みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画…ではなく、小説のお話をさせていただければと思います。
取り上げる作品は、タイトルにもある通りで現在ドゥニ・ヴィルヌーヴ版の映画も上映中の『DUNE 砂の惑星』です。
1960年代に発表されるや否や、ヒューゴー賞及びネビュラ賞、さらに星雲賞長編部門を受賞するなどSF関連の賞を総なめにした傑作で、今もカルト的な人気を誇る小説。
1962年にレイチェル・カーソンによって『沈黙の春』が出版されたことで高まった環境保護思想の流れを受けて、生み出された当時としては異色のこのSF小説は、多くのクリエイターを虜にし、今に至るまで数々の作品に影響を与えてきました。
代表的なのは『スターウォーズ』シリーズであり、同作に登場するタトゥイーンという主人公のルークの故郷ともなる砂漠の惑星は、『DUNE 砂の惑星』に登場する惑星アラキスをモデルにしています。
その他にも全世界興行収入1位を記録していた『アバター』なんかは、プロットや世界観の描き方において『DUNE 砂の惑星』を多くの点で模倣していますし、『マッドマックス 怒りのデスロード』の世界観も間違いなく影響を受けているでしょう。
また、日本においても宮崎駿監督が生み出した名作『風の谷のナウシカ』ないし同作に登場する王蟲(オーム)は、『DUNE 砂の惑星』を基にしているとも言われ、この作品が与えてきた影響の大きさを伺い知ることができます。
『DUNE 砂の惑星』もかつてホドロフスキーにより壮大な映画化が構想され、名匠デヴィッド・リンチによって映画化されましたが、やはり先ほど挙げた作品たちのような知名度を獲得することなく終わってしまいました。
それは、日本で『スターウォーズ』と聞いて、その名前を知らない人がほとんどいない一方で、『DUNE 砂の惑星』というタイトルはほとんどの人にとって馴染みのないものであることからも明らかです。
つまり「DUNEっぽさ」を含んだ水が流れている支流は、幾度となく目にしてきたけれども、一体その水がどこから流れてきていたのかは分からないという状況が生まれているんですね。
私自身もこの『DUNE 砂の惑星』の原作の存在こそ知っていましたが、上中下巻の長編(さらに複数の続編が存在)のため、なかなか読む踏ん切りがつかずにいました。
ただ、一たび読み始めてみると、もう読み進める手が止まりませんでした。
確かに読み進めていると、そこら中に『スターウォーズ』や『アバター』などのメジャー作品で”手垢のつけられた”設定や描写が散見されます。
つまり、私たちが今この作品に初めて触れると、支流と源流の関係性が逆転するような現象が起きるわけです。
しかし、こうした現象をも内包しているかのような予言の書に映るのが、『DUNE 砂の惑星』の凄みであり、懐の深さであると思い知らされます。
劇中で主人公のポールがこんな言葉を残していました。
現在にいたる過去を見ることにも意味はある。だが予知の真の意義は「未来における過去」を見ることにこそあるのだ。
(『DUNE 砂の惑星 中』より引用)
私たちが『DUNE 砂の惑星』を数多の作品の源流として、つまり「現在に至る過去」として今鑑賞する意義はもちろんあると思います。
その一方で、この作品を「未来における過去」的な視線で見つめることもまた、面白い試みなのかもしれません。
今回はそんな『DUNE 砂の惑星』について、その魅力と面白さを自分なりに解説していきます。
本記事は『DUNE 砂の惑星』の原作小説のネタバレになるような内容を含みますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
読む人を虜にする『DUNE 砂の惑星』の世界の強度と肉感を作り出すものとは?
