね。
自分の娘がどんな本が好きで、どんな部活に入っていて、学校ではどんなキャラクターで…といった情報を知ろうとせず、彼女の色を見てあげようとしませんでした。
一緒に生活している間は、娘がそこにいるわけで、その「空白」を気に留めることもなく、父と娘という関係が成立していました。
ただ、娘が命を落とすと急にその「空白」が顔を覗かせ始め、充はそれが自分の責任であることをどこかで自覚しながらも、その責任を他人に押し付けることで、自分なりに折り合いをつけようとします。
花音はいじめを受けていた。花音がマニキュアなんて万引きするはずがない。花音は…。
他人に責任を押しつけ、糾弾することで、自分の無知から生じる責任から目を背けようとしたのです。
しかし、少しずつ冷静になり、元妻の知る花音の話を聞いていく中で、彼もまた自分が見ることを放棄してきた花音の色を見ようと心を改めます。
彼女のアルバムを見て、彼女の好きだった本を読んで、彼女の趣味だった絵を描いて…。
そんな中で彼が娘の色を知る決定的な瞬間となったのが、クマのぬいぐるみの中から出てきた化粧品の数々を見つけてしまったシーンでしょう。
このとき彼は、公園のごみ箱にわざわざ化粧品を捨てに行きます。
なぜ、そんな行動を取るのかと不思議に思った方もいらっしゃるかもしれませんが、私が思うに、この行動の背後にあるのは充なりの罪悪感と責任感なのでしょう。
自分が目を背けてきた花音の色をまざまざと見せつけられたことで、自分がいかに娘のことを知らなかったのか、そして娘を見る責任を放棄してきたのかをはっきりと自覚させるもの、それがあの化粧品でした。
だからこそ、彼はそれが怖かった。だから自宅の外に捨てることで、向き合う恐怖から逃れたいと願ったんです。
そうして、目を背けようとする彼を変えたのは、先ほども書いたように元妻の言葉でした。
少しずつ冷静になり、周囲の人間を赦し始める充。
彼は娘が描いたという絵を見ながら、その中にイルカの形をした雲が描かれた風景画を発見します。
それは奇しくも自分がいつか見た日のイルカの形をした雲を描いた下手くそな風景画と同じ風景を描いたものでした。
ここで注目すべきは、娘が描いた絵の海には、船が浮かんでおり、充の描いた絵は船から陸の方を見る視点で描かれていたという点です。
つまり、2つの絵が揃うことで、陸から海に浮かぶ父の乗る船を見つめる花音の視線と船から陸を見つめる父の視線が交わるようにできているんです。
ただ、充の描いた絵に花音は描かれていませんから、この絵を描いたときにはまだ彼は娘と向き合うことができていませんでした。
しかし、周囲の人たちや事件の関係者を赦し、自分が目を背けてきた責任と向き合った時、彼は娘が自分を見てくれていたことを知り、そしてイルカの形をした雲が浮かんだあの日の絵画の空白に娘の姿を見出すのです。
こうして充は初めて花音と同じ「色」を共有します。
娘は自分を見てくれていた。なのに父親である自分は見てあげられなかった。
そんな2人の視線が絵という不思議なモチーフを通して、生と死を越えて交わり、その乗り越えがたい境界線を前に、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになりながら涙する充の姿。
この映画は、「空白」に何を見るか、どんな温度を与えるか、そして何よりどんな色を塗るのかに際して生じる人と人とのすれ違いや交わりを描いてきました。
だからこそ、この映画のラストが充の描いた絵画の「空白」で終わるのが何とも美しいのだと思います。
何も知らない第三者が見たら、何の変哲もない下手くそな雲と海と山が描かれた絵にすぎません。
しかし、充は確かにその空白に見ているのです。
陸から自分の船を見つめてくれていた花音の姿を。
思いは誰かと通じ合うことで意味を成し、色は誰かと重なり合うことで「色」として可視化される。
そういう重なりや通じ合いがこのどこまでも空白でしかない世界を美しく彩るのだという吉田監督なりの「やさしさ」に映画館で思わず泣き崩れました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『空白』についてお話してきました。
どうしても『ヒメアノ~ル』や『愛しのアイリーン』のような展開にひねりがあるバイオレンス系の作品ばかりが注目されていたところがあったと思います。
しかし、最近は『BLUE』や今回の『空白』のような人間賛歌を込めたヒューマンドラマを手がけることも多く、その描写の緻密さと語り口の巧さに驚かされました。
一方で人と人がぶつかり合いながら、分かり合おうとするコミュニケーションとディスコミュニケーションの映画を撮るという姿勢は『さんかく』の頃から一貫していると思いますし、そこがブレないのも1つの良さでしょう。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。
Netflixでたまたま目に止まった作品でした。
何の情報も無い状態でこの作品を観て・・・可哀想な親に育てられた女子学生が事故で命を落とし、暴走する父の姿が痛々しくスーパーの店長が不憫に感じました。
私はこの映画は何を伝えったかったのか気になりこのブログに辿り着きました。
Yahoo知恵袋での質問は的外れな物だったので・・・
『空白』と『色』という言葉を使って表現されていて
この作品が伝えたかった事はこーいう事だったんだと腑に落ちました。
もう一度、最初から観てみようと思いました。
この作品を観た方が疑問に思い、このブログに辿り着くことを願いします。
ありがとうございました。