みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『パワーオブザドッグ』についてお話していこうと思います。
批評家からの支持も厚く、ヴェネツィア国際映画祭ではジェーン・カンピオン監督が銀獅子賞を受賞するなど既にいくつかの賞で好成績を残しています。
またベネディクト・カンバーバッチの演技も絶賛で迎えられており、ニューヨーク批評家協会賞では、彼が主演男優賞を受賞しました。
ちなみにこの映画はオリジナル脚本ではなく、トーマス・サヴェージの小説の映画化となっております。
原作の方はまだ読めていないのですが、今回の映画化に当たってかなり描写が削られているという話も聞きますので、映画版と併せて原作を読んでみるのも良いでしょう。
では、ここからは本作のテーマ性やタイトルの意味、演出等についてもう少し掘り下げてお話させていただこうと思います。
作品のネタバレを含みますのでご注意ください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『パワーオブザドッグ』解説・考察(ネタバレ)
「主人公」不在の独特の距離感
(映画『パワーオブザドッグ』より)
『パワーオブザドッグ』という作品を見た時に真っ先に感じたのは、本作の複雑な味わいを担保しているのは、「主人公」の不在性ではないかということです。
本作のメインキャラクターとなるのは、次の4人です。
- フィル・バーバンク(ベネディクト・カンバーバッチ)
- ローズ・ゴードン(キルスティン・ダンスト)
- ジョージ・バーバンク(ジェシー・プレモンス)
- ピーター・ゴードン(コディ・スミット=マクフィー)
この4人の中で明確に「主人公」が誰なのかという点は明らかにされませんし、物語を最後まで見届けたとして観客に委ねられています。
ただ、この映画は、4人のうちの誰かに「肩入れ」してしまうと、均衡が崩れしまう設計になっているのです。
つまり、作り手の側としては、如何にして4人の誰にも感情移入させないかが重要であり、同時に等しく4人に感情移入させるかが重要になってくるわけです。
ジェーン・カンピオン監督は、そうしたバランス感覚に優れており、登場人物と観客の距離感を徹底的に保ち続けることで、作品に複雑な豊かさと味わい深さをもたらしていました。
とりわけ、終盤の展開については、フィルとピーターのどちらかが明白に「主人公」として描かれていたとすれば、実に単純で表層的な映画になっていたことでしょう。
仮にフィルが「主人公」だったとすると、彼の同性愛と男性らしさの間で揺れた苦悩や葛藤が徹底的に悲劇として可視化され、私たちはフィルに感情移入し、逆にピーターを「悪人」のように捉えてしまう可能性があります。
一方で、ピーターを「主人公」にしていたら、私たちは本作を単純に彼の復讐劇ないし母を守るための戦いとしか捉えることはできないでしょう。
そんな中で『パワーオブザドッグ』はこの2人のどちらとも距離を取るという選択をし、それにより両方の解釈や感情を掬い取ることに成功しています。
もちろんこうした曖昧な作り方にはリスクもあります。
キャラクターが弱いということは、それだけ物語の求心力が弱まることを意味しており、観客の感情を一定の距離感の下に保つということは、それだけ感情移入を妨げることを意味するからです。
ただ、そうした「曖昧さ」をジェーン・カンピオン監督は弱みにすることなく走り抜けたのが素晴らしいですよね。
淡々と起きた出来事を綴っていき、そこに風景の画を織り交ぜながら展開していく本作は、一見すると「ドライな」作品です。
そうした作品の中で登場人物の感情にリンクしたサブタルな描写を散りばめていき、彼らにきちんと「血を通わせている」のは驚くべき手腕でしょう。
誰にも「肩入れ」できない。だけど、全員に感情移入してしまう。
『パワーオブザドッグ』はそうした不思議な読後感を味わうことのできるリッチな映画なのです。
タイトルと聖書、「犬」に込められた意味
本作のタイトルは『パワーオブザドッグ』ですが、これはそもそもユダヤ教の聖典である旧約聖書に含まれる『詩篇』からの引用になっています。
わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から助け出してください。
(旧約聖書『詩篇』22篇より)
この引用した訳だと「犬の力」と直訳されていますが、原文はこのようになっています。
Deliver my soul from the sword; my darling from the power of the dog.
