みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『護られなかった者たちへ』についてお話していこうと思います。
怪しい綾野剛さんが登場する映画『楽園』に怪しい瑛太さんが登場する『友罪』などなど。
今回は怪しい佐藤健さんを巡って物語が展開していく物語となっているわけですが、サスペンスというよりはヒューマンドラマ色が強いと言えるかもしれません。
というのも、この『護られなかった者たちへ』という作品の背後には、2011年に起きた東日本大震災があります。
私たちにとって当たり前だったものが音を立てて崩れ去った日。
当ブログ管理人はその光景をテレビから見ているに過ぎませんでしたが、それでも大きな衝撃を受けたことを、これから日本はどうなるんだろうかという漠然とした不安を抱えたことを今でも覚えています。
そうした当たり前に存在していた生活、当たり前にそこにあった命が突然失われてしまうという大きな変化に際して、人間の価値観や考え方が大きく変化していくのは当たり前です。
今作はポスト東日本大震災の時代に焦点を当て、様々な立場の人間から「護る」「護られる」とは何なのかを改めて考えさせるような作品となっています。
作品の中心にあるのは、「東日本大震災」であり、そして「生活保護」です。
近年、様々な問題も露呈してきている「生活保護」という制度ですが、日本は先進国の中でも相対的な貧困率が高いことで有名であり、特にひとり親世帯の困窮は顕著なんですよね。
そのため、「生活保護」という制度が上手く運用され、国に「護られ」なければならない人たちはたくさんいるはずです。
ただ、日本人には「国に頼って生きるのは恥ずかしい」というマインドがあったりしますし、世間的にも生活保護を受給している人に向けられる視線は厳しいですよね。
そうした「生活保護」に対する認識そのものを変えていかなければならない状況でもあるわけですが、今作はそうした問題の一端にスポットを当て、アンサーを模索しています。
ぜひ、作品を見て、そうした社会的なテーマについても思いを馳せてほしいと思います。
ここからは作品を見て、個人的に感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『護られなかった者たちへ』解説・考察(ネタバレあり)
「護る」という言葉の意味に震える!
今作のタイトルには「護る」という言葉が含まれています。
- 1 侵されたり、害が及ばないように防ぐ。
- 2 決めたことや規則に従う。
- 3 目を離さずに見る。みまもる。
実は「護る」という言葉1つとっても、これだけのニュアンスが含まれていて、一義ではないということがお分かりいただけるのではないでしょうか。
また、「護る」と「守る」では何が違うの?という疑問も生じてきますよね。
熟語で考えると「護」は「護衛」「救護」のような言葉に含まれ、「何かをかばいまもる」というニュアンスが強いことが分かります。
というのも「護る」の「護」という字は、「言う」「つかむ」の象形から成り立っており、「助ける」「かばう」「大切にする」といった意味合いも強く内包しているのです。
上記を整理しますと、「護る」には様々な意味があり、この表記においては「誰かをかばってまもる」ニュアンスが強まるのだということが分かりますね。
では、この「護る」という言葉の意味が物語の中にどのように散りばめられていたのかを1つ1つ分析してみましょう。
①侵されたり、害が及ばないように防ぐ。
(C)2021 映画「護られなかった者たちへ」製作委員会
まず、「大切な人をまもる」のような表現で用いられるところの「護る」についてです。
この意味において、『護られなかった者たちへ』では、東日本大震災の時に目の前で人が亡くなっていくのをただ見ていることしかできなかった人たちの存在を描いています。
佐藤健さんが演じる主人公の利根は、震災の時に、目の前で津波に流されていくい男の子を目撃しました。
自分が助けに行けば、その子が溺死するのを防げたかもしれませんが、彼は自らの内にある恐怖心に勝つことができず、結局助けに行くことはできませんでしたね。
阿部寛さんが演じる刑事・笘篠も同様に、東日本大震災の時に家族を見つけて、助けてあげることができなかったという後悔を抱えています。
そういう意味で、今作は人間個人にできる「護る」という行為には限界があり、それが為されなかったとして責任を過度に追及されるべきではないという方向性を打ち出しているのだと感じました。
