みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『コンフィデンスマンJP 英雄編』についてお話していきます。
ドラマシリーズ、ドラマスペシャルを経て、「ロマンス編」そして「プリンセス編」と2本の劇場版が公開されてきた紛れもない人気シリーズですね。
「ロマンス編」は興行収入は約30億円、続く「プリンセス編」はそれを上回るなど人気は留まることを知らないわけですが、今回の「英雄編」はシリーズの中でも特異な位置づけにある1本です。
なぜなら、ジェシー役の三浦春馬さん、そしてスタア役の竹内結子さんが死去された後に撮影された初めての『コンフィデンスマンJP』だからです。
そういう意味でも、どこか『ワイルドスピード7』を思わせるような作品になるのではないか?とも思っていましたが、脚本の古沢良太さんは見事な作品を作り上げてくれたと思っています。
彼は過度にそうしたコンテクストを作品には持ち込もうとせず、『コンフィデンスマンJP』シリーズの命題である「信じる」「騙す」という構造の中で2人に言及したのです。
「英雄」とは何か?というテーマを起点に、フィクションとは何か?虚構とは何か?という本質に迫っていき、最後にはそれを巡る「信じる」ことの力へと収束していく物語。
映画『コンフィデンスマンJP 英雄編』はシリーズの集大成的位置づけであり、同時に唯一無二の特別な作品だと言えるでしょう。
今回はそんな本作について自分なりに考えたことをネタバレになるような内容も含めつつお話していきます。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
映画『コンフィデンスマンJP 英雄編』解説・考察(ネタバレ)
お金と美術品にはなぜ価値があるのか?
(C)2022「コンフィデンスマンJP」製作委員会
さて、作品そのものについての話の前段として、少し一般論を語らせてください。
みなさんが普段当たり前のように使っている「お金」って、よくよく考えるとただの鉄の塊であり、ただの紙切れですよね。
しかし、それを使うと食べ物を購入することができ、電車に乗ることができ、そして映画館で映画を見ることもできます。
それは「お金」に価値があると「信じて」いる人が多いからなんですよね。だからこそ、通貨危機などによって「信じる」を失った通貨は価値を失っていきます。
有名な話だとハイパーインフレと貨幣を市場に供給させすぎたことによって、その価値が暴落したジンバブエドルが挙げられます。
また、今回の映画『コンフィデンスマンJP 英雄編』で登場した「美術品」もまた、「お金」に似た性質を持っていると言えるでしょう。
ドラマシリーズの第3話で「美術商編」が放送されましたが、このときは贋作を富裕層に高く売りつける城ヶ崎善三という美術商が登場し、ダー子たちの「おさかな」となりました。
「美術品」というものは、究極的に言えば紙とインクでできた物体であり、その限りにおいてピカソの描く絵と当ブログ管理人が適当に描いた絵の間に差はないんです。
ジャクソン・ポロックという画家が「ナンバー1A」という一見すると落書きのような作品を製作し、人々の関心を絵に描かれた事物ではなく、絵の材質そのものに向けさせようとしたのは有名な話ですね。
しかし、ピカソの絵画には天文学的な値段がつけられ、私が個人的に描いた絵画には何の価値もありません。
では、この差はどこで生まれるのかと言うと、やはり価値があると「信じる」人の数の差なんですよ。
このように、私たちの生きる社会においては「信じる」ということがどんなものよりも価値を持っているという見方もできます。
もっと言うなれば、「信じる」ことはそこに本来は存在しないものを生み出すわけです。そして、その1つに「価値」が含まれるわけですね。
『コンフィデンスマンJP』シリーズはまさしくこの「信じる」を利用したコンゲームをドラマシリーズ、そして3本の劇場版にわたって描いてきました。
そんなシリーズの最新作である映画『コンフィデンスマンJP 英雄編』は、より「信じる」ことが何を生み出すのか?について「フィクション」に絡めて深堀りした作品であると見ることができると個人的には感じています。
「フィクション」という虚構、観客の眼差し
