みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回は『ノイズ』についてお話していこうと思います。
『ノイズ【noise】』は『グランドジャンプ』にて2018年1月号から2020年4月号まで連載されていた筒井哲也さんによるマンガ作品です。
全3巻の23話構成となっており、サスペンスとしても異色の内容が注目を集め、マンガ好きの間でも高く評価されていました。
そして、今作が2021年1月に藤原竜也さん、松山ケンイチさん、神木隆之介さんらを主要キャストに据えて、実写映画化される運びとなりました。
原作を読んでいると、抜群のキャスティングとしか思えなくて、とりわけ神木隆之介さんが新人警官の守屋を演じるのは、完璧だなと感じております。
また、監督には『さよなら歌舞伎町』『ピースオブケイク』などで知られる廣木隆一さんが起用されていますね。
少女マンガの実写作品から、ピンク映画畑出身の監督ならではの視点で女性の性に着目したオリジナル作品まで数多くの映画を手がけてきた彼が今回挑戦するのはサスペンスです。
廣木監督にサスペンスのイメージがあまりないだけに、どういった視点で本作を映画化するのかには注目したいところですね。
今回の記事では、筒井哲也さんによるマンガについてお話しつつ、映画鑑賞後にはその比較や感想も綴っていきたいと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含みますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ノイズ』解説・考察(ネタバレあり)
本作『ノイズ』においては「隠す」ないし「嘘」が重要なものとして描かれています。
自分のためではなく、他人のためひいては自分の所属するコミュニティのためについた嘘が、次第に大きくなっていき、彼らの内面を腐敗させていく。
こうした状況を『ノイズ』は「イチジク」というモチーフを作品の中心に据えることで実に巧妙に描き切りました。
今回の記事では、そんな「イチジク」というモチーフの意味するものを当ブログ管理人なりに考えてみようと思います。
「隠す」という行為がもたらすもの
(C)筒井哲也/集英社
「人間は1日に200回嘘をつく」なんてことも言われますが、人間はとにかく本当のことを「隠し」て、嘘でごまかそうとすることが多い生き物です。
もちろん嘘にも様々な側面があり、自分のためにつくものもあれば、他人のためにつくもの、そして自分が所属している組織やコミュニティのためにつくものもあります。
今作『ノイズ』においては、主人公の泉圭太たちが死体を「隠す」という行為を通じて、嘘をつくわけですが、それは自分たちのためではありませんでした。
突き詰めると自分たちのためではあるのですが、それよりはむしろ妻や娘という他人のためであり、その先にある猪狩島のコミュニティのためのものでした。
一方で、サイコキラーとして登場する小御坂睦雄という男は、自分のために平気で嘘をつき、自己の本質を「隠す」人間として描かれています。
彼は自分が過去に犯罪を犯したという経歴を隠すために別人の名義を手に入れて、新しい人生を歩もうと試みました。
作品を鑑賞していると、泉圭太たちは「善」で、小御坂睦雄は「悪」だと感じる人も多いかもしれませんが、本質的には彼らは「隠す」という行為によって強く結びつけられています。
つまり、「隠す」という行為の目的や対象の違いはあれど、彼らは似たような人種として描写されているわけです。
本作の言葉を借りるならば、それこそが「ノイズ」なのだと思います。
「ノイズ」には直訳すると「雑音」「騒音」といった意味がありますが、そのコアを突き止めると「余分な情報」という原義に収束するのです。
また、心理学の世界でも「ノイズ」という言葉があり、それはコミュニケーションに際する様々な「ズレ」のことを指しています。
このように「ノイズ」には「余分な情報」「ズレ」という要素が内包されているわけですが、これがまさしく嘘や「隠す」という行為にもリンクしていますよね。
「隠す」は、外から見ている側と自分の内側に「ズレ」を生じさせる行為と言い換えることができますし、「嘘」は本来は存在しないはずの「余分な情報」で相手をけむに巻くことと捉えることができます。
例えば、島の人が殺人に関わったという真実が明るみに出てしまうと、猪狩島の黒イチジク産業にも多大な影響が出てしまい、そこに生きる人たちの生活にも支障をきたしてしまうでしょう。
こうした状況を避けるために、圭太は真実を「隠し」、その本質と外から見える島やそこに生きる人たちの姿の間に「ズレ」を生じさせました。
イメージと本質の「ズレ」としての嘘ないし「隠す」という行為は、確かに外から受ける視線をポジティブなものにすることができますし、真実から目を背けさせることができます。
しかし、それらが生じさせる「ノイズ」は消えることがなく、影のようにつきまとい続けるのです。
そして、その「ノイズ」は「隠す」が生み出すベールの内側にいる圭太や純たちの心をも蝕み、根を腐らせていきます。
こうした外面と内面のズレと対比こそが『ノイズ』の中核を成す要素であり、それを体現するモチーフとして「イチジク」が描かれていました。
次の章からは、「イチジク」というモチーフに着目して、本作を紐解いていきます。
「イチジク」が意味するものとは?
