【ネタバレ】映画『流浪の月』解説・考察:原作の「表情」を変えた李相日監督の10の魔法

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『流浪の月』についてお話していこうと思います。

話題になったこともあり、凪良ゆうさんの著した原作を偶然読んだのですが、実は当時はそれほど印象に残っていませんでした。

後ほど改めて書いていますが、かなり文体が軽めで、それが内容の重さとあまりかみ合っていないような印象も受けて、個人的にはそれほど刺さらなかったんですよね。

それ故に、今回の映画版は、映像のトーンや語り口がかなり重くなったことで、物語がよりストレートに伝わってくるものになったと感じています。

もちろん原作からいくつかのエピソードを削ったり、時系列を解体したりしているので、完全に原作を再現したというタイプの映画版ではありません。

しかし『流浪の月』という題材の真摯な映画化であることに疑いの余地はありませんし、個人的には作品の「表情」を確立させてくれていたという点で、原作よりも心に響いたような気がしています。

ぜひ、原作を読んだ人も、そして原作を読んでいない人にも鑑賞していただきたいです。

本記事では、そんな映画版の『流浪の月』について個人的に感じたことや考えたことを綴っていきます。

作品のネタバレになるような内容を含みますので、未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




映画『流浪の月』解説・考察(ネタバレあり)

今回は作品の中で、当ブログ管理人が特に印象に残った10の映像表現を取り上げて、それぞれについて解説していきたいと思います。

監督が李相日監督であることもそうですが、今作では撮影監督に『コクソン』『パラサイト 半地下の家族』などで知られるホン・ギョンピョが参加しました。

彼の撮る美しくも、どこか不気味さや不穏さを併せ持つ映像は、『流浪の月』という作品の表情を新たに作り変えたと言っても過言ではありません。

これは当ブログ管理人の個人的な印象ではあるのですが、凪良ゆうさんの原作は、内容の重さとは裏腹に、文体がかなりライトで、読みやすい小説になっているんですよね。

そのため、原作を読んだときは、率直に「ライトノベルっぽい」とすら思いましたし、物語をあまり「重く」受け止めることはありませんでした。

ただ、今回の映画版は、映像表現が加わることで、物語の重厚感が一気に増し、見ているだけで心が締めつけられて、苦しくなるような、そんな作品へと昇華しました。

なぜ、こんなにも作品の持つ「表情」が変わったのか。

映像表現を追っていく中で、その秘密に迫って行けたらと考えています。

 

①雨と傘、あなたがくれる居場所

©2022「流浪の月」製作委員会

本作は文と幼少期の更紗が出会う公園のシーンから始まります。

ここで、突然雨が降り始め、ベンチに座っていた更紗が背中を丸めて本を読んでいたところに、文がやって来て、傘を差し出すのです。

本作の物語の中では、しばしば雨が降るシーンがあります。

その中でも特に印象的なのは、やはり2人の出会いのシーンと、そして大人になった更紗が、文とあゆみの後をつけて、彼の自宅を訪れるシーンでしょう。

この2つのシーンは、明確に対比されており、共通点として文が女性に傘を差し出して、雨から守っていることが挙げられます。

しかし、前者において文に傘で守られているのが更紗である一方で、後者において、更紗は傘の外におり、彼の差し出す傘の下にいるのはあゆみなのです。

雨がこの世界の生きづらさを象徴するものなのであれば、傘はそんな世界の中に唯一の安息とそして居場所をもたらしてくれるアイテムであると読み換えることができます。

だからこそ、前者では、行き場のない更紗に対し、居場所を提供するのが、他でもない文であることが示されているわけです。

そして、対照的に後者では、傘の外側にいる更紗が、傘の下にいる文とあゆみを見つめる構図を取っています。

これは、更紗が、文が自分と離れたところで誰かと共にいられる居場所を見つけられたことを喜ぶ気持ちの表れであるとともに、傘の下にいるのが自分でないことに対する寂しさの表れでもあるわけですね。

このように『流浪の月』では、雨と傘、そしてその下に誰がいるのかという視覚情報だけで、登場人物の置かれている状況や心情を物語っているわけです。

 

