みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね待ちに待ったジェームズ・ワン監督最新作『マリグナント』についてお話していこうと思います。
とりあえず、最初は本編の内容に深入りせずに、私の感じた印象をお伝えしていきますので、見るかどうか迷っている方は、「ネタバレ注意」の文言を記載したところまでだけ読んでいただけると嬉しいです。
まず、この『マリグナント』という作品は、とにかく往年のホラー映画、とりわけクローネンバーグ監督などに代表されるボディホラーと呼ばれるジャンルにリスペクトを捧げた映画でした。
具体的にこの監督の、この作品が…というところまで言及してしまうと、ネタバレになってしまうので、その話は後ほどさせていただきますが、とにかく映画好きなら「あ、これどこかで見たことあるぞ!」という設定や演出、ビジュアルの連続で構築されているのです。
しかし、そんな「既視感」が積もり積もった結果、不思議なことに「未知」の映画ができてしまったんですよ。
どこかで見たことがあるはずなのに、まだどこにも存在しない、全く新しいホラー映画。それがこの『マリグナント』という作品です。
そして、ホラー映画と銘打たれていますが、実は撮影や編集、アクションがかなり凝っていました。
ジェームズ・ワン監督と言えば『アクアマン』でも序盤のカメラをグルグルと回しながら、1つの空間で起きる複数キャラクターの戦闘をシームレスに繋いでいくアクション演出が話題になりましたが、そのセンスは今回も健在です。
特に、多くの人が「どうやって撮ってんの?」と疑問符を浮かべたのは、序盤のマディソンが家の中を歩き回って、各部屋の窓やカーテン、扉を閉めて回るシーンではないでしょうか。
このシーンは、部屋から部屋へと次々に移動していくにもかかわらず、天井からのショットで切れ目なく彼女の動きを捉え続けていました。
とは言っても、壁を通過する瞬間に編集で上手く映像を繋げば、ワンショット風に見える映像は作れるだろうと思いつつ、あまりにも撮影方法が気になったので、メイキング動画を見てみたところ、衝撃を受けましたね。
何と、このシーン、セットの天井からカメラを吊り下げて、本当にワンショットで撮ってるんですよ。
『マリグナント』の序盤にある主人公が家中の窓や扉、カーテンを閉めて回るシーンどうやって撮ったんだろ?と気になってましたが、まさかカメラを吊るしてセットの上を蜘蛛のように這わせながらワンショットで撮っていたとは…。編集で綺麗に繋いだものだと思ってたけど、これはすごい👏 pic.twitter.com/H73DOxp8gO
— ナガ@映画垢🐇 (@club_typhoon) November 13, 2021
しかも、階段で階をまたぐので、かなり撮影は難しかったと思いますが、セットの上をカメラが蜘蛛のように動き回ることで、見事に緊迫感が途切れないシームレスな映像を完成させました。
こういう映像面のこだわりもすごく楽しめる1本だと思いますので、ぜひ『マリグナント』じゃ見て欲しいと思います。
さて、ここからはネタバレになるような内容にも一部言及しながら本作について感じたことや考えたことを自分なりにお話させていただこうと思います。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『マリグナント』解説・考察(ネタバレあり)
既視感から未知を作り出す「裏切り」
(C)2021 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved
さて、記事の冒頭にも書きましたが、『マリグナント』という作品は映画ファンにとっては、とにかく「既視感」に満ちた作品であることは間違いないでしょう。
不気味な病棟、イマジナリーフレンド、パラノイア気味の主人公、妊娠と胎児などなど描写や設定そのものにもホラー映画にありがちなものが散りばめられています。
そして、映画そのものもクローネンバーグ監督のボディホラーをはじめとして、ダリオ・アルジェント監督の『トラウマ/鮮血の叫び』やブライアン・デ・パルマ監督の『悪魔のシスター』からの影響を強く感じさせてくれました。
これらの作品からの影響についてはジェームズ・ワン監督自身も認めていており、自覚的あるいは意識的に往年のホラー映画の名作たちの「既視感」のパッチワークを作り上げていることが分かります。
