【ネタバレ感想】『僕と頭の中の落書きたち』が描く「すがる」と「信じる」の距離

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『僕と頭の中の落書きたち』についてお話していこうと思います。

ナガ
こちらの作品は、日本では「配信のみ」での公開となっております!

先日(2022年8月)からNetflixでの配信もスタートしまして、その影響もあり、徐々に日本でも鑑賞する人が増えてきています。

かく言う当ブログ管理人も、映画館での上映がなかった影響で完全にノーマークだったのですが、Netflixで鑑賞しました。

平日の23時ごろに見始めまして、まあ夜も遅いし半分くらい見たら寝ようかな…くらいの気持ちだったんですが、すごくいい映画でして、気がつくと最後まで見終わっていましたね(苦笑)。

『僕と頭の中の落書きたち』は、統合失調症と診断された主人公のアダムが、その症状や投薬による副作用に苦しみながらも、自身の料理人になるという夢のために学校生活を全うしようとする姿を描いています。

その中で、母親や血のつながらない父親、そして好意を寄せる同級生との関係に言及され、統合失調症を抱える人が他者と人間関係を築いていくことの難しさも表現されていました。

そうした統合失調症という題材にしっかりと向き合った映画であることに加えて、本作は1本の青春映画としても愛おしく、思わず主人公とヒロインの2人を応援したくなるような魅力があります。

ぜひ、Netflixで配信されているこの機会に、多くの人にこの作品が届いて欲しいです。

さて、今回の記事では、そんな『僕と頭の中の落書きたち』を振り返りつつ、自分なりに感じたことや考えたことを書いていきたいと思います。

本記事は、趣旨の都合上作品のネタバレになるような内容を含んでいますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『僕と頭の中の落書きたち』感想(ネタバレ)

「統合失調症」を可視化する試み

本作の主人公は、統合失調症を抱えているアダムという青年です。

『僕と頭の中の落書きたち』では、そんな彼が置かれている状況を、周囲の人間の客観的な視点というよりはむしろ彼自身の主観的な視点から描こうと試みています。

統合失調症について、日本精神神経学会のwebサイトでその解説を読んでみますと、次のように書かれていました。

統合失調症とは、思考や行動、感情を1つの目的に沿ってまとめていく能力、すなわち統合する能力が長期間にわたって低下し、その経過中にある種の幻覚、妄想、ひどくまとまりのない行動が見られる病態である。

(「日本精神神経学会」より)

統合失調症を抱えている人の症状は、他者の視点で見ると、上記のような幻覚や妄想により独り言を言っている、あるいはまとまりのない行動を取るといった形で現れます。

そうした表に見えている言動だけを、状況を理解していない他者が見かけたとすると、その人に対して「変な人」という印象を持ったとしても無理はないでしょう。

だからこそ、彼らが生きている世界を、彼らの視点で見てみることは相互理解を深めていく上で非常に重要なものですし、そこに『僕と頭の中の落書きたち』がアダム視点で物語を展開しようとした意図があります。

今作では、アダムの世界に3人の幻覚のキャラクターが登場します。

ヒッピー風の少女は反道徳・反規範を、好色の青年は性的衝動を、ボディガードの男性は暴力衝動をそれぞれ表現しています。

アダムの世界の住人である彼らは、アダムに対して思い思いの発言をし、そのうるさい様が彼を困惑させ、落ち着きを奪っていました。

劇中で、精神的に追い詰められたアダムが、3人の幻覚たちによって次々に吹き込まれる言葉をそのまま発言している場面がありましたが、これはまさしく「感情を統合する能力」の欠如を、視覚的に表したものと言えます。

また、本作が統合失調症を抱えるアダムが「人間関係を築く」というところに主眼を置いたことにもこの題材に向き合う真摯な姿勢が感じられました。

日本精神神経学会でも、統合失調症の影響を次のように指摘しています。

統合失調という症状によって最も影響されるのは、対人関係である。複数の人間の話し合う内容が、いったい何を目指しているのか、その場の流れがどうなっているのか、自分はどう振る舞ったらよいのか、ということが分かりにくい。そのために、きちんとした応対ができなかったり、時に的はずれな言動をしたり、後になってひどく疲れたりすることがある。

(「日本精神神経学会」より)

