本記事は一部、作品のネタバレになるような内容を含みますので、鑑賞後に読んでいただくことを推奨します。
作品情報
映画『ゴジラ−1.0(マイナスワン)』感想と考察
ゴジラと対峙すべく戦地へと向かう本作の主人公である敷島浩一は、風の影響を受け、少し傾いた戦闘機のコックピットから、下方に広がる田園風景を「振り返る」。
これから死ぬ覚悟を決めた人間、あるいは復讐心に囚われた人間は、こんなことはしないだろうと思う。
彼が「振り返った」先に見ていたのは、彼が「これから自らが守るもの」であり、そして「自らの帰るべき場所」なのである。
そう、彼はあのとき、確かに生きて帰る覚悟を決めたのだ。
何気ないワンカットだったが、あのカットがあることにより、物語全体ないし登場人物の感情の描写に説得力が増したような気がする。
聖書でも、神話でも「振り返る」という行為は悪しきものとして描かれることが多い。
旧約聖書の創世記の第19章で描かれるロトの妻の物語は有名だ。
ソドムで信仰と道徳を保って暮らしていたロトとその家族は、神によって救われる。しかし、ソドムから逃げる際に、「後ろを振り返るな」という神の忠告に背き、ロトの妻は振り返ったために塩柱にされてしまうというものである。
ギリシア神話におけるオルフェウスとその妻エウリディケの物語もそうだし、古事記におけるイザナギとイザナミの物語もそうだ。
また、ルカの福音書の中で、イエスのこんな発言が取り上げられている。
だれでも、手を鋤につけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくありません。(ルカ9:62)
イエスに付き従うと決めた者が、旅立ちの前に「父の埋葬」や「家族への暇乞い」をさせて欲しいと発言したことに対する返答の言葉だ。
ここでも、やはり「振り返る」という行為は諌められている。
物語のマザータイプの中において、「振り返る」という行為にはネガティブなイメージが織り込まれてしまっている。
作家の森 禮子氏は、『聖書にみるドラマ』に収録されている「愛のありか/ふりかえるロトの妻」の中で、先ほど言及したロトの妻について分析している。
森 禮子氏は、ロトの妻に人間的な温もり、あるいは家庭的な情の深さを見出し、それらが彼女が振り向かせたのではないかと考えている。
神への信仰を前にすると、そうしたもののために「振り返る」ことは、否定されてしまうのかもしれない。しかし、その人間臭さがどこか愛おしくも思えるものだ。
思えば、本作『ゴジラ−1.0(マイナスワン)』の主人公である敷島浩一は、劇中で何度も振り返り続けてきた。
特攻から逃げたとき。典子から渡された赤ん坊を置き去りにしようとして、それをためらったとき。そして、戦闘機のコックピットから下方に広がる田園風景を一瞥したとき。
特攻から逃げて自分の暮らしていた街に戻ってきたとき、彼は隣人の女性、澄子からそれを咎められる。特攻兵にとって「振り返る」という行為は、他ならぬ生への執着であり、それは使命の前に捨て去らなければならないものだ。
しかし、典子は、彼のそんな弱さを受け入れる。生への執着あるいはそれがもたらす「振り返る」という行為を肯定してみせる。
また、吉岡秀隆演じる野田健治も「振り返る」を肯定した人物の一人だ。彼はゴジラ討伐作戦を前に、作戦に参加するメンバーたちに、作戦前夜は家族と時間を過ごすよう伝えた。
いずれもルカの福音書に登場するイエスに咎められそうだ。
それは弱さゆえの行為なのかもしれない。
しかし、それは同時に温もりや優しさゆえの行為でもあるのだと思う。
生きる。生きたい。太平洋戦争中の日本で、使命の前に捨てることを美徳とされた、人間の中に湧き上がるその根源的な感情を力強く肯定してくれる物語であったことに拍手を贈りたい。
物語の最後に、敷島浩一は典子に再会する。
これは、「振り返る」という行為により、妻と引き離されたギリシア神話のオルフェウスの物語や、古事記のイザナギの物語に対するある種のアンチテーゼなのかもしれない。
『ゴジラ−1.0(マイナスワン)』は、物語における「振り返る」という行為を巡るイメージを塗り替えんと試みたのだ。
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<キャスト>