(C)筒井哲也/集英社
本作『ノイズ』において最も重要なモチーフの1つが、やはり「イチジク」です。
主人公の泉圭太たちは猪狩島で、黒イチジクという新しい品種の開発に成功し、それをきっかけとして島の認知向上、ふるさと納税による経済効果に貢献しました。
しかし、そうした「イチジク」による島の発展や経済効果が、圭太や純、警察官の守屋らの判断を狂わせてしまうのです。
彼らは猪狩島が今のように注目されるに至るまでの基礎を築いた苦労人であり、だからこそスキャンダルがそれを台無しにしてしまうことも肌感覚として悟っています。
そして、そうなってしまえば圭太の悲願である島への学校建設、その先にある妻と娘との同居という夢も叶わないものとなるでしょう。
つまり、多くの人はこの島の発展のために欠かせない黒イチジクのために、人を殺め、それに伴った誤った判断を下してしまったのです。
今作の舞台は警察の仕事もほとんどないようなのどかな田舎町であり、そこで起きる殺人事件にスポットが当てられます。
そんな田舎町の基幹産業として黒イチジクの栽培が行われているわけですが、これはどこか旧約聖書の「創世記」ないしそこで描かれるエデンの園を思わせる世界観ではないでしょうか。
日本ではアダムとイブが食べた禁断の果実をリンゴと認識している人が多いですが、キリスト教圏では「イチジク」であると認識されていることが多いと言われます。
これは、禁断の果実を食べたアダムとイブが恥じらいを知り、イチジクの葉で身体を隠したという描写に由来するものです。
そのため、聖書的な世界観においてイチジクは「羞恥」のシンボルであると同時に、「原罪」の象徴、ひいてはキリスト教そのものであると評されることもあります。
また、長閑な田舎で起きる殺人事件、そこからの隠ぺいという流れは同じく旧約聖書「創世記」で扱われているカインとアベルのエピソードを想起させますよね。
兄で農夫のカインが弟のアベルを嫉妬して殺害し、カインは当初ヤハウェに対して「弟の行方は知らない」と嘘の供述をしていました。
こうした旧約聖書のエピソードないしそこでの「イチジク」というモチーフの描かれ方が本作における「殺人」、そして「隠す」という行為にも通じているように感じられます。
また、新約聖書の『マルコによる福音書』には「イチジク」が登場する有名なエピソードがあるのをご存じでしょうか。
翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。
そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
(『マルコによる福音書』11章より)
このエピソードは、一見するとイエスが、実がなる季節ではないのにイチジクに実がないことに腹を立て、実がならないように呪ってしまったという横暴なエピソードに見えるかもしれません。
しかし、旧約聖書のコンテクストも含めて考えると、イチジクの木はユダヤ教と共に堕落した「イスラエルの民」の象徴なのです。
このイチジクの木は立派に茂っている一方で、肝心の実をつけておらず、この状況そのものが、外面は繁栄しているが、内面が伴っていないイスラエルの民(律法主義に固執している)の現状を表現しています。
また、対照的に、外側がザラザラとした無骨な皮に覆われ、内側が乳のような豊かで甘い果実になっているイチジクの実がキリスト教そのものとされるわけです。
『ノイズ』で描かれる猪狩島は、本来後者のように、外面としては全然認知もされていないけれど、穏やかで豊かなコミュニティだったと言えるかもしれません。
その一方で、黒イチジクにより発展した後、ないし事件が起きた後の猪狩島は、外面は立派な一方で、内面が腐敗したイエスの言うところの「イスラエルの民」のような状況に陥ってしまったと指摘できます。
こうした観点から見ても、本作の中心となるモチーフが「イチジク」であることには非常に深い意味があると考えられるのです。
失われた「イチジク」を取り戻すもの、愛と福音の到来
(C)筒井哲也/集英社
『ノイズ』においては1つの殺人事件を契機として、腐敗していく猪狩島やその隠ぺいに執心する人間模様が描かれています。
