みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画「今夜、ロマンス劇場で」についてお話していこうと思います。
おそらくはオマージュ的に作られた作品ではあると思うんです。
そのため、オリジナリティという点では少し乏しかった気はしますが、個人的には好きでした。
記事の都合上ネタバレを一部含みます。予告編や公式サイトに出ている情報以上のネタバレになるような内容に触れる際は、改めて記載いたします。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
「今夜、ロマンス劇場で」
あらすじ・概要
綾瀬はるかと坂口健太郎が共演し、モノクロ映画の中のヒロインと現実世界の青年が織りなす切ない恋の行方を描いたファンタジックなラブストーリー。
映画監督を目指す青年・健司はモノクロ映画のヒロインである美雪に心を奪われ、スクリーンの中の彼女に会うために映画館に通い続けていた。そんなある日、美雪が実体となって健司の前に現われる。
モノクロ姿のままの彼女をカラフルな現実世界に案内するうち、健司と美雪は少しずつ惹かれ合っていく。しかし美雪には、人のぬくもりに触れると消えてしまうという秘密があった。
「のだめカンタービレ」シリーズの武内英樹がメガホンをとり、「信長協奏曲」の宇山佳佑が脚本を担当。
(映画com.より引用)
予告編
「今夜、ロマンス劇場で」感想・秋節
映画に”色”をつけるのはあなただ
(C)2018 映画「今夜、ロマンス劇場で」製作委員会 映画「今夜、ロマンス劇場で」予告編より引用
当ブログを読んでくださっている方の中には、やはり映画に関心があり、映画を見るために劇場に比較的頻繁に足を運んでいる方が多くいらっしゃると思います。
それ以外にも年間に映画館で数回映画を見ることを楽しみにしている、友人や恋人と一緒に見に行くことがあるくらいの頻度で映画を見ている方もやはり多いと思います。
それは「映画とは誰かの人生を彩るものだ」ということです。「映画」が無くても確かに生きていくことはできます。それでもあった方が良い。あればより人生が豊かになる。それが映画が我々の世界に存在している何よりの意義だと考えています。
そんな映画と我々の関係性を改めて考えさせてくれる作品がこの「今夜、ロマンス劇場で」なのだと映画を見終えた今すごく実感しています。
本作の冒頭のパートは映画を愛する人ならば、もう涙なしに見れないのではないかと思います。
かつては劇場でたくさんの人が見ていた映画フィルム。しかし時間が経つにつれて、人々は新たな娯楽を追求していき、いつしかその作品を忘れていってしまいます。
そして人々から顧みられなくなった映画フィルムには廃棄の烙印が押されてしまうのです。
それでも、そんな作品にも絶対に愛してくれる人がいるのです。主人公の健司のセリフにこんなものがありました。「どんな映画にも必ず良いところがある。」このセリフには思わずハッとさせられましたね。
何らかの賞を受賞した作品、興行的に成功した作品、これらは確かに多くの人の記憶に残りやすいです。
ただそうでない作品達が無価値なのかと言うと決してそうではなくて、生まれてきた意味が無い映画なんて1作品とて存在しないんです。
全ての映画には存在する意味があって、そしてどんな映画にも必ずそれを愛する人がいるんです。埃を被っていつしか誰の記憶からも消え去った映画たち。それでもあなただけは、私だけはそれを覚えている。そして変わらずその作品を愛し続ける。それでいいんです。
映画は誰かの人生を彩るものです。たくさんの人の人生を彩る作品もあれば、あなただけの人生を彩る作品もあるかもしれません。どんな映画にも必ず存在意義があるという至極当たり前のことを本作の冒頭パートでふと思い出して、涙が溢れました。
そして何よりこの映画が物語っているのは、映画とそれを見ている我々の関係性です。先ほどから申し上げているように映画とは我々の人生に”色”を与えてくれるものです。
その一方で、映画に”色”をつけるのは誰なのか?というと、それは映画を見ている我々1人1人なのです。映画は完成した時点ではまだ何の色もついていない無色透明です。しかしそれが世に送り出され、たくさんに人に見られることで、たくさんの人の「温もり」に触れることで、初めて”色”がつくんです。
映画は単体で存在していれば、映画として完結してしまいます。何の広がりも持ちません。
しかし、それを見てくれる人がいれば、その物語は無限の広がりを持ち、無限の可能性が付与されます。
赤色をつける人もいれば、青色をつける人もいる。映画とはいろいろな人が多種多様な”色”をつけることによって初めて血の通った、生きた芸術として生命を宿すのです。
健司の無味乾燥な生活に、人生に”色”をつけたのは他でもない映画の中のヒロインである美雪でした。一方で、色の無い映画の世界で生まれた美雪に”色”をつけたのは健司だったんです。
