みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね、現在ディズニー+にて配信中の映画『プレデター ザプレイ』についてお話していこうと思います。
『プレデター』と言えば「アーノルド・シュワルツェネッガーがプレデターとジャングルで戦う」あるいは「エイリアンとプレデターが戦う」といったイメージを持っている人が大半なのではないでしょうか。
アクションが主体で、ローコンテクストなポップコーンムービー、それが『プレデター』シリーズなんだと考えている人がいても無理はないでしょう。
とは言え、そうしたある種の「大味さ」で多くのファンを獲得してきた映画であることも否定できません。
登場人物たちのぶっ飛んだキャラクター性や行動、そして敵対するプレデターのトンデモ兵器や戦法の数々、そしてエイリアンと戦うという異種格闘技的な要素。
映画においては「緻密さ」が高く評価するうえでの1つの基準にはなりますが、『プレデター』シリーズはあえて「緻密さ」を切り捨て、ある意味で「隙」だらけの映画を作ることで、そこにファンが愛くるしさを感じるような作りにしてきました。
そんな中で先日配信開始された『プレデター ザプレイ』は、これまでのそうした『プレデター』シリーズとのギャップがあるからこそ光る作品でもあります。
これまでのような「大味さ」が一切なく、プレデターと人間による「狩るか狩られるかの戦い」以外の要素を極限まで削り落としたシンプルでかつ洗練された作りなのです。
『プレデター』シリーズは、アーノルド・シュワルツェネッガー主演のオリジナル版を超えようと、クリエイターたちが「さまざまな味つけ」を施してきました。
エイリアンと戦わせたら面白いんじゃないか?とマヨネーズをかけてみたり、プレデターの数を増やしたら面白いんじゃないか?とチリソースをかけてみたり、ゴア描写を際立たせればいいんじゃないか?とケチャップをかけてみたりしたわけですよ。
そして、今回の『プレデター ザプレイ』の味つけは言わば塩、藻塩です。
プレデターというモチーフをあれこれ味つけしてみたけれども、塩で食うのが一番美味いんじゃないか?という境地に達したのが今作なんです。
ぜひ、そんなこれまでの『プレデター』シリーズとは異なる、緻密で繊細な素材の味を生かした作りを堪能していただきたいと思います。
今回の記事では、そんな『プレデター ザプレイ』の素晴らしさを自分なりに掘り下げて考えていきます。
ここからの内容は記事の都合上、作品のネタバレになるような要素を含みますので、未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『プレデター ザプレイ』解説・考察(ネタバレあり)
プレデターの美学と女性の物語の両立
©2022 20th Century Studios
まず、プレデターは無差別に敵を攻撃するモンスターではないということを最初に確認しておきましょう。
「名誉なき者は一族にあらず。そして名誉のために戦わぬ者に名誉はない。」という言葉がプレデター一族の信条であるわけですが、彼らは基本的に「強い者」しか狩りの対象にしません。
「強い者」という解釈は社会や時代によって変化するものだと思いますが、過去の『プレデター』シリーズにおいては、武器を持たない者や女性、子どもが彼らの狩りの対象からは外れていました。
例えば『プレデター2』の中で、子どもが玩具の銃をプレデターに向けるシーンがあるのですが、ここでプレデターは一度は攻撃を開始しようと試みるのですが、それが攻撃性のない玩具であることを判別し、攻撃をやめてしまいます。
他にも別の作品では、武器を持っていたとしても妊婦の女性は攻撃の対象にしないといった行動を見せており、こうした一連の行動にプレデターたちの「美学」のようなものを垣間見ることができるのです。
つまるところプレデターに攻撃対象と認知され、彼らと戦うためには、戦う意思を持っており、彼らに危害を加える可能性のある「強い者」であると認知される必要があります。