とりわけ、彼らが置かれていたのは、未曽有の大災害という特異な状況であり、その状況で「護る」という正しくも危険な行動を一体どれだけの人ができただろうかと思うと、むしろできない方が当然と言えると思います。
むしろ、今作はそうした個人にできる「護る」の限界を暴きつつ、国や制度による「護る」を確立していかなければならないという危機感を強めていると感じました。
2021年の夏に細田守監督の『竜とそばかすの姫』という作品が公開されましたが、この作品が言っていることはある意味では真逆です。
『竜とそばかすの姫』においては国や制度によるセーフティネットは当てにならないものとして描かれ、個人と人と人との私的な結びつきによって「護る」を実現していくことを理想として掲げていました。
つまり、個人が目の前で溺れかけている子どもを助けにいくことを賛美し、その姿に理想を見出すタイプの「英雄譚」なんですね。
一方で、『護られなかった者たちへ』は映画のラストからもわかる通りで、目の前で溺れている子どもを助けられなかったとしても、それは「赦されるべきだ」としています。
誰しもが目の前でそんな子どもを見かけたら、何とかしてやりたいと思うはずです。
それでも、自分の命の方が大切なのが多くの人にとっての真実ですし、何より恐怖心に打ち勝つのもとても難しいわけですよ。
だからこそ、「護りたい」と思ってくれた、その気持ちだけでも称えられるべきであり、「護れなかった」ことは責められるべきではないのです。
②決めたことや規則に従う。
(C)2021 映画「護られなかった者たちへ」製作委員会
次に、「ルールや規則などをまもる」における「護る」について解説していきます。
この意味は、本作における「生活保護」を認可する役所側の人間のシチュエーションに投影されていました。
瑛太さんが演じる三雲や吉岡秀隆さんが演じる上崎たちは、東日本大震災により、たくさんの人が苦しい状況に置かれた東北の地で、生活保護の担当部署で働いています。
そんな中で、彼らは生活保護を必要としている人があまりにも多い中で、全員を「護る」ことはできないだろうという結論に達しました。
では、三雲たちはどうやって「護る」「護らない」の線引きをするのか。
それがルールや規則だったんですよね。目の前の人を自分の私情や印象に流されず、規則やルールに則って淡々と仕分けることが、最も「正しい」ことなのだと彼らは信じたのです。
三雲や上崎たちは、ルールや規則を「護る」ことに注力することで、より多くの人をまもれるだろうと考え、行動に移します。
しかし、いつしか目の前の困っている人間から目を背け、ルールや規則の方ばかりを見るようになってしまった彼らは、倍賞美津子さんが演じた遠島けいのような悲劇を生んでしまいました。
つまり、助けられた人を助けず、彼女に生活保護を支給しないことが何を意味するのかを分かった上で、ルールや規則に則って線引きをしたわけですよ。
ただ、彼らの行動を「悪」だと糾弾することはできないと私は思っています。
なぜなら、彼らも確かに何かを「護ろう」とした人間だからです。
ルールや規則は国や制度が定めたものであり、それはそもそも「護られる」ために存在しています。
だからこそ、自分の主観や私情で無視しても良いわけはないですし、客観性を担保するためにも適切に運用されていかなければなりません。
三雲や上崎たちのこうした苦悩や葛藤を見ていると、何かを「護る」ことは、何かを「護らない」ことであると思い知らされます。
つまり、生活保護という制度そのものを「護る」ための行動は、必ずしも貧困に苦しんでいる全ての人を「護る」ことにはつながらないのだということです。
ルールや規則を「護る」ために、切り捨てなければならない人が出てくるわけで、そういう状況になると、人はどちらを「護る」のかを選ばなければなりません。
後者を「護る」べきだと口にするのは簡単ですが、三雲や上崎たちがポスト東日本大震災の異常な状況の中で、前者を選択したことが責められるべきではないと思います。
三雲が震災で壊れた誰かのお墓を修復するボランティア活動に取り組んでいる描写がありましたが、彼は決して悪人ではありません。
彼もまた他人を「護りたい」と切に願っている人間の1人なのです。
そういう意味でも、本作『護られなかった者たちへ』は何かを「護る」ときに、何かを「護らない」選択をしなければならないことの難しさを描いていたと思いました。
③目を離さずに見る。みまもる。
(C)2021 映画「護られなかった者たちへ」製作委員会
そして、3つ目の意味ですが、これはまさしく国や制度がこれからきちんと担保していかなければならないセーフティーネットのことだと思います。