記事の冒頭にも書きましたが、『DUNE 砂の惑星』という作品は数多くのクリエイターを虜にしてきた名著です。
2021年に公開された映画版の監督を務めたドゥニ・ヴィルヌーヴも、劇伴音楽を担当したハンス・ジマーも原作の大ファンであり、彼らにとっても映像化は悲願であったと言います。
では、なぜ『DUNE 砂の惑星』はここまで多くの人を虜にし、熱狂的な支持を得ているのでしょうか。
私自身もデヴィッド・リンチ監督版の映画を見たときには、この作品がそれほどまでに支持される理由がさっぱり分かりませんでした。
しかし、フランク・ハーバートによる原作小説を読んだときに、そのワケがはっきりと分かったような気がします。
私たちは小説を読んだとき、大抵は「物語に触れる」という経験をすることでしょう。
つまり、どんな登場人物がいて、彼らがどんな道筋を辿るのかという顛末に焦点を当て、そのプロセスを楽しむのです。
ただ、私は『DUNE 砂の惑星』を読んだとき、他の小説を読んでいるときには感じたことのない感覚を経験したように思います。
物語というよりも歴史、いやそれよりももっと大きな「星の記憶」とも言うべき何かに触れたような不思議な感覚です。
この小説に描かれているあらゆる物質、植物、動物、食物、衣類に明確な手触りと肉感があり、異なる時代の異なる世界の物語を読んでいるはずなのに、もはやそれが自分の現在地と地続きであることに疑いの余地がなくなるようなリアリティがあるんですね。
だからこそ、『DUNE 砂の惑星』を読むという体験は、他のどんな小説を読むのとも一線を画したものになると思います。
ぜひ、その感覚を一人でも多くの人に味わっていただきたいということで、今回は私なりにその魅力を噛み砕いてみました。
異世界の強度と肉感はいかにして生まれるのか?
小説の中に存在するのは、私たちの現実世界と切り離された作者の創造と想像の世界であります。
しかし、過去や現在を舞台にする限りにおいて、そこには私たちの現実世界が有するバックグラウンドを共有するという暗黙の了解が存在するわけです。
例えば、現代日本を舞台にしたサスペンスを作ったとしたら、そこには私たちの現実世界の警察・司法組織のあり様や現行の法制度が影響を及ぼします。
これらは「現代の日本を舞台にした」という前提がある時点で、自動的に反映されるものであり、作者は改めて劇中でそれらに言及する必要はありません。
ただし、小説の舞台が私たちのまだ経験していない未来の世界であったり、完全に創作された異世界であったとしたら話は変わってきます。
そうした舞台を選んだ作品の場合、私たちは、生きていく中で無意識に積み重ねてきたバックグラウンドを足がかりにすることができません。
加えて、過去の歴史や民俗、文化などを研究して、それらを足がかりにして舞台となる世界をイメージすることも叶いません。
つまり、完全に著者の創作した空間の中に断絶された異世界を、著者の提示する情報の範疇で感じ取ることしかできないんですね。
劇中世界において、法制度はどうなっているのか、宗教は、食糧事情は、生態系は、政治はどうなっているのか。
それら全てが疑問の対象となるわけで、著者には物語を展開していく上で過不足なく開示していく責任があります。
とはいえ、主人公の身の回りの小さな世界だけにスポットを当てるくらいの規模の物語であれば、それほど細かく描写せずとも問題はないでしょう。
しかし、それが未来の世界で、宇宙と惑星を股にかけた壮大な冒険譚でかつ、政治闘争・宗教闘争にスポットを当てた物語であったとしたらどうでしょうか?