こうした「美学」を持つ、威厳のあるハンターとして描かれてきたからこそ、プレデターは敬意と共に受け入れられてきたのだと思いますし、それを蔑ろにしたシェーン・ブラック監督の『ザ・プレデター』が不評だったことも頷けます。
今回の『プレデター ザプレイ』は1700年代のアメリカ大陸(グレートプレーンズ)を舞台にしており、そこで暮らす先住民族と大陸から移住してきた白人たちにスポットを当てています。
とりわけ主人公の属するコマンチ族のコミュニティにおいては、狩りは男性の仕事であり、女性は薬草を集めたり、いわゆる「飯炊き」をしたりすることが役割でした。
そんなコミュニティの中で、主人公のナルは一人前の「ハンター」として認められたいと考えており、薬草を集めたり、「飯炊き」をしたりする傍らで、男性と共に狩りに繰り出しています。
しかし、男性の狩人たちは、そんな彼女を懐疑的な目で見ており、時折彼女に対して「飯炊きをしていろ。」といった女性の役割に縛りつけるような発言をしていました。
それでも、ナルはプレデターと勇敢に対峙し、その戦いの中で狩人としての素質に目覚めていきます。
プレデターはそんなナルを女性でありながらも、「強い者」として認知し、彼女を倒すことに強い執念を燃やすようになるのです。
今回の『プレデター ザプレイ』が巧いのは、プレデターの美学や信条を守りつつも、女性を「弱い者」として扱い、彼らの攻撃対象から外してしまう従来的な価値観からの脱却を図ったことだと思います。
『ザ・プレデター』のような無差別に攻撃するプレデターはある意味で「平等」であるわけですが、そこに美学や信条を見出すことができず、彼らのアイデンティティが揺らいでしまうんですよね。
だからこそ、『プレデター ザプレイ』がナルという女性主人公が「強き者」に成長していく過程を描き、プレデターに認められ、そして打倒するという通過儀礼を経るというプロットは実にバランスが良く、プレデターの美学と女性の物語の両立を巧く実現したと思います。
加えて、プレデターが女性や子どもたちが暮らしているコマンチ族のテリトリーにやって来る描写を意図的に避けた点も、巧くやったなという印象を受けました。
どうしても、テリトリーにやって来る描写を描いてしまうと、女性や子どもを攻撃対象にしないという描写を持ち出さざるを得なくなると思います。
その点でも『プレデター ザプレイ』は描く情報と描かない情報の取捨選択が抜群ですし、ナルだけにスポットを当てたことで、プレデターらしさを失わない、女性の物語としての『プレデター』映画を作り得たのではないでしょうか。
未知の存在への恐怖としてのプレデターへの原点回帰
©2022 20th Century Studios
また、今回の『プレデター ザプレイ』に関するレビューの中で「原点回帰」という言葉が用いられているのが散見されます。
オリジナル版の『プレデター』はジャングルが舞台で、その中でひたすらにプレデターと戦うというシンプルな作りでしたので、そうした自然の中で戦うシチュエーション、あるいはシンプルなプロットという点でも「原点回帰」と言えます。
ただ、それだけではなくて、『プレデター ザプレイ』はプレデターという存在についての意味づけの観点で見たときにも、「原点回帰」を果たしているのです。
オリジナル版のプレデターは、有名な話ですが、ベトナム戦争におけるジャングルという未知の土地への畏怖、あるいはゲリラ戦において敵の兵士がどこから襲い掛かって来るのか分からない恐怖を可視化した存在だと言われています。
そうした畏怖や恐怖からアメリカは「枯葉剤を散布する」という戦略をとったわけで、主人公のアーノルド・シュワルツェネッガー演じるダッチはアメリカ兵の象徴であり、そんな彼がプレデターを打倒するという構図は、アメリカがそうしたジャングルでの恐怖体験を乗り越えるという意味合いを持っていることは想像に難くありません。
こうしたコンテクストを、『プレデター ザプレイ』は視点を変えて再現しています。
今作における主人公は、いわゆるヨーロッパ大陸からやって来た白人ではなく、アメリカ大陸の先住民です。