(from Psalm 22)
「犬の力」というのは、かなり直訳ですが、まあ分かりやすい日本語に訳すと「私の魂を剣から、そして最愛の人を犬の魔の手から救い出してください。」と言った意味になるでしょうか。
ただ、この記述だけを読んでも前後関係が分からないと思いますので、簡単に解説していきますね。
そもそもこの『詩篇』22篇は、メシアである「私」に降りかかった受難について綴ったもので、後に新約聖書のイエスの磔刑の場面でもこの22篇の記述の一部が引用されました。
そんな22篇は次のような記述で始まります。
わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
(旧約聖書『詩篇』22篇より)
つまり、受難に際してメシアが、神は自分を見捨ててしまったのではないかと嘆く様が描かれているわけです。
この様子は、イエスが磔刑に処される前の有名な一幕である「ゲツセマネの祈り」を想起させるものだと思います。
『マタイによる福音書』の中にこの「ゲツセマネの祈り」について次のような記述があるのはご存知でしょうか。
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」
(『マタイによる福音書』26章39節より引用)
こちらはイエスが目前に控えた磔刑の運命に際して、その苦難を何とか私のところから過ぎ去らせてほしいと願う様が描かれており、イエスの「人間」の部分が垣間見えるエピソードだとも言われています。
では、『詩篇』22篇のその後の部分を引用していきますね。
しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。
すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。
しかし、あなたはわたしを生れさせ、母のふところにわたしを安らかに守られた方です。
わたしは生れた時から、あなたにゆだねられました。母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました。
わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです。
(旧約聖書『詩篇』22篇より)
ここまで読み進めると、この『詩篇』が『パワーオブザドッグ』という作品にどのように関係しているのかが見えてきたように思います。
ただ、この『詩篇』における「わたし」をピーターと捉えるか、それともフィルと捉えるかでタイトルの意味合いのニュアンスが変わってくるのが、本作の面白いところなのです。
ピーターが「わたし」なら
「わたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う」という記述ですが、これは物語の冒頭のフィルとピーターの関係を表しているように思えます。
物語の序盤の食堂のシーンでフィルは傲慢で不遜な態度を取り、テーブルに置かれたピーター作の紙の花を燃やし、彼を嘲笑し、その母であるローズを悲しませていました。
そんなピーターにとっての受難は間違いなくフィルの存在であり、彼の存在によって自分の母親が苦しめられ、アルコール依存症へと追い込まれている現状でした。
(映画『パワーオブザドッグ』予告編より)
しかし、ピーターには頼れる人間がいません。父になったジョージは悪い人間ではないですが、基本的にフィルに対して弱腰であり、何か行動を起こしてもらうことを期待はできません。
フィルの行動はエスカレートしていき、ピアノを弾いているローズを挑発するようなバンジョーの演奏を見せつけたり、隠れて酒を飲む彼女を口笛で嘲笑したりするなどしていました。
こうした様子を見て、彼が何とかして母親のために「犬=フィル」を遠ざけたいと願うのは当然ですよね。
つまり、ピーターを「わたし」として本作を紐解くのであれば、引用箇所に登場する「my darling」というのは、言うまでもなくローズのことになります。
「my darling=ローズ」を「power of the dog =フィル」から守るというのが、『パワーオブザドッグ』と旧約聖書『詩篇』22篇の共通項になるわけです。