アダムは、母親やその恋人であるポール、あるいは好意を寄せるマヤとの人間関係の構築に苦しんでいます。

話の文脈が読み取れなかったり、その中で自分がどう振る舞えばよいのかが分からなかったりする中で、彼の中でクリアに聞こえてくるのは、衝動的な3人の幻覚たちの声ばかりです。また、彼の強迫観念を象徴する黒い影の声も大きな影響を及ぼしています。

アダムは、現実を生きる人の声を上手く聞くことができず、そこでの振る舞い方が分からなくなると、自分の心を守るために幻覚や衝動、強迫に身を委ねてしまうのです。

その結果として、周囲の人との人間関係を破壊してしまいます。人間関係を保持したいと願えば願うほどに、内側の声は大きくなり、それを破壊する方向に働いてしまうわけです。

こうしたジレンマを『僕と頭の中の落書きたち』は鮮明に可視化しています。

普段、統合失調症を抱える人に出会うことがあっても、私たちの目に見えるのは、彼らの心の中のカオスからアウトプットされた表層的な一部分でしかありません。

だからこそ、理解を深めていくために、彼らのアウトプット(例えば独り言、まとまらない言動)の背後にどんな状況があるのかに目を向けていく必要があります。

『僕と頭の中の落書きたち』は映画にするために、幻覚のキャラクターたちをポップに仕立てているきらいはあり、その点で、正確とは言えないかもしれません。

それでも、本作を通じて、少しでも作品を鑑賞した人の理解が深まる方向に進むのであれば、それは素晴らしいことです。

無知と恐怖ゆえに、包丁や尖ったものを隠したポールが、アダムとの関わりの中で彼を理解し、変わっていったように。



「すがる」からの脱却、「信じる」への到達

(映画『僕と頭の中の落書きたち』予告編より)

本作の主人公であるアダムは、キリスト教や聖書、端的に言えば神を信じないという立場を貫いています。それは、彼の教会での振る舞いや神父に対する言動からも伺えますよね。

加えて、彼は「父親」にあたるポールから距離を置いています。これも象徴的に描かれている事象の1つと言えるでしょう。

遠藤周作さんの名著『沈黙』の中で、西洋のキリスト教は「父性的な神への信仰」であるという指摘がなされています。

キリスト教において神は唯一のものであり、人間を超越したところに存在し、そして人間を「怒り、裁き、罰する」存在です。それゆえに人間=子に規範的な生き方を求めるのです。

今作では、その舞台が厳格なカトリック学校となっており、アダムはそこで「統合失調症を抱える人」としての厳格な規則と規範を課されています。

一方で、アダムの考え方は、どちらかと言うと遠藤周作さんが日本に蔓延ったキリスト教に見られると指摘した「母性的な」性格に近いのではないでしょうか。

彼が求めていたのは、彼自身が口にしていたように「すがる」ことのできる対象です。

彼にとっての「すがる」対象は言うまでもなく母親だったわけですが、ポールと出会い、彼は母親が徐々に自分から遠ざかっていると感じ始めました。

こうして、母親とポールは彼に「統合失調症の患者」としての厳格な規範に則って生活するよう促す「父性的な存在」へと化していきます。薬を服用すること、刃物を扱わないこと、それらは言わば彼に課された戒律です。

母親との間に溝ができ、彼女に「すがる」ことができなくなったアダムは、同級生のマヤに好意を寄せるようになり、今度は彼女に「すがる」ようになります。

彼は、統合失調症を抱える自分に寄り添って、全てを包み込んでくれる「母性」を彼女の中に垣間見たのです。しかし、アダムはマヤに「すがる」ことはすれど、彼女を「信じる」ことができませんでした。

物語の終盤に、マヤがアダムに対して怒ったのは「一緒にいたいか私に決めさせてくれなかった」からでしたよね。これはアダムがマヤを「信じる」対象ではなく、「すがる」対象として見ていたことに起因します。

マヤはアダムが自分を信じてくれなかったことに怒りを覚えているのです。

「すがる」という行為は、自分を信じるというプロセスを経ることなく、相手に一方的に寄りかかる意味合いが強いものです。一方的に寄りかかるという点で、相手に選択を委ねないので、自己完結的な側面があることもその特徴でしょう。

一方で「信じる」は、自分を信じ、自分の足で立っていることが前提の行為です。そのため、相手に自分を「信じる」かどうかを委ねる余地があるため、双方向性があると言えます。

その点で「すがる」と「信じる」の間には、決定的な違いがあると考えられるわけです。

自分自身が抱える欠点から、いちばん目を逸らそうとしていたのは、アダム自身でした。欠点を見つめ、それを他者に開示しない限りにおいて、相手に受け入れるか受け入れないかの判断を委ねる必要がないからです。