「食糧」という要素1つとってもミニマルな物語であれば、「未来ではこういう食べ物がある!」くらいのノリでもまかり通るでしょう。
一方で、世界観が壮大になれば、その食べ物がどういう経緯で生産されて、劇中世界の人からはどんな認識を持たれていて、どんな意味を持っているのかといったところまで掘り下げていかなければなりません。
果物1つとっても、1000年前の日本と現代の日本という縦軸比較でも、その認識が大きく違いますし、現代の日本とヨーロッパという横軸比較をしても、その認識はやはり大きく違います。
異世界を本当の意味で作品の中に作り出すということは、こうしたディテールを1つ1つ積み重ねて、読者がそこに分け入っていくことができる足がかりを作ることもであるわけです。
そして、『DUNE 砂の惑星』はこのディテールの描きこみにおいて、他の作品の追随を許しません。
同作の劇中に「ナツメヤシ」という植物が登場します。
現代では、デーツと呼ばれる果実を収穫することができる北アフリカや中東で多く栽培されている植物として知られていますね。
では、この植物が『DUNE 砂の惑星』に登場する惑星アラキスにおいてはどう描写されているのでしょうか。
通りすぎる人々はみな、ヤシの並木をにらんでいる!住民たちの眼差しには眺望が感じ取れた。中には憎悪の目で見ている者もいるし……期待の目で見ている者さえいる。
(『DUNE 砂の惑星 上』より引用)
後にもう少し詳しい補足が入りますが、同作の惑星アラキスの住民にとっては水が極めて貴重なものであり、それ故に水を大量に消費するナツメヤシという植物に対しては複雑な感情が入り混じるのです。
ごく普通の作品であれば、ナツメヤシが植えられているという情報は、読者の視覚的なイメージを構築するための些末な背景の一部に過ぎないでしょう。
しかし、『DUNE 砂の惑星』はナツメヤシが劇中世界の人たちにとってどんな植物なのかまで掘り下げることによって、確かな肉感を持たせるのです。
そして、『DUNE 砂の惑星』においては後にこのナツメヤシが襲撃者によって燃やされてしまうシーンがあります。
このシーンを見るときに、単なるナツメヤシが植えられていて、それが燃えているという視覚情報だけの描写にとどめていたとしたら、読者である私たちは現代におけるナツメヤシをバックグラウンドに据えてその光景をイメージするでしょう。
一方で、『DUNE 砂の惑星』のように、その世界の人にとっての「ナツメヤシ」が明確になっていれば、同じシーンであっても、その見え方は決定的に違ってきます。
私たちは、紛れもなく劇中世界の価値観や認識に基づいてそれを見ることになるからです。
「読者が、創作物における異世界をリアルに感じる瞬間はどんな時でしょうか?」と問われたとしたら、私は迷わずこう答えます。
それは、現実世界のバックグラウンドから解放されて、創作世界の中の住民として物語の展開やその中で描かれるシーンを捉えることができたときだと。
先ほど挙げた『DUNE 砂の惑星』における「ナツメヤシ」の描写はその典型的な例ではないでしょうか。
『DUNE 砂の惑星』はこうしたディテールの描き込みの連続により構築されており、間違いなく私たちの中に、新しいバックグラウンドを構築する作品でもあります。
そうして構築されるバックグラウンドと世界観の圧倒的な強度。
これこそが本作が多くの人、とりわけクリエイターの心をつかんで離さない原動力になっているのではないかと私は思いました。
生命の重さ、死の持つ意味を描くということ
とは言っても、植物や動物、食べ物、衣装、住居といったものの描き込みは、視覚的な要素ではあります。
もちろん、小説という活字メディアにおいては文字情報から読者に多くを想像させる必要があるため、これらのディテールは重要です。
一方で、目には見えない要素の描き込みも、やはり重要なものであると言えます。
その中でも特に重要なのが、劇中世界において人間の生命や死をどう位置づけ、どんな重みを与えるかではないでしょうか。
命に重い軽いはなく、全て一律で「21グラム」なのだと超人的な視点から俯瞰して捉えるという視点もあるかもしれません。
しかし、時代や場所を変えて、相対的に生命の価値というものを考えたときに、そこに差異が生じているのではないかという視点もまた持たれるべきです。
例えば、人間の平均寿命が40歳だった時代と85歳になった時代とで、生命の価値や重みは同じと言えるでしょうか?
他にも、現代日本のような平和な社会で暮らしている人間と戦場の最前線で戦っている兵士にとっての「死」は同じ重みを持っているでしょうか?