しかし、これだけ見たことがある要素の連続によって構築されているにも関わらず、映画を見終えたときに最初に出てくる感想は「こんなの見たことねえぞ…」なのです。
本作『マリグナント』の既存のモチーフを使って、観客を裏切ってやろうという精神は「ガブリエル」という本作のキーキャラクターの名前にも表れています。
そもそも「ガブリエル」というのは、聖母マリアに受胎告知をした大天使の名前であることからも、非常に神聖なものです。
しかし、『マリグナント』におけるガブリエルは正真正銘の絶対悪であり、主人公のマディソンは彼のことを「悪魔」と呼称する始末でした。
「天使」の代表格の名前を「悪魔」の名前にしちゃったわけですよ。
主人公のマディソンのイマジナリーフレンドのように描写される今作の「ガブリエル」は、彼女に文字通り「悪魔の囁き」をして、恐ろしい行動に走らせようと試みていました。
「受胎告知」どころか受胎した子どもに危害を加える始末ですから徹底的に聖書の世界観における「ガブリエル」を反転させた存在として描かれていることが分かります。
このようにジェームズ・ワン監督は、私たちが知っていて、ごく一般的な認知もある「天使」の名前を「悪魔」の名前へと兌換することで、「既知であるが故に生じる裏切り」を生み出しているのです。
そして、この類の「裏切り」が『マリグナント』という作品全体に通底しています。
ホラー映画を見てきた人間としては、イマジナリーフレンドという設定もそうですし、母親に捨てられたとか、実は兄弟姉妹がいたかもしれないみたいな小出しに明かされる情報で、何となく展開を自分なりに想像してしまうんですよね。
パラノイア気味の主人公のマディソンが、死んだ兄弟姉妹の幽霊に憑りつかれて、夜な夜な暴れまわっているとか、そんなとこでしょと天井を決め打ちしてしまうのです。
ところがどっこい、『マリグナント』はそんな映画好きが無意識のうちに作り出してしまう「天井」をものすごい勢いでぶち壊してくれます。
確かに1つ1つの要素そのものは「既視感」のあるものなのかもしれません。しかし、その要素と要素の組み合わせ方、観客に見せる順番という観点で見たときに、これは全く新しいものなのです。
『マリグナント』の面白さは、こうした要素の「繋ぎ方」にこそあると私は思っています。
見たことのある町から見たことのある町にタクシーへと移動する。たったそれだけのことなのに、運転手のジェームズ・ワンはこれまでに誰も選ばなかった裏道で私たちを運んでくれました。
その道程をどうか多くの人に楽しんで欲しい、そんな作品だったと思います。
空間をベースに構築されたアクションの妙
記事の冒頭にも触れましたが、本作は登場人物のモーション、つまりアクションの捉え方にジェームズ・ワン監督らしいこだわりが散りばめられていました。
セットの天井に移動式のカメラを設置して、登場人物が自宅の様々な部屋を動き回るシークエンスをワンショットで撮ってしまおうという発想がそもそも素晴らしいですよね。
『パリ、テキサス』などで知られるヴィム・ヴェンダース監督は登場人物と観客の時間の流れの乖離を如何に減らすかが観客に物語を追体験させる上でカギになると過去に話していました。
そう考えると、主人公のマディソンの緊迫感や焦燥感を観客にも感じてもらうために、ワンショットで撮るというアプローチは極めて誠実なんですよ。
このシーンも象徴的でしたが、他にも『マリグナント』には空間の使い方でアクションを魅せる巧妙さを作品の至るところで感じさせてくれました。
まず、本作のアクションの魅せ方が素晴らしいのは、アクションが起きる空間をしっかりと観客に開示してから、アクションを描くというルールが徹底していたことです。
物語の中盤にマディソンの悪性腫瘍摘出手術に関わった3人の医師が次々に殺害されていく描写がありましたが、この時も、そのルールが活きていました。
特にそれを感じさせてくれたのは、2人目の男性医師の殺害シークエンスでしょう。
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もちろん彼が殺害されるという結末は観客にも分かりきっていますから、唐突に殺害してしまえば良いじゃんと思ってしまうんですが、この映画、実に勿体ぶるんですよ(笑)
男性医師がベッドサイドから窓際に移動し、そこからウォークインクローゼットへ移動し、また窓際に、そしてベッドに戻ってきて眠りにつくというシークエンスを意味深なカメラワークで捉え、彼の部屋周りの情報を観客に開示します。
