目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『アベンジャーズ:インフィニティウォー』についてお話していきます。
この記事はMCUを総括しての考察といった感じになっております。
良かったら最後までお付き合いください。
あらすじ・概要
「アイマンマン」「キャプテン・アメリカ」「マイティ・ソー」などマーベルコミック原作で、世界観を共有する「マーベル・シネマティック・ユニバース」に属する各作品からヒーローが集結するアクション大作「アベンジャーズ」シリーズの第3作。アイマンマン、キャプテン・アメリカ、ソー、ハルクといったシリーズ当初からのヒーローたちに加え、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」「ドクター・ストレンジ」「スパイダーマン ホームカミング」「ブラックパンサー」からも主要ヒーローが参戦。6つ集めれば世界を滅ぼす無限の力を手にすると言われる「インフィニティ・ストーン」を狙い地球に襲来した宇宙最強の敵サノスに対し、アベンジャーズが全滅の危機に陥るほどの激しい戦いを強いられる。監督は「キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー」「シビル・ウォー キャプテン・アメリカ」を手がけたアンソニー&ジョー・ルッソ兄弟。(映画com.より引用)
予告編
感想記事のリンク
『アベンジャーズ インフィニティウォー』についての感想記事は既に書き上げております。かなり批判的な内容になっておりますので、その点はご注意ください。MCUの集大成としては素晴らしいけれども、1本の映画としてあまりにも出来がお粗末なのではないかという視点で書きました。リンクを以下に掲載しておきます。
→https://www.club-typhoon.com/archives/23646953.html
ヒーローが存在するとはどういうことなのか?
(C)Marvel Studios 2018
マーベルが作り出す世界観の中に置いてヒーローの存在というものはこれまで疑いようもないものでありました。その存在の強度はと言うと、プラトンやアリストテレスの遺物の上に形成された中世スコラ哲学の普遍的な神の実在の絶対性に通ずるものがあります。
ヒーローという存在は永遠に変わることの無いイデアなのでしょうか?ヒーローの存在の絶対性を基軸として生み出されてきたマーベルコミックスたちは、イエスの存在を核にして作り上げられてきた「聖書」に非常に近似しているようにすら思われます。
いつしか我々はそのヒーローの存在に対して問いを投げかけることを忘れてしまいました。彼らの存在を普遍的でかつ絶対的なものであると信じ切った上で、マーベルコミックスという「聖書」を信仰するようになったのです。
デカルトはかつて「われ思う、ゆえにわれあり」という1つの真理に辿りつきました。つまり私の自我が私を認識できるから、私は存在しているのだという理論です。彼は方法的懐疑の末にこの結論を出したとされています。しかし、それは私の自我という存在を絶対化した上で議論が進んではいないでしょうか?私の存在を保証する私の自我の存在はどこにあるのでしょうか。
存在への問いがどんどんと忘れられていくことに関して、ハイデガーは3つの要因を挙げています。
- 「存在」はあまりにも普遍的な概念であること
- 「存在」はあまりにも自明の概念であること
- 「存在」はあまりにも定義が難しい(不可能である)こと
このような存在への問いを発することの難しさがいつしかマーベルの世界観におけるヒーローの存在を普遍的で神的なものへと昇華させてしまいました。マーベルコミックスという「聖書」が存在する我々の世界においてヒーローという概念はあまりにも普遍的で、自明になってしまいました。そしてさらに言うと③はハイデガー的な「存在了解」の下で軽視されています。ヒーローそのものの存在論の難しさから目を背け、何となく彼らの存在を了解したつもりになるわけです。
では、MCUが目指そうとしたものは何だったのかと言うと、ヒーローという「存在者」の裏に隠れている「存在」にハイデガー的な問いを発していくこと、マーベルが作り上げてきた彼らの存在の歴史を解体していくことにあったのではないでしょうか。
『アイアンマン』から始まり『アベンジャーズ インフィニティウォー』で1つの結びを迎えたマーベルシネマティックユニバースを総括してみて、そう感じた次第です。
今回はフェイズ1から最新作までを振り返りながらMCUが目指したヒーローの存在論について読み解いていきたいと思います。
フェイズ1:「決意」と「開示」のヒーロー譚
MCUのフェイズ1は何者でもない者たちがヒーローになるという「決意」をし、自己を「開示」する物語に焦点が当たっています。これはハイデガー的な「死に向かう存在」の最初の段階でもあります。いくつかの作品を例に挙げて説明してみましょう。
『マイティ・ソー』
冒頭、ソーはアスガルドの王位を継承しようとしていました。これは彼にとって他人に敷かれたレールでしかありません。だからこそソーは一見自分の人生を生きているように見えて、自分の人生を生きてなどいません。王位を継承としている一方で、自ら王位を継ぐという決断などできておらず、決断したつもりになっているということです。
しかし、この物語の中でソーは多くの「決断」を下していきます。ロキの嘘に左右されたものではありますが、人間の世界で生きていくことをまず彼は「決断」しています。そしてデストロイヤーが立ちはだかった際には、人間たちを守るという「決断」を下しています。
