みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『マトリックス4 レザレクションズ』についてお話していこうと思います。
シリーズを追いかけてきたファンの1人として、見終わった今思うのは「やる必要なかったでしょ…。」ということだけです。
いきなりネガティブな感想から入ってしまいましたが、正直開始30分くらいはめちゃくちゃ面白かったんですよね。
『マトリックス』シリーズそのものが劇中「ゲーム」であることが示されて、精神的に不安定なネオないしアンダーソンが現実と虚構の狭間でフラフラしているという独特のメタ構造は賛否わかれるとは思いますが、率直に楽しかったです。
とりわけ、『マトリックス4』を作るという企画そのものを劇中で扱っていて、「ネオ=ウォシャウスキー」が不在の状況で周囲の人間があれこれと持論の解釈を持ち出して議論している辺りなんかはもう何の映画を見ているのか分からなくはなりましたが笑いました。
ただ、そこからオリジナル『マトリックス』を踏襲しつつも、キャラクターの関係性を反転させたどこかで見覚えのある「デジャビュ」のような物語が展開され始めると一気にトーンダウン。
ここに、シリーズで断トツのアクション描写の平凡さや過去作で見たことのある演出の使いまわしも相まって、ただただ退屈な2時間弱が過ぎていきました。
個人的に『マトリックス』はビジュアルあってのものだと思うので、肝心のビジュアルがここまで平凡だとどうしても評価できないです。
巷では姉のラナが「哲学担当」で、妹のリリーが「視覚効果担当」という分担があると言われているのですが、今作がラナ単体での監督・脚本だったことを思うと、それも納得ですね。
とは言え、本作の試みそのものは面白いと思うので、この記事では、本作のやろうとしたことや意図を深堀りしていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となります。
なお、『マトリックス4 レザレクションズ』について語った後に過去作の復習の際の参考にと思い、トリロジーの方の解説と考察も書き添えております。
良かったら最後までお付き合いください。
『マトリックス4 レザレクションズ』解説・考察(ネタバレ)
これほぼ『ANEMONE』だよね?
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『マトリックス4 レザレクションズ』は2018年にあの映画さえなければ、「新しい!」と賞賛できていたんだと思います。
というのも、2018年に日本のアニメファンを騒然とさせた『ANEMONE』という『交響詩篇エウレカセブン』シリーズの劇場版が公開されました。
この『ANEMONE』が、今作にびっくりするほど似ています。というよりアプローチが全く同じなんですよね。
まず、これまでのシリーズをメタ的に内包させるという劇中の物語構造が類似しており、『マトリックス4 レザレクションズ』では過去のトリロジーを「劇中ゲーム」に、『ANEMONE』では過去作全体を「エウレカセブン」というモチーフにして劇中に内包させています。
その上で、どちらの作品も、過去作からキャラクターを解放し、新しい世界と未来へと導く脱構築的な物語になっており、これは完全に一致していますね。
とは言え、ここまでだったら他にも似ている作品はありますし、指摘するほどではありません。
次の類似点として挙げたいのがネオとトリニティーの関係性の反転です。
オリジナルの『マトリックス』では、トリニティーがネオをマトリックスの仮想世界から救出する役割を果たしていましたよね。
ただ、『マトリックス4 レザレクションズ』ではこれが反転し、今度はネオが仮想世界からトリニティーを救出するというプロットになっていました。
一方の『ANEMONE』には、エウレカとアネモネという2人の少女が登場します。
そもそもこの2人はテレビシリーズでは、敵同士なんですが、その終盤にエウレカが手を差し伸べて、アネモネを救おうとする展開がありました。
『ANEMONE』では、この関係性が反転しており、アネモネが夢の世界に閉じ込められたエウレカを救うべく手を伸ばすという展開になっていたんですね。
このように過去の作品における「救う側」「救われる側」の反転が起きているのも2つの作品の共通点です。
そして、2つの作品が「似ている!」と感じた最大の根拠は、過去作の映像を新規映像にリンクさせる演出でした。
『ANEMONE』では、テレビシリーズの4:3に近いアスペクト比の映像と、16:9の新規映像を織り交ぜながら、物語を展開していきます。
そして、まさにクライマックスのエウレカとアネモネの手がつながる瞬間に、テレビシリーズの「手がつながる瞬間」の映像をフラッシュバック的に重ねることで、エモーショナルな演出に仕上げました。
『マトリックス4 レザレクションズ』は、これと全く同じことを作品の至るところでやっていますし、終盤の「屋上でのキス」の映像を重ねるところなんかは演出的に全く同じなんですよね。
という具合に、物語だけでなく演出に至るまでことごとく2018年に公開された日本のアニメ映画『ANEMONE』に本作は類似しており、それ故にこの試みを「新しい!」と思えなかったことも作品の評価に影響しているような気がしました。
「契約」が終わった後の「聖書」がある世界を描く
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後の『マトリックス』トリロジー解説の方で詳しく言及していますが、『マトリックス レボリューションズ』のクライマックスでは、ネオとアーキテクトの「契約」が為され、世界に平和がもたらされます。
こうして、ネオは「メシア」としてその名が知れ渡ることとなり、今回の『マトリックス4 レザレクションズ』でも「ネオ主義」という用語が出てきましたが、まさしく聖書のイエス・キリストのような存在になったわけです。
そして『マトリックス4 レザレクションズ』が描く世界は、トリロジーの物語が「聖書」になり、それを人々が享受している設定になっています。
こうなったときに面白いのがネオを「信じるか否か」というコンテクストが微妙に変わって来ることですね。
トリロジーでは、「ネオを信じないキャラクター」というのは、イエスを前にしたパリサイ派のユダヤ人のような当事者性を持って描かれていました。
ただ今作で登場する「ネオを信じないキャラクター」は、どちらかと言うと「キリスト教を信じるか否か」といった体系化された宗教を受け入れるかどうかという後世の人間視点で描かれていたように思います。
また、トリロジーでは「聖書」やキリスト教の世界観からの引用が作品のいたるところに散りばめられていましたが、今回はそうした作品を意識してか、その色は薄くなっていました。
例えば、エルサレムのシオンをベースに名づけられた「ザイオン」は、今作では「アイオ」という名称に変更されております。
これはギリシャ神話に登場するアイオーンという「時・永遠・永久の神」の名前から取ったものだと考えられますね。
また、バビロン捕囚に関わりの深いネブカドネザル2世の影響を受けたであろう「ネブカデネザル号」は登場せず、代わりに「ムネモシュネ」という船が登場します。
これは今作『マトリックス4 レザレクションズ』のテーマでもある「記憶」を司る女神であり、「記憶の解放」を軸に据えた物語にふさわしい名称です。