(C)2022「コンフィデンスマンJP」製作委員会
『コンフィデンスマンJP』シリーズは、常にメタ的な視点、構造を持ち込んだ作品ではあると思いますが、今回はそこに明確に踏み込んだ印象を受けました。
例えば、このシリーズでは、物語の冒頭にテーマ曲が流れ、「コンフィデンスマンJPの世界へようこそ!」とキャラクターたちが挨拶をするのが通例です。
映画『コンフィデンスマンJP 英雄編』では、ダー子が本来キャラクターに聞こえていないはずのテーマ曲に反応し、挨拶の役割を果たす一幕が描かれました。
これは、彼女が本シリーズにおけるキャラクターであることに自覚的な様を表現していると言えますし、作品というフレームないし「第四の壁」を感じさせる演出でしょう。
それは、映画(=フィクション)と観客の関係性に言及するためだったと私は考えています。
そもそも映画(=フィクション)は作り物であり、虚構ですよね。
実在しない物語を人間の想像力が生み出し、あたかもそこに存在するかのように見せているわけで、これも言わば「騙す」という行為に近いのです。
しかし、映画はそれを見てくれる観客の存在無くして成立しない芸術であり、観客から眼差しを向けられることによって、初めて「フィクション」から「現実」の一部へと転じます。
そう考えたときに、映画(=フィクション)には、観客からの「信じる」によって成立しているという側面があることを指摘できますよね。
実は、劇中でダー子たちが繰り広げている「コンゲーム」ないし「詐欺」にも、こうした側面があることは否定できません。
彼らが詐欺師として暗躍し、大金を稼ぐことができる最大の理由は「騙される側の人間」が存在していることなのです。
誰もダー子たちに眼差しを向けず、そして彼女たちを信じようとしなければ、「コンゲーム」などと言うものは成立しようがありません。
それでも、彼らの「コンゲーム」が成立するのは、彼女たちを「信じる」人がいて、そして「騙される」人がいるからなんですね。
今回の『コンフィデンスマンJP 英雄編』では、ボクちゃんがそうした「観客」的な位置づけの立ち回りを見せてくれました。
劇中でダー子が言及していたように、今作におけるマルセル真梨邑をターゲットにした壮大な詐欺計画が成立したのは、本気で騙されていたボクちゃんの存在があったからです。
ボクちゃんが本気でマルセル真梨邑を信じ、そしてダー子を信じる。
「騙す」という行為に縛られないその屈託のない「信じる」ことの眼差しこそが、ダー子の計画に血を通わせ、実現へと導いたのです。
生田絵梨花さん演じる畠山麗奈邑が病院に運び込まれた際に、ボクちゃんは長方形の窓から彼女が治療を受ける様を見て感情を動かされます。
これは、アレゴリー化された「映画と観客」と見ることもできますよね。
長方形の窓は映画館のスクリーンそのものであり、その向こうにドラマがあり、手前には感情を動かされる私たち観客がいる。
今作におけるボクちゃんという存在の肯定は、『コンフィデンスマンJP』を見てくれる観客の存在の肯定にもリンクしているわけです。
そして、古沢良太さんは、このコンテクストをジェシーとスタアの描写に持ち込みました。
そこにいて欲しいあなたの物語を信じ続けて
(C)2022「コンフィデンスマンJP」製作委員会
『コンフィデンスマンJP 英雄編』では、三浦春馬さんが演じてきたジェシーと竹内結子さんが演じてきたスタアの存在を仄めかす描写が何度かインサートされていました。
彼らの物語は直接的に描かれることはありませんが、その軌跡は確かに『コンフィデンスマンJP』の世界の中で、彼らの物語が続いていることを感じさせてくれます。
そして、ここにこそ『コンフィデンスマンJP 英雄編』が映画(=フィクション)と観客の関係性にメタ的に言及してきた意義があるのです。
私たちは失われた命を取り戻すことはできませんし、だからこそ三浦春馬さんや竹内結子さんが生き返るなんてことは現実的にあり得ません。
その事実がひっくり返るなんてことは、どうしたってできないわけです。
しかし、これまでにも言及したように「フィクション」は観客の「信じる」「騙される」によって成立しているものですよね。
だからこそ、私たちは『コンフィデンスマンJP』の世界で、ジェシーとスタアの物語の続きを、彼らの存在を「信じ」続けることができます。