ソーを「決意」に至らせたのはハイデガー的な「良心」という概念です。これは現代で一般的に用いられる意味ではなくて、「現存在」(現在に存在する人間)へと働きかけて本来的な事故を覚醒させようとする内なる呼び声なんですね。
このように「マイティ・ソー」という作品では何者でもなかった男が自分の人生を「決意」し、自己を「開示」していく物語として完成されています。
『アイアンマン』
主人公のトニースタークは伝説の兵器開発者を父に持つ男です。彼自身もその影響を受けて、開発に傾倒し、スタークインダストリーズを継ぐ存在となりました。しかし、これもまた父親が歩いた道を後から追いかけているだけで、彼は自分の人生をまだ「決意」出来ていないんです。
だからこそスタークは物語の中で多くの決断を迫られます。テロリストに直面し、自分の会社が製造している武器が人々を苦しめている現状に気がつきます。すると彼は兵器の製造を中止する「決断」を下します。またパワードスーツを着て戦うという「決意」も彼が主体的に思考したゆえの結果です。
そして最後にスタークは自分がアイアンマンであることを世界に公表します。自らに「決断」を課し、自己を「開示」していくことで、スタークは均質的で埋没した公共世界の中の人間から「単独化」されたわけです。
『アベンジャーズ』
「インクレディブル・ハルク」や「キャプテンアメリカ:ファーストアベンジャー」は話が重複するので省略しました。この2つの作品も間違いなく「決意」と「開示」の物語です。
そして最初のアッセンブル映画であった「アベンジャーズ」ではアベンジャーズというチームにここまで「単独化」されてきたヒーローたちが投企されていきます。されるというと受動的な響きですが、むしろ主体的に自らをアベンジャーズとして世界を救うことに傾倒させていきます。
この「アベンジャーズ」という作品はこれまでのフェイズ1の作品で描かれてきた個々のヒーローの物語をより拡張していると言えます。つまり、個々人の「決意」と「開示」の物語を、ヒーローの「決意」と「開示」の物語へとすり替えているわけです。
これによりフェイズ1はスターク、ソー、スティーブ、バナーといった個人の物語から、ヒーローの物語へと還元されていきました。
フェイズ2(+『シビルウォー』):「責任」と「負い目」のヒーロー譚
ハイデガーは自己を「決意」し「開示」することで、そこに「負い目」や「責任」が発生し、それが「現存在」を主体的足らしめる要因であると考えました。MCUのフェイズ2~『シビルウォー』では、フェイズ1の流れを汲んで、ヒーローたちの「負い目」と「責任」を描こうとしました。
『ガーディアンズオブザギャラクシー』・『アントマン』
この2作品がフェイズ1のヒーロービギンズと決定的に異なるのが、主人公サイドが罪人であるということです。前者の作品のスターロードたちは銀河のアウトローであり、、作中でも一時は収監されたりしています。後者の作品のスコットは不法侵入や窃盗罪で3年間刑務所にいました。
つまりこの2作品における主人公というのは世界に対して負い目を背負っている存在であるわけです。だからこそ彼らには罪があり、ハイデガー的な「負い目」があるんです。それは世界に対して損害を与えてきた存在だからこその「~に借りがある」という意味での「負い目」です。
だからこそ彼らは「負い目」を有するヒーローになるんですよね。銀河のアウトローとして巨悪と戦ったスターロードたちも、正義のために窃盗をするスコットも自身に課された「負い目」を背負い、それに対する「責任」を果たすという形で自己を「単独化」しています。
『アイアンマン3』
本作の冒頭のスタークは宇宙から飛来する敵のことを考えるだけで夜も眠れないほどに不安を感じています。これは彼がアイアンマンとして世界に対して「責任」を有する立場になったことを意味しています。彼は有事の際には世界を救わなくてはならないという宿命を背負うことで自己の「単独化」に成功しているわけです。持ち歩かないと彼を不安にするアーマーは彼の「責任」の象徴とも言えます。
それでもヒーローたるために、自己を「開示」し続けるために戦い続けるアイアンマンの物語が描かれ、ヒーローと「責任」の関連が色濃く描かれています。
『アベンジャーズ:エイジオブウルトロン』
ヒーローたちは世界を守り、より良くしようと考えウルトロンの開発に着手します。これは彼らが(とりわけスタークが)世界に対して「責任」を果たそうという意志の表れでもあります。しかしそんなウルトロン計画が完全に崩壊し、ウルトロンはアベンジャーズが背負う「負い目」として彼らに立ちはだかります。
アベンジャーズはウルトロンという自分たちが作り出してしまった巨悪から世界を守らなければならないという構図に身を置き、世界に対して「責任」を果たさなければならないという状況へと追い込まれます。結果的にウ
ルトロンを打倒し、世界を守ることに成功するわけですが、この作品でヒーローというものが決して「神」や「普遍的な存在」ではなく人間と共に生きるハイデガー的「共存在」であることが明確にされています。
つまりヒーローとして自己を「開示」し続けるために「責任」を負う必要があるということです。
『キャプテンアメリカ:シビルウォー』
この作品は言うまでもなくヒーローの「負い目」と「責任」の物語です。
アベンジャーズは世界を守るために行ってきた活動のために、国際社会から追及を浴びることとなります。つまりヒーローたちは自分たちの理想や行動原理に執着する存在ではなく、あくまでも世界に対して「責任」を負い、それを果たす存在であるべきだという主張がなされるわけです。
この主張を巡ってスタークとスティーブは対立を深めていくこととなります。スタークの考えていることは、国際組織の中の一機関としてