本記事は一部、下記の作品のネタバレになるような内容を含みますので、鑑賞後に読んでいただくことを推奨します。
・『ラストマイル』
・『アンナチュラル』
・『罪の声』
・『MIU404』
目次
作品情報
- 監督:塚原あゆ子
- 脚本:野木亜紀子
- 撮影:関毅
- 照明:川里一幸
- 録音:西條博介
- 美術:YANG仁榮
- 編集:板部浩章
- 音楽:得田真裕
- 主題歌:米津玄師『がらくた』
『ラストマイル』をめぐる3つの視点と考察
①ポップコーンムービーであり、社会派映画である
②暴く、埋める、取り戻す
③人間らしさが「非効率」であると唾棄される世界で
①ポップコーンムービーであり、社会派映画である
本作『ラストマイル』の監督である塚原あゆ子は、本作の企画について、「そもそもは『ビールとポップコーンが合う映画』として始まった企画」と語っている。
いわゆる「ポップコーンムービー」を目指して制作されたということだが、確かに本作は大ヒットした映画『踊る大捜査線』シリーズのような、老若男女が楽しめる大衆性、娯楽性を帯びていた邦画大作の趣がある。
それでいて、現代社会における問題(物流業界における「2024年問題」など)をしっかりと反映した社会派なバックボーンが作品を裏打ちしている。
そのため、気軽に見られるし、エンタメとして純粋に楽しめるのだが、見終わった後の観客の喉に「小骨」をつっかえさせ、消化しきれないモヤモヤを残すような読後感もある。
脚本を担当した野木亜紀子が過去のインタビューで次のように語っていたが、この驚異的なまでのバランス感覚は過去の作品における経験に裏打ちされているのだろう。
『獣になれない私たち』(18年)をやっているときですね。ジェンダー問題、女性問題みたいなことを割と扱っていたんですけど、まぁ、みごとに伝わらない。それもあって、入り口のレンジを広く取らなきゃいけないんだなと思うようになりました。届く人にしか届かないニッチなものもいいとは思うんですけど、私自身、そこはあんまりめざしていなくて。それよりも、ある種のわかりやすさと複雑さみたいなことを両立できる作品をつくっていきたいなと思っています。じゃないと、届かないんですよ。
(https://www.mensnonno.jp/lifestyle/295052/)
また、このバランスを維持する上で、物流業界を作品の舞台として選んだことが、重要な役割を果たしたと思う。
まず、観客の大半が荷物を送ったり、受け取ったりという形で、日常生活の中で当たり前のように関わりを持っているため、イメージしやすい。
「爆弾テロ」という言葉だけでは非日常的に聞こえるが、爆弾が私たちが当たり前のように日々受け取っている荷物の中に紛れ込んでいるという設定は妙にリアリティがあり、観客に当事者性を持たせ、劇中の事件に巻き込む力がある。
このように、観客の日常と劇中の事件に「接点」が存在していることが、本作の大衆性と娯楽性を担保する上で、重要な役割を果たしている。
そして、本作は私たちが普段思いを馳せることのない、運送業者や巨大ECサイトの物流センターといった裏側の世界を描く。
私たちが当たり前のように享受しているサービスの背後に広がる巨大なネットワークやシステムを、前述の「接点」を起点として描くことで、自分たちの日常と地続きの世界として意識させることに成功している。
この丁寧な導線により観客は自然に当事者性を持って、物語にのめり込むことができるとともに、本作が暴き出す社会的な問題の数々と自分たちの日常生活がつながっていることを意識せざるを得ない。
塚原監督が、本作に関連したインタビューの中で次のように語っていた。
観客が最終的に『自分ごと』に捉えてくれたら、どういう感想であれ、それには価値があるのかなと。最後は渋谷の交差点に観客を戻したい気持ちがありましたね。
(https://www.ehills.co.jp/rp/dfw/EHILLS/event/cinema/240819/index.php)
思えば、この映画は渋谷の風景という私たちの日常生活を起点に、物流業界の巨大なネットワークへと物語が発展し、最後には渋谷の風景に戻ってくるという構成になっていた。
こうした映像の構成にも、作り手の意図が明確に反映されていたのだろう。