探偵小説の黄金期到来を分析する際に、しばしば笠井潔氏の20世紀の時代背景を引き合いに出した言説が引用されます。
第一次世界大戦が無個性な死体の山を大量生産したことによって、失われた人間の尊厳や1人の人間の生命の重みを奪還する運動の一環として、探偵小説は黄金期を迎えたという指摘です。
つまり、社会に通底する人間にとっての生命や死に対する価値観の変容こそが、1つの新しいジャンルを生み出したと解釈することができますね。
このように、時代や場所を隔てると、それを裏打ちしている生命や死についての価値観が一変するということを覚えておかなければなりませんし、だからこそ異なる時代、異なる場所を舞台にした作品においては、その描き込みが物語において重要な意味を持つのです。
『DUNE 砂の惑星』において主人公のポールは、基本的に現代を生きる私たちと似たような生命観ないし死生観を共有しています。
そして、このシリーズにおいて衝撃的なのが、中巻の後半あたりで顔を覗かせるフレメンの呪術的風習や独特の死生観です。
本シリーズにおいては、読者が主人公のポールに自分を投影する形で、その異質な世界観に「触れる」体験を提供してくれました。
まず、フレメンにとって「生命=水」であり、その「水」は個人ではなく、コミュニティに帰属するものとされています。
そのため、人間が生命機能を停止すれば、例え同胞であったとしてもフレメンたちは、その身体から水分を搾り取り、コミュニティへと返還するんですね。
こうした死生観が存在しているために、フレメンにとって個人の生命というものはかなり「軽い」ものとして扱われており、戦闘において単純な損得勘定や足し算引き算の中で扱われる単なる記号や数字にしか過ぎないのです。
自分の同胞が2人死んだとしても、相手を10人殺していて、その身体から「水」をしっかりと回収できたのであれば、それは「得」だというかなりドライで、合理的な見方をしているんですよね。
主人公のポールは、こうした生命の扱い方、とりわけ「死」に対する認識の違いに最初は戸惑いを隠せません。これは読者も同じことです。
特に興味深いのが、中巻に出てくるポールが決闘に敗れて命を落とした同胞にの死を悼んで、涙を流すシーンでしょう。
私たちにとって、人間が1人死んだという事実は非常に重いものであり、それは当然涙を流すに値するものと信じて疑いません。
しかし、『DUNE 砂の惑星』の惑星アラキスに住むフレメンにとっては、死というものが私たちの社会ほどの重みを有していません。
さらに言えば、人間個人の生命活動ではなく、人間の身体に含まれる水分こそが価値と重みをもって現前しています。
だからこそ、死者を前にして涙を流すという行為が、「死者に涙を施している」という認識になるんですね。
こうした生命や死に対する劇中世界の人々の認識や価値観を描くことは、意外と多くの作品において見過ごされがちなのですが、やはり描くかどうかで作品内世界の持つ強度が決定的に違ってきます。
『DUNE 砂の惑星』の物語においても、戦闘が起き、たくさんの人が命を落としていくわけですが、私たちの現実世界の価値観で見るのか、それとも作中世界の人間の価値観で見るのかによってその意味は決定的に変わるわけです。
本作は明確に読者を後者に誘うような描写を徹底していますし、上巻を読んでいるときと、下巻を読んでいるときでは、この小説に書かれている「兵士2名が命を落とした」という記述の重みが全く違っていることに気がつかされます。
読み進めている間に、ポールと同様に読者もまた、フレメンたちの価値観や死生観に慣れ、迎合していき、当然のようにそれを踏まえて読み進められるようになる。
そうした「パラダイムシフト」が読み進める中で明確に起きる衝撃を味わうことができるのです。
また、物語の後半になると、主人公のポールがフレメンの価値観に染まって生命を軽く捉えるようになったり、逆にヒロインのチェイニーが死者を悼んで涙するなど、2つの異なる価値観が互いに影響しあう様まで描かれています。
劇中の登場人物を「個性」という切り口ではなく、むしろ生命を持つ個体としての「重み」という切り口で掘り下げることで、作品の世界に重力を有する存在として現前させる。
