みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『EUREKA』についてお話していこうと思います。
シリーズ完結編と銘打たれた『交響詩篇エウレカセブン』シリーズの最新作は、2005年の放送当時から追いかけてきた自分にとってもすごく特別な作品です。
今回の映画『EUREKA』は、これまでの作品と比較してもいろいろと変化がありまして、まず大きいのがキャラクターデザインですね。
このシリーズのキャラデザと言えば、 吉田健一さんなんですが、今回彼は「キャラクター原案」という立場に収まり、作画監督&キャラクターデザインを奥村正志さんが兼任しました』
奥村正志さんと言えば、bonesが手掛ける『亡念のザムド』シリーズのアニメーションディレクターを務めたことでも知られています。『ストレンヂア 無皇刃譚』などの作品にも携わっており、アクション描写には定評のあるアニメーターですね。
キャラクターの頭身が変化し、アクション映えするようになったのもありますが、今回キャラクターデザインを一新したのは、おそらく設定の兼ね合いも大きいのではないでしょうか。
前作のラストで「エウレカセブン」という夢の世界と現実世界が融合したことにより、新しい世界が誕生しました。
そうした背景を受けて、ある程度これまでとは異なるキャラクター像を追求していくというのは、面白い試みだと思います。
また、今回は脚本に「バレエメカニック」などの神回を手掛けたことで知られる野村祐一さんがクレジットされ、お馴染みの佐藤大さんはクレジットされていません。
このように完結篇でありながら、これまでのシリーズの「お馴染み」が踏襲されていないところが、何とも攻めていていいなぁと思った次第です。
まずは、今回の映画『EUREKA』を見る上で改めて確認しておきたい事項をまとめるとともに、核心に触れるようなネタバレを避けつつの論考を書いてみようと思います。
その後、作品の細かいところにまで言及しながら、本作の作品を紐解く考察を書いておりますので、こちらは作品を鑑賞後にご一読いただけますと幸いです。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
これまでの「ハイエボリューション」シリーズ復習
時系列の整理
『交響詩篇エウレカセブン:ハイエボリューション1』
2305年9月16日:ファーストサマーオブラブ
©2017 BONES/Project EUREKA MOVIE
アドロック・サーストンが「決戦弾頭シルバーボックス」を開発し、これを使って、エウレカとニルヴァーシュと共にセブンスウェル現象を人為的に再現する実験に挑んだ。
「決戦弾頭シルバーボックス」を指令クラスタにを打ち込んで、そこから流れる音楽のビートや波長をスカブコーラルのそれと一致させることで、スカブを人為的に操作しようとした。
しかし、この実験が何らかの原因で失敗しスカブコーラルが暴走し「クォーツ化」したことで、惑星を一気に侵食し始める。
アドロック・サーストンはこれを止めるために自らが作り上げた「決戦弾頭シルバーボックス」を破壊し、スカブによる惑星の侵食を食い止めた。
しかし、コンパクドライブを無理矢理抜いた結果、アドロックは精神をスカブに吸収され、体は蒸発してしまった。
その死の刹那に彼は、「世界」を目撃し、その美しさを評して一連の現象に「サマーオブラブ」という名を与えた。
2315年:レントンの記憶
©2017 BONES/Project EUREKA MOVIE
レントン・ビームス(ビームス夫妻の養子という設定)は、ベルフォレストでニルヴァーシュとエウレカに出会う。
月光号に乗り込んだレントンは遺跡現場ハッシェンダで、アクペリエンスに巻き込まれ、エウレカの身体がスカブに侵食されてしまった。(後に判明するが、ここでレントンは死亡)
月光号に自分の居場所を見失ったレントンは、家出をし、町を放浪するが、その過程で義理の両親であるビームス夫妻に再会し、彼らの船に同乗することとなる。
しかし、レントンは自分の意志と決断でビームス夫妻の元を離れる決断をし、地上に降り立った彼は、野犬に追われながら、エウレカや月光号の元を目指します。(このラストシーンは「レントンの死」以後でありシルバーボックスよって作り出された夢)
『ANEMONE:交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』
2021年:石井賢隊長が「エウレカセブン」に出撃
アネモネの父である石井賢隊長がドミニクと共にダイブ装置を使って「エウレカセブン」内に侵入した。
しかし、「エウレカセブン」の機能を停止させることはできず、彼は生還することはできなかったが、その核である少女エウレカに発信機を取り付けることに成功したのだった。
2028年11月10日:アネモネがニルヴァーシュと邂逅
(C)2018 BONES/Project EUREKA MOVIE
アネモネが「現実」の世界で、世界を危機に陥れている「エウレカセブン」と対峙し、伝送装置を使ってダイブし、破壊を試みている。
彼女は、「エウレカセブン」内の世界にダイブし、そこで緑色の髪の少女エウレカが、何度も何度も時間を巻き戻して、新たな世界線を作り出し続けていることを知る。
エウレカは「シルバーボックスに触れて、アクペリエンスを引き起こした」際に、レントンを死に至らせてしまい、何とかして彼が生きている世界を作り出そうとしていたのだ。
エウレカはシルバーボックスを使用できる回数が残り1回になったことを受け、アネモネの世界に復讐することを誓う。
