【ネタバレ感想】『2つの人生が教えてくれること』が問う「計画通り」と幸せの相関性

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『2つの人生が教えてくれること』についてお話していこうと思います。

ナガ
現代版『スライディング・ドア』とも言われている映画だよね!

1998年に公開された『スライディング・ドア』という作品で、ある電車に乗れた場合と乗れなかった場合でその後の人生が分岐していく様が描かれました。

2つの人生を別々のパートで描くのではなく、同時進行的に描くアプローチが当時斬新だったこともあり注目を集めた作品です。

今回ご紹介する『2つの人生が教えてくれること』は、そんな『スライディング・ドア』のアイデアに「現代の女性の物語」を掛け合わせてアップデートした内容となっています。

今作で、人生の分岐となるのは「女性の妊娠」でした。

とりわけ「キャリア形成」という観点で考えたときに、女性にとって「妊娠」というのは、大きな出来事ですよね。

長期にわたってキャリアから離れなくてはならない可能性もあり、自分が社会から取り残されていくかのような孤独感を抱くことも少なくありません。

また、日本でもそうですが、妊娠/出産を経験した女性が再びキャリアに戻るのが難しくなっていることも大きな問題の1つです。

『2つの人生が教えてくれること』の主人公はナタリーという女性で、彼女は大学の卒業を目前に控えたある夜、親友のゲイブと一夜限りの関係を持ちます。

それから数か月が経過した卒業式の日の夜に、彼女は吐き気をもよおし、トイレに駆け込むのですが、ここで友人のカーラから手渡された妊娠検査薬の結果が、彼女のその後の人生を大きく変えていくこととなります。

妊娠していた場合の世界線、そして妊娠していなかった場合の世界線が同時並行で描かれていく中で、人生において本当に重要なものは何なのか、その輪郭が少しずつ明確になっていくのです。

今回の記事では、そんな『2つの人生が教えてくれること』について自分なりに感じたことや考えたことをお話してみたいと思います。

本記事は記事の都合上、作品のネタバレになるような内容を含みますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『2つの人生が教えてくれること』感想・解説(ネタバレあり)

2つのパートが補完し合う構成の巧さ

(『2つの人生が教えてくれること』予告編より引用)

『2つの人生が教えてくれること』という作品は、2つの「人生」を同時並行で描くというアイデアの都合上、物語を構成するのが非常に難しくなっています。

というのも、1人の女性が大学卒業後に歩む道のりのIFを描いているに過ぎないので、ある程度2つのパートにおいて登場する人物が共通しているんですよね。

例えば、ナタリーの両親はもちろん、友人のカーラや、主人公のナタリーと一夜の関係を持ったゲイブも両方のパートに登場します。

こうしたナタリーの人生の登場人物でかつ、両方のパートに登場するキャラクターの描き分けが非常に難しいのです。

なぜなら、両方のパートで掘り下げようとすると冗長になって、肝心のナタリーの物語の描き込みが甘くなり、かと言って1つの映画である都合上、彼らをある程度掘り下げて描く必要があるからです。

つまり、2つのパートが独立した物語として成立していることと、それが並存した上で1つの映画として成立していることが同時に求められているんですよね。

このジレンマをどのように乗り越えるかが、今作が『スライディング・ドア』のアイデアを引用したが故の難しさになっていたように思います。

そして、『2つの人生が教えてくれること』はこのジレンマを巧くクリアしていました。

例えば、ナタリーの両親の描写ですが、彼女が「妊娠していなかったIFのパート」だけだと、帰省のシーンと終盤の映画祭のシーンでしか登場しないので、彼らの人物像、娘との関係性、あるいは娘への思いといったものが分かりません。

しかし、そうした一方のIFパートに欠けている部分というのが、もう一方のIFで詳細に描かれており、それが別の世界線の描写にもかかわらず、1本の映画としての成立のために補完し合うような関係になっているのです。

そのため、ナタリーが「妊娠したパート」では、両親と彼女の関係性や距離感、そして彼らがナタリーの夢や人生にどんな思いを抱いていたのかといった部分がしっかりと描きこまれています。

ただ、これが描かれていないからと言って、妊娠していなかったIFのパートが成立していないわけではなく、それはそれで1つの物語として成立しているのです。

他にも、LAに行ってからの親友のカーラの物語は、「妊娠したパート」だと断片的にしか垣間見ることができませんが、そこを「妊娠していなかったパート」で補完し、描写に心情的な奥行きが生まれるようになっています。