②反芻される動線、「渡る」という行為

今作『流浪の月』においては、「渡る」という行為が何度も反芻されています。

最初に「渡る」が描かれたのは、冒頭の文と更紗が雨の町を歩いていくシーンであり、2人は傘をさして、流れの激しい川に架けられた橋を「渡り」ました。

塩田明彦氏が著した『映画術 その演出はなぜ心つかむのか』の中で、成瀬巳喜男監督の代表作の1つである『乱れる』における「橋を渡る」という動線の持つ意味について論じられています。

ここでは「橋を渡る」という行為が「一線を超える」こととして読み換えられ、映画の中では境界線を超える/超えないの動線が反芻されていることが指摘されていました。

『流浪の月』において、「渡る」という行為は文と更紗がお互いの世界を行き来するための行為として描かれていたように思います。

冒頭の描写では、世界に居場所を見出すことができなかった更紗が、橋を渡り、文の世界へと足を踏み入れることで、自分の居場所を見出しました。

大人になった更紗が、同僚と共に初めて文の働く喫茶店を訪れた夜も、更紗は橋を「渡って」います。

この動線が更紗とそして文の再会を予感させるものとして機能していることは言うまでもありませんよね。

そんな中で、亮との暮らしに嫌気がさし始めた更紗は、川の土手に佇み、川の向こう側の文の働く喫茶店を見つめます。

これは、更紗が今や文の世界の外側の人間であることを明確にする一方で、壊してはいけないと分かっていながらも、向こう側に「渡る」ことに心惹かれる彼女の心情を巧く表した視覚的演出です。

また、「渡る」という行為は後に別途解説を加えますが、横断歩道や隣り合わせの住居など場所を変えながら反芻されていきます。

とりわけ隣り合わせの住居、そしてそれを行き来する動線は、依然として境界線に隔てられたそれぞれの世界を2人が保ちながらも、それが限りなく接近している状況を表現しているのです。

2人はお互いを求めあいながらも、どこかで相手が長い時間をかけて作り上げた平穏を壊してはいけないという自制心を働かせています。

だからこそ、2人は完全には相手の世界へと「渡り」きらないのであり、自分の世界を維持したままで行き来するという体を取っているわけです。

そんな2人が再び共に橋を「渡る」のは、映画のクライマックスとなります。

これは、成瀬巳喜男監督の『乱れる』的な、「渡る」動線であり、まさしく2人が「一線を越え」て、1つの世界で共に生きていく決断をしたことを表したものです。

橋や横断歩道、そして隣り合わせの家など、今作においては、2つの空間とそれを繋ぐモチーフが何度も劇中で反芻され、同時にそれを「渡る」という行為に意味づけが為されました。

最終的に、2人が橋を「渡る」という行為に帰結するように、これらが計算されていたのだとすると、本作の視覚描写の積み重ねは非常に優れたものだったと言えるでしょう。



③横断歩道と点滅する信号

先ほど「渡る」という行為にフォーカスしてお話をしましたが、次にその「渡る」という行為の舞台となった横断歩道についてお話していきます。

横断歩道が登場するのは、更紗が雨の日の夜に文とあゆみが帰宅する後をつけていくシークエンスでした。

上空からの視点で横断歩道を捉えたカットとなっており、先に文とあゆみが歩いていき、その後に更紗が渡っていきます。

ただ、ここで注目していただきたいのは、横断歩道そのものではなく、信号です。

上空からのアングルになっているため、信号そのものはフレームに収められていないのですが、濡れた地面で反射して、信号の状況が分かるように撮影されています。

では、ここで質問です。

更紗が横断歩道を渡るとき、歩行者用の信号はどんな状態になっていたでしょうか?

当ブログ管理人が監督を務めていたとしたら、おそらく更紗が渡ろうとした瞬間に、信号が「赤色」になるという演出を施すと思います。

なぜなら、その先の領域は文がやっとの思いで作り出した平穏な世界であり、そこに彼女が足を踏み入れて壊すことは許されないからです。

そういう意味で、彼女の心と体を制止するものとして「赤色」の信号をフレームの中にあしらうのは、演出としても合理的だと思いますよね。

しかし、今作では「点滅する信号」が採用されているのです。

道路交通施行令では、点滅する信号について「歩行者は、他の交通に注意して進行することができること」と定められています。

「赤色」の信号であれば、横断歩道を渡ってはいけないということが明確なのですが、「点滅」という状態になっていることにより、渡ることに対する判断が更紗に委ねられているんですよね。