で、彼が眠りについた頃に「ガブリエル」はようやく行動に映るわけですが、殺害の仕方は馬乗りになってナイフでグサリというシンプルなものでした。
この方法で退場させるなら、別に勿体ぶった彼のルームツアーはいらなかったでしょ!と思ってしまう方、少し待ってください。
実は、あの「ルームツアー」が緊迫感や恐怖を演出するうえで重要な役割を果たしていたのです。
もし「ルームツアー」なしで、いきなり眠っている男性医師を「ガブリエル」が刺していたら、それはそれで「べろべろばあ」的な怖さはあるでしょう。
しかし、あの部屋の間取りやそこに置かれているもの、他の空間とのつながりを観客が把握した状態でアクションを見せることで、いろいろな可能性を私たちにもたらしているんですよ。
例えば、「ガブリエル」がどこから現れるのか?だけでも様々な可能性がありますよね。
ウォークインクローゼットから現れるのか、廊下に続く扉から現れるのか。はたまたベッドの下から現れるのか。
そして、襲われた男性医師のリアクションについてもいろいろと想像が膨らみます。あの空間の中でどうやって彼は「ガブリエル」に対処できるのだろうか、どこに逃げたら正解なんだろうか。
空間を見せることとは、観客にイメージや可能性を提供し、自分事としてその空間に巻き込むことと同義だと私は思っています。
結果的に見せた空間がアクションの舞台にはならなかったとしても、私たち観客はそこが何らかの形で絡むIFを無意識に考えてしまうし、イメージしてしまうんですよ。
だからこそ、いきなりベッドの上で男が殺害されるアクションを見せるのか、それとも彼の部屋のルームツアーをやってからアクションに移るのかでは、恐怖のジャンルが全く変わってくるわけです。
これ以外のシーンでも、『マリグナント』は空間の情報開示、そこでのアクションという順番がきちんと守られていました。
例えば、序盤に描かれた観光名所が後にアクションの舞台になったり、劇中で何度も何度も描かれていた警察署の刑事たちのオフィスが終盤にアクションの舞台になったりしていましたよね。
警察署のオフィスで言うと、どこに入り口があって、どれくらいの広さで、デスクがどんな配置になっていて、署長の座席はどこなのかといった情報が、非アクションパートの連続性の中で開示されていきます。
そうした丁寧な空間描写を前提として、終盤の「ガブリエル」の大立ち回りがあるわけです。
「ガブリエル」と対峙する刑事たちの位置関係が肌感覚として理解できているため、目まぐるしく動き回るカメラワークでそれを捉えたとしても、私たちはどこで何が起きているのかをきちんと認識できます。
このシークエンスの終わりに、部屋のいちばん奥の署長の座席にいる「ガブリエル」がその対極にある扉を経由して空間から離脱しようとする刑事たちに向かって「椅子」をぶん投げるシーンがありました。
空間全体の距離感や扉と「ガブリエル」のいる場所の位置関係が分かっているからこそ、恐ろしいシーンでしたね。
映画を撮る上では、どうしてもフレームに収まっている範囲しか観客には見えないんですが、最初に空間全体の情報をしっかりと観客に提示しておくことで、今、空間全体のどこを捉えているのかが明確になります。
それは逆に言うと、フレームの外の空間ないしフレームには映し出されていないけれども同時に起きているであろう出来事を想像できるということなんですよね。
ジェームズ・ワン監督は『アクアマン』でも1つの空間で起きる複数のアクションを1つのカメラの視点をグルグルと回して、絵巻物の異時同図法のようなアプローチで、時間的な同時性と空間の連続性を表現していました。
これを空間情報の事前提示によって、フレームを超越した空間的広がりとそこに根付くアクションを今回実現したんですね。
こうした時間や空間というものに対する真摯さが作品に通底しているからこそ、『マリグナント』のアクションは素晴らしかったのです。
描かれたアクションの孕む重力、そして空間の精緻な描写が生み出す、描かれなかったアクションのIF。
「ガブリエル」の奇怪なビジュアルとモーションに気を引かれがちですが、本作のすばらしさはその見せ方にあるのだということを改めて強調したいと思いました。
切り離せない内なる悪と向き合うということ
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本作のタイトル『マリグナント』は、「悪性腫瘍」を表す言葉です。