加えて、新キャラクターである「バッグス」の名前の由来もワーナー名物の「バッグス・バニー」であり『鏡の国のアリス』の白うさぎとの繋がりでつけられたものでした。
このようにトリロジーでは強かった聖書色を弱めたことで、ネオの物語を「聖書」化しようとしていたのは面白い試みだったと言えるでしょう。
トリニティー救出に重ねられた「役割」からの解放
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先ほども言及したように『マトリックス4 レザレクションズ』の物語の中心にあるのは、ネオたちによるトリニティーの救出作戦です。
これがトリロジーの2人の関係性からの反転になっているのが面白いというのは既にお話した通りですが、マトリックス内でトリニティーに与えられていた「役割」を鑑みると、また少し違った視点で見ることができます。
そもそもウォシャウスキー姉妹は、『マトリックス』でも「プリンセス映画の反転」として命を落としたネオをトリニティーが口づけで目覚めさせるといった形で女性の「役割」からの解放を描いてきたクリエイターです。
そして、今作ではアナリストによって作られた新しいマトリックス世界の中で、トリニティーには「ティファニー」という名前が与えられています。
これは女性のアイコンの1つとも言えるオードリーヘップバーン主演の『ティファニーで朝食を』からの引用ではないでしょうか。
というのも、今作においては黒猫「デジャビュ」がアナリストの飼い猫として登場しており、ここにネオやトリニティー(ティファニー)の立場(アナリストの支配下にある)が投影されています。
そして、終盤のトリニティーの決断のシーンで、この黒猫はアナリストの支配から逃れ、彼の下から去っていきました。
こうしたキャラクターの分身としての「猫」の役割が『ティファニーで朝食を』にそっくりであることからも彼女の名前の元ネタであることは間違いないでしょう。
そんなオードリーヘップバーン演じる主人公がある種の女性のシンボルにもなっている作品から名前を引用されたトリニティー改めティファニーに与えられていた役割は「主婦」でした。
彼女は「家庭を持って子どもを育てたくなる」という願望をプログラミングされており、専業主婦として夫や家族に尽くす毎日を過ごしています。
ラナ・ウォシャウスキーはネオによるトリニティー解放を、女性のステレオタイプ的な「役割」からの解放に重ねて演出しました。
また、一連のネオによるトリニティー救出劇には、ウォシャウスキー姉妹の関係性も見え隠れしていたように思います。
『クラウド・アトラス』や『ジュピター』での苦戦、さらにはトランスジェンダーであることを公表したことによる疲弊も相まって、リリー・ウォシャウスキーは業界を離れました。
また、今回の『マトリックス4 レザレクションズ』についても「以前にやったことがあることに逆戻りして参加するというのは、はっきり言って魅力的ではなかった」として参加しませんでした。
そんな中で姉のラナ・ウォシャウスキーは、ネオとトリニティーの関係に姉妹の関係性を重ねているようにも見受けられます。
過去のトリロジーにおいて、ネオとトリニティーは多くのものを背負わされてきました。
『マトリックス』が公開されてからの2人の映画クリエイターとしての歩みにも、『マトリックス』を世に送り出したからこその重圧の影が見え隠れしています。
だからこそ、そうした重荷からネオとトリニティーを解放し、2人に「2度目のチャンス」を与える本作は、ウォシャウスキー姉妹にとっても自己言及的な物語なのだと思いました。
そして、ネオからトリニティーへのラブコールは、言うまでもなくラナからリリーへのラブコールなのでしょう。
『マトリックス4 レザレクションズ』のラストシーンは、シリーズ1作目のラストカットへのオマージュになっています。
しかし、『マトリックス』ではネオだけが空高く飛んでいった一方で、今回はネオとトリニティーが寄り添って空高く舞い上がっていく様子を描きました。
リリーは姉妹タッグで映画を制作するかどうかについて「それはわからない。あるかもしれない」と曖昧な回答に留めています。
そんな2人がまたタッグを組んで、映画を撮ってくれる日が来るのであれば、映画ファンの端くれとしても嬉しいですね。
「二元論」からの解放という主題性
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『マトリックス』シリーズと言えば、人間と機械の支配権を巡る闘争を軸に据えた作品でした。
トリロジーの根底には、グノーシス主義の「二元論」があり、劇中でもたびたびモーフィアスやアーキテクトによるネオへの「二者択一」が迫られます。
このように『マトリックス』シリーズでは、善か悪か、人間か機械か、現実か虚構か、選択か因果かという「二元論」が常にネオにつきまとっており、その分岐での選択の連続によって物語が形作られたのです。
しかし、『マトリックス4 レザレクションズ』はそうしたトリロジーの強い「二元論」の在り方からは距離を置いています。
ナイオビも言及していたように、人間と機械は対立関係にあるというよりは、ある程度の協力関係にあり、共生というよりは生活圏を分けることで、独自の社会を構築していました。
そのため、トリロジーのように人間は機械と戦おうとは思っておらず、むしろ穏便に生活することで、自分たちの社会を発展させていくという「内向き」の思考に転じているのです。
そうした作品において、ヴィランとして君臨するアナリストとスミスの設定は興味深いものがあります。
まず、アナリストはネオやトリニティーに選択の余地を与えないキャラクターとして描かれています。
彼は虚構の記憶を与え、感情を制御することによって、彼らの「役割」を固定し、そもそも「選択」を与えようとしないのです。
また、スミスについてはトリロジーと同様の役割を果たしており、自分かそうでないかという二元論的な対立軸に則り、自分以外のものを取り込んでしまおうと試みています。
また、今回の『マトリックス4 レザレクションズ』では、トリロジーを「劇中ゲーム」という形で取り込むことによって、かつての現実と虚構という単純な二層構造を壊しています。
このように『マトリックス』を通底していた「選択」というテーマを継承しつつも、単純な「二元論」に落とし込まないところにポスト『マトリックス レボリューションズ』としての物語が存在しているわけです。
だからこそ、本作のラストには少し感慨深いものを感じるのかもしれません。
ネオもトリニティーもトリロジーでは基本的に、世界を救うか否か、機械と戦うか否かという実に単純な二択の中で常に選択を迫られてきました。
しかし、『マトリックス4 レザレクションズ』でマトリックスを書き換えていく2人には無限の選択肢が示されています。
つまり、彼らはもう予め定められた選択肢から自分たちの身の振り方を決める必要はないのです。
そしてこの結末には、「男女」という2つの性別の在り方から解放され、トランスジェンダーとして生きることを表明したラナ・ウォシャウスキー監督ならではの視座が反映されているといえます。
「役割」からの解放。そして「選択肢」からの解放。
そう思うと、『マトリックス』はどこまでも「解放」の映画なのだと改めて感じさせられますね。
『マトリックス』シリーズを振り返る10のトピック
ここからは10のトピックをベースに『マトリックス』3部作を振り返ってみようと思います。
過去作の復習や新作『マトリックス レザレクションズ』との設定的なつながりを確認する際に良かったらご活用ください。
①赤と青の薬とは?