つまり、渡らないこともできるけれど、彼女の意志次第では渡ることができるという微妙な感覚とそこから生じる迷いが「点滅する信号」であれば表現できるのです。

細かい演出ですが、こうしたディテールへのこだわりが、本作の映像作品としての素晴らしさにつながっていることは間違いないでしょう。

 

④十字路と桟橋、迷いと行き止まり

先ほどは、横断歩道を話題にあげましたが、さらに道路に関連したモチーフに言及していきます。

李相日監督の作品でしばしば扱われるモチーフの1つに「十字路(あるいは交差点)」があるんですよね。

これは『悪人』『怒り』といった過去の作品でも登場しており、登場人物の迷いやどこへ向かったらよいのかが分からないという絶望感を表出させる舞台として機能します。

今回の『流浪の月』でも、この「十字路」のモチーフが何度か登場しました。

例えば、更紗が亮に暴力を振るわれ、血まみれになりながら、夜の街を歩いていくシーンで、彼女は「十字路」に差しかかります。

このシーンにおいて、「十字路」はまさしく彼女の心の「迷い」を表象するものとして扱われています。

更紗はどこにも居場所がなく、帰るべき家もなくなってしまいました。

そんな中で身を寄せることができるのは、文のところしかないと分かりながらも、その行動が彼に対して与える影響の大きさを彼女は知っています。

だからこそ、文の下へと向かう決断が容易ではなく、他の道がないかどうかを考えてしまうのですが、やはり彼女には文の下へ向かうしか道が残されていないわけです。

そして、この「十字路」のモチーフは、少し形を変えて別のシーンでも登場します。

それが、作品の中で何度も反芻された、幼少期の更紗と文が最後の時間を過ごした桟橋の場面なんですね。

©2022「流浪の月」製作委員会

今作に登場する桟橋は、「欠けた十字路」のような形をしており、2人が進むことのできる道が欠如している様が表れています。

桟橋には、前へと進む道がなく、その先に進むと水の中へと落ちていくだけです。

しかし、物語の終盤に、更紗はかつて2人が引き離されたあの桟橋を訪れ、水の中へと飛び込みました。

それは、彼女なりの覚悟の表れだったのだと思います。

あの頃の2人には、道を外れ、水の中へと飛び込むという選択がなかった、あるいはできませんでした。

だからこそ、あの桟橋は2人にとって「行き止まり」だったわけです。

しかし、大人になって再会した2人は、誰からも認められなくても、周囲に白い目で見られても、それでも2人でいるという選択ができるようになりました。

だからこそ、2人は長い年月を経て、行き止まりだったあの桟橋の向こう側に、自分たちの生き抜く術を見出したのです。

「流れるように生きていけばいい」という更紗の言葉からもわかるように、彼らは私たちの当たり前に縛られない生き方に、誰かに示された道を辿るだけではない自分たちだけの生き方に気づくことができたんですね。



⑤机に置かれる枝豆のさや、浮かび上がる亮の輪郭

ここで、少し話題を変えてみたいと思います。

みなさんは映画やドラマを見るときに、キャラクターの特徴や性格をどのようにして認識していきますか?

おそらく多くの人があまり意識せず、作品を見ているうちに自然と認識しているものだと思います。

こうした知らず知らずのうちにキャラクターの輪郭が見る人の中に出来上がっている作品は、優れていると言えますね。

以前に『騙し絵の牙』の映画版を見たときに、ひとつ興味深い描写がありました。

映画の冒頭に、主人公で、新人編集者の高野という女性が、送られてきた原稿にコーヒーをこぼしてしまいます。

彼女は咄嗟に「ごめんなさい!」と誰も見ていないのに、声に出したんですよ。

これについて同作の脚本を担当した楠野一郎さんがTwitterで次のように述べていました。

『騙し絵の牙』冒頭シークエンスで松岡さんがコーヒーこぼして原稿に対して「ごめんなさい!」と言うのはアドリブです。あれ自分も家で好きな本や円盤を床に落としちゃったとき思わず「ごめん!」って言っちゃう人間なので凄い解る。あれ一発で高野という人がどんな人なのか伝わってさすがだなあと

(楠野一郎(プロペラ犬)Twitterより)