「悪性腫瘍」の代表的なものは「cancer」つまり「ガン」ですが、がん細胞は手術などで完全に取り除くことができれば治ると言われていますが、実際には目に見えないレベルで転移が起きており、時間差で再発することも稀ではない病気だと言われています。
『マリグナント』では、そんな「悪性腫瘍」ないし「ガン」の性質を人間の根源的な「悪性」に準えていました。
そして、人間の内側では常に善性と悪性の闘争が起きており、優勢な方が身体の実権を握るという構造がマディソンとガブリエルの関係に投影されていたわけですが、これはゾロアスター教の世界観を思わせるものです。
ゾロアスター教においては、世界を善の神アフラ=マズダと悪の神アーリマンとの対立を前提にして捉えます。
そして、そこに生きる人間もそんな神の対立に加担しているとされ、自由意思に基づいて善性と悪性のどちらかを選択することができるんですね。
だからこそ、あなたにもたらされる幸福や不幸は、その人が善を選択したのか、それとも悪を選択したのかによって左右されるのだと説くわけです。
本作『マリグナント』におけるマディソンもまた、自分の中の善性と悪性の対立に巻き込まれており、時折「悪性=ガブリエル」の声に耳を貸し、他人に危害を加えるような行動を取ってしまいます。
そして、その「悪性」は仮に身体から切り離しても逃れることはできないものです。
自分の中にはどれだけ切り離したとしても、善性と悪性の対立軸が存在しており、絶えずその選択を繰り返しながら生きていくしかないんですね。
マディソンは苦しい人生を送ってきました。
実の母親はレイプによって妊娠し、自分には育てることができないとエリー(マディソン)を手放してしまいます。
その後は実験施設で研究対象として育てられ、さらには養子縁組に出され血のつながらない家族と暮らしてきました。大人になっては、なかなか子どもを産むことができず、DV彼氏に苦しめられていましたね。
そんな愛を感じられず、虐げられる人生の中で、徐々に彼女は力への渇望を感じ、「ガブリエル」の復活を赦してしまいました。無意識のうちに自分の「悪性」に身体を、意識を奪われるようになってしまったのです。
それでも、人は悪と同じくらい大きな善なるものを自分の中に持っていて、それを自分の意志で確かに選び取ることができるのだと『マリグナント』という映画は高らかに宣言します。
「ガブリエル」という悪は、どんな言葉にも、振る舞いにも改心する素振りは見せません。あくまでも彼は「絶対悪」として描かれているからです。
だからこそ、彼に対抗する手段は、それを内包するマディソンの自由意思と善性しかないんですね。
マディソンは「ガブリエル」という切り離すことのできない絶対悪を打倒することはできません。しかし「選ばない」という選択をすることができます。
そして何よりも「選ばない」という選択を続けることができるのです。
これはゾロアスター教の善悪二元論に裏打ちされたこの戦いの決着に最もふさわしいと言えるでしょう。
これだけでも良かったのですが、個人的に本作の着地点が素晴らしかったのは、マディソンがベッドを持ち上げる描写があったからこそだと思っています。
悪の囁きに身を委ねることで手に入れた抑圧や暴力に立ち向かう力。それは善性と両立しないのかという問いに対するパーフェクトなアンサーでした。
マディソンという女性には、「ガブリエル」に依存せずとも、抑圧や暴力に屈せず生きていく本質的な強さがあることを何気ない描写の中で示して見せたのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『マリグナント』についてお話してきました。
『ソウ』シリーズで熱狂的な支持を集め、その後代表作ともいえる『死霊館』シリーズで高く評価されたジェームズ・ワン監督。
心霊的な要素が強いホラー映画のイメージが定着した彼が、そうした要素を匂わせつつ華麗に裏切って見せた『マリグナント』には、彼の衰えぬ野心が見え隠れしていると感じました。
すでに確立されたものに満足せず、常に新しいフォーマットや見せ方を模索し続ける姿勢は尊敬に値しますよね。
自身が強い影響を受けたクローネンバーグ監督やダリオ・アルジェント監督、ブライアン・デ・パルマ監督らへのラブレターでありながら、それらに依存しない作品作りは「既視感に満ちた未知」と表現すべきでしょうか。
この恐怖とそしてぶっ飛んだ面白さが1人でも多くの方に届いてほしいと思うばかりです。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。