「エウレカセブン」の世界が現実世界に干渉し始めたことを受けて、アネモネはドミニクとガリバージエンドと共にエウレカとの戦いに挑む。
彼女は「エウレカセブン」内に再びダイブし、閉じ込められた少女エウレカを外の世界へと引きずりだそうとするのだった。
こうしてアネモネはエウレカを救出し、これに伴って「エウレカセブン」の世界とアネモネたちのいた現実世界が1つの世界に融合した。
最後に現れた「ニルヴァーシュZ」は1つになった世界にレントンが生きていることを知らせ、物語は『EUREKA:交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』へと続く。
映画『EUREKA』(冒頭14分50秒映像で明かされているところまで)
2028年12月:ニルヴァーシュと巨大赤色移動物体が戦闘
(C)2021 BONES/Project EUREKA MOVIE
「エウレカセブン」の跡地に出現した謎の巨大赤色移動物体とニルヴァーシュZが交戦し、市街地に甚大な影響を及ぼした。
しかし、そこにスーパー6が搭乗した「ブルーアース」側の秘密兵器「ラブレス」が現れ、ニルヴァーシュZと巨大赤色移動物体、凍結&結合させます。
ネタバレ含みますが、この「巨大赤色移動物体」はパンフレットに「シルバーボックス」であると書かれています。(ハイエボ1に崩壊したシルバーボックスからこの赤色移動物体が出てくる描写があります)
そして、これを目撃したのがただ1人。デューイ・ノヴァクでした。だからこそ彼はこの「巨大赤色移動物体」がシルバーボックスであると分かったのでしょう。
こうして、デューイは「巨大赤色移動物体=シルバーボックス」「ニルヴァーシュ=涅槃の案内人」そして「EUREKAの力を持つ者」の3点が揃えば、再び「虚構の世界=涅槃」を創造できると考えるに至るわけです。(これは『ANEMONE』でエウレカがシルバーボックスを使って世界を巻き戻しては再生していたのと同じ原理ですね)
2031年1月:タラリア作戦によりニルヴァーシュZが宇宙空間に射出
ニルヴァーシュZと巨大赤色移動物体という2つの脅威を融合させ、宇宙空間に射出し、惑星の軌道上に閉じ込めてしまおうという「タラリア作戦」が2029年に始動。
そして2031年に人類は、この2つが融合した物体「キビシス」を宇宙空間に射出し、平穏を取り戻しました。
2038年12月:「キビシス」が地球に墜落
デューイら反体制派が「キビシス」に干渉し、惑星軌道上から離脱したコースに誘導した結果、地球への墜落へと向かっていく。
これを受けて「ブルーアース」そして「グリーンアース」は共に対応を迫られることになるのだった。
そして時を同じくして、かつてのエウレカと同じ能力を持つ少女「アイリス」が現れ、エウレカは彼女の護衛任務に就く。
重要用語解説(映画『EUREKA』に特に絡んでくるものについて)
アシッド(UN ASSID)
(C)2021 BONES/Project EUREKA MOVIE
2014年から活動している国連直属のスカブ戦略歩兵師団の通称である。
しかし、エウレカとの戦いで疲弊し、その組織の大部分は機能不全に陥っている。
2021年に石井賢隊長の作戦に基づき、エウレカセブン内に人間の魂を伝送して、内部から破壊することを試みるが、その作戦も失敗に終わってしまった。
その後は、彼の娘であるアネモネを主軸に据え、2028年に再度伝送装置を使って「エウレカセブン」の破壊を試みた。
デューイ・ノヴァク
(C)2021 BONES/Project EUREKA MOVIE
「サマーオブラブ」の折には、暴走し、「クォーツ化」したシルバーボックスの修復を命じられたが、間に合わず、結果的にその崩壊を目の前で目撃することとなった。
何らかの要因で「エウレカセブン」内からアネモネのいる現実世界へと吐き出され、アシッドに拘束されている。
ただ、彼の足は「エウレカセブン」内に囚われたままであるが故に、現実世界では足の実体がなく、車椅子を使って生活していた。
『ANEMONE:交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』のラストで、「エウレカセブン」が崩壊したことにより、2つの世界が1つになり、「受肉」した彼は向こうの世界に囚われたいた両足を取り戻し、アシッドの拘束下から逃れた。
スーパー6
(C)2021 BONES/Project EUREKA MOVIE
アネモネがダイブするより以前に、「エウレカセブン」内に伝送装置を使ってダイブしていた6人の少女から構成されるチーム。(テレビシリーズの「アゲハ隊」を思わせる)
当初は、戦果を挙げていたが、結局「エウレカセブン」内に閉じ込められてしまい、外に出ることができなくなってしまった。
しかし、アネモネがエウレカを解放し、シルバーボックスによるループ世界を終わらせたことで、「エウレカセブン」から吐き出され、実体を取り戻すことに成功した。
「エウレカセブン」
(C)2018 BONES/Project EUREKA MOVIE
スカブコーラル(珊瑚状の情報生命体)の中にエウレカが作り出した仮想世界のことを指す。
『ANEMONE:交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』で登場し、その仮想世界の中では、エウレカがシルバーボックスの力を使い、数多の世界線を創造していた。
この世界線の中に『交響詩篇エウレカセブン』『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』『エウレカセブンAO』やその他のマンガ版、ゲーム版、パチンコ関連コンテンツなども含まれている。
アネモネの働きかけにより「エウレカセブン」は崩壊し、スカブコーラル内の仮想世界はアネモネのいた現実世界と融合を果たした。
今回の映画『EUREKA』は、その後の世界を描いており、元「エウレカセブン」内の人間は「グリーンアース」、現実世界の人間は「ブルーアース」と呼称され、衝突し合っている。
ニルヴァーシュZ(涅槃の案内人)
(C)2021 BONES/Project EUREKA MOVIE
『ANEMONE:交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』のラストで登場した、ニルヴァーシュの最終形態とされる。
デューイはこのニルヴァーシュのことを「涅槃の案内人」と呼んでいるが、今回の映画『EUREKA』にてその詳細が明かされた。
「涅槃」というのは、意味合い的には『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』の「ネバーランド」に近いと思われる。
「涅槃」とは生死を超えた悟りの世界のことを意味するが、これは本シリーズの軸に置き換えると、「グリーンアース」と「ブルーアース」を超えた、そして「夢(フィクション)」と「現実」を超えた安息の地へと導くということなのだろう。
ただ、既に公開されている冒頭14分50秒映像でも描かれているように、ニルヴァーシュZは巨大赤色移動体と共に凍結され、「キビシス」という物体に換えられて、惑星の軌道上を周回し、干渉できないようになっている。
レントンの動線はどうなってたのか?(ネタバレ注意)
このパートは『EUREKA』の本編に関わる内容を含みますので、ご注意ください。
『EUREKA』の終盤にようやくレントンが現れるわけですが、そもそもハイエボのレントンってここに至るまでどんな行動を取っていたのか?という疑問は生じますよね。
まず、「ハイエボ1」にてエウレカが力を制御できなくなったこと(=アクペリエンス)により、レントンは命を落としたとされています。
ただ、これについて『ANEMONE』のパンフレットを読んでみると、「レントンはアクペリエンスに飲み込まれた」と表記されているんですね。
この文脈を個人的に考えたんですが、レントンは死んだというよりは、スカブに飲み込まれて、別宇宙に飛ばされてしまったということなのではないでしょうか。
「ハイエボ1」のサマーオブラブのシークエンス中に「クォーツ」が生まれている描写がありました。
(『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』より)
しかも、シルバーボックスの暴走を抑え込もうとしているとき、アドロックの乗っていた機体の頭上には別宇宙へのポータルが開きかけています。
(『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』より)
「クォーツ」というのは、『エウレカセブンAO』に登場した概念ですが、「スカブコーラルが作り出した平行宇宙へと行くことが可能な機関」とされています。(ちなみにハイエボでは「夢を現実にする力」とされている)
よって、レントンはアクペリエンスの際にスカブコーラルに飲み込まれ、「クォーツ」化したシルバーボックスの影響で平行宇宙に飛ばされたのでしょう。
そう考えると、ハイエボ1のラストでエウレカの元へと向かっているレントンは、平行宇宙に飛ばされた後の彼なのかもしれません。
君の元へ今向かっている。君に会えるのはすぐ。もうすぐ。
だから待っていて欲しい。本当のことはまだ何も話していない。
どんなことがあったのか。どんなことが俺ときみに起こるのか。
だから、もう逃げている場合じゃない。
(『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』より)
ここでレントンは「どんなことがきみに起こるのか。」をエウレカには伝えていないと発言しています。
つまり、この平行世界のレントンと思われる少年は、スカブの中を経由する際に、これからエウレカの身に起こる出来事を、つまり『ANEMONE』と『EUREKA』の事象をある程度、概観していたのではないでしょうか。
そして、次に彼が登場するのは、『ANEMONE』のラストです。
ここで、明確に宇宙空間に「クォーツ」が浮かんでいる描写があり、それに伴ってレントンの居場所が平行宇宙であることが明確になります。
(『ANEMONE』より)
そして、レントンはコンパクドライブを通じて、平行世界のエウレカの眼前にいるニルヴァーシュZを動かしています。
ここから『EUREKA』へとつながるわけですが、冒頭にニルヴァーシュZが巨大赤色移動体と戦闘している場面がありました。
(『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』より)
そもそも巨大赤色移動体が「シルバーボックス」であることを知っている人間って、ハイエボ1でそれを眼前に目撃したデューイだけだと思うんですよ。
ただ、レントンがこの真実をスカブ内で知り、「クォーツ」化した「シルバーボックス」でなら、元の宇宙に帰れると考えてニルヴァーシュZを動かしていたのであれば、辻褄はあいます。
しかし、ニルヴァーシュZはラブレスの攻撃を受けて、キビシスとして宇宙空間へと打ち上げられてしまい、レントンは平行宇宙からエウレカの世界に干渉する術を失いました。
ここから、デューイが行動を起こし、ニルヴァーシュZがキビシスから解放されたことで再び事態は動き始めます。
レントンが平行世界からエウレカに会いに行くために必要なのは、「ニルヴァーシュ」と「シルバーボックス(巨大赤色移動体)」と「EUREKAの力」なのでしょう。
そして、この3つの条件が『EUREKA』のラストに際して、デューイの行動もあって図らずも揃いました。
こうしてレントンはエウレカのいる世界に「やっと戻ってこれた」というのが、まさしく今作のクライマックスなのではないでしょうか。
『EUREKA』考察:「エウレカセブン」は何を描いてきたのか?(微ネタバレ)
この章は核心に触れるようなネタバレを避けつつ書いています。
「夢」と「現実」、ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん。
(C)2021 BONES/Project EUREKA MOVIE
『交響詩篇エウレカセブン』という作品を通底するキーワードと言えば、やはり作中で何度も繰り返されてきたあの言葉ですよね。
「ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん。」
この言葉はテレビシリーズではアドロック・サーストンの言葉であり、それがホランドを通じてレントンへと届けられました。劇場版ではドミニクが伝える役割を果たしたりなんてこともありましたね。
テレビシリーズや旧劇場版『ポケットが虹でいっぱい』では、レントンとエウレカが時にぶつかり合いながらも、少しずつ成長し、自分たちの「未来」を掴み取ろうする戦いを描いてきました。
誰かに頼るのではなく、自分の力で勝ち取る。それこそが『交響詩篇エウレカセブン』という作品を支え続けた思想であり、哲学でした。
そして、もう1つこのシリーズを通底する重要な軸として、「夢」と「現実」という二項対立が存在していました。
『大地は夢を見ている…。大地が目覚めれば空はさける・・・』
テレビシリーズの中でノルブがこんなことを言っていましたが、地球上のスカブコーラルはクダンの限界を迎えないために、その大半が眠りについていて、夢を見ているという設定でした。
「夢」を象徴するスカブコーラルは人間や地球全体を取り込んで「融合」し、人間たち知的生命体の意識だけを「夢」の中で活かすという共存の在り方を当初模索していましたよね。
しかし、人間が対話を試みたことで、その考えを改め、スカブコーラルは人間と共存する道を探り始めました。つまり「夢」と「現実」の共存をです。
テレビシリーズでは、ここでデューイがスカブコーラルを攻撃し、彼らの「夢」を破壊しようとしました。彼は「夢」の破壊こそが人間の「現実」を守ることだと信じて止まなかったのです。
こうして「夢」と「現実」の共存の道が絶たれようとしたとき、その希望を捨てなかったのは、そしてねだることなく勝ち取ろうとしたのは、月光号の面々であり、そして他でもないレントンとエウレカでした。
彼らはスカブやそこに意識を囚われた人たちの半数を別宇宙に逃がすという形で、クダンの限界を迎えるのを回避し、世界に平穏を取り戻したのです。
「夢」と「現実」の共存する世界、それを象徴したのが、第50話「星に願いを」の印象的なモチーフであるレントンとエウレカの名前が刻まれた月だったのでしょう。
そして、「ハイエボリューション」シリーズに突入し、『ANEMONE:交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』が公開されると、この2項対立が再び作品の中心に据えられました。
エウレカが作り出す数々の世界線とその残骸を「エウレカセブン」と呼称し、これまでの『交響詩篇エウレカセブン』シリーズを大きな1つの「夢」として定義し、それらと新しい「現実」世界の対立軸を構築したのです。
同作では、アネモネが伝送装置を使って「エウレカセブン=エウレカの作り出した虚構世界」へとアクセスし、その中に囚われていたエウレカを連れ出そうと試みます。
こうして「エウレカセブン」が崩壊し、これまで長きにわたって生み出され続けてきたエウレカの「夢」が溶け、それらが「現実」世界と融合し、1つの世界線へと導かれたんですね。
ワンワールド。ワンフューチャー。
そして、物語は『EUREKA』へと突入したわけですが、今作では「グリーンアース」と「ブルーアース」という形で「夢」ないし「虚構」と「現実」の対立軸が継続されています。
「グリーンアース」とは「エウレカセブン」内にいた虚構の登場人物たちであり、言わばエウレカに創造された存在です。
一方で「ブルーアース」は、『ANEMONE:交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』で描かれた現実世界の人間を指しています。
今回、デューイや「グリーンアース」の人間たちは、フィクション内存在である自分と、そんな自分にも確かに存在している生身の人間としての心の機微の間で揺れ動いていました。
エウレカの作り出した世界の中で、フィクションを成立させるためのキャラクターでしかなく、台本を読んでいるに過ぎなかった自分たちの中に込み上げるこの気持ちは何なのか。
前作の『ANEMONE:交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』は半ば強引に「夢」と「現実」という2つの世界の融合を実現しましたが、そこに生きていた人たちの次元で言うなれば、真の融合は未だ為されていません。
まさしく、この「夢(虚構)」と「現実」の融合をそこに生きる人たちの目線で描きなおしたのが、今回の映画『EUREKA』だったと私は解釈しています。
虚構内存在が現実世界を生きる意義は何なのか?
(C)2021 BONES/Project EUREKA MOVIE
前作のラストでデューイは「受肉した」と発言していましたが、2つの世界が融合したのことで、「エウレカセブン」内の存在は現実世界で肉体を得ることができました。
それ故に現実世界で「グリーンアース」の人々は生きることができるようになったわけですが、その内側では葛藤を抱えながら生きています。
自分たちは「人間」ではないのかもしれない。そして、エウレカの被造物でしかない自分たちが、虚構内のキャラクターでしかない自分たちが心を持つことができるのか、自由意志を持つことができるのか。
そして、エウレカ内のキャラクターという最大にして、唯一の存在意義を見失った自分たちは現実世界でどう生きれば良いのか。
デューイは、「グリーンアース」の人たちの意志と尊厳の存在を確かなものにするために「ブルーアース」ないし体制側と戦います。
そして、彼の導き出した究極の存在証明は「死」です。
「死」ぬことができれば、自分たちは唯一無二の自分の身体と心を持った人間だったと証明できるはずだとデューイは考えたんですね。
こうしたデューイや「グリーンアース」側の人間たちの物語は、本作の主人公であるエウレカの物語にも重なるものがあります。
エウレカは「エウレカセブン」内では、言わば神に近しい存在であり、そこに息づくキャラクターをシルバーボックスを使って動かし、自分の望む世界線を模索し続けていました。
しかし、「エウレカセブン」が失われ、「エウレカ」としての能力をその首のリングの喪失と共に失った彼女が現実世界で生きる意味とは何なのでしょうか。
映画『EUREKA』におけるエウレカは、自分が現実世界に生きる意味を見出しきれないまま、ただ自分の犯した罪を贖罪するためだけに生き続けてきました。
部屋には度数の高いアルコール飲料と筋トレグッズしかないという彼女の部屋が、エウレカの無為な人生を象徴していると言えます。
「人間にはなれない」という諦念を口にし、最愛の人の命を奪った罪とその罰を右腕に背負って生きる彼女は、現実世界で自分が生きる意味を探し続けます。
そんな時、彼女が出会ったのが、「次のエウレカ」であり、スカブコーラルを操る力を持つアイリス・マッケンジーでした。
彼女の能力は絵に描いたものや夢で見たものをスカブコーラルの力を使って、現実世界に持ち込むことができるというものです。
つまり、アイリスは「夢」の産物を「現実」世界に「受肉」させる力を持っているんですね。そして、その力というものはエウレカが諦念と共に捨ててきたものでした。
エウレカは首輪を失い、スカブコーラルと対話する力を失い、そして「夢」を見ることを諦めました。
彼女にとっての最大の「夢」はもちろん自分が殺したレントンに再会することですが、その「夢」は「エウレカセブン」の中でのループの絶望の中に置いてきたものです。
しかし、それがエウレカなりの「現実」を生きる術だったのかもしれないと思うと、少し悲しくなりますね。
一方で、アイリスはあの頃のエウレカのように「夢」を見ることを恐れる少女です。
彼女は自分の力を嫌悪し、放棄したいと考えながらも、この力があったからこそ自分は両親を得ることができたと認識しています。
自分の存在意義は、あくまでも自分の持つスカブを操る力なのだと認識しているわけで、その姿は、力を喪失し、自分の存在意義を見失ったエウレカに重なりますよね。
こうしたエウレカとデューイ、そしてアイリスたちといった「夢」と「現実」の狭間で翻弄されながら生きてきた者たちの存在意義を問うのが映画『EUREKA』なのです。
「フィクション」の産物を「現実」世界で勝ち取る
(C)2021 BONES/Project EUREKA MOVIE
そして、映画『EUREKA』は、テレビシリーズ来、本作を通底していた「夢」と「現実」という対立軸、さらに「ハイエボリューション」シリーズで打ち立てられた「フィクション」と「リアル」という軸に1つの答えを導き出します。
それは、私たちには「夢」を「現実」に持ち込む力があるということです。
今回の映画『EUREKA』では、『ポケットが虹でいっぱい』のとあるモチーフが思わぬ形で、物語のテーマを体現してくれました。
「エウレカセブン」内で生み出されたフィクションの産物が、現実に形を留め、そして人と人をつなぐ大切な役割を果たすことができるのだと証明したのです。
いや、このモチーフは表していたのは、それだけではありません。
映画『EUREKA』が高らかに宣言したのは、「夢」の残骸から「現実」を再構築できるということなんだと思います。
それは「エウレカセブン」ないでは神に近い存在だったかつて「エウレカだったもの」が現実世界でその存在を再構築し、再び意義を有することができるということをも意味していました。
「エウレカセブン」が崩壊し、「夢」の残骸が散らばった世界で、その残骸には何の存在意義もないのか。いや、そうではないのだと。
その「残骸」は現実で、再構築され、再定義され、そして再び生きる意義を、ここに存在する目的を獲得することができるのです。
そして、それを実現するために必要なのは、諦めないことであり、「ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん。」なんですよね。
力を手放し、全てを諦めかけたエウレカ。そんな彼女がアイリスという少女と出会って、自分自身を再構築していく。
そして再びここにいる意味を見つけ出したエウレカは最後の戦いに挑み、文字通り彼女の「夢」を勝ち取り「現実」のものにしました。
その「夢」とは何だったのか。これについては映画本編を見て皆さん自身の目で確かめてみてください。
「ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん。」
この言葉を作品の主題として訴えかけ続けたシリーズのグランドフィナーレにふさわしい展開に、ただただ涙が止まりませんでした。
2005年の放送開始から、15年以上かけてエウレカという少女が掴み取ったもの。勝ち取ったもの。
「夢」は「現実」になる。「夢」は「現実」に生きられる。