(映画『パワーオブザドッグ』予告編より)
ただ、ピーターは母を助けるために「神」に助けるなんてことはしません。
彼は、自らの手で母のために、炭疽菌で汚染された牛皮を用いてフィルを殺害します。
「犬」という生き物は、基本的に「強者」を表す生き物であり、同時に「死」を予感させる生き物でもあると言われています。
民間信仰では犬の遠吠えが「死」の訪れを知らせるものであると解釈される場合がありますし、古代エジプトの『死者の書』ではアヌビスという黒い犬の頭部を持つ神が冥界の番人を務めていますよね。
そう考えると、フィルはピーターにとって母を死に至らしめる存在であり、だからこそ取り除かなければならない存在でもあります。
本作のラストシーンでは、ジョージとローズの幸せそうな様子が描かれ、フィルが勝ち取った彼女の「生」が強調されていました。
「犬=フィル=死」を神に救いを求めるのではなく、自らの力で振り払った青年としてピーターが描かれたのだと解釈することができるわけです。
フィルが「わたし」なら
個人的には、「わたし」をフィルだと解釈して作品を見進めるのも面白い視点ではないかと思っています。
というのも、フィルにも守りたいと考えている大切な人がいて、それが劇中で何度も名前が挙がる「ブロンコ・ヘンリー」です。
「ブロンコ・ヘンリー」は、フィルにとっては命の恩人であり、彼に「男らしさ」とは何かを教えてくれた人でもあります。
フィルが彼と「裸で一緒に寝たのかどうか」について今作は言及を避けていましたが、彼との出会いがきっかけでフィルが変容していったことは間違いないでしょう。
そう考えると、彼にとっての「my darling」は「ブロンコ・ヘンリー」だということになりますが、ブロンコがフィルに向けていた思いとフィルがブロンコに対して抱いていた感情が同じだったのかどうかは分かりません。
ただ、フィルは明白にブロンコに対してカウボーイのメンターとして以上の感情を持っていたのでしょう。
それ故に彼は、ブロンコが亡くなってからも、彼が残した牧場や習慣、鞍などのアイテムを守り続け、大切にしています。
そして、物語の後半に入ると、フィルとピーターの関係性が変化していき、とりわけ彼はピーターにブロンコを投影し、大切にするようになりました。
つまり、今作の後半においてフィルにとっての「my darling」とは「ブロンコ・ヘンリー」であると同時にピーターでもあるという図式が徐々に浮かび上がってくるわけです。
(映画『パワーオブザドッグ』予告編より)
では、そんな「フィル」にとっての「犬」は誰なのかと言えば、言うまでもなくローズということになるでしょう。
劇中ではっきりとは明言されていませんが、フィルの牧場で動物の皮を燃やすという習慣もブロンコ由来のものなのかもしれませんし、だからこそ彼はローズにその規則を蔑ろにされたことに激しく憤ったのかもしれません。
それだけではなく、ローズのこの行動はフィルがピーターに縄を作ってあげるという愛情表現への妨害行為であり、これも相まって許せなかったと見るのが妥当でしょうか。
また、ローズはフィルに依存している節があり、彼もそんな母を放ってはおけないと考えているため、なかなか自由になることができません。
それ故にフィルはピーターを1人前に育て上げることで、彼を「犬=母親」から解放してあげたいと考えているわけですよ。
ただ、面白いのはフィルが「わたし」だと解釈して、作品を見進めていくと、クライマックスで「犬」はローズではなく、むしろピーターであるという事実が明らかになります。
犬という生き物は、聖書的な世界観においては、卑賤で穢れた生き物として描かれることも多く、それほど肯定的に描かれていません。むしろネガティブなイメージと共に語られる生き物と見るのが妥当でしょう。
加えて、先ほどもお話したように犬は「死」のイメージと共に語られる生き物でもあります。
しかし、犬は後世の様々な記述や絵画によって、こうした暗いイメージにポジティブな印象を上書きしてきました。
例えば、寓意画の世界では犬は「忠誠」の象徴として描かれ、こうしたイメージが実は現在にまで続き「忠犬ハチ公」のような寓話にまで引き継がれています。
つまり「犬」という生き物は、元来「飼いならされた家畜」と「失われることのない獣性」という2つのイメージを内包しているのであり、それが「忠誠」と「卑賤や死」というコンテクストにもリンクしているのです。
『パワーオブザドッグ』におけるフィルの視点から見たピーターはまさしくこうした二面性を持つ存在として描かれており、だからこそ「犬」の役割に合致すると見ることができると思います。
ピーターはフィルに忠実な素振りを見せる一方で、彼に「死」を突きつける存在でもあるわけです。
つまり、『詩篇』における「わたし」をフィルとした場合、本作はフィルが「my darling=ブロンコ&ピーター」を「dog=ローズ」から守ろうとする物語であり、その上で実は「dog=ピーター」だったというある種の裏切りを内包しているのです。
内と外、上と下を意識させるカメラワークの妙
最後に『パワーオブザドッグ』の特徴的なカメラワークについて解説していきます。
本作の映像の特徴は、内と外、上と下の使い分けにあると個人的には感じました。
まずは「内」と「外」の方から言及していきます。
「内」と「外」、「文明」と「非文明」
本作の冒頭に部屋の内側に置かれたカメラで窓枠に切り取られた荒野の風景を映し出していくショットがありました。
こうした「四角」いフレームで広大な荒野をトリミングするようなショットは劇中で多用されていましたが、これにはジョン・フォード監督の『捜索者』からの影響が垣間見えました。
『パワーオブザドッグ』これから見る予定ですが、このショットはどこか『捜索者』を思い出させてくれますね。美しいです😊 pic.twitter.com/hyd12ETNIK
— ナガ@映画垢🐇 (@club_typhoon) December 5, 2021
窓枠は「四角」い形をしているわけですが、映画において「四角」という形には「秩序」「人工」「大人」「文明」「論理」といったニュアンスが内包されると言われています。
(映画『パワーオブザドッグ』予告編より)
「四角形」は自然界に存在しない形であることから、こうしたニュアンスがあると読み解く場合が多いのだそうです。
とりわけ「秩序」「文明」といったニュアンスは本作を読み解く上で非常に重要なものかもしれません。
まず、フィルという人物は「外」つまり牧場のホモソーシャルなコミュニティにおいてはカリスマ性を発揮し、多くの男を従わせているからです。
しかし、「内」つまり「秩序」や「文明」の世界に足を踏み入れると、途端に不適合者になってしまうんですよね。
それを象徴していたのが、冒頭の新婚のジョージが知事を招いて自宅で食事会をする場面におけるフィルの行動です。
この時、フィルは頑なに食事会には参加しようとせず、「外」の世界に留まり続けることを選び、さらには「内」の世界ではその粗野な振る舞いで雰囲気を台無しにしてしまう有様でしたよね。
こうした一連の行動を見ていても、フィルが「秩序」や「文明」から縁遠い存在であることが可視化されていますし、それを冒頭のショットは言葉を超えて表現していたわけです。
対照的にピーターやローズは「内」を象徴する存在として描かれています。
元々ローズは食堂という屋内での仕事をしていましたし、牧場を経営しているバーバンク家からすると外様なわけで、そうした仕事を家の中から見つめているに過ぎません。
しかし、物語の後半にかけて、徐々にピーターはフィルの影響で「外」の世界へと誘われていきます。
そうした状況を表すものとして、ローズが自室の窓からフィルと共に乗馬しているピーターを苦々しい顔で見つめているショットが使われているのも印象的でした。
また、ローズが先住民に燃やすはずだった皮を渡してしまうシークエンスは、窓のフレームから外の世界を見つめる彼女のショットで始まります。
このショットにより、「内」の人間であるローズが「外」の世界へと出て行き、フィルの作り上げたルールを壊してしまうという構図が強調されているのです。