これこそが『DUNE 砂の惑星』のキャラクターが持つ独特の肉感を担保しているのではないかと思いました。
未知の物質「メランジ」を巡る権力闘争を成立させる
『DUNE 砂の惑星』におけるキーアイテムを挙げるとすれば、それは「水」と香料の「メランジ」ということになるでしょう。
「水」が貴重であるという状況は、私たちの世界に置き換えてもある程度想像ができますから、演出することはそれほど難しくはありません。
一方で、香料の「メランジ」は私たちの生きる世界には存在しない物質であり、それがこの『DUNE 砂の惑星』の世界においてどんな意味や価値を持っているのかは著者の記述によってしか知ることはできません。
ましてや『DUNE 砂の惑星』の物語の中心にあるのは、この「メランジ」を巡る権力闘争、利権闘争です。
これを成立させるためには、単なるその物質のもつ特性や産出地といった情報を提示するだけでなく、それを政治、経済、テクノロジー、気候といった多様な観点から分析し、その座標を定めていかなければなりません。
例えば、「ガンの特効薬」があったとしたら、ガンによる死亡率が非常に高い現代においては、すごく価値のあるものですよね。
しかし、これをガンに関連したビジネスで儲けている保険業界、医療業界から見たら、どう見えるのか。
はたまたその薬をガンが自然治癒する風邪程度の病気と認識されている時代や社会に持ち込んだら、その価値はどうなるのか。
このように「ガンを治すことができる」という特性を描くだけでは、その相対的な価値は分かりませんし、ましてやそれを巡る権力闘争や利害関係を把握することは難しいでしょう。
その上で『DUNE 砂の惑星』は、「メランジ」という私たちの世界に存在しないどころか、存在しているものに何の関連もないモチーフを使って、そうした闘争を演出しようと試みています。
これは言うまでもなく困難なタスクなのですが、本作はその圧倒的なディテールと多面性の構築によってそれを可能にしました。
まず、『DUNE 砂の惑星』の世界観の前提には、〈大反乱〉があります。
これは人間による大規模な機械の排斥運動であり、発達しすぎた機械や人間に近い知能を持つAIを排除し、人間中心の世界を取り戻すための運動でした。
そうした背景があり、本作の中で繰り広げられる戦闘は、現代から見てもローテクに感じられるものになっているわけですね。
そして、「メランジ」という香料が劇中世界において価値を有するのは、この〈大反乱〉が明確にバックグラウンドとして存在するからです。
人間は膨大な未来の可能性の演算をAIや機械に託していたわけですが、これが〈大反乱〉に伴う機械排斥によりできなくなりました。
これによって、機械やAIに委ねていたタスクを人間が自らの精神を発達させ、能力を訓練させることによって代替する必要性に駆られたのです。
こうした『DUNE 砂の惑星』の世界に生まれたのが、メンタートと呼ばれる人間たちで、彼らは「メランジ」を摂取することにより未来を見通す力を得ることができます。
このメンタートを権力者たちは自分の陣営に匿い、宇宙の覇権を握るための策略を練るわけで、そうなると当然「メランジ」の価値は当然のように高まります。
さらに、この香料の価値を高めたのは、その希少性です。
というのも、「メランジ」は惑星アラキスでしか採取することができず、加えて同惑星は砂蟲が砂漠を行き来している危険な惑星です。
「メランジ」はこの希少性と超人的な力を目覚めさせる効用によって、同作の世界の中で価値があるものとされたわけですね。
では、本作の闘争に絡んでくる各勢力は、この「メランジ」をどのように捉えていたのでしょうか。
まずはアトレイデス家の当主レト公爵は、その高い価値を認め、「メランジ」を取引して得た利益によって、アラキスを豊かな緑の惑星にしたいと考えていましたよね。
一方で敵対するハルコンネン家は、「メランジ」は莫大な利益を生み出す「金のなる木」でしかなく、それによって得た利益を使って、自分の権力闘争を優位に進めようと考えていました。
本来であれば、この2つの領家の対立を描くだけでも十分なのですが、『DUNE 砂の惑星』という作品は、ここにさらに多面的な「メランジ」の位置づけを持ち込むのです。