『交響詩篇エウレカセブン』は、究極のメタ構造を物語に持ち込み、私たちに「夢」というものの計り知れない強度を示してくれたのだと思います。
ありがとう。ありがとう。ありがとう『交響詩篇エウレカセブン』。
そして、さようなら。
映画『EUREKA』とは何だったのか?(ネタバレ注意)
ここからはガッツリ本編の内容に言及しながらお話させていただきます。
「エウレカ」ユニバースが1つの世界に
まず、今回の『EUREKA』の世界観について困惑したという方もいるかもしれませんので、前作の『ANEMONE』も含めて改めて解説してみようと思います。
これまでに『交響詩篇エウレカセブン』シリーズは、様々なメディアで作品を展開してきました。
- 『交響詩篇エウレカセブン』(テレビアニメ&マンガ&小説)
- 『交響詩篇エウレカセブン ニューオーダー』(マンガ)
- 『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』(映画&小説)
- 『エウレカセブンTR1:NEW WAVE』(家庭用ゲーム)
- 『エウレカセブン NEW VISION』(家庭用ゲーム)
- 『エウレカセブン グラヴィティボーイズ&リフティングガール』(マンガ)
- 『エウレカセブンAO』(テレビアニメ)
- 『エウレカセブンAO -ユングフラウの花々たち』(OVA&家庭用ゲーム)
そもそも『交響詩篇エウレカセブン』シリーズはボンズやバンダイなどが中心となって「Project EUREKA」として様々なメディアミックスをしたため、様々な媒体で作品が出ております。
そのため、アニメだけを追っていれば全てが分かるというわけではない作りになっており、そこが面白いところでもあると思いますね。
そして、今回の『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』シリーズは、こうした多岐にわたる「Project EUREKA」作品群を1つの世界ないし未来へと導き、完全に収束させる重要な作品としてスタートしました。
とりわけ、大きなインパクトがあったのが映画『ANEMONE』です。
前述したとおりですが、この作品の世界では、エウレカが作り出す夢の世界線の残骸が「エウレカセブン」と呼ばれており、これが極めてメタ的な設定として機能していました。
つまり、映画『ANEMONE』の中に登場する、「エウレカセブン」は物語の中に内包された「これまでのエウレカセブン」だったわけですよ。
これは、アニメだけではなく先ほど列挙したようにマンガや小説、ゲーム、パチンコなどの様々なメディアに点在する「Project EUREKA」コンテンツの全てを内包しているという意味です。
そして映画『ANEMONE』では、少女アネモネの手によって、エウレカが「エウレカセブン」の中から連れ出され、シルバーボックスによって半永久的に繰り返されていた夢の世界が終わりがもたらされます。
こうして、「エウレカセブン」内に閉じ込められていたキャラクターたちが、『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』の世界で目覚めることとなりました。2つの世界が融合したわけですね。
では、その結果どうなったのかということで、『ANEMONE』から10年後の世界として今回の『EUREKA』が描かれています。
このシリーズを追いかけてきた人間の1人として印象的だったのは、『エウレカセブンTR1:NEW WAVE』などのゲームシリーズやマンガ『エウレカセブン グラヴィティボーイズ&リフティングガール』に登場したキャラクターたちが物語に絡んできた点ですね。
作品を見た方はお気づきかと思いますが、今回の『EUREKA』には、サムナとルリが登場します。
『エウレカセブン グラヴィティボーイズ&リフティングガール』より
(C)2021 BONES/Project EUREKA MOVIE
かなり性格やキャラクターは変わったなという印象は受けましたが、そんなことはこのシリーズにはつきものですから気にすることでもないでしょう。ルリの方もデューイの腹心として登場しておりました。
他にも、物語のキーになるアイテムとして『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』の雪月花が再登場したのは、ファンにとっても嬉しいサプライズではないでしょうか。
『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』より
こうした多様なメディアで展開されてきた「Project EUREKA」のキャラクターやアイテムたちが1つの世界に同居し、そんな世界の中で巻き起こるシリーズ最後の物語というのが、今回の『EUREKA』の見どころの1つなのかなと思います。
絶えず「物語」をメタ的に内包させてきたシリーズのクライマックスとして
『交響詩篇エウレカセブン』シリーズの面白いポイントを1つ挙げるとするならば、それは自分たちで作り出した「物語」を「物語」に内包させていくというメタ的な構造なのかもしれません。
例えば、テレビアニメ『交響詩篇エウレカセブン』と『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』の関係性を思い出してみてください。
『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』の設定には、「アゲハ神話」という重要なキーワードが存在します。
この「アゲハ神話」は劇場版の世界にスカブコーラルが伝播した逸話なのですが、その内容はテレビシリーズのレントンとエウレカの物語に基づく、スカブと人間の共生の物語です。
つまり、劇場版の世界観の中に、テレビシリーズの物語がメタ的に組み込まれているという特殊な構造で作られた作品なんですね。
しかも、この作品の中ではデューイやアネモネ、ホランドたちが「ドーハの悲劇」という厄災を経験していて、この出来事の際に彼らは「エウレカ」「レントン」という名前が刻まれた月が存在する世界(=テレビシリーズの世界)を垣間見ています。