本作「今夜、ロマンス劇場で」の美雪と健司の関係性はまさしく映画と我々の関係性にシミュラリティを有するのです。
(C)2018 映画「今夜、ロマンス劇場で」製作委員会 映画「今夜、ロマンス劇場で」予告編より引用
そんな2人が迎える感動のフィナーレ。ぜひぜひ劇場で皆さま自身の目で確かめていただきたいので、ここでは言及を避けますが、映画を愛する全ての人に見ていただきたい最高のラストに仕上がっています。
映画が我々の人生に”色”をつけ、そして我々が映画に”色”をつける。映画が大好きな私でさえも忘れかかっていた、当たり前だけどとても大切なことを思い出させてくれました。
本作「今夜、ロマンス劇場で」のラストシーンで「映画を好きになって良かった。」と思い涙した今日の日を私は忘れないと思います。
いろいろとおバカすぎる描写の数々
まあ本作はツッコミたいところが山ほどありますよ。
でも今作におけるご都合主義というかおバカすぎる描写ってあんまり嫌いになれないんです。
劇中のセリフで登場した「映画の世界では良くあることだ。」を思い出すと、なんだかそういう描写達も映画ならではのものだと無性に愛くるしく感じてしまうんですよね(笑)
例えばですよ、綾瀬はるか演じる美雪が健司の世界に溶け込むために着替えをして、メイクをするシーンがありましたよね。
このシーンで、健司が「メイクをしてください。」と美雪に言った時点で、彼女は白黒ではありますがバチバチにメイク済みなのもツッコミどころなんですが、その後メイクをしたら、いきなり美雪が全身カラー映像になってるんですよね。
Before
(C)2018 映画「今夜、ロマンス劇場で」製作委員会 映画「今夜、ロマンス劇場で」予告編より引用
After
(C)2018 映画「今夜、ロマンス劇場で」製作委員会 映画「今夜、ロマンス劇場で」予告編より引用
美雪さんあの短時間で全身にバッチリとファンデーションを塗り込んでるじゃないですか(笑)
しかも彼女のメイク、防水機能がめちゃくちゃ強いんですよ。その後のシーンでビチョビチョに濡れても、全くメイクが落ちる気配がありません。
まさに劇的!ビフォーアフター!でした(笑)
他にも美雪が映画の世界から持ってきたオカリナを探すシーンってツッコミどころありすぎじゃないですか?
美雪はあの3体の地蔵の前を通る時にオカリナ吹いてましたよね。ということはあの場所で落とすはずがないんですよ。
しかも見つかったのは、道から少し離れたところにある草地でした。
落とすなら映画スタジオの中とかの方がリアリティはありましたが、まあこういうアホさ加減ももはや愛らしいです(笑)
あとは美雪と健司がロケハンと称して、いろいろなところを散歩しているシーンですよね。
美雪が連想ゲームの罰として健司に橋の欄干の上を目をつぶって歩くように指示するんですね。そして案の定健司は欄干から川に落下してしまうんですが、めちゃくちゃ川が浅いんですよね(笑)
と、本作には思わずツッコミたくなるポイントが山ほどあるんですが、結局総括すると「映画の世界では良くあることだ。」というセリフで全部許せてしまうんです。
むしろ本作はより「映画っぽさ」を出すためにあえて映画的なご都合主義を作品に取り入れているのではないかとすら思いました。そう考えると、嫌いにはなれないですね。
もしも本物のロマンスに出会えたならば・・・
(C)2018 映画「今夜、ロマンス劇場で」製作委員会 映画「今夜、ロマンス劇場で」予告編より引用
「もしも本当のロマンスに出会えたならば、人生は映画みたいに輝くんだ。」
「ロマンス」という言葉を調べてみますと「男女間の愛情に関する話、または事件。」「現実にはめったにないような(冒険的な)物語。」という意味があることが分かります。
ロマンスと言うのはただの男女の恋愛に纏わる話ではないんです。現実にはめったにないような奇跡のような恋愛物語のことを指して初めてロマンスとなります。
本作中には、ラブストーリーとロマンスの分岐点があったんですよね。ラブストーリーというのは、いわゆる男女の恋愛をリアリティを孕ませつつ描いたものと言えます。
その分岐点は健司が塔子を選ぶか、それとも美雪を選ぶかという選択に委ねられていました。
彼が仮に前者の選択をしていたのであれば、本作は普通のラブストーリーでした。お互いに触れあえる寄り添え合える相手を選んだということであれば、これはロマンスではありません。
しかし、彼の選択は後者でした。彼は、普通の恋愛をする幸せを投げ捨ててでも美雪と一緒に添い遂げることを選んだのです。それは紛れもない2人のラブロマンスでした。
健司は美雪という映画の中のヒロインに出会うという奇跡と邂逅しました。そして最後は自分の人生を彩ってくれた奇跡を信じたのです。ロマンスは、本物のロマンスは、人生を映画みたいに輝かせるのです。
生涯童貞、恋人は映画