例えば、惑星アラキスに住むフレメンたちにとって、香料ないし「メランジ」は自分たちの生命活動を維持していく上でも不可欠なものとされています。
そのため、非常に重要なのですが、彼らには別の目的があり、そのために「メランジ」を産出し、領家に高値で販売したり、ギルドに賄賂として融通したりしているんですよね。
つまり、フレメンたちは「メランジ」が価値があるものだと自覚した上で、それを自分たちの目的のために巧妙に運用しているわけです。
一方で、人間の過去と現在、未来を見通し、その指針を立てていく役割を担っているギルドは、宇宙に存在する惑星を衛星で観測し、管理しています。
ただ、彼らは「メランジ」を受け取ることと引き換えに、惑星アラキスについてはそうした衛星による観測を免除されていました。
ギルドにとっても「メランジ」は必要不可欠ですから、この取引は十分に成立します。
他にも帝国側の利害や思惑、また主人公のポールが加入して以降のフレメンたちの利害や思惑など様々な組織や人間の視点から「メランジ」というモチーフをその都度捉え直していくことにより、この闘争に徐々に説得力が生まれるのです。
特に、物語の後半で主人公たちが様々な利害を持った人間たちが一堂に会した場において、「メランジ」を人質に取り、圧倒的な権力と力をもつ人間や組織に対峙する場面があります。
これは同作のクライマックスにあたるシーンなのですが、一見すると地味に思えますよね。
しかし、「メランジ」というモチーフが描きこまれ、きちんと位置づけが為されたことにより、この展開が極めて劇的で、迫力を持ったものに感じられるのです。
主人公のポールは、自分たちの同胞の未来をベットして、最大級の賭けに挑んだ。
その賭けがなぜ成立しているのか、それをベットしているポールやフレメンは何を想っているのか、それを聞いた権力者たちの思惑は…。
たった1つのシーン、1つの言葉を実に多面的な視点で捉えることができ、長きにわたる物語がこの1点に向かって収束するかのような趣すら感じました。
SFと聞くと、最近はどうしても高いアクション性や劇的な展開が求められるのかもしれませんが、本作は徹底的に政治闘争、利権闘争を物語の軸に据え、キーとなる「メランジ」の存在をリアルにすることによって、その面白さを担保して見せました。
そして、クライマックスの緊迫感をアクション性の高い戦闘やデュエルによって演出するのではなく、小説を読むまで私たちは聞いたことすらなかった「メランジ」を巡る駆け引きでここまで演出できてしまうのは、とんでもないことだと思います。
映画『DUNE 砂の惑星』はどうやら中巻の途中くらいで「PART1」の幕切れとなっているようなので、こうした「駆け引き」の面白さのための種をまいている段階でしょう。
しかし、その種が物語の後半に一気に芽を出し、物語の面白さに還元されていく様には興奮すら覚えるはずです。
ポールの持つ「予知」に込められたメッセージ
『DUNE 砂の惑星』において、その物語を突き動かしていく大きな原動力の1つとなるのが、主人公のポールが有している「予知」の力です。
ただ、こうした「未来を見通す力」に似た力は、劇中に多く登場するので、それらを差別化し、きちんと整理しておくことは非常に重要だと思われます。
先ほど話題に挙げた「メランジ」という香料がそうした「予知」をもたらすわけですが、この香料を摂取している人間としては以下のようなキャラクターや組織が挙げられます。
- ポール
- ジェシカ(ポールの母)
- フレメンたち
- ギルドのナビゲーター
- 領家のメンタートたち
- ベネ・ゲセリット
まず、フレメンたちについてですが、彼らも香料を多分に含んだ食料を摂取しているので、一定の予知能力を持っています。
これについては中巻の終盤に言及がありました。
(フレメンにも多少の未来視能力はあるんだ)とポールは気がついた。
(しかし、その力を抑えている。その力が恐ろしいからだ)
すべてが明晰に見えた瞬間、チェイニーが震えているのが分かった。
(『DUNE 砂の惑星 中』より引用)