これは最後のチャンスだ。先に進めば、もう戻れない。青い薬を飲めば、お話は終わる。君はベッドで目を覚ます。好きなようにすればいい。赤い薬を飲めば、君は不思議の国にとどまり、私がウサギの穴の奥底を見せてあげよう。
(『マトリックス』より引用)
『マトリックス レザレクション』にも改めて登場した赤色と青色の2つの薬ですが、これは「選択」をテーマにしている本シリーズを象徴するモチーフでもあります。
上に引用したモーフィアスの言葉にもある通りで、2つの薬はそれぞれ次のような意味を持っていますね。
- 赤い薬:「マトリックス」世界の外で目覚め、肉体を取り戻した状態で目覚める
- 青い薬:ネオは眠りにつき「マトリックス」世界の自室のベッドで再び目覚める
つまり、赤い薬を飲めば、「マトリックス」から解脱し、人間として肉体を取り戻した状態で現実世界に目覚めることができるわけです。
ちなみに上記の台詞で「不思議の国」「ウサギの穴」というフレーズが登場していますが、これは『不思議の国のアリス』からの引用ですね。
②マトリックスとは何か?
後ほど本作の世界観がフィリップ・K・ディックや60年代・70年代に流行した「模造世界」「模造記憶」の影響を受けている点については指摘します。
「マトリックス」とはモーフィアスの言葉を借りるならば「真実を隠すための虚構の世界」であり「心の牢獄」です。
そもそも、『マトリックス』シリーズの世界観においては、人類がAIを開発するのですが、徐々に生活をAIに依存するようになり、主導権を握られていったことが背景にあります。
人類は、徐々に自我をもって人間を支配する方向に傾くAIに危機感を覚え、「青空を奪う」ことでAIを支える電力の源になっていた太陽を地上からシャットアウトしました。
しかし、電力源を失ったAIは諦めるのではなく、今度は人間が生み出す熱エネルギーに着目し、人間を「電池」にすることで、自分たちの世界を維持するという解決策を見出すのです。
こうして機械(AI)たちは、人類を支配下に置き、生まれてからその生涯を終えるまでを「電池」として管理するようになったわけです。
ただ、これが当初はあまり上手くいかず、その中で「預言者=オラクル」が提案した人類に夢ないし虚構の世界を見せるというアプローチがハマり、機械による支配体制は安定を迎えました。
この機械が人間を管理するために見せている「夢ないし虚構の世界」こそが「マトリックス」なのです。
③なぜ機械(AI)が覇権を握ったのか?
『マトリックス』本編では、モーフィアスらの説明により人類が機械に支配されるに至った経緯が簡単にではありますが語られます。
ただ、こうした背景をもう少し詳しく知りたいということでしたら『アニマトリックス』の「セカンド・ルネッサンス パート1・パート2」をご覧いただくことをおすすめします。
これは、ザイオンに保管されていた「「セカンド・ルネッサンス」という記録を参照した物語りなのですが、『マトリックス』前史について言及した内容なんですよ。
まず、地球上ではある程度自我を持ったロボット(AI)と人間が共に生活をしており、とりわけ人間がロボットの支配権を握っていました。
しかし、そんなある日、一台のロボットが人間を殺害する事件が起きます。
これを受けてロボット(AI)を被告とした裁判が行われるのですが、ここでロボットは市民権を否定されます。
それに伴って、世界各地で人間がロボットたちを大量虐殺して追放する事件が起こり始めます。
こうして追放された機械たちは「約束の地」を求め、中東に機械達の国である「01」(ゼロワン)を建国しました。
そして「01」は世界の経済圏にも参入するのですが、そこで作られた商品が明らかに人間が作ったものより優れていたため、経済的に他の先進国を超越していきます。
これに危機感を抱いた人類は、国連が中心となって「01」に経済制裁を発動し、さらに「01」の国連への加盟申請も拒むに至りました。
かくして人類と機械(AI)による全面戦争が勃発し、その結果は皆さんがご存知の通りで、人類の敗北であり、これによって機械(AI)の支配下に人間がおかれる『マトリックス』の世界観が構築されたのです。
④ネオはなぜ覚醒することができたのか?