そして、劇中には大陸からやって来た白人がいるわけですが、彼らは残虐で、先住民の命を奪うことについても何とも思っていません。歴史的に見ても、アメリカに白人がやって来て、彼らが先住民たちを奴隷化して搾取し、その多くを死に至らしめたのは有名な話です。
つまり、今作における主人公のナルや彼女の属するコミュニティにとっての恐怖というのは、大陸から侵略者としてやって来る白人なんですよね。
劇中で大量のバッファローが皮をはがれて絶命している描写があり、当初はプレデターの仕業だとミスリードしてあるのですが、これが後に白人たちの仕業であることが判明します。
このように、『プレデター ザプレイ』は大陸からやって来た白人たちとプレデターを重ねるような演出を施しており、プレデターはそうした外的恐怖を具現化した存在として描かれているのです。
先住民たちは生態系の中に溶け込み、自然の中で自然と共に暮らしており、彼らが動物たちを狩るのは、あくまでも自分たちの生命を維持するため、食事を取るためです。そこには、確かに生命や自然に対する敬意があります。
しかし、大陸からやって来た白人はバッファローの描写に見られるように、自然を自分たちが支配するかのように立ち振る舞い、生態系や食物連鎖から逸脱した「狩り」を行っています。
そして、これはプレデターも同様であり、プレデターは「強い者」を倒すためという自分の目的のために自然の中で生きる生命たちを殺めるだけで、それは食事をするためではありません。
自然やそこに敬意を払い、その中で生きている先住民たちにとって、そうした異質な「狩り」は言うまでもなく恐怖の対象なのです。
未知の存在への恐怖、自分たちとは異質な存在への恐怖をアメリカ人(白人)視点で描いたのがオリジナル版の『プレデター』であり、それらをアメリカの先住民たちの視点から描いたのが今回の『プレデター ザプレイ』であるという点で、本作はプレデターの意味づけや位置づけの観点でも「原点回帰」を果たしました。
加えて、視点を反転させることにより、アメリカの正義を高らかに宣言する作品から、アメリカが自分たちの歴史や戦いに対して内省的な視線を投げかけるような作品へと生まれ変わったとも言えます。
かつては、外側の異質な存在を「プレデター」や「エイリアン」として恐れ、打倒の対象にしていたアメリカ映画が、「プレデター」や「エイリアン」は歴史的に見れば、自分たちの方だったのかもしれないという視点の転換。
これを「典型的なアメリカ映画」の代表格とも言える『プレデター』という映画の枠組みにおいて、華麗に実現した『プレデター ザプレイ』は非常に意義ある作品と言えるでしょう。
おわりに
いかがでしょうか。
今回は映画『プレデター ザプレイ』についてお話してきました。
『プレデター』シリーズはあれもこれも盛り込んで、ボリュームたっぷりの映画にするというのが一つの醍醐味ではあった気はするので、そうしたシリーズに親しみを持っていた方からすると、今回の作品は少し物足りないと感じられたかもしれません。
しかし、ある種の「プレデターを打倒するドキュメンタリー映画」のレベルまで、余計なコンテクストをそぎ落としたことで、見る側は「狩るか狩られるか」の駆け引きだけに集中することができました。
自然の描写、狩る側と狩られる側の対峙だけを突き詰めるという点では、2015年に公開されアカデミー賞作品賞の候補にもなった『レヴェナント』に似ているとも感じましたね。
『プレデター』シリーズらしくないと言えば、そうなのかもしれませんが、それでも本作はプレデターという存在のアイデンティティをきちんと守って作られた映画です。
未知の存在への恐怖の具現化というオリジナル版におけるプレデターの意味づけを視点を変えて踏襲した点もそうですし、女性の物語でありながらプレデターの美学を損なうことはしていません。
プレデターという存在のコアを残しつつ、余計なものをそぎ落としていく。
そうして真摯に題材に向き合った結果、この『プレデター ザプレイ』が生まれたのだと想像できます。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。