物語を作るときに、何を題材に据えるかは言うまでもなく重要だ。
企画当初の「ポップコーンムービー」を作りたいというコンセプト、監督と脚本家の社会問題への視座、あるいはその作家性。
それらを体現するうえで、物流業界という舞台設定ないし題材選択は極めて的確であり、この決定が成された時点で、本作の成功はある程度約束されていたと言っても過言ではないと思う。
「シェアード・ユニバース」という形で、過去のドラマ作品2本とのつながりが仄めかされているが、特に予習は必要ない。予習しなくても、「一瞬しか登場しない端役までキャストが豪華な映画」として十分に楽しめる。
ぜひ、多くの人に気軽に劇場へ足を運んで、見てもらいたい。
②暴く、埋める、取り戻す
先ほど「作家性」という言葉を使ったので、『ラストマイル』について掘り下げる前段として、脚本家の野木亜紀子の作家性について、自分の思うところを書いてみようと思う。
本作とシェアード・ユニバースという形で世界観を共有するのが、彼女が過去に脚本を手掛けた『アンナチュラル』と『MIU404』という2つのテレビドラマであるため、主にはこれらに焦点を当てる。
死した人間の「空白」を巡って
『アンナチュラル』は不自然死究明研究所(以降「UDIラボ」)が不可解な死に直面し、遺体の解剖を介して、その背後にある事件や事故の真相を究明していく内容になっている。
このドラマを見たときに、私は彼女の描くミステリやサスペンスには、黄金時代の探偵小説に通ずる思想があるのではないかと思ったのを覚えている。
探偵小説は、文芸批評家のヴァルター・ベンヤミンが指摘するように「都市」と「群衆」の誕生によって生まれたジャンルであると言って差し支えないだろう。
「都市」と「群衆」の誕生は、個人の足跡を辿れない状況を生み出した。それ故にその足跡を辿る「探偵」という役割が必要になったのだ。
そして、探偵小説は、第一次世界大戦が終わったのちに黄金時代を迎えることとなる。
その背景には、20世紀初頭に起こった文学・芸術運動があった。
第一次世界大戦により、無個性な死体の山が築かれ、人間の死というものが相対的に軽くなり、記号化されてしまった。
そんな経験を経て、世界に新しい意味づけをしていこうという運動の中で、探偵小説は「死」に意味を与え、人間の尊厳を取り戻す役割を果たしたと指摘される。
むしろ、探偵小説の特異性は、空洞化した登場人物たちがまだかろうじて人間の輪郭を保っている点にある。探偵小説における被害者は、第一次世界大戦で堆積した無個性な死体の山とは違い、犯人の意図と探偵の解釈によって、二重に意味が与えられ、個性ある死を迎えることができる。被害者は非人間的な「項」 として死ぬことで、逆説的にも、固有の人間性を取り戻すのである。
(高柳太一・中尾健二「探偵小説についての試論」より)
『アンナチュラル』におけるUDIラボによる事件の真相解明は、まさしくこの黄金時代の探偵小説における探偵の「暴く」の意義に重なるのである。
何者か分からない、なぜ死んだのかが分からない、どのような経緯で死んだのかが分からない。そんな死をとりまく「空白」を科学的な見地から埋めていき、個性ある死と死した人間の尊厳を取り戻す。
『ラストマイル』でも、人間の「死」とそれを取り巻く「空白」が描かれており、事件の真相を暴くことで、その「空白」を埋め、死した人間の尊厳を取り戻す物語になっていた。
このように、野木亜紀子作品における「暴く」という行為には、「埋める」「取り戻す」という性質があることが指摘できるように思う。
生ける人間の「空白」を巡って
一方で、「空白」を孕んでいるのは、死した人間だけではない。
彼女が脚本を手掛けた作品に、塩田武士の小説を映像化した『罪の声』がある。この作品では、時効を迎えた未解決事件の真相を追う物語が描かれる。
もう法では裁くことのできない犯人を見つけ出して何の意味があるのか、暴くことでが逆に事件に関わった人たちを苦しめるのではないかという葛藤の中で、それでも真相を解明することで、過去の事件に縛りつけられたまま今を生きる人たちを解放しようと試みる。
本作のポスターに掲載された「逃げ続けることが、人生だった。」というキャッチコピーは、過去の事件に縛りつけられた人たちが、その人生を奪われてきたことを際立たせる。