物語の最後にアダムは、まずは自分が欠点と向き合うこと、その上で欠点を含めて自分自身を信じてみることの大切さに気づきます。自分を信じることは、他者から信じてもらうための第1歩であり、人とコミュニケーションを取り、関係を築いていくための第1歩です。

もちろん、一方的に他者に「すがる」のではなく、他者を「信じ」て、受け入れるかどうかの判断を相手に委ねることには、途方もない勇気が必要だと思います。

それでも、そんな彼を周囲の人たちは「信じ」返し、受け入れてくれました。

『僕と頭の中の落書きたち』は、アダムがまさしくそんな勇気に目覚める作品なのです。

 

誰かを信じて、頼ってみてもいいと思える心強さ

(映画『僕と頭の中の落書きたち』予告編より)

最後に、本作を見終えて、改めて「自立」ということについて少し考えてみようと思います。

ナガ
みなさんは「自立」という言葉を聞くと、どんなイメージを思い浮かべますか?

それは経済的に親や周囲の人の援助を受けていないことかもしれませんし、1人暮らしをして身の回りのことをきちんとこなせることかもしれません。あるいは単に社会人になって定職に就くことを指すのかもしれません。

『僕と頭の中の落書きたち』におけるアダムは、他者と人間関係を築くことに難しさを抱えています。それは、ひとたび他者が自分の統合失調症のことを知ったら、離れてしまうのだろうというという恐怖にも起因するものです。

誰かに頼りたい、誰かと関係を結びたいという欲求を抱きながらも、それが他者に迷惑をかけるのではないかという考えが脳裏をかすめ、他者とつながれないジレンマに彼は悩まされています。

先ほど「自立」という言葉のイメージを伺いましたが、その中で多くの人が「他人に迷惑をかけない」といった趣旨のことを思い浮かべたのではないでしょうか。

そんな中で、当ブログ管理人は、「自立」という言葉について考えるときに、鷲田清一さんのこの言葉を大切にしています。

私が思うに、自立とは、自分のことはできる限り自分でするが、助けが必要になった時に電話をかける相手がいるということです。つまり、いざという時に助け合う相互依存のネットワークをいつでも起動できること。その準備が日頃からできている状態が自立なのです。

(鷲田清一『真の自立とは』より)

依存しないことが「自立」なのではなくて、いざというときに相互に依存し合える他者との関係を結べることが「自立」なのだと鷲田さんは指摘しています。

私は、この言葉を聞くと、スッと肩の力が抜けるような気がします。

本作のアダムのように、他人に迷惑をかけてはいけない、自分だけでやっていけるようにならなければならないと、つい肩に力が入ってしまっていないでしょうか?

そんな時に頼ってもいいと思える相手がいるだけで、すごく心が軽くなることもあります。

『僕と頭の中の落書きたち』のラストでは、アダムがそんな関係性(ネットワーク)を母親やポール、そしてマヤと築く瞬間が描かれました。

アダムは邪悪な心の声に苛まれたとき、自分1人でそれに立ち向かおうとしていました。

そんな彼に、扉を閉めて、邪悪な声を遮ってくれるポールのような存在がいてくれることがどれだけ心強いのか。

自分だけで立ち向かうことが美しいのではなく、自分だけで立ち向かえないと分かった時に、周囲の他者を信じて、頼れることあるいはそうした関係性を築くことこそが美しいのだと言ってくれているような気がしました。

『僕と頭の中の落書きたち』はそんな優しいメッセージに裏打ちされた作品でもあるのです。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『僕と頭の中の落書きたち』についてお話してきました。

鑑賞してみて、改めて配信スルーとなってしまったこと、その結果として届くべき人に届きづらい状況になっていたことが悔やまれる作品だと思いました。

ですので、Netflixで配信され、こうして多くの人の目に触れることになったのが、非常に嬉しいですね。

本作は「統合失調症」という題材に非常に真摯に向き合った作品だと感じますし、それでいて1本の青春映画としてもよくできています。

加えて「統合失調症」というコンテクストを超えて、他者と関係を結ぶとはどういうことなのか?という普遍的な主題に言及した作品でもあります。

ただ、そのメッセージが決して押しつけがましいものではなく、見ている人に肩の力を抜くよう促すような優しいものであったのも良かったです。

ナガ
ぜひ、多くの人に届いてほしい1本でした。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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