キャラクターがどんな人間なのかって、物語の中でどんな役割を果たすのかよりも、実はこうした何気ない瞬間の中で形作られていくものなんじゃないかって、この時に思ったわけです。

さて、映画『流浪の月』に話を戻していきますね。

今回、私が取り上げたいなと思ったのは、更紗に暴力をふるうボーイフレンドの亮です。

とりわけお話したいのは、彼の初登場シーンなんですよ。

©2022「流浪の月」製作委員会

シーンの概要を説明しますと、亮が更紗の待つ家に帰宅して、ダイニングにやって来て、枝豆を食べるという、たったそれだけの描写です。

しかし、たったこれだけの日常の何気ない動作だけで、私たちは亮がどんな人間なのかを何となく察してしまうんですよね。

自宅に汗だくで帰ってきた亮は、ダイニングチェアの背もたれに自分が着ていたスーツのジャケットをかけます。

そして、テーブルに置いてあった枝豆を食べ始め、そのさやをテーブルの上に直に置くんですよね。それを見た更紗はさやを捨てる用の小皿を差し出しました。

この一連の行為がなぜ異様に感じられるのかと言うと、2人が暮らしている自宅がかなり整頓されていて、非常に美意識が高い人間が暮らしている空間に見えるからなんです。

亮の一連の行動は、そんな空間に矛盾する美意識に欠ける行為であり、それ故に、この生活を維持するために更紗が多くの我慢と負担を強いられている構造が透けて見えますよね。

また、枝豆のさやを机の上に直置きする行為は、物言わぬ更紗への圧力のようにも映ります。

なぜ、机にさやを入れる皿が出ていないんだという無言の圧力に感じられるわけです。

これが、後に判明する彼の暴力性の一端を表現していることは言うまでもありませんね。

亮が暴力的で、他人を支配しようとする人間であることは、後の過激な描写を見れば誰だって分かります。

でも、そこに至る以前の何気ない日常の中に、そうした暴力性につながるシグナルを忍ばせておくことで、キャラクターがどんな人間なのかという輪郭がよりはっきりとするわけです。

ぜひ、そうしたディテールに着目しながら『流浪の月』という作品を追いかけて見て欲しいと思っています。

 

⑥2つの時代をツナグ赤、衣服、ケチャップあるいは血

映画において、色という要素は非常に重要です。

ゲーテ『色彩論』などを絡めながら、色そのものが持つ意味について掘り下げていくのも1つの面白い作品の見方になります。

ただ、色というのは、視認性に優れ、観客に大きなインパクトを残すからこそ、色と劇中の何かを結びつけて表現するという役割を果たすことができるのです。

例えば、深田晃司監督の作品で、カンヌ国際映画祭である視点部門の審査員賞を獲得した『淵に立つ』という作品があります。

この作品では、平穏に暮らしていた家族の中に突然ノイズのように介入してくる1人の男を「赤色」と紐づけて描いていました。

元々は男が赤色の衣服を身に着けて登場したことに端を発するのですが、その出で立ちがあまりにも強烈すぎるがあまり、「男=赤」という構図が無意識のうちに脳裏に刷り込まれてしまうんですよね。