だからこそ、事件の真相を「暴く」ことによって「空白」を生きてきた人たちの人生を「取り戻す」様を描いた。
作品は変わるが、『MIU404』の第7話で描かれた、事件の犯人が時効を迎えるまでの期間をトランクルームに潜伏して過ごしていたというエピソードも重なるところがある。
犯人の1人が告げた「あのとき自首してたら、8年くらいで出られた。今頃とっくに罪をつぐなって堂々と生きられた。普通に生活ができたんだよ。俺たちはもう死んでるのと同じだ。」というセリフは強烈で、今も忘れられない。
10年間という人生の長く、貴重な時間を「空白」にしてしまったことに対する深い後悔。
あるいは、彼女が脚本を手掛けたテレビドラマ『獣になれない私たち』における「私たち、誰の人生を生きてきたんだろうね。」というセリフを思い出す。
身体的には生きている状態であったとしても、自分の人生を生きていなければ、自分の人生が「空白」であれば、それは生きているとは言えないのではないか。
そう考えると、『MIU404』のヴィランがあのような描かれ方になったのも何だか腑に落ちるところがある。
『MIU404』におけるヴィランは「空白」そのものだ。たくさんの名前を持ち、確固たる自分の人生を持たない。
その「空白」を主人公の伊吹と志摩ら「暴く」側の人間が埋めていくという構図になっているのだが、それに対して彼は「俺は、お前たちの物語にはならない。」という言葉で痛烈なカウンターを浴びせた。
ドラマの放送当時、この言葉の解釈を巡って、様々な議論がなされたが、私は、その直前のシーンで志摩が彼に言った「生きて、俺たちと一緒に苦しめ。」というセリフも相まって、すごく希望のある言葉ではないかと解釈している。
生きているということはすなわち、自分の人生を物語の「空白」を自分自身で埋めたり、取り戻したりすることができる特権を持っているということなのだ。
だからこそ、それを誰かに埋めてもらう必要はない。自分自身がその主体であるべきだ。
いくつかの野木亜紀子脚本作品を改めて振り返って思うのは、次のことだ。
・「暴く」には、空白を「埋める」、あるいは何かを「取り戻す」という性質がある。
・死んでいる人間は「暴く」という行為の客体であり、その空白を埋めることで、人間性や尊厳を取り戻される。
・生きている人間は「暴く」という行為の主体であり、自分自身の人生の空白を埋めたり、何かを手に入れたり(取り戻したり)する特権を有している。
『ラストマイル』が観客へとつなぐバトン
こうした作家性や思想めいたものが本作『ラストマイル』にも通底していたことは言うまでもないだろう。
『ラストマイル』では、爆弾テロ事件を解明していく過程で、巨大企業によって隠蔽された1人の人間の「死」が浮かび上がる構図になっている。
そして、その「死」の真相を暴き、空白を埋めることによって、彼が奪われたものを取り戻そうと試みた。
一方で、満島ひかり演じる主人公のエレナは、この事件の真相を「暴く」過程で、自分自身が失っていたもの、人間らしさのようなものを取り戻し、「また真っ白なノートを買おうと思う。」と宣言し、勤め先だったDailyFastを辞める決断をする。
「真っ白なノート」というモチーフは、これまでに何度も言及してきた人生の「空白」に重なる。
彼女は、生きている人間だ。だからこそ自分自身の人生の「空白」を埋めたり、何かを手に入れたり(取り戻したり)する主体として、前に進むことを決めたのだ。
そして、彼女は、次はあなたの番だと言わんばかりに、ロッカーの鍵をもう1人の主人公である岡田将生演じる孔に託す。
これは、作品そのものから観客である私たちへのバトンリレーであると言っても差し支えないだろう。
私たちは悩んで、苦しんで、真っ白なノートを埋めていかなければならない。それが自分の人生を真に「生きる」ことなのだ。
③人間らしさが「非効率」であると唾棄される世界で
最後に『ラストマイル』という作品が、「暴く」ことを通じて、何を「取り戻し」たかったのかを考えてみたい。
伊藤計劃のSF小説『ハーモニー』の中で、人間の完全に調和した世界への到達が描かれている。その到達を実現した方法は、人間の自我や自意識、自己を完全に消し去ることだった。
わたしはシステムの一部であり、あなたもまたシステムの一部である。
もはや、そのことに誰も苦痛を感じてはいない。