2つの別々の人生を描きつつも、映画としては1つの「線」になるように、緻密に構成されたプロットはお見事だと思いますし、特に何を「省略」するかの選択が絶妙で、個々の取捨選択が上手くいっているからこそ、見ていてダレないのだと感じました。

 

計画すること、課題から新たなサイクルを見出すこと

(『2つの人生が教えてくれること』予告編より引用)

『2つの人生が教えてくれること』は、近年ビジネスの世界でも頻繁に耳にするようになった「PDCAサイクル」を意識した映画です。

主人公のナタリーは「5カ年計画」やベンジャミン・フランクリンの「計画なくして成功なし」という名言を大切にしていることからも分かるように、何事にも計画が先んじるタイプの人物として描かれています。

大学卒業時に社会人としての数年先のキャリアを既に思い描いており、そこから逆算して大学の専攻を選択するなど、計画的な人生を歩んできました。

しかし、どんな人生であっても、計画通りに進むとは言い切れません。

例えば、今作の分岐点となる「妊娠」という出来事は、自分の人生の計画を大きく変えてしまうものになります。

ナタリーは、妊娠によって自分の思い描いていた卒業後の計画を破棄せざるを得なくなり、対照的に計画通りの人生を歩むカーラの姿を見ながら、絶望を深めていきました。

生まれてきた子どものことを思い、母としての「5カ年計画」を立てて行動を開始した彼女ですが、それでもかつてのアニメクリエイターになる計画は破棄されたままです。

彼女は計画をしっかりと立ててから行動する用意周到な人物として描かれていますが、その一方で計画に変更を余儀なくされた場合に柔軟性を欠くタイプなんですよね。

これがよく表れていたのが「妊娠したパート」の中盤で、ナタリーがLAのカーラの元を尋ねたシーンです。

ナタリーはゲイブに娘のロージーを預けていったのですが、ゲイブが予想外の出来事により、計画を変更して娘をシッターに預けたことに憤り、予定を変更してLAから帰宅します。

彼女は自分が思い描いていた通りに事が進まないと満足できず、それに対応することを苦手としているわけです。

他にも「妊娠していなかったパート」にて、恋人のジェイクと同棲する計画を立て始めるのですが、その計画がジェイクの都合で立ち行かなくなったときに上手く対応できず、一度は破局してしまいました。

また、自身の勤めるアニメーションスタジオの代表であるルーシーに「アニメーション表現がアルゴリズム化している」と評されたり、彼女にスタジオを去ることを勧められると、一度はアニメーションやイラストから距離を置くに至るほど自分を見失ったりするなど、計画への固執ないし執着が浮き彫りになっています。

今作はそんな彼女の成長劇にもなっているのです。

物語の後半に差し掛かると、両方のパートで彼女が、自分の置かれた現状を見つめながら、自分の計画を柔軟に見直し、アップデートしていく様が見られます。

「妊娠したパート」では、母としての自分とアニメクリエイターとしての自分の両立を模索し始め、一度は破棄したはずの夢への計画を今の自分が実現できる形でアレンジし始めました。

一方の「妊娠しなかったパート」でも、スタジオから離れた現状を受け入れ、今の自分にしかできない表現を追い求めながら、アニメクリエイターとしてのキャリアを見直し始めました。

友人の結婚式に出席した際に、人生が計画から逸脱していることを負い目あるいは恥のように感じていた彼女が、計画の「軌道修正」を楽しむようになるのです。

映画のラストに2つの物語は分岐点のトイレへと戻ってきます。

そこで鏡を見つめる「2人」が声をかけているのは、トイレの便器で妊娠検査薬の結果に怯える過去の自分です。

かつての彼女にとっては「計画」が全てであり、そこからの逸脱は許されないものでした。

しかし、人生の様々な局面で「計画」の変更や軌道修正を迫られながらも、それを乗り越えることができた今の「2人」には分かっています。

「計画」が全てではないこと。大切なのは「計画」に予期せぬ変更が求められたときに、当初の「計画」に固執せず柔軟に対応できるかどうかだということ。

「2人」が過去の自分にかける「大丈夫」という言葉は、「計画」に固執する過去の自分を励まし、その呪縛から解放する言葉でもあります。

私たちの人生は「計画通り」になることの方が珍しいかもしれません。

ただ「計画通り」であることが「幸せ」なのかどうかは分かりません。

「計画通り」から逸脱したところで、思わぬ「幸せ」に出会えることもあるはずです。

『2つの人生が教えてくれること』は、私たちの人生というものに対する視野を少しだけ広げてくれるような、そんな映画だったように思います。



アウトプットで2つの人生を象徴する

(『2つの人生が教えてくれること』予告編より引用)