だからこそ、それ以降、男が登場しなくとも、画面の中に「赤色」が移りこんでいるだけで、その男の存在を感じさせられるという不思議な感覚に陥るのです。

話を戻していくのですが、実は『流浪の月』においても、この「赤色」が少し面白い使われ方をしています。

まず、物語の冒頭の公園での更紗と文の出会いのシーンにおいて、更紗の着ている服には「赤」があしらわれていました。

ここで、更紗に「赤」のイメージが何となくつくわけですが、その後にも、2人が食事をしているシーンで、彼女が目玉焼きにケチャップをかける描写があります。

©2022「流浪の月」製作委員会

ケチャップは言うまでもなく「赤」であり、ここでさらに彼女に「赤」のイメージが結びついていくわけです。

対照的に大人になった更紗を見ていくと、彼女はパート先の制服か、落ち着いた普段着、あるいはパジャマを身に纏っているのみで、そこに「赤」い服は登場しません。

しかし、大人になった彼女が再び「赤」い服を着る瞬間があります。

それが、二度目に文の働く喫茶店を訪れるシーンなのです。

©2022「流浪の月」製作委員会

ここで「赤」い服をチョイスした作り手のセンスには脱帽でした。

なぜなら、ここでの「赤」い服は、大人になってしまったけれど、文に自分が更紗であると気がついて欲しいという彼女の願いの表れになっているからです。

あの頃と同じ「赤」を基調とした服を着ることで、図らずも幼少期の自分のイメージを今の自分に重ねようとする彼女の繊細な心の機微が映し出されているんですね。

また、ケチャップは、大人になった彼女の血に通ずるところがあります。

幼少期に、彼女の口元についたケチャップを拭いた文は、大人になった彼女の口元についた血を拭います。

「赤」は生命の色とも言われますが、今作に限って言うなれば、血を強く想起させる色であり、とりわけ更紗の抱えた痛みを象徴するものに思えます。

だからこそ、そんな更紗の口元についた「赤い」ケチャップを拭う、あるいは「赤い」血を拭う文というキャラクターが、唯一彼女を痛みから解放できる人間であることを示しているともとれるわけです。

本作において、色はキャラクターと結びついて2つの時代を結びつける役割を果たし、さらには「赤=血=痛み」という連想から、更紗にとっての文の存在を表していました。

 

⑦なぜポーの詩集を読むのか、愛の対象と悲哀

『流浪の月』の中であるモチーフが何度もフレームの中に収められています。

それがエドガー・アラン・ポーの詩集であり、これは幼少期の文と更紗の間にも介在し、時を経て文と梨花の間にも介在しました。

もちろん、この詩集が文にとって重要なものであり、彼のパーソナリティを表現する上で重要な役割を果たしていることは言うまでもありません。

というのも、この詩集の著者であるエドガー・アラン・ポーもまた複雑な生い立ちを背負い、人とは違った「愛」を渇望し、孤独の中で創作に励んだ作家なのです。

ポーと言えば、『モルグ街の殺人』のようなミステリで名前を浮かべる人も多いかもしれませんね。

彼は女優エリザベス・ポーと俳優デイヴィッド・ポーの息子として生まれるのですが、まだ幼い頃に父が家を出て行ってしまい、その後の困窮の中で母は命を落としてしまいます。

そうして父だけでなく、母までも失ってしまった彼は、常に自分の母親の面影を追いかけ、相手の女性の中に「母」を見出そうとしました。

彼が書いた詩の中に『ヘレンへ』というものがあります。

これは、幼馴染の友人の母親であるジェーン・スタナードに対して書かれました。ジェーンはポーにとって初恋の人であり、彼は彼女の中に「亡き母」を求めたのです。

また、ポーは当時まだ少女(結婚当時13歳)であった従妹のヴァージニアに対して求婚を続け、結婚に至ったとされていますが、これは彼が彼女の中に「母」の面影を見ていたからだと言われています。

そんなヴァージニアは後に、彼の母と同じく結核を患い、若くして命を落としてしまいます。

これも、また数奇な運命なのですが、ポーは妻の死後、既婚の女性に何度も求婚するなど、激しい愛の渇望を見せています。彼が惹かれたのは、女性であり、「母」であることがこの顛末からも伺えますね。

つまり、ポーは幼少のころに得ることができなかった「母親からの愛」を他の女性に求めながらも、それが代替物でしかないと気づき、孤独に苛まれるという人生を過ごしてきたわけです。

『流浪の月』における文もまた得ることができなかった「母親からの愛」に飢え、それを心から渇望していた人間の1人ということができるでしょう。

文は幼少期に、庭に植えられた植木の中で最も出来の悪い1本を引き抜き、廃棄しようとする母親の姿を見て、男性としての機能が正常に発達しない自分が「捨てられるのだ」「愛されないのだ」という強迫観念を背負います。

それが根底にあって、彼は公園で雨に濡れる更紗に傘を差しだしたのだと考えると、少し違った側面から彼の行動を捉えることができるんですよね。

文は「幼児性愛」というよりはむしろ、自分と同じように「親からの愛」を得られていない人間に救いの手を差し伸べ、愛を注ぐことで、愛されなかった自分自身を救済しようとしているのです。

これこそが、本作の終盤に訪れるエモーショナルな瞬間の背景にある感情なのだと私は考えています。



⑧梨花と更紗、文はなぜ叫んだのか?

本作において最もエモーショナルな瞬間、キャラクターの感情が溢れ出すシーンと言えば、やはり寡黙な文が警察に連れていかれる梨花を見て、声を荒げる一幕でしょう。

なぜ常に落ち着いていて、心が凪いでいるような彼が、あれほどまでに感情をむき出しにしたのでしょうか。

まず、文があの時連れていかれる梨花の姿に重ねていたのは、桟橋で引き離されていく更紗の姿であることに間違いありません。

更紗があれだけ文を求めてくれていたのに、ただ立ち尽くすしかできなかったこと。手を伸ばしてあげられなかったこと。

そんな経験に由来する深い後悔が前提として存在しているからこそ、彼は梨花に手を伸ばすことで、あの時手を握り続けられなかった更紗に手を伸ばし、彼女を繋ぎとめようと試みるのです。

加えて、先ほどまでもエドガー・アラン・ポーの生い立ちを引き合いに出しながら述べたように、文というキャラクターは「母親からの愛」に飢えている人物として描かれています。

そして、彼は自分と似た境遇にある更紗に愛情を注ぐことで、間接的に愛されなかった自分を救済しようとしているのです。

回想シーンの中で、彼が更紗の食べているピザを食べて子供のような笑顔を見せたり、彼女の横に座ってアイスクリームを食べたりするシーンがありました。

彼が更紗と同じ行動を取る中で、子供のような仕草を見せるこれらの描写は、彼が更紗に自分を重ねている証左です。

更紗が文から注がれた疑似的な「親からの愛」を、自らが追体験することで彼は「親からの愛」を知ろうとしているわけですね。

そう考えていくと、彼が警察に連れていかれる梨花に重ねているのは、かつての更紗であると同時に、過去の自分自身なのかもしれません。

更紗や梨花を連れていく警察官たちの姿はどこか、庭で出来の悪い植木を引き抜いて持ち去る母親の姿に重なるものがあります。

彼が連れて行かないで欲しいと懇願したのは、梨花であり、桟橋での更紗であり、出来の悪い植木であり、そして愛されなかったかつての自分自身なんですね。

『流浪の月』は映像表現の積み重ねの中で、時間軸を超えて、多くの人物やモチーフをリンクさせ、そして文の感情が溢れ出すあの一瞬にその全てを結実させています。

なぜ、彼が出会ってまだ間もない梨花にあれほどまでに感情をむき出しにしたのか。

その背景が映画の中で時間をかけて、じっくりと描かれているのです。

 

⑨寝室からの視線、寝室への視線

最後に本作のタイトルにもなっている「月」というモチーフについて解説をするのですが、その前に少しだけ、本作の印象的なカメラワークについて触れておきたいと思います。

この映画は、観客の視線の誘導の仕方の面で非常に優れた作品です。

例えば、作品の序盤に更紗がファミレスで働いている日常を映し出すシーンがありましたが、ここも何気ないんですが、すごく観客の視線を意識して作ってあります。

まず、過去の桟橋での文と更紗の一件についてのニュース映像が流れていて、それが高校生のスマートフォンに表示されているものだと明かされます。

そのニュース映像の中に「家内更紗」という名前を出しつつ、その横を店員として働く1人の女性が通りすぎていくんですが、彼女の胸のネームプレートには「家内」という苗字が書かれているのです。

特に説明を加えるでもなく、観客の視線が自然と「家内」という文字列に向くように設計されており、スマホの画面に移る少女とファミレスの店員として働く女性が同一人物であることが瞬時に認知できます。

「数年後」などというテロップを表示して、時間軸をジャンプすることは映画やドラマでよくありますが、本作は視覚情報の提示の巧みさによって、自然と観客を回想から現代へとタイムスリップさせてみせたわけです。

こうした観客の視線を意図した順番と方向に向けさせる技術の高さに唸る瞬間が、この映画の中には何度もありました。

その中の1つが、文とあゆみが自室で、キスをしながらも行為に至らず微妙な空気が流れるシークエンスです。

©2022「流浪の月」製作委員会

このシーンの何がすごいって、視線が向けられる対象の側の寝室からショットでシークエンスが始まる点なんですよね。

あゆみが寝室で文と男女の関係を持つことを渇望しているという状況を、私が映像で表すとしたら、ダイニングに置いたカメラを軸に、フレームの中に寝室を収めて、そちらに向けられた視線を意識させるような演出を考えます。