苦痛を受け取る「わたし」が存在しないからだ。
わたし、の代わりに存在するのは一個の全体、いわゆる「社会」だ。
(伊藤計劃『ハーモニー』より引用)
『ラストマイル』の物語は、渋谷の交差点の空撮から始まり、そこから人間を小さな光に変換して記号化し、その光の粒が大きなシステムの中に融けていくような映像が流れる。
本作の舞台となった物流の世界では、人間の記号化や機械化が進行している。
グローバル企業によって高度にシステム化された物流拠点では、そこで働く人間から極限まで人間性を排除し、記号化することで、高い効率性を実現した。
あるいは、近年検証され、一部で試験的に導入され始めたドローンやロボットによる配達の試みは、人間の身体的な限界という制約を過去のものにするかもしれない。
伊藤計劃の『ハーモニー』の中にこんなセリフがあった。
「この社会にとって完璧な人類を求めたら、魂は最も不要な要素だった。お笑いぐさよね。」
(伊藤計劃『ハーモニー』より引用)
これは、私たちが便利で、効率的で、合理的な世界を求めれば求めるほど、人間らしさのようなものが排除されていくという皮肉だ。人間らしさほど非効率で、脆く、壊れやすいものはない。
『ラストマイル』では、物流業界が消費者にとって便利で、効率的で、合理的な在り方にシステム化されていく過程で、そこで働く人たちが非人間化していく様が鮮烈に描かれている。
だからこそ、中村倫也が演じた山﨑はそんな世界で試したかったのだ。
「人間の魂の重さは21グラムである」なんて言われるが、70kgの1人の命の重さと巨大ショッピングサイトを支えるシステムのどちらが「重い」のかを。
そして、彼は遠のく意識の中で悟った。巨大なシステムを前にした自分1人の命が如何に「軽い」ものなのかを。
本作のタイトルにもなっている「ラストマイル(あるいはラストワンマイル)」という言葉は、拠点から私たち消費者の元へ商品を届ける物流の最後の区間を指すという。
前述のとおり、ここをデジタル化していくという動きもあるが、その一方で、人間ならではの柔軟性や対人スキルが重要な役割を果たすのが「ラストマイル」でもある。
故に、巨大な物流システムの中で、人間らしさや人間の温もりのようなものが残された最後の聖域という捉え方もできるのではないだろうか。
しかし、人手不足や配達料の増加、報酬の減額などにより、そんな聖域で働く人たちが、仕事を続けていくためには、「人間をやめる=壊れる」しかないというところまで追い込まれている。
『ラストマイル』は、システム化し、効率的で便利な世界になっていく過程で、失われていく人間らしさや人間の尊厳を取り戻そうとしたのだ。
システムの奴隷になっていた満島ひかり演じるエレナは、その立場から解放され、どんなことがあっても止めようとしなかったシステムを止める決断をする。
そして、物語の最後の最後で爆弾から人を泥臭くも救ったのが、「ラストマイル」で働く配達員と彼が作った非効率的なものだったことは、本作のテーマを体現していると言える。
もちろん、作り上げたシステムを放棄しろだとか、享受している便利さを手放せだとか、そういった乱暴な議論をしたいわけではないだろう。
人間の生活を豊かにするためのあれこれが、かえって人間の豊かさを奪っていないだろうかという皮肉であり、これはDailyFastの社訓の中にあったCustomer-Centricという「マジックワード」にも重なる。
目的のためにとっている手段や過程の中で何か大切なものを見失っていないだろうかと立ち止まって考えることを促しているのだ。
本作の主人公であるエレナを演じた満島ひかりがこんなコメントを残している。
「主人公・舟渡エレナの選択したことの続きはまだ、私の毎日の中にもあります。私たちの日常で、身の回りで起こっている止められない現実。一人の力では動かせない苦しさの連鎖。観る方がどんな気持ちになって、どんな余韻で日々をすごしてゆくのか、そんなことを想う映画でした。」
(https://www.ehills.co.jp/rp/dfw/EHILLS/event/cinema/240819/index.php)
スクリーンの向こう側の世界と地続きの世界を生きる私たちもまた、登場人物の1人として、考えていかなければならない。
『ラストマイル』は確かに「自分に戻ってくる」映画なのだ。