このように、作品と作品が単に続き物になっているのではなく、『交響詩篇エウレカセブン』というテレビシリーズが「神話」として、また一種のパラレルワールドとして存在する並行世界の物語として劇場版を作り上げた点が『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』の非常に面白いポイントでした。
『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』は「ハイエボリューション」シリーズが始まってようやく再評価されてきましたが、公開当時は私も含めて多くのエウレカファンをポカンとさせたことでしょう。
しかし、重要なのは、この時点で京田監督をはじめとするスタッフ陣が、自分たちの作り上げた作品を、自分たちの他の作品に内包させるという作品構造のイメージを明確に持っていた点です。
正統な続編としてテレビ放送された『エウレカセブンAO』も続編である一方で、オリジナルのテレビシリーズが「伝説」になった後のレントンとエウレカの息子世代の物語になっており、さらにオリジナルの世界線と物語が時空を超えてリンクするという特殊な構造になっています。
こうした、物語の構造的な下地があったからこそ、アニメ映画史に革命をもたらしたと言っても過言ではない映画『ANEMONE』が生まれたのだと思います。
つまり、製作陣は絶えず『交響詩篇エウレカセブン』が劇中に存在する世界で『交響詩篇エウレカセブン』を描き続けてきたわけです。
そして、今回の『EUREKA』では、そうした一連のメタ構造が融解し、1つの世界に統合されるわけですが、ここで大きな問題となったのが「キャラクターたち」なんですね。
これまで与えられた台本を読み、役割をこなしてきた「キャラクター」という存在が、劇中の「現実世界」に解き放たれたとき、彼らは本当にそこで生きることができるのか、そもそも存在する意義とは何なのか?を問うたのです。
デューイは劇中で「夢なら覚めないままで終わらせて欲しかった」とかつての創造主であったエウレカに語りかけていました。
つまり、自分が「キャラクター」に過ぎなかったという事実をメタ的に認知することなく、与えられた役割を全うした時点でその存在を終えた方が幸せだったと言っているわけです。
そんな問いに対して1つの答えをもたらしてくれるのは、『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』とリンクする要素たちでした。
すなわち、ホランドとタルホの子どもと、雪月花のアクセサリーです。
(C)2021 BONES/Project EUREKA MOVIE
『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』では、「ドーハの悲劇」による後遺症が生まれてくる次の世代の子どもには引き継がれないという設定が明かされたことで、1つの「解放」を描きました。
今回の『EUREKA』でもタルホはホランドの子どもを身ごもっており、それ故にホランドは「エウレカセブン」が崩壊した後の世界で生きる意味を見つけることができたんです。
「キャラクター」という役割を終えた「夢の残骸」でしかない自分たちが、子どもをもうけるという形で未来を、夢を紡ぐことができるという可能性を示したのであり、だからこそホランドはそれを守るために命を落とします。
また、雪月花のアクセサリーについても、「エウレカセブン」内のフィクションでしかないモチーフが、その形と役割を変えて、現実世界に存在していることの1つの証左になりました。
「台本」という与えられた未来や筋道から逸れたところに、自分の役割を見出し、未来を紡いでいく。
それこそがキャラクターたちにとっての「キャラクター」からの解放であり、彼らに課せられた「ねだるな勝ち取れさすれば与えられん」だったんですよね。
本作は「ねだるな勝ち取れさすれば与えられん」というシリーズを通底するメッセージを「キャラクター」の物語からの解放という究極のメタ構造の中で描いて見せたのです。
「少年」の物語から「少女」の物語へ
(C)2021 BONES/Project EUREKA MOVIE
そして、いよいよ今回の『EUREKA』のラストシーンに言及していくわけですが、みなさんはどのように解釈しましたか。
まず、『交響詩篇エウレカセブン』シリーズはそもそもレントンという「少年」の物語でした。
レントンがベルフォレストの町でエウレカと出会い、彼女を助けようとし、やがてはそれが世界を救う命運へとつながっていくという「少年」の成長譚だったわけです。
しかし、『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』シリーズは、それを「少女」の物語として再定義しようとしています。
レントンがエウレカを救う物語が転じて、映画『ANEMONE』では、エウレカがシルバーボックスの力を使ってレントンを救おうとする物語が新たに描かれました。
さらには、そんな運命からエウレカを解放しようと試みるのも、テレビシリーズでは「救われる側」にいたアネモネという「少女」です。
このようにレントンとドミニクという「少年」の物語だったシリーズの見方を変えて「少女」の物語へと再編していくような動きを映画『ANEMONE』で見せ、その先を『EUREKA』で描きました。
『EUREKA』では、新たに「エウレカ」と同じ力を持つ少女として、アイリスという「少女」が登場するのですが、彼女はスカブコーラルを発生させる力を使うたびに、首のところにコーラリアンの呪縛を象徴する「首輪」が現れます。
これは、エウレカの首にあったものと同様のものですが、前作の映画『ANEMONE』のラストで、彼女の首についていたものは壊れ、それに伴ってエウレカは人型コーラリアンとしての力を失っていました。
この「首輪」のモチーフの使い方を見たときに思い出すのは、やはり『シンエヴァンゲリオン』だと思います。