もしくはちらちらとあゆみに寝室に視線を向けるような仕草を取らせるかですね。

分かりやすい演出ではあるんですが、少しフィクショナルな印象を強めてしまう気はします。

だからこそ、この『流浪の月』のカメラワークが担保した「自然さ」に驚かされました。

文とあゆみはダイニングにいるのですが、ダイニングの空間に向けて寝室からカメラを向けているわけですが、このショットは寝室の「空白」を強調しています。

私たちは「空白」を見ると、そこに何かが「欠けている」と認識する傾向があり、ここでは本来ベッドにいるべき文とあゆみがいないと認識するように仕向けられているわけです。

その「空白」を先に観客に認識させることによって、文とあゆみのダイニングでのやり取りにおいて、フレームの中に寝室を介在させずとも、彼らの意識の対象が何なのかがはっきりしています。

また、これも巧いなと思ったのが、あゆみの誘いに応じない文を映し出した後に、カメラがゆっくりと向きを変えて、寝室の方を映し出していくんですが、陰になっていて、そのショットだけでは、陰の向こうにある空間が何なのかが認識できないように作られているのです。

しかし、シークエンスの最初に寝室からのアングルが提示されていることによって、私たちは陰に閉ざされた空間が寝室であることを認識しています。

よって、2人にとっての寝室へと続く道が暗く閉ざされたものであるという事実が浮かび上がり、彼らが男女の関係になることの困難さが視覚情報から推察されるわけです。

寝室からの視線を先に提示し、その上で寝室への視線を陰で遮るという手順を踏むことで、文とあゆみの意識がどこに向いていて、2人がどんな問題を抱えているのかが仄かに浮かび上がるようになっており、故にセリフで多くを語る必要がないんですね。

こうしたカメラワークやアングルの妙で魅せる演出は、映画の醍醐味とも言えるものだと思います。

 

⑩太陽と月、この世界での存在を赦されること

最後に『流浪の月』という作品のタイトルにも入っている「月」が意味するものについてお話していきます。

「月」は視覚的なモチーフとしても作品の中で何度もインサートされ、それがとりわけ太陽と対比されながら描かれていたことは明らかですね。

太陽は、恒星であり、自らが自発的に光を発して輝くことができます。

それとは対照的に月は、自らが自発的に光を発することはできず、太陽に照らされることによって、夜の空で輝くことができる衛星です。

それ故に太陽が当たらなくなる時期が定期的に訪れ、それが「新月」とも呼ばれるわけですが、その期間、私たちは月の存在を認知することができません。

つまり月は、世界に存在するために、太陽の光を必要としているわけです。

こうした月というモチーフが背負った宿命は、本作のキャラクターである文や更紗に投影されているように感じられます。

文は母親からの愛を受けられず、自身を「失敗作」であると卑下し、居場所を見出すことができずに生きてきました。

一方の更紗もまた、両親と別離し、親戚の家に預けられると厄介者扱いされ、さらには従妹に性的な嫌がらせを受けるなどし、息を殺して生きてきました。

2人はこの世界に居場所を見出すことができず、この世界に存在することが赦されていないのだと考えていたのです。

だからこそ文は更紗と、そして更紗は文と出会うことで、初めてお互いの存在を認め合い、この世界に居場所を見出し、存在することを赦されたと感じたのかもしれません。

©2022「流浪の月」製作委員会

そんなお互いが存在するために、お互いが必要な文と更紗の関係性を評する言葉として本作はタイトルに「月」という言葉をあしらったのではないでしょうか。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『流浪の月』についてお話してきました。

原作ももちろん優れた作品なのですが、個人的には物語と語り口のトーンがかみ合っていた映画版の方がグッときたなと感じています。

そして、それを支えたのは李相日監督の魔法とも言える視覚的な演出の連続であり、ホン・ギョンピョの撮る重厚感のある美しい映像なのでしょう。

「神は細部に宿る」なんて言葉もありますが、やはりディテールが優れている映画は、全体として見ても完成度が高いものです。

『流浪の月』は細やかなディテールへのこだわりの連続により構成されており、それが作為性を感じさせることなく、自然に続いていく奇跡のような映像作品だと思っています。

李相日監督の映画をこれまでにもいくつか鑑賞してきましたが、その中でもずば抜けたクオリティであると断言できます。

ぜひ、多くの人に劇場で鑑賞していただきたいです。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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