記事の冒頭にも書きましたが、日本という国は先進国の中で見ると、かなり相対的な貧困率が高い国として知られているんですね。
これはつまり、国や制度による貧困者への支援が行き届いておらず、放置され、見捨てられてしまっているという状況を表しています。
誰からも支援されず、放置され、見捨てられた人の末路は、遠島けいのような貧困と飢餓による衰弱死です。
そうならないためにも、時間はかかると思いますが、日本は「生活保護」という制度に対する国民の認識を改めていかなければならないと思います。
とりわけマスコミなどで、不正受給者や受け取ったお金でパチンコをしているようなごく一部の例を針小棒大に報道することで、「生活保護」への世間のイメージをネガティブにしている点も気になりますよね。
一部の例外ばかりにスポットが当たり、本当に支援を必要としている人が「生活保護」を受けていることを負い目に感じたり、受給することを躊躇ったりするのは恐ろしいことです。
先日メンタリストのDAIGOさんが「ホームレスに存在価値はない」と発言して、代炎上したのは記憶に新しいですが、この手の発言に共感してしまう人が一定数いるのも、日本人の貧困を救済するセーフティーネットに対する偏見がその根底にあるのかもしれません。
本作『護られなかった者たちへ』においては、遠島けいというキャラクターが「セーフティーネット」の象徴のように描かれています。
彼女は震災の時に身寄りのない利根と円山に毛布を与えたり、食事を与えたり、家に泊めてあげたりしていましたよね。
このように、彼女がしている行動は、本来国が保証するべき「セーフティーネット」そのものなんですよ。
東日本大震災の混乱のさなか、多くの人が自分が明日を生きるのに精いっぱいの状況で、彼女は避難所で身寄りなくポツンと佇んでいる2人を見守ってくれていました。
あのまま誰からも見捨てられたままだったなら、2人がどうなっていたのかは分かりません。
それでも、利根と円山の2人は、遠島けいのセーフティーネットによって、救われ、生きる勇気をもらうことができたはずです。
国や制度によるセーフティーネットが提供するのは、「あなたはここで生きても良いんですよ」という安心感であるべきだと思っています。
「生活保護」に対するネガティブな認識の1つに「国に依存したり、迷惑をかけることが悪だ」というものがありますよね。
これは、国に迷惑をかける自分なんかはいない方が良いんだという間違った認識に起因するものです。
しかし、本来セーフティーネットが提供しなければならないのは、遠島けいがそうしたように「あなたはここにいてもよい」と認め、その存在を見守ってあげることなんですよ。
『護られなかった者たちへ』はそういった制度のあるべき「理想」を遠島けいの姿や行動に投影し、問題提起しようとした作品なのだと感じました。
「死んでいい人なんていないんだ。」
その言葉こそが、本来私たちの国や社会が保証するセーフティーネットの至上命題であるべきなのです。
そこには「悪」も「善」なく、全ての人が「あなたはここで生きてもいいのです」と肯定されるような国や社会が形作られていく必要性を感じますし、そのためには私たちの偏見や偏った認識が改められていく必要があるのかなとも思いました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『護られなかった者たちへ』についてお話してきました。
『護られなかった者たちへ』は、中山七里さんの長編推理小説で、著者自身は自分の私情や主観をできる限り排除し、様々な立場の人に寄り添ったフラットな作品にしたかったと語っています。
作品を鑑賞すると、そうした公平な視線がすごく丁寧に反映された作品だと感じますし、何より「絶対的な悪は存在しない」という視座がすごくグッときました。
「悪」に見える物事や人間の背後には「善」があり、その逆もまた然り。
誰かを「護る」ということは、誰かを「護らない」という選択をすることであるわけですから、それを1つの視点で切り取ってみれば、「悪」に見える可能性はどうしたってあるわけです。
そういう何が正しいのかも分からない中で「護りたい」という思いや意志を賞賛し、「護れなかった」ことを赦す本作は、非常に志が高いと感じました。
ぜひ、本作を見て、「護る」という言葉の意味と、そして日本の「生活保護」の現状にも思いを馳せていただきたいなと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。