同作のラストに、マリがシンジの首につけられたエヴァンゲリオンパイロットの呪縛の象徴とも言えるDSSチョーカーを外すシーンがあったのを覚えていますか。
言うまでもなく、エヴァンゲリオンというある種の呪縛から「子どもたち」を解放するという何とも庵野監督らしい物語の終わらせ方だったと思いますが、『EUREKA』は少し違った形で「少女」の解放を描いています。
というのも、本作のラストでは「首輪」の破壊による「少女」の解放ではなく、「首輪」の誕生による「少女」の解放を描いているのです。
『EUREKA』のラストにおいては、エウレカがレントンと共に旅立っていき、残されたアイリスにはエウレカと同じ「首輪」が発現します。
これを見たときに、劇中でエウレカが述べていたように「呪いを彼女に押しつけている」ように見えてしまったという人もいるかもしれません。
しかし、アイリスは自らの意志で次の「エウレカ」になることを望んでいます。
ここが最大の違いであり、本作において最も重要なポイントです。
つまり、『EUREKA』は「首輪」を破壊して少女を呪縛から解き放つのではなく、「首輪」にリンクした呪縛そのものを呪縛から解き放ったというのが正しいのではないでしょうか。
「エウレカ」になるということは、劇中でエウレカも述べていたように苦難の道を歩むことを意味していますし、それはこれまでの彼女の歩みを見れば分かります。
「首輪」がなぜ「呪い」なのか。
それは「首輪」に伴う力により、エウレカがレントンを殺してしまったからであり、その力でシルバーボックスを起動し彼女が何度も悲惨な運命を経験してきたからです。
でも、エウレカは旅路の果てにレントンとハッピーエンドを迎えることができました。
加えて、アイリスは自分が「エウレカ」の力を持っていたために、両親を得ることができ、そしてエウレカと出会うことができました。
つまり『EUREKA』で描かれた一連の展開により、もう「首輪」そのものが「呪い」ではなくなってしまったんですよね。
そして、このシリーズを象徴する「首輪」というアイテムを「呪い」から解放し、肯定するという本作のラストシーンは、これまでの『交響詩篇エウレカセブン』シリーズの歩みそのものの全肯定でもあるのだと思います。
「少女の終わり、少女の始まり」
そのキャッチフレーズにふさわしい、見事な『交響詩篇エウレカセブン』シリーズの再構築と再定義でした。
おわりに:「ダサさ」こそ「エウレカらしさ」である
いかがだったでしょうか。
今回は映画『EUREKA』についてお話してきました。
最後に、少しだけ自分語りをしてから記事を締めくくろうかなと思います。
今作『EUREKA』のパンフレットにライターの藤津亮太さんが非常に良い寄稿をされていて、その内容が「キャラクターと観客が結びつく瞬間」に関するものでした。
これを読んだときに、ふと自分が『交響詩篇エウレカセブン』シリーズとつながった瞬間はいつだっただろうかと振り返りました。
私がこのシリーズと「つながった」と感じたのは、そもそもホランドの存在が大きかったのだと思います。
テレビシリーズ放送当時の自分はまだ小学生でしたが、ホランドというクールな大人の男に憧れました。
でも、彼の魅力ってそこじゃないんですよ。
テレビシリーズ第33話「パシフィックステイト」で、もうリフができないかもしれないほどの怪我を足に負ったホランドが、タルホに弱音を吐くシーンがあります。
ダッセえよな…。俺。ほんと、ダセぇよ。
ごめんな、タルホ。リフしか能のない俺なのに。
リフも、リフができるこの星も大好きだ。だから俺はこの星を壊す存在が許せない。
俺は、例えどんなことがあっても、守りたいんだ。お前と出会えたこの星を。こんなダサい俺を好きでいてくれるお前のことを。
私がホランドというキャラクターとそしてこのシリーズと「つながった」のは、まさしくこのセリフを聞いた時だったんだと思いました。
クールでかっこいい大人の男。だけどその弱さや幼さといった人間臭い部分をさらけ出す、そういうホランドの「ダサさ」に私は惹かれたのだと思います。
今回の『EUREKA』の中でもキャラクターは被創作物であり、どこまでも誰かの意志によって動かされている存在であることが示唆されていました。
それでも、キャラクターが生きていると感じる瞬間がある、彼らに血が通っていると感じる瞬間がある。
私にとって、ホランドがただのキャラクターには思えなくなったのは、フィクションとリアルの垣根を越えて「生きた」存在に思えるようになったのは、この時からでした。
だからこそ、私にとっての「エウレカらしさ」は「ダサさ」なんですよ。
「ダサさ」とは、キャラクターが創造主の作り出す理想から零れ落ちた一瞬だけ見せる「素」の部分なんだと思います。
そして、映画を見終わって、パンフレットの中に掲載されている京田監督のインタビューを読んで、涙が止まらなくなりました。
エウレカもレントンの前にいくと、これまでのエウレカに戻っちゃうところがあるし。ただそのダサい感じもひっくるめて「エウレカらしさ」ではあるのかな。
(『EUREKA』パンフレットより)
自分の考えている「エウレカらしさ」と監督の考える「エウレカらしさ」が少しだけ重なったような気がして、つながったような気がして嬉しくなりました。
今作のラストで、エウレカは最後の最後で、断ち切っていたはずの、忘れようとしていたはずの少年の名前を、「レントン」の名前を叫びます。
『EUREKA』おいて監督が掲げていた「自立したエウレカを描く」というテーマと、彼女の取った行動はどこか相容れない部分があり、テーマ性を否定してしまったとも言われかねない描写ですよね。
しかし、こうした物語のテーマという作為性から零れ落ちた「ダサさ」にこそ、キャラクターと観客がつながる瞬間は宿るのだと思いますし、この映画はエウレカという少女の「ダサい」行動で終わったからこそ、「エウレカらしい」んだと思います。
「少女」であることを捨て、「大人」になろうとしたエウレカが大好きな人の前で覗かせる、「少女」の顔。
そういう「ダサい」ところが私は好きなんだよ。ありがとう。