物語はクライマックスへと向かって行き、いよいよフィルが炭疽菌による発作を起こし、病院へと向かうシーンに至るわけですが、ここでも「内」と「外」が強調されています。
冒頭の部屋の中から窓のフレームを通して外の世界を映し出すショットは反芻され、「外」の世界にはボロボロになったフィルが、そして「内」には彼を死に至らしめたピーターがいるわけです。
交わるかに思えた2人の世界がやはり決定的に異なっていたのだということが、こうした「内」と「外」の使い分けで明白になっています。
フィルは「内」に囚われたピーターを「外」の世界へと連れ出し1人立ちさせようとしました。しかし、ピーターが望んだのは「内」の世界を、そしてそこにいる母親を守ることだったのです。
ラストシーンでは、ジョージとローズが「窓」の「外」でキスをするシーンを「内」にいるピーターの視点で捉えています。
このシーンは、「外」の支配者であったフィルの不在と、これまで「内」に閉じ込められ虐げられていたローズの解放を意味していると言えるでしょう。
こうした一連の物語の顛末を「内」と「外」の空間、そしてそれを繋ぐポータルとしての「窓=四角」を巧く使いながら表現していた点はお見事だったと思います。
「上」と「下」、人物関係を可視化する構図
また、本作においてもう1つ印象的なのが、「上」と「下」の使い分けです。
物語の序盤にフィルと彼の弟であるジョージの会話シーンがありますが、この時フィルは階段の「上」から、そしてジョージは階段の「下」から話すという構図になっており、2人の力関係が明白になっています。
こうした登場人物の関係性とりわけパワーバランスを表す視覚的演出として「上」と「下」を意識したショットが頻繁に用いられていました。
例えば、ローズがピアノの練習をしている場面で、階段の「上」にある自室に戻ったフィルはバンジョーを用いて彼女に嫌がらせをします。
(映画『パワーオブザドッグ』予告編より)
これは有害な男らしさの象徴とも言える行為であり、彼が女性であるローズに対して自分の優位性を誇示するかのような行動です。
他にも家の裏で酒を飲んでいるローズを2階の窓から見かけたフィルは口笛を吹いて自分の存在を誇示し、彼女を嘲笑していました。
(映画『パワーオブザドッグ』予告編より)
だからこそ、本作は物語のクライマックスにおいてもこうした登場人物の位置を用いた演出を巧く機能させています。
炭疽菌によって発作を起こし、ボロボロになったフィルが階段を「上」から「下」に下りてきて、ローズと同じ高さに至るシークエンスをわざわざ描いたのは、こうした演出的な意図があるからでしょう。
これまで常に「上」に君臨し、ローズを「上」から見下ろしてきた彼が、もはや「上」に立つことができなくなり、静かに下りてくる瞬間は何とも言えない哀愁を漂わせています。
そして、『パワーオブザドッグ』はその後にすかさずピーターが2階の部屋の窓からフィルを見下ろすショットを用いていました。
つまり、フィルが陣取っていた「上」の立場をピーターが奪い取ったことがこうした位置関係の変化によって表現されているわけです。
死して棺に入れられるフィルはもはや誰かを見下ろす存在ではなく、誰からから見下ろされる側の人間へとその立場を変えています。
こうした位置関係の反転、見下ろす側から見上げる側への変容が本作の登場人物の関係性や力関係の多くを物語っていたわけですね。
こうした変化によって、登場人物の関係性の変化を多くを語ることなく表現しきった手腕は賞賛に値すると言えるでしょう。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『パワーオブザドッグ』についてお話してきました。
本年度のアカデミー賞の有力候補と言われる作品ですが、その評判も納得の出来栄えだと思いました。
登場人物の「距離感」の演出や明確な「主人公」を置かないアプローチにより、作品に多様で豊かな味わいをもたらしていたのが印象的です。
加えて、「内と外」や「上と外」を使い分ける舞台芸術的な演出の巧さが際立っており、それが淡々とした物語に奥行きを与えていました。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。