おそらく彼らが持っているのは、本シリーズの序盤でポールが持っていた「予知夢」を見る程度の能力であり、高度な予知能力を有しているわけではないであろうことが、この一節からも伺えます。
また、フレメンたちは遠い未来で生きる子孫が、緑に包まれた惑星アラキスで暮らしているという漠然とした希望を胸に過酷な環境を生き抜いていました。そうした生き方は彼らが未来を見ていないからこそできるものなのです。
一方のギルドのナビゲーターや領家のメンタートたちについてですが、彼らの「予知」能力もまた限定的なものです。
これについては下巻の終盤に言及がありましたね。
彼らの持つ「予知」能力は極めて「限定的」であり、目の前に存在している障害物を察知し、それを何とかして回避する程度のものでしかありません。
そのため、彼ら程度の能力では、ポールという潜在的だが大きな危険の可能性を察知し、それを排除することは叶わないのです。
加えて、彼らの「予知」には長期的な目線がなく、あくまでも短期的に目の前の障害物を避けることに終始してしまうため、長期的にその選択がもたらす結果を予測することができません。これもポールの持つ力とは決定的に違うところですね。
また、ポールの母であるジェシカも、物語の中盤に命の水を飲んだことで、過去と現在、未来が絡み合う複雑な時間の網にアクセスができるようになりました。
そして、そうした限定的な予知能力を持つキャラクターが数多く存在する中で、ひときわ優れた能力を有しているのが他でもないポールなのです。
ポールは物語の序盤においては、「予知夢」を見るという形で、ぼんやりとした未来の断片を無作為に垣間見える程度の能力しか持っていません。
しかし、惑星アラキスを旅し、香料「メランジ」を摂取する中で徐々にその力を変容させていきます。
最初の大きな変化が起きたのは、上巻の終盤で、彼が母のジェシカと共に砂漠に打ち捨てられたことが判明したシーンですね。
自分自身もまだよく見えていなくてーさまざまな可能性を見てはきたけれど、この”未来視”は自分の意志ではコントロールできないようです。勝手に見えてくるんですよ。
(『DUNE 砂の惑星 上』より)
まだ勝手にビジョンが見えるというものに過ぎませんが、この時点で彼は1年先くらいまでの直近の未来についてはある程度絞り込めるようになっており、ただそのビジョンがところどころ陰になっていて完全ではないという状態になっていました。
彼は、徐々に「予知」の性質を理解していき、自分のビジョンの中に含まれる陰が持つ意味や未来に対して現在が及ぼし得る影響について学んでいきます。
その中で特に興味深いのはこの記述ではないでしょうか?
予知とは、それがほのめかす限界を組み込んだうえで、未来に光を当てることでありー正確な情報源であると同時に、意味のある誤った情報でもある。そこに介入しているのは、ハイゼンベルクの不確定性原理に類するものだ。見たものを明確にするためにエネルギーを投入すれば、せっかく見たものが変化してしまうのである。
(『DUNE 砂の惑星 中』より)
つまり、「予知」によって見た数多の未来のビジョンは確定的なものではなく、不安定なものであり、仮にその中から1つを選択して、それを実現しようと自分が行動を起こした途端に、呆気なく変容してしまうものなのだと言っているわけです。
要は、『DUNE 砂の惑星』の世界における予知夢は決定論的ではないということですね。
中巻の終盤にポールは自身が避けたいと考える「ジハードの勃発」を避ける道筋を数多の未来のビジョンの中に見出すのですが、彼はそれを実現するために現在においてどんな行動を取ればよいのかを理解していません。
いや、正確に言うと、スティンガーたちが自分たちの住処にたどり着かないようにしてしまえば、そのルートに入るということは分かっているのですが、そのために行動を起こしたとき、果たしてその未来のビジョンが変容せずに実現されるのかどうかを理解していないのです。
そうした未来の時間軸の濁流の中で、彼はジハードが起きるビジョンを回避する方法を模索し続けていくのですが、徐々に未来を知ることの恐怖にさいなまれ、さらには香料への耐性がつき始めたことにより、その予知能力に陰りが見え始めます。
