【ネタバレ考察】映画『FLEE』アニメーションにしか成し得なかった、記録から記憶への昇華

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回は映画『FLEE(フリー)』についてお話していきます。

本作はドキュメンタリー映画でありながら、その表現の手法としてアニメーションが選ばれたことでも話題になった作品です。

アニメーション表現が選ばれた理由としては、やはり制作上の配慮も大きいのだとは思います。

というのも、本作の主人公である「アミン・ナワビ」という青年は、彼の身の安全等のことも鑑みての「仮名」であり、それ故に一般的なドキュメンタリー映画のように彼自身の姿を映し出すことができません。

ナガ
そんな中で、ドキュメンタリー映画を成立させる1つのアプローチがアニメーションだったわけですね。

ただ、映画を見ると、単に実写映像が使えないからという受動的な理由でアニメーション表現が選ばれたわけではないことは明白です。

むしろこのドキュメンタリー映画はアニメーションだったからこそ成立したのではないかとすら私は思っております。

既に世界各国で公開された『FLEE』は世界中で高い評価を獲得しており、アヌシー国際アニメーション映画祭では長編作品賞、デトロイト映画批評家協会でのドキュメンタリー作品賞などを受賞し、アカデミー賞にも3部門でノミネートされました。

なぜ、ドキュメンタリー映画としても、アニメーション作品としても高く評価されたのか。

それは手段と目的が密接に結びつき、それぞれの良さが引き出され、効果的に機能したからに他なりません。

今回の記事では、ドキュメンタリー映画として『FLEE』がアニメーションという表現抜きに成立しえなかったわけを、自分なりに考えてみたいと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含みますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




映画『FLEE』考察(ネタバレあり)

「語る」が導く心の解放のプロセス

©Final Cut for Real ApS, Sun Creature Studio, Vivement Lundi!, Mostfilm, Mer Film ARTE France, Copenhagen Film Fund, Ryot Films, Vice Studios, VPRO 2021 All rights reserved

映画『FLEE』は89分と比較的短めの作品なのですが、一切の無駄がなく、非常に濃い内容に仕上がっています。

作品は、主人公の「アミン・ナワビ」という青年による回想劇の形を取っています。

彼がどのような経緯で祖国を離れ、今の生活に至ったのかにスポットを当てながら、彼が獲得した肉体的な自由を描くわけです。

その一方で、そうした彼の回想劇が、インタビュアーと「アミン・ナワビ」の対話として展開され、ある種のカウンセリングないし告白のような体を成しているんですよね。

つまり、彼が如何にして肉体的に解放されていたのかを開示するプロセスが、そのまま彼の心の解放に繋がっていくという二重性を帯びているわけです。

そのため、過去の時間と今現在の時間の両方に主人公のドラマや変化が映し出されており、しかもそれが同時進行で描かれていくので、内容の密度が高くなっています。

アミンはアフガニスタンで生まれましたが、内戦により故郷を離れざるを得なくなり、その結果としてロシアに亡命し、さらにデンマーク、スウェーデンへと亡命を続けました。

この過程の中で、彼は肉体的な自由を獲得することには成功していると言えます。

警察に不当な扱いをされることもなく、住む場所が不安定ということもなく、安定した生活を送れているわけですから、そこに疑いの余地はありません。

しかし、彼はずっと心を捕らえられたままなのです。

家族の犠牲の上に成立している今の自分の幸福や安定、そして亡命のプロセスの中で潜り抜けてきた数々の凄惨な光景、明かすことのできない自分の本当の出自や家族構成。

彼は肉体的に自由になりながらも、数々のしがらみに雁字搦めにされ、今もその心は解放されずにいます。

だからこそ、彼は家族のことについて話すことを躊躇い、亡命の中での悲惨な経験を話すことに苦痛を覚え、さらには家族のために自分が成功しなければという考えに支配されているのです。

それでも、彼は友人であるインタビュアー(監督)に自分の過去を話していくうちに、徐々に心を開き、本当の出自や家族のこと、自分が経験した悲惨な出来事についても開示していきます。

その中で見えてきたのは、アミンが「自分の人生を本当の意味でまだ始められていなかったこと」なのかもしれません。

彼は「語る」ことで、少しずつ自分の心の柵を取り除いていきます。

語れば語るほどに、心は軽くなり、彼はようやく自分の人生のスタート地点へと辿り着きました。

家族のためではなく、哀れな難民としてでもなく、密入国業者が設定した偽りの出自に固められた自分としてでもない、自分自身として。

本作のラストでは、アニメーションで描かれた彼の新居の風景が実写映像に転じていきますが、これは、彼に「アミン・ナワビ」という偽名が必要なくなったことの証左なのかもしれません。

美しい緑に満たされた、穏やかな昼下がりの庭が、いつか彼の「故郷」になって欲しいと、そう願わずはいられない、「心の解放」の予感を漂わせる幕切れになっていたと言えるでしょう。

本作の製作総指揮を担当したリズ・アーメッドはインタビューでこう語りました。

「物語を語るという行為そのものが希望に満ちた行為だと感じている。それは意味を見つける試みなのだ。」

「そして、あなたの経験を共有することは、希望に満ちた行為である。なぜなら、人々がそれにつながることを期待して、それを外に出しているのですから。」

本作はこの言葉通り、「語り」を通じて、主人公が心を解き放つ過程を描いています。

そして、その先にあるのは、鑑賞した我々との「つながり」なのです。

「語る」行為を通じての自己の解放、そして生まれる他者との、鑑賞する我々とのつながり。

私たちはこの映画を見終えた今、ほんの89分前には名前も知らなった「誰か」が確かに今自分が生きている世界の一部であると知覚しています。

これこそが「語る」ことの意義であり、そして映画が作られることの意義であり、さらに『FLEE』を日本に生きる私が見る意義なのだと深く考えさせられました。



「記録」を「記録」へと昇華させたアニメーションの魔法

©Final Cut for Real ApS, Sun Creature Studio, Vivement Lundi!, Mostfilm, Mer Film ARTE France, Copenhagen Film Fund, Ryot Films, Vice Studios, VPRO 2021 All rights reserved