(C)2018 映画「今夜、ロマンス劇場で」製作委員会 映画「今夜、ロマンス劇場で」予告編より引用
「生涯童貞です。恋人は映画です。」
でもそういう人物をすごく美しく見せてくれるのが本作の素晴らしいところです。
この映画で描かれていることって言ってしまえば、主人公の妄想だと片づけてしまうことができるわけです。主人公が童貞を拗らせて、映画のヒロインを頭の中で現実のものとしてしまった。そして生涯その妄想の中で生き続けたみたいな話なのかもしれないわけです。
だからこそこの映画はアプローチを1つ間違えるとすごく気持ちの悪い話になってしまうんです。映画の中のヒロインが好きすぎて、リアルの女性にも見向きもせずにその虚構を愛し続けた人物なんてどう考えても「ちょっとヤバい」案件なんです。
ただ本作「今夜、ロマンス劇場で」はそういう人物の考え方や行動をすごく美しく見せてくれるんですよね。それはなぜかと言うと、結局映画に説得力があるからなんだと思うんです。
ここで私の敬愛するドン・デリーロの「堕ちてゆく男」の一節を引用してみようと思います。
それは昼であれ夜であれ、ベッドにいるときだけではなかった。セックスは初めのころ、至るところにあった。単語の中に、フレーズの中に、中途半端な身振りの中に、場所が移動したことを単純に仄めかすようなときに。彼女が本か雑誌を置き、2人のあいだに小さな間が生まれる。これがセックスだ。2人で通りを歩き、埃っぽいウィンドーに映る自分たちの姿を見る。階段の昇り降りもセックスだ。彼女が窓際を歩き、彼がすぐ後をついて来るときのこと。触れることもあり、触れないこともあり、手を軽く掠めたり、ぴったりとくっついてきたりする。彼が後ろから迫って来るのを感じる。・・・・(中略)・・・・電話を取るかスカートを脱ぐかはたいした問題ではなく、それを2人で見ているようなとき。借りた海辺の家もセックスだ。
(「堕ちてゆく男」ドン・デリーロより引用)
セックスと言うとまあ単純に「性行為」のことを連想するわけですが、それだけがセックスじゃないんです。ドン・デリーロ先生が言いたいのは、2人だけの共通言語としての「セックス」が存在しうるということなんです。
本作「今夜、ロマンス劇場で」において、確かに健司と美雪はお互いに触れあうことはできません。そのため手を繋いだり、キスをしたり、世間的な意味で言うセックスを経験することはできません。
(C)2018 映画「今夜、ロマンス劇場で」製作委員会 映画「今夜、ロマンス劇場で」予告編より引用
しかし彼らの中には2人だけの共通言語としての「セックス」が存在していたんです。
「セックス」はこの映画の至るところにありました。
(C)2018 映画「今夜、ロマンス劇場で」製作委員会 映画「今夜、ロマンス劇場で」予告編より引用
電話ボックスのガラス越しのキスも2人で見上げた虹も、赤いドロップスを舐めることも、綺麗な景色を共に見ることも。お互いに触れあえない2人にとって、これらは「セックス」なのです。
つまり、健司は生涯童貞なんかじゃないんです!!
(この記事で一番言いたかったことです!!)
2人だけの愛し方を、触れ合い方を、温もりの感じ方を彼らは知っているのです。
私自身が「あなたは恋人に触れられません!」なんて突きつけられて、耐えられるかどうかは分かりません。しかし、本作は映画としてその究極の理想形を描いて見せたわけです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『今夜、ロマンス劇場で』についてお話してきました。
いやはや期待値がそれほど高かった映画というわけではないのですが、良い意味で大きく裏切ってくれた映画でした。この映画は映画を愛する全ての人に見て欲しい一本だと思っております。
(C)2018 映画「今夜、ロマンス劇場で」製作委員会 映画「今夜、ロマンス劇場で」予告編より引用
映画を見ていて個人的に思ったのは、本田翼に告白される人生って前世でどれくらい徳を積めば巡って来たのかなぁ?ということです。しかもあろうことか健司(坂口健太郎)はその告白を断るんですよ・・・。
あと個人的に面白かったのは、美雪が最初に健司の家を見た時にしたツッコミです。
健司のみすぼらしい家を見て美雪は「おまえ人でも殺したのか。」と告げるのですが、このツッコミ、私の大好きな漫才コンビ「霜降り明星」の定番ネタなんです。
まあこれはどうでも良いですね。「霜降り明星」面白いので、知らない方は一度チェックしてみてください。
この映画を見て、一生映画を見続けたいと改めて思えましたし、もう一生映画が恋人でいいや!!なんて思ってしまう映画でした。
私の前にも映画の中の女優さんが出てきたりしないですかねぇ・・・。触れられなくてもよいですから・・・。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。