『マトリックス』シリーズ第1作の終盤に「ネオの覚醒」が描かれるわけですが、そもそもなぜ彼は救世主として覚醒することができたのでしょうか。
これについては後ほど本作と仏教的な世界観の繋がりについて解説しているので、そこでも詳しくお話していますが、「唯識」という考え方に関連しています。
「唯識」は簡単に言うと、私たちが見ている「心の中の影像」に過ぎないのだという考え方です。
『マトリックス』シリーズにおける分かりやすい例としては、モーフィアスの「速く動こうとするな。速いと知れ。」というセリフが挙げられるでしょうか。
これは、物理的に速く動くことが重要なのではなく、自分自身に「速い」という「影像」を投影することこそが重要なのだと言っているわけです。
もう少し分かりやすく説明しますと、自分自身は「速い」と信じることで、「速い自分」を作り出すことができるということですね。
そして、この考え方が実はネオが救世主として覚醒するシリーズ1作目のクライマックスにも密接に関わってきます。
モーフィアスはネオを救世主だと信じてやみませんでしたが、トリニティーを初めとする周囲のキャラクターたちや何よりネオ自身が彼が救世主であるという言説に懐疑的でした。
しかし、『マトリックス』の終盤にはトリニティーが「私の愛した人が救世主」なのだと告げ、ネオを信じるようになり、それに伴って、ネオもまた自分自身が救世主なのだと信じることができるようになりました。
まさしく「救世主になろうとするのではなく、自分が救世主であることを知った」からこそネオは覚醒することができたのです。
『マトリックス』シリーズにおいては、こうした世界を物理的に変えるのではなく、世界の「見え方」を変えるこが重要視される傾向にあり、それはシリーズ3部作を通底する思想でもあります。
⑤プログラムにおける「エグザイル」とは何か?
話をシリーズ2作目の『マトリックス リローデッド』に移していきます。
この2作目は何と言ってもカーチェイスが目玉のアクションゴリ押しムービーではあるのですが、一応『マトリックス』の世界観の根幹に関わる情報が開示される重要な作品でもありました。
とりわけ今作の中で示された重要な設定の1つは、システム側にもネオやモーフィアスたちと同じようにメインストリームから外れた「エグザイル」がいるという設定です。
バビロン捕囚のことを「The Exile」とも言いますが、「エグザイル」というのは「追放された者たち」のことですね。
つまり『マトリックス リローデッド』においては、機械(AI)の側も世界を構築する上で必要最低限のプログラムだけで構築しているわけではなく、その中には目的を与えられていないものやある種のイレギュラーも含まれているというわけです。
とりわけ預言者のオラクルやキーメーカーもこうした「エグザイル」に含まれるのだと思いますが、エージェントが「エグザイル」になりそうな人間を削除するように、プログラムもまた不必要になれば削除の対象となります。
ちなみに「エグザイル」となったプログラムは、彼らの生まれた場所「ソース」へと回帰することが明かされていました。
このように、『マトリックス リローデッド』では、『マトリックス レボリューションズ』で描かれることとなる人間と機械の共生の実現に向けて、人間と機械の「鏡像」関係を示唆しています。
人間が「エグザイル」となり、故郷を目指すように、機械もまた「エグザイル」となって「ソース」へと戻っていくという対になる関係性を明示することで、彼らも人間と類似の存在であることを印象づけているわけです。
⑥「選択」と「因果」の差異とは?
『マトリックス リローデッド』には、メロビンジアンというキャラクターが登場し、彼が「エグザイル」たちに関係していることが明かされます。
そして、このメロビンジアンが「私たちは因果の奴隷である」という印象的な言葉を残していました。
仏教においては「因果」の考え方を理解することが重要視されますが、聖書的な世界観で考えると「因果」というのは、神の被造物である人間の論理なのだと思います。
というのも、ヨハネによる福音書の書き出しに有名な「はじめに言葉ありき」という文言があり、これはこの世界において「神の言葉こそが根源的な原理なのである」ということを表しています。
つまり、この世界に何もないところに「言葉」をもたらしたのが「神」であるということが明確に綴られているわけです。
そう考えると、「神」という存在は「因果」の存在しないところに何かを生み出した存在であり、そうして被造物として生み出された人間は「神に作られた」という背景を因果として有する存在ということになります。
だからこそ、「因果」というのは「神」というよりも「人間」の論理になるわけです。
そう考えると、本作におけるネオが提唱する「選択」とメロビンジアンの提唱する「因果」の対比は面白い関係であることが分かります。
なぜなら、ネオが「選択」を強調するのは、まさに「はじめに選択ありき」だからであり、「因果」に縛られない「選択」をすることが彼を「神」ないしそれと同等の存在たらしめる根拠になっているからなんですね。
こうした言説のぶつけあいの中で、ネオが救世主であることを浮き彫りにしていく構図は、本当に聖書を読んでいるような感覚すらあり非常に面白いと思います。
⑦6番目の完璧なアノマリーとはどういうことか?
『マトリックス リローデッド』の中盤にネオが「6番目の完璧なアノマリー」であることが明かされます。
まず、「6」という数字は後ほど改めて解説をしていますが、聖書ないしキリスト教の世界観において「不完全な数字」として知られています。
それは聖書においては「7」こそが神による天地創造を表す完全な数字であり、「7=神」だからです。
つまり、ネオが「6番目の完璧なアノマリー」であるとアーキテクトに宣告されるということは、暗に彼が「7=神」にはなりえない不完全な存在であるということを仄めかされているのです。
そんなネオが救世主になるためにはあと「1」が足りないわけで、じゃあそれを何で補完するのか?という話が実は『マトリックス レボリューションズ』に繋がっていきます。
そして、もう1つ注目したいフレーズである「アノマリー」ですが、これは「ある法則・理論からみて異常であったり、説明できない事象や個体等」のことを表すとされていますね。
マトリックス世界は何度も作り替えられていることはアーキテクトによって説明されましたが、失敗するたびに彼らは世界にマイナーチェンジを加えています。
その中で、預言者オラクルが人間の心理を探り、それを「夢」として人間に見せるというアプローチを取ることで人間の支配体制が安定したことが明かされましたね。
ただ、これに伴って、システムに迎合しない1%の「アノマリー」が生まれてしまったことをアーキテクトは指摘しています。
その「アノマリー」というのがネオのことであり、ひいてはザイオンのことになるわけです。
一方で、システムには、こうした極端な変異が生じた時に正反対の方向に極端な変異を生み出すことで全体のバランスを保とうとする性質があります。
極端なプラスに対して極端なマイナスをぶつけることで均衡を保とうとする働きです。
これがまさしくネオとスミスの関係であるとアーキテクトは指摘しており、だからこそこの極端な「アノマリー」の合一こそが世界の「平和」には欠かせないということが既に暗示されているんですね。
このように『マトリックス リローデッド』における世界の根幹の解説は、『マトリックス レボリューションズ』のクライマックスへの布石に満ちています。
⑧mobil aveとはどんな空間だったのか?
ここからは『マトリックス レボリューションズ』の話題に移っていきたいと思います。
まずお話するのが序盤に登場する「mobil ave」という「駅」についてです。
ネオはマトリックス世界と現実世界の境界にある「mobil ave」と呼ばれる空間に迷い込み、そこから出られなくなってしまいます。
ここでネオはとあるプログラムの家族と出会い、プログラムにもまた「愛」が宿るのだという重要な事実に気づかされました。
そんな物語のターニングポイントにもなる「mobil ave」ですが、まず「ave」というのは「avenue=通り」のこと指しています。
一方で「mobil」ですが、これは「limbo」のアナグラムではないかと言われていますね。
「limbo」は日本語で「辺獄」と訳されていて、「原罪のうちに(つまり洗礼の恵みを受けないまま)死んだが、永遠の地獄に定められてはいない人間が、死後に行き着く場所」を指しています。
とりわけイエス・キリストは一度死んでから復活するまでの間、この「辺獄」にいたと言われており、このコンテクストがネオに投影されているんですね。
⑨ネオとスミスはどんな関係性なのか?
『マトリックス レボリューションズ』のクライマックスを彩るのは、『ドラゴンボール』さながらのネオとスミスによるドッカンバトルです。
そもそもスミスが「エージェント」という立場から解放され自我を持つことができたのもネオの影響でした。
そして、解放されたスミスが『マトリックス リローデッド』にてネオの前に立ちはだかるわけです。
『マトリックス リローデッド』の中盤でアーキテクトがそんな2人の関係性に言及しており、ネオという存在が生じたことによる世界のバランスの乱れを調整するためにスミスが生まれたとされています。
つまり、ネオがマトリックス世界に生まれた「極端なプラスのアノマリー」なのだとすると、スミスはそれに呼応する形で生まれた「極端なマイナスのアノマリー」なのです。
こうして自由に行動できるようになった2人は正反対の行動を取るようになりました。
ネオの目的は機械による支配から人間を解放することである一方で、スミスの目的は機械と人間の全てを飲み込んで、自分の支配下に置くことでした。
2人はある意味で「現状の支配構造の打破」という同じゴールに向かって行動しているのですが、そのアプローチが全く異なるわけです。
そして、この違いが『マトリックス レボリューションズ』のクライマックスの直接対決の明暗を分けることになるのですが、これについては次の章でお話します。
⑩『マトリックス レボリューションズ』は結局どうなったのか?
『マトリックス レボリューションズ』はまさしくネオがアーキテクトないし機械たちと新たに「契約を結び直す」という形で物語の幕を閉じました。
まさに「旧約聖書」や「新約聖書」という言葉における「約」の部分は、「神と人間との契約」を表していますが、それに準えて新たな「契約」をもたらしたのが本シリーズだったわけです。
一方で、ネオとスミスの戦いのクライマックスを見ていく上では、「ニルヴァーナ(涅槃)」という考え方が欠かせないのかなと思います。
「ニルヴァーナ(涅槃)」は、煩悩の火が消え、人間が持っている本能から解放され、心の安らぎを得た状態のことを指し、仏教における「悟り」の境地であるとも言われていますね。
とりわけこの「ニルヴァーナ(涅槃)」において重要なのは、「境界」という概念だと言われています。
「自分」という感覚が変化していき、徐々に自他の境界が薄れていき、「自分」と世界を取り巻くあらゆる「境界」が喪失する境地を「ニルヴァーナ」と表現しても良いでしょう。
『マトリックス リローデッド』以来、スミスは自分の分身を物理的に増殖させ続けてきました。
これもまた、スミスなりの自分と世界の「境界」を無くすための行動なんですよね。彼は世界を全て「自分」に変えることで「世界」と「自分」の境界を無くそうとしたわけです。
しかし、それでは「ニルヴァーナ」には辿り着くことはできません。
なぜなら、「ニルヴァーナ」というのは煩悩から脱することであり、これは言わば「自分」から脱することでもあるからです。
よって、「自分」が「世界」との境界を無くすことでしか辿り着けない境地であり、スミスのアプローチでは不完全なんですよね。
だからこそ、ネオは最終的にスミスという自分と正反対の存在と融合することで、「境界」を喪失させ、完全な「ニルヴァーナ」の境地へと到達します。
この境地に辿り着くことこそが、ネオのゴールだったわけです。
『マトリックス』シリーズのディック的・仏教的・聖書的な世界観
ディック的世界観に裏打ちされた多層構造
『マトリックス』という作品は、今自分のいる世界であったり、自分自身の存在について疑いを投げかけ、脱構築していくというポストモダン思想に裏打ちされたSF作品と言うことができます。
こういった世界観の作品の先駆者として知られるのは、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』などで知られるフィリップ・K・ディックですね。
彼の作品には、多層世界や模造記憶、被創造物が創造主と対峙するといった展開や設定が多く盛り込まれており、これらは後世の作品に多大な影響を与えています。
例えばディックの小説の中に『時は乱れて』という作品があります。
これはディック作品の中で明確に「現実とは何か?」という問いが示された最初の作品としても知られています。
「模造記憶」を設定として持ち込んだ作品であり、主人公が日常生活の中でその些細なところに破綻のサインを見出していき、今自分がいる世界や自分自身の存在に疑いを投げかけていくのです。
そして、様々な実験と検証の中で主人公は世界の不確かさを認知していき、この世界がそれを望む人たちによって作られた「ただ一つの幸福な世界」でしかなかったことが明らかになります。
物語の後半には、その外側の世界で月面の植民地化を推進する「ルナティック」とそれに反発する人間たちによるの内戦が勃発していることにも言及されました。
人間が「模造世界」に閉じ込められ、「模造記憶」に洗脳されて生きているという世界観、さらにその外側で悲惨な「真実」が待っているという構図はその後のディック作品の根底をなすものです。