では、ここからは本作がアニメーションという手法を選択した理由とその効果について自分なりに考えていきたいと思います。

そもそも、本作においては主人公のモデルとなった人物の匿名性が担保されることが重要だったと監督自身も語っており、それがアニメーションという手法が選ばれた大きな要因の1つであることは言うまでもありません。

しかし、それだけが本作がアニメーションで作られた理由ではないと思います。

ドキュメンタリーという言葉を辞書で検索してみますと、「(主に社会的な事件に関して)虚構(フィクション)を加えずに事件の実際の記録に基づいて構成した、記事・小説・映画・放送番組など。」という意味が出てきました。

この言葉からも分かるようにドキュメンタリーというジャンルにおいては、「虚構を加える」ということが原則としてできません。

ナガ
虚構を加えてしまうと、いわゆる「伝記映画」の趣に近くなってしまうからですね。

そして、これがドキュメンタリーというジャンルにおいてアニメーションという手法が選びづらい、これまであまり選ばれてこなかった理由の1つにもなっています。

アニメーションは基本的にアニメーターが作画をして作り上げた創作の世界であり、仮にロトスコープ等の手法を活用したとしても幾ばくかの嘘を現実に対してつくこととなるのです。

つまり、アニメーションにしてしまうと、どうしてもドキュメンタリーの特長である写実性やリアリティを担保しづらくなってしまうんですね。

そのため、ドキュメンタリーでは、実際に撮影をした実写映像、とりわけ様々なメディアの記録映像を編集で繋いでいく手法が一般的になっています。

ナガ
ただ、この手法にも弱点はあります。

今作『FLEE』のような回想劇の場合、均質に記録映像を繋いでいくだけだと、すごく淡白な物語になってしまうのです。

何が言いたいのかと言うと、回想の主体(今作であればアミン)が、それぞれの記録に対してどんな印象を持っていて、どんな温度感を抱いていて、どんな距離感を取っているのかといった感情の部分が抜け落ちるんですよね。

もちろん、ドキュメンタリーでは回想の主体による語りによって、それらの情報を音声情報として補完するわけですが、映像メディアとして最適な手法とは言い難いものがあります。

しかし、アニメーションであれば、映像のトーンや表現の手法を自由に選択することができますよね。

つまり、映像のトーンや色温度、質感、筆跡などを使い分けることで、主人公の感情というフィルター越しのヴィジョンを共有することができるのです。

これによりドキュメンタリーという「記録」の連続は、回想の主体のフィルター越しの「記憶」の連続へと昇華します。

例えば、主人公が亡命を試みるシーン1つとっても、彼が母と兄と雪原を経由して、ボロボロの船で逃げ出すシーンの映像は暗く冷たいトーンで演出されています。

一方で、彼が片思いをしていた男性と車の後部座席に乗って亡命するシーンは、夜の映像でありながら、仄かに明るく温かいトーンで仕上げられていました。

©Final Cut for Real ApS, Sun Creature Studio, Vivement Lundi!, Mostfilm, Mer Film ARTE France, Copenhagen Film Fund, Ryot Films, Vice Studios, VPRO 2021 All rights reserved

これにより、2つの思い出に対して、現在の主人公がどんな感情を持っていて、どんな意味を持っているのかが透けて見えるんですよね。

グラフィックノベル、墨絵、スケッチ、線描画などのさまざまな表現を使い分けることで、主人公の「記憶」に対する感情を浮き彫りにしたのです。

©Final Cut for Real ApS, Sun Creature Studio, Vivement Lundi!, Mostfilm, Mer Film ARTE France, Copenhagen Film Fund, Ryot Films, Vice Studios, VPRO 2021 All rights reserved

そして、ここにこそ本作がアニメーションで作られた意味があったのだと私は感じています。
製作総指揮を務めたリズ・アーメッドはインタビューでこう語りました。

This is a roughly eight-year process of two friends who have known each for 25 years opening up to each other for the first time.

https://www.indiewire.com/2022/01/riz-ahmed-nikolaj-coster-waldau-flee-interview-1234693781/

この映画は、監督であるヨナス・ポヘール・ラスムセンと彼の友人の25年来の友情の上に成り立つ映画でもあります。

「記録」映画としてのドキュメンタリーではなく、友人の「記憶」の映画としてのドキュメンタリーに。

そんな作り手の願いが、アニメーションという手法により、最適な形で結実したのだと、そう感じています。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『FLEE』についてお話してきました。

ナガ
アニメの表現の可能性を模索した1本だったと感じました!

ドキュメンタリーと言うと、突然知らないインタビュアーがやって来て、カメラを置いて「さあ、話してくれ!」というようなシチュエーションを想像するかもしれません。

現に、そうした類のドキュメンタリーが多いのは事実ですが、本作は監督と25年来の友人である主人公が初めて自分について「語った」瞬間を作品にしたものです。

そう考えると、本作は主人公のアミンの「記憶」の物語であると同時に、監督と彼の友情の「記憶」の物語でもあるのだと思います。

だからこそ、本作は単なる「記録」ではなく、もっと温かみのある、そして血の通った「記憶」でなければならないのです。

『FLEE』の現在パートの映像には、そんな監督の「アミン」に向けられる温かな眼差しが乗り移っているかのように感じられます。

「記録」を「記憶」へと昇華させる。

アニメーションでドキュメンタリーを語る意義を強く感じさせる力作でした。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

関連記事