彼らがまだそこにいるのだと「騙され」続けることができるわけです。
『コンフィデンスマンJP 英雄編』は明確に彼らの姿を映し出したわけではありません。
彼らのトレードマークを断片的に映し出し、登場人物の会話の中でサラッと触れた程度でした。
それでも、当ブログ管理人も含めてこの映画を見た全ての人がそこに2人の物語があることを確かに「信じた」はずです。
映画のラストに、2年前に亡くなったとされる三代目ツチノコが「まだ生きている」かのように仄めかす描写がありました。
その真偽は分かりませんが、ダー子たちも残された「ミミズ」のマークに、亡き彼の存在を「信じた」はずです。
ここでもキャラクターと観客がリンクするようになっており、物語の空白に「そこにいて欲しいあなたの物語」を想像するという本作の演出意図が見えるようになっています。
『コンフィデンスマンJP』という「信じる」「騙す」ことを軸に据えて展開されてきたシリーズだからこそ、そのギミックをこのような形で用いた演出には思わず、涙腺を刺激されてしまいました。
今回のタイトルには「英雄」という言葉が使われています。
劇中でも言及されていたように、現代において「英雄」などという存在は成立し得ず、できるとしたら他でもないたった一人「あなたの英雄」になることだけなのだと思いました。
ダー子は、三代目ツチノコと出会い、そしてボクちゃんと出会い、リチャードと出会い、かけがえのない仲間たちと出会い、彼ら1人1人が彼女を孤独から救う「英雄」になってくれました。
出会いがもたらす救済。自分にとってだけの「英雄」。
きっと『コンフィデンスマンJP』というシリーズが、そしてそこに息づくキャラクターたちとの出会いが「救い」になったという人もたくさんいるはずです。
彼らが何かをしてくれたというわけではないかもしれませんが、辛いときに変わらずそこにいてくれた、それだけでも大きな「救い」になります。
だからこそ、本作には、作品がそしてそこに息づくキャラクターが観客全員にとってでなくとも、あなたにとっての「英雄」になれていたら嬉しいという作り手の「願い」が込められているのだと思いました。
「英雄」は存在しない。それでもあなたが「信じる」のであれば、あるいは「騙される」のであれば「英雄」もまた存在できる。
私たちは、この物語の空白に、まだ彼らがいると「信じ」て、そして「騙され」続けるのだと思います。
本作のラストで赤星が「騙される」ことに一抹の喜びを感じていたように、私たちもまた「騙される」ことにどこか心地良さを感じているはずです。
「信じる」ことは、そして「騙す」ことは「救い」なのだと、あるいは「祈り」なのだという『コンフィデンスマンJP』なりのメッセージに胸を打たれました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『コンフィデンスマンJP 英雄編』についてお話してきました。
脚本や演出の部分で洗練されていた前作と比べるとかなり、雑に見えてしまう部分はあるのですが、主題性やメッセージの部分があまりにも優れていて、それだけで高評価してしまうような、そんな映画です。
『コンフィデンスマンJP』としてジェシーとラン・リウの物語にどう向き合うかが今回の1つの命題になっていたと思いますが、このシリーズらしい描き方をしてくれたことに本当に感動しました。
あなたの「信じる」が、きっとこれからもダー子やボクちゃん、リチャード、そしてジェシーやラン・リウたちを物語の世界の中に存在させるファクターなのです。
だからこそ、私たちの眼差しがある限り、私たちからの「信用」がある限り彼らが「死ぬ」ことはなく、生き続ける。
劇中での彼らの役割が「詐欺師」であることを考えると、彼らを生かすのが「信用」というところも何だか運命的なものを感じさせるほどにリンクしています。
シリーズ第4作が作られるのかどうかは分かりませんが、個人的には今作が最終作になっても良いのではないかと思いました。
物語が「続く」予感に満ちた作品だからこそ、そこを「空白」のままにしておくこともまた、観客と映画の関係性なのではないでしょうか。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。