また、こうしたディックの作品構造を影響を受けて、ダニエル・F・ガロイが1964年に『模造世界』というSF小説を発表します。
この小説の原題は『Simulacron-3』であり、これはディック作品にしばしば登場する「シミュラクラ」の影響を受けたものであるとみて間違いないでしょう。
『模造世界』もまた多層世界を描いた作品であり、自分自身の存在に疑問を抱いた主人公が何とかして今いるよりも上位の世界へと脱出しようとするのですが、そこもまた現実なのか模造なのかは分からないというポストモダン的世界観に裏打ちされた内容になっています。
同作については、ドイツ映画界の巨匠ライナー・ベルナー・ファスビンダー監督が1973年に『あやつり糸の世界』として実写映画化していたことでも話題になりました。
こうした60年代、70年代にかけてディックの小説などを契機に流行した「模造世界」「模造記憶」のモチーフの多大な影響を受けているのが『マトリックス』という映画なのです。
面白いのが、『マトリックス』と同年にローランド・エメリッヒ監督による『13F』というSF映画が公開された点でしょう。
というのも、この『13F』は、ダニエル・F・ガロイが1964年に発表した『模造世界』を原作にした映画なのです。
しかし、『マトリックス』の大ヒットによって存在が掻き消され、主従が逆転し、あろうことか『マトリックス』のパクリ的な見え方になってしまったのは運命のいたずらでしょうか。
ぜひともこうした『マトリックス』に影響を与えたSF作品の源流にも触れていただきつつ、本作を楽しんでいただければと思います。
本作を支える仏教的世界観
これも有名な話なのですが、『マトリックス』には仏教的な思想が多大な影響を与えたと言われています。
では、具体的にどんな思想を影響を受けているのかを詳しく見ていきましょう。
まず、『マトリックス』の世界観そのものに影響を与えていると考えられるのは、「唯識」の考え方ではないでしょうか。
「唯識」というのは、webの辞書ではこのように定義されています。
一切の対象は心の本体である識によって現し出されたものであり、識以外に実在するものはないということ。また、この識も誤った分別をするものにすぎず、それ自体存在しえないこと。
(weblioより引用)
「唯識」の基本的な思想の1つに私たちが見ているのは、「心の中の影像」に過ぎないというものがあるのです。
例えば、あなたが目の前にあるトマトを「嫌いな食べ物」だと認識しているとしますよね。
でも、この「嫌い」という特性はトマトに内在している性質ではありません。あくまでもあなたの感情に由来するものであり、あなたがトマトに「嫌い」という印象や感情を投影しているに過ぎないのです。
私たちは、こうした「嫌いな食べ物としてのトマト」が自分たちの心の外側に存在していると思い込みがちですが、実はそれは自分の心の内側にあるものなんですね。
だからこそ、自分の深層心に「ヨガ」を通じて働きかけ、「心の中の影像」を変革させることで、自分の見える世界を穏やかなものにしていこうというのが「唯識」の教えだったりするわけです。
ここまで解説してくると、この「唯識」の考え方がかなり『マトリックス』の世界観や登場人物の行動の不覚に入り込んでいることが分かりますよね。
まず、本作の「マトリックス」という模造世界の一種は、実体がなく私たちがAIによって心象風景を可視化させられているものとして描かれています。
これは「唯識」の基本思想である「心の中の影像」を表現したものです。
また、『マトリックス』においては主人公のネオが「救世主」なのかどうかが1つの焦点として描かれており、それを心から信じているモーフィアスと懐疑的な周囲の人間、そしてまだそれを信じきれないネオという構図が見え隠れしています。
そんなネオが終盤にかけて「救世主」として覚醒するわけですが、彼が覚醒するのは自分を「救世主」だと「錯覚」したからなんですよね。
つまり、何者でもない自分を「救世主」だと心から信じることによって、「心の中の影像」としての自分を「救世主」へと変容させたというのが、ネオ覚醒の実態なのです。
また、『マトリックス レボリューションズ』までを概観すると、本作が「信じる」ことの物語であるという側面を見えてくると思います。
「信じる」ことで心の中に生まれたビジョンを世界に投影していくことで、世界や自分の在り方を変容させていく。信ずるものを現実のものへと変えていく。
つまり、『マトリックス』というのは、世界の「見え方」を変える物語なのです。
このように『マトリックス』やネオの一連の行動やシリーズ全体の物語に、「唯識」という思想が密接に関わっていることは自明です。
グノーシス主義との関連性
『マトリックス』は仏教的な思想の影響が強いという話をしてきましたが、もちろんキリスト教ないし聖書的な世界観からの影響も色濃く反映されています。
代表的な例を挙げると、ネオの名前「NEO」が「ONE」のアナグラムになっている点ですね。
聖書において「The One」と言えば、当然「唯一神」のことを指しますから、この名前はネオが救世主であるという設定を裏打ちするものでもあります。
他にも「オラクル」というキャラクターが出てきて、ネオやモーフィアスに「預言」を託しますが、Oracleはそもそも「預言、神託、託宣。神の言葉。または、それを受け取る人」を意味する言葉なのです。
また、ネオが救世主であるという預言に対する周囲の人たちの反応も、どことなく聖書におけるイエスに対する反応に似ているところがあります。
イエスを信じる人もいましたが、律法学者たちはイエスに疑いをかけ、糾弾し、最終的にはユダを「裏切り者」にする形で、イエスに「死」をもたらしました。
結果的に彼に懐疑的な視線を向けていた者たちの結託でイエスは十字架にかけられるわけですが、一度死んで「復活」します。これもネオの物語の中に組み込まれていましたよね。
他にも指摘できることは山ほどありますが、こうしたキャラクターの名前にも「聖書」からの引用が見られるわけです。
ただ、今作『マトリックス』に特に影響を与えているのは、キリスト教の中でもグノーシス主義と呼ばれる異端の派閥の思想であると言われています。
この思想がどれくらい異端なのかと言うと、彼らの聖典の中にキリスト教の聖典には含まれない「ユダの福音書」というものがあるくらいです。
そうです。あのユダです。この福音書はイエスを「裏切った」とされるユダが誰よりもイエスのことを深く理解し、彼のために行動していたという内容を記しています。
そして、このグノーシス主義の思想の中に、「反宇宙的二元論」という世界観があるのですが、実はこれが『マトリックス』の世界観に多大な影響を与えています。
この世界観を「反宇宙」そして「二元論」の2つに分解して、それぞれ説明してみますね。
まず「反宇宙」というのは、この「世界を凄惨で狂った世界=悪の宇宙」であると見なす考え方です。
グノーシス主義においては、私たちが今生きている世界を受け入れず、この世界が作られる以前に存在していたはずの「善の宇宙」へと解脱することを目指しています。
そして、この関連の中でもう1つの「二元論」の話が出てくるわけですね。
「二元論」というのは、グノーシス主義が「悪の宇宙」と「善の宇宙」の2つの宇宙があるとする立場を取ることを意味しています。
既存の宇宙やそれを作った神々、さらにはこの宇宙に蔓延する教義や教え(宗教)もまた悪であり、それらに疑いをかけることで「善の宇宙」への解脱を目指したのです。
こうした「脱構築的な」発想は、どこかポストモダン的と言えますね。
さらに、重要なのはグノーシス主義には、「肉体」と「イデア」ないし「霊」というもう1つの二元論が存在していることです。
「悪の宇宙」は物質によって構築されており、「善の宇宙」はイデアによって構築されているとされるため、グノーシス主義においては私たちの「肉体」は「悪」なんですね。
そのため、「悪」である「肉体」から解脱し、「善」ないし「真」である「イデア」を追求することが重要とされたわけです。
ここまで説明すると、何となく「グノーシス主義」と『マトリックス』の世界観の関連性が見えてきたのではないでしょうか。
『マトリックス』においてはAIによって作られた「悪の宇宙」の中で人間が培養され、発電のための奴隷にされている世界観が描かれています。
その世界では、AIによって疑似的に肉体と感覚を与えられ、人間はそれを「リアル」だと錯覚して生きているわけです。
しかし、その外側には「善の宇宙」ないし「真」の世界があり、そこでは人間が他でもない自分自身として生身の感覚と思考をもって生きています。
『マトリックス』における仮想世界に自分を捕えている「肉体」から脱して、「真の世界」へと至るという考え方そのものが実はグノーシス主義の教義に裏打ちされているんですね。
その他の聖書、神話、伝承的要素
ここまで聖書やグノーシス主義、仏教の教えなどに言及しながら『マトリックス』の世界観について解説してきましたが、もう少し細かな設定やキャラクターの名前を拾いながら、解説を加えていきます。
ネオとオラクル(預言者)については先ほど言及しましたが、実はモーフィアスとトリニティーたちの名前にも重要な意味が隠されています。
モーフィアス
「モーフィアス」というのは、ギリシア神話に登場する夢を司る神様として知られる「モルペウス」からの引用です。
「モルぺウス」は夢の中の世界に眠りについた人間を送り込み、夢の世界を構築する力があるとされていました。
本作「モーフィアス」はむしろ人類を「夢」から解放する存在ですので、そうした対極にいるキャラクターに「モルぺウス」由来の名前をつけているのは面白いですよね。
トリニティー
次の「トリニティー」ですが、これは「三位一体」を表しています。
「三位一体」というのは、キリスト教において次の3つが「一体=唯一神」とする考え方のことです。
- 父:父なる「神」
- 子:神の子「イエス」
- 霊:「聖霊」
この3つの要素が一体となることで、「神」を構成しているというのがキリスト教における考え方でして、それ故に聖画などではこの3つを表すアトリビュートを1つの画の中に収めていたりします。
『マトリックス』においては、モーフィアスが「父なる神」で、ネオが「子=イエス」であることからメインキャラクター3人が「三位一体」であるかのように解釈できるのです。
サイファー
また『マトリックス』において裏切者として登場したサイファーの名前と行動にも実は聖書的な世界観からの引用が見られます。
聖書ないしキリスト教的な世界観において、裏切者と言えば「ユダ」であるわけですが、彼はそんな「ユダ」に準えて描かれていると言えますね。
聖書の中にサタンという有名な悪魔が扱われていますが、このサタンが人間を堕落させるために用いるのが、人間の内側にある物質主義的な貪欲さです。
とりわけ肉体的快楽によってサタンは人間を罠にかけるケースが多く、『マトリックス』におけるサイファーが自身のマトリックス世界における快楽を優先するのは、ここからの引用でしょう。(ユダも銀貨30枚と引き換えにイエスを売り払いました)
また、サイファーの裏切りが判明するシークエンスの中に、彼がステーキを食べ、赤ワインを飲んでいる描写がありました。
これも実は「最後の晩餐」に関連した要素だと言われています。
というのも赤ワイン(葡萄酒)というのは、「最後の晩餐」でもイエスから弟子にふるまわれたモチーフであり、とりわけイエスの「血」や「犠牲」を表すアトリビュートなのです。
ネブカデネザル号
次に『マトリックス』シリーズ全体に登場するモーフィアスがキャプテンを務める「ネブカデネザル号」についてです。
この名前を聞いて真っ先に浮かぶのは、バビロン捕囚などで知られるネブカドネザル2世ではないでしょうか。
ネブカドネザル2世は、バビロニアの支配領域拡大に多大な貢献をし、とりわけエルサレムを属国にしたのは有名なトピックです。
つまり、機械に奪われた人間の領土を取り戻すという意味で、モーフィアスが船長を務める船に「ネブカデネザル号」と名づけたのであれば、しっくりきます。
さらにネブカドネザル2世で、エルサレム包囲が行われ、それに伴って旧約聖書の『列王記』、『ダニエル書』などでもお馴染みの「バビロン捕囚」が起き、ユダヤ人たちがバビロンへと連行されました。
なぜなら、モーフィアスがザイオンを真に自由な場所として人々を導くわけですが、そこでは機械たちの攻撃に怯える不自由な生活が待っています。
だからこそ、モーフィアスが取っている行動はある種の「バビロン捕囚」であり、そうした状況から、ネオが「出エジプト」の立役者であるモーセのように人々を解放するという流れが成立するのでしょう。
また、よく見ると「ネブカデネザル号」には、製造表記がなされており、そこに「MARKⅢ No.11」という記述があります。
『マルコによる福音書』は英語で「The Gospel of Mark」とも呼ばれますから、この製造表記は「マルコによる福音書の第3章11節」を指しているようにも見えるのです。
ということで、該当の記述を引用してみましょう。
また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った
(『マルコによる福音書』第3章11節より)
この一節には、偶然にも「神の子」つまりイエスについての記述があり、「あなたこそ神の子」ですという、『マトリックス』における「ネオが救世主だ」に通じる言葉がつづられていることが分かります。
このように「ネブカデネザル号」は人々をザイオンというある種のバビロンに捕囚する片棒を担ぎながらも、そこから人々を解放する「神の子=救世主=ネオ」を導く役割を果たすことが示唆されているんですね。
ザイオン
『マトリックス リローデッド』にてネオは初めて人間が所有する最後の領土でもあるザイオンに足を踏み入れました。
このザイオンというのは、おそらくSionやZionと表記される聖書に出てくる「シオン」と呼ばれる丘の名称からの引用でしょう。
シオンという丘は聖地エルサレムの南西部にあり、もともとエルサレムの町の中にあったエブス人の要塞の名前だったのですが、そこから転じて町の名前にもなりました。
この思想は、ユダヤ人たちがイスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようとする復興運動として知られています。
そして、この「シオニズム」の元ネタがエルサレムにある聖なる丘「シオン」なのです。
こう考えていくと、ザイオンという地名やそこに生きる人たちが人間の故郷を取り戻そうとしているという設定も見事なまでに繋がってきますよね。
また、ザイオンがエルサレムにリンクして描かれていることは、『マトリックス リローデッド』における一連の描写を見ても明らかです。
聖書においても有名な場面の1つがイエスによる「エルサレム入城」です。
イエスはエルサレムにて当初、熱烈な歓迎を受けるのですが、彼に懐疑的な視線を向ける勢力がいました。
それがパリサイ派のユダヤ人です。イエスはパリサイ主義を否定していたため、パリサイ派のユダヤ人たちは彼を救世主とは認めなかったのです。
この火種が後の磔刑へと繋がっていくわけですが、『マトリックス リローデッド』においてもロック司令官というネオを頑なに信じようとしないキャラクターが登場します。
また、彼がザイオンの評議員たちに取り入って、ネオを妨害しようとけしかけてくる描写も含めて、聖書の内容にそっくりなんですよね。
「6」という数字と愛のテーマ
『マトリックス リローデッド』の中でネオは「6番目の救世主」であることが判明します。
ここで「6」という数字をあえて出してくるのが、また面白いところですよね。
「6」という数字は有名な「獣の数字666」にも関連していますが、しばしば「7」との関連の中で語られます。
というのも、聖書の世界観において「7」は「神」を表す数字であり、「完全」を意味するものだからです。
なぜ、「7」が「神」を表すのかと言えば、これは言うまでもなく「天地創造」に関連しているからですよね。
神は何もないところから7日間で天地を創造したというのは、有名な話ですし、だからこそ「7」は聖書において重要なのです。
ここから、ネオは「6」番目の救世主であり、「7」番目ではないことが実は『マトリックス』において重要な意味を持っていることが分かります。
というのも、アーキテクトとの会話の中でも示唆されていたように、ネオはこの時点では「6」に象徴される「不完全な」存在であり、「7=神」になることができません。
彼は「1人では」この世界を救うメシアにはなれないのです。
この前提は、『マトリックス レボリューションズ』の終盤の展開へと繋がっていきます。
ネオは確かに1人では救世主になれません。だからこそ彼はトリニティーという愛する女性を伴ってマシンシティへと乗り込んでいくのです。
つまり、トリニティーが「+1」となり、ネオの「6」と合わさることで、彼は「7=神」となり、この世界のメシアとして君臨したんですね。
『最後の誘惑』というマーティン・スコセッシ監督の映画が有名ですが、イエスを人間的に描く際に、彼がマグダラのマリアと愛し合っており、磔刑に際して後ろ髪をひかれていたというエピソードが描かれることがあります。
しかし、イエスはそれを振り切ってたった1人でメシアになるわけですよ。
ただ、イエスと比べると、ネオは不完全な存在であり、だからこそ彼にはトリニティーとの「愛」が必要でした。
彼女の「愛」があったからこそ、ネオは「7=神」になることができたという『マトリックス レボリューションズ』のクライマックスの演出は、聖書的な世界観と本作のテーマ性が見事に融合したものだと思いました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『マトリックス4 レザレクションズ』についてお話してきました。
トリロジーとして完成されたものが既にある状況で、どうやって続編を作るのかとかなり疑問に感じておりましたが、なるほどそういうアプローチで来たか!と唸らされました。
『マトリックス』という壮大な「解放」の物語であることをベースとしつつ、そこにメタな視点を持ち込んで、キャラクターや物語そのものを「解放」していく手法は、シリーズ4作目にしかできなかった芸当だと思います。
また、ネオとトリニティーの描き方や序盤の劇中ゲーム『マトリックス』を巡る議論からも垣間見える通りで、本作はラナ・ウォシャウスキー監督の自己言及が全面に押し出された作品です。
とりわけ彼女が「トランスジェンダー」であること、姉妹(兄弟)で映画を撮ってきたことは今作の描写に多大な影響を与えています。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。