しかし、島の人間とりわけ圭太や純たちの行動は、外面を取り繕い、その内面を堕落させていく行為に他ならず、先ほども言及したようにイエスが批判した「イスラエルの民」のような状態に彼らを陥れてしまいました。
こうした行動は、外側の表皮が無骨ながらも、その内側に豊かで甘い果実を持つ「イチジク」というモチーフとは対照的であり、イエスによりもたらされる愛と福音から最もかけ離れたものであると言わざるを得ません。
圭太や純たちの計画は成功し、一時的にではありますが圭太が島の奥深くに隠れることによって、事件の真相をけむに巻くことはできました。
ただ、彼らの行動がもたらしたもやもやとした「ノイズ」は島を取り巻き、猪狩島の発展に影のようにつきまとい続けます。
そんな闇を打ち破るものとして『ノイズ』という作品は、1人の少女によってもたらされる純粋な「愛」を描きました。
圭太の娘である恵里奈は、失踪してからもどこかで自分の父親が生きていると信じ続けており、ひょんなことから彼の生存を知ります。
そうして自分の父に再会しようと山道を進んでいくわけですが、その過程で重傷を負ってしまい、命の危機に晒されるのです。
もし、圭太がこれまで通り島の外面を取り繕う一方で、内面の豊かさを放棄するのであれば、娘と言えど彼女を見捨ててしまうのが最良の選択でしょう。
そうすれば、彼の存在が明るみに出ることはなく、島の秘密は守られ続けるからです。
しかし、彼がもし内面の豊かさ、もっと言うなれば「愛」をまだ大切にするのであれば、外面を取り繕うことを諦めなければなりません。
『ノイズ』のクライマックスにおける圭太の決断は、まさしく外面の豊かさと内面の豊かさを天秤にかけるものとして描かれています。
そして、これは新約聖書の説話にもリンクしており、圭太や純の姿は、律法主義という外面に固執して、内面つまり宗教の本質を見失ったイスラエルの民に重なるわけです。
彼は、娘の恵里奈を助けるために、猪狩島の外面の豊かさを放棄するという決断を下したのです。
こうして「実のならないイチジクの木」になってしまっていた圭太や純、ひいては猪狩島に「イチジク=愛と福音」がもたらされます。
外面の豊かさを演出することが重要なのではなく、その内の本質を豊かにしていくことこそが何よりも大切なのであり、そうした内面の豊かさを娘への「愛」というカタチで圭太は取り戻すことができました。
本作『ノイズ』は、「イチジク」に準えて人間やコミュニティの豊かさを問う作品となっています。
そういう意味では、守屋真一郎の母が着ていた「ダウンジャケット」は1つ象徴的なアイテムと言えるかもしれません。
外面はボロボロですが、そこには大切な息子が買ってくれたという愛情が宿っており、彼女にとってはその「愛」こそが何よりも大切なものでした。
豊かさを取り繕うために、私たちが手放すもの、失うもの。そしてその歪さと不均衡がもたらすものとしての「ノイズ」。
人間の真の豊かさとは何だろうか?と、ぜひ本作を鑑賞して、思いを馳せて欲しいと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『ノイズ』についてお話してきました。
近年、配信サイトでオリジナルのマンガ作品が次々に配信されるようになり、マンガはその設定の奇抜さや過激さが重視される傾向にあります。
SNS上で流れてくるマンガの広告はどれも設定や描写が過激であり、ファーストインプレッションで読者の興味を引くことに重きが置かれていますよね。
そして、この『ノイズ』も、そうした外面の部分が過激で、見る人の関心を引くことに重きが置かれた作品の1つに思えるかもしれません。
しかし、本作は物語や設定、描写の過激さとは裏腹に、非常に深いテーマを持っており、その描き方も優れています。
つまり『ノイズ』という作品そのものが、劇中のテーマを体現するように筒井哲也さんは意識して設計をしているわけで、ここの巧妙さも本当に素晴らしいなと思いました。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。