最後に、個人的に『2つの人生が教えてくれること』について、すごく気に入った演出に触れさせていただきます。

今作では、主人公がアニメクリエイターを志望しているという特徴がありますが、これを単なる設定としてではなく、終盤に演出として昇華させてあるんですよね。

『2つの人生が教えてくれること』のような映画で、最も懸念されるのは、2つのパートがそれぞれに単なる人生の行動録のようになってしまうことです。

2つの人生におけるナタリーの歩みをひたすらに追っていく記録映画のような作りで、最終的に恋愛あるいはキャリアにおける成功までを描き切って幕切れという映画であれば、本作は凡庸なものになっていたでしょう。

しかし、今作がそうはなっていないのは、アニメーション作品という彼女なりのアウトプットを2つの人生の「結果」として持ち出したからなのです。

行動録のような映画であったとしたら、ナタリーがどう行動したのか、どんな感情を抱いたのかといった情報を客観的に見て、知ることができます。

ただ、その場合には、ナタリー自身が自分が歩んだ人生をどう捉えているのか、あるいはその人生を経て彼女自身はどう変わったのかというメタな視点に欠けるんですよ。

自分が経験してきた出来事、感情、人との出会い、人生におけるさまざまなものがどのように彼女に影響を与え、そして彼女を形作ってきたのか。

『2つの人生が教えてくれること』のようなタイプの映画では、まさにそこにこそスポットが当てられるべきだと思うのです。

恋人と結ばれた。確かにハッピーエンドです。

アニメクリエイターとして成功した。これも確かにハッピーエンドです。

でも、それは単なる出来事の1つであって、彼女の人生を象徴するものではありません。

『2つの人生が教えてくれること』では、別々の人生を経験した「2人」のナタリーがそれぞれアニメーション作品を作ります。

作品には、彼女のこれまでの経験や感情が投影されており、それぞれのナタリーにしか作れない内容と表現になっていました。

「妊娠したパート」のナタリーは子育ての経験を活かして、フクロウが主人公のアニメーションを作りましたが、これは「妊娠していなかったパート」のナタリーには作り得なかったものです。

同様に「妊娠したパート」のナタリーに、「妊娠していなかったパート」のナタリーが作ったようなタトゥーを入れる鳥のアニメーションは作り得なかったでしょう。

ナタリーの人生をただそのまま観客に届けるのではなく、アニメーションというフィルターを通して届けることによって「彼女自身が自分の人生をどう捉えているのか」という深いところまで踏み込むことが可能になっているわけです。

2つの人生の違いを単なる出来事の羅列で見せるのではなく、それらを経験した彼女の内側からアウトプットされる作品を介して見せるというのが実にウィットに富んだ表現だったと思います。

そして、ここにこそ本作の主人公のナタリーにアニメクリエイターという設定を付与した意味があったのだと思いました。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『2つの人生が教えてくれること』についてお話してきました。

ナガ
ゲイブが「クズ男」だったらいろいろと話が変わってきた気はしますが…。

今作は登場する人物が基本的に良い人ばかりで、悪人がいないんですよね。

ゲイブも妊娠させるだけさせて、責任を取らずに去っていくような男性ではないですし、ナタリーの家族や友人、職場の人間にも善人しか登場しません。

その点で気軽に見られる映画にはなっているのですが、少しリアリティに欠け、耳障りが良すぎるという懸念はあるかなと思います。

人生そのものをテーマにしたような作品であるが故に、そこを「きれいに」しすぎた点は、少し悔やまれるポイントなのかもしれません。

ただ、素晴らしい作品であることには変わりないですし、人生の視野を広げてくれる作品でもありますので、ぜひともNetflixでチェックしていただきたいと思っています。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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