これを受けて、ポールは自分自身の力をさらなる高みへと導くために、「命の水」を摂取し、自身の「予知」を完成させようと試みました。
そうして彼は文字通り「クウィサッツ・ハデラック=同時に多数の場所に存在できる者」となります。
これは、ポールが高次元にアクセスすることができる存在になったことを意味しており、過去・現在・未来を見通してそれらを複合的に分析し、道を選択できるようになったことを表しています。
ただ、その能力もまた完全ではなく、『DUNE 砂の惑星』のクライマックスにおいては、同じく高次の能力を持つフェンリング伯爵をそのビジョンの中に捉えることができませんでした。
また、続編の小説の中で、ポールは自分が辿ったすべての道筋がある一点に収束し、その先が暗黒になっていることを悟り、それを回避するために行動を起こそうと試みます。
このように、『DUNE 砂の惑星』という作品は常に「抗いがたい未来」の存在を描きながらも、ハイゼンベルクの不確定性原理に類する概念を持ち込み、それを変容させられる可能性があるという世界観を描いています。
これは、フランク・ハーバートが本作に環境問題をはじめとする私たちの社会が抱える諸問題の「未来」を投影していたことにもつながっているように感じました。
つまり、私たちの社会の先には、明確な「暗黒=終焉」が待っており、今の社会はそこに向かって進行し続けている可能性があるが、それは現在を生きる私たちが未来を想像し、「未来における過去」として現在を捉えなおし、行動を起こすことによって変えられるかもしれないという希望を描いているのではないでしょうか。
ポールはそんなおびただしい数の「未来」を前に、恐怖を抱きながらも、懸命に抗い、自らの望む選択をしようと力を尽くしています。
ここで起こるどんな些細なことでも、未来は変わり得る。まわりの人垣でだれかが咳をし、それに気をとられただけで、あるいは発光球のひとつの輝きが変動し、動きをまどわす影を落としただけで、その先の展開は変わり得る。
(『DUNE 砂の惑星 中』より)
未来を知る=「予知」とは恐ろしいものかもしれません。
しかし、そこで垣間見たビジョンは、ほんの些細なことで大きく変わっていくのです。
私たちの「未来」は決まっていない。例え、それを見ることができたとしても、見えたままが現実になるとは限らない。
『DUNE 砂の惑星』は予知の書であり、警告の書であり、同時に希望の書でもあるのです。
おわりが
今回は小説『DUNE 砂の惑星』についてお話してきました。
この小説は環境問題や政治、宗教の問題に裏打ちされたある種の予言の書のような性質を帯びている不思議な作品です。
遥か未来の世界を描いた作品であり、そこに描かれた世界は時代と共に風化していっても何ら不思議ではないのに、そうした気配は全く見受けられません。
そこには今作において描かれた時間の概念も関係しているように思われます。
というのも、ポールは未来を見通す力を持っていますが、彼が見通した未来は必ずしも訪れるとは限りません。
それらは1つの可能性でしかなく、過去と現在との関係性の中で絶えず変化し、その形を変えながら到来するものとして描かれています。
つまり、『DUNE 砂の惑星』という未来の書もまた私たちに示された1つの可能性なのであり、それは読者である私たち自身のバックグラウンドや時代性によって絶えずその見え方が変化していくものなのです。
今作が私たちにもたらすパラダイムシフトの角度も、私たちがこの作品に感じるリアリティの強度も何もかもが、ただ1つには留まりません。
私たちの現在と独立した世界を確立することによって、読者個人と 砂の惑星』、読者の生きる世界と『DUNE 砂の惑星』の世界といった関係性の中で流動的に語られ得る。
それこそが今作がそして今作の描いた砂に満ちたあの荒涼たる世界が、全く風化することなく新しい読者を引き込み続ける所以なのかもしれません。
ぜひ、映画『DUNE 砂の惑星』と共に、その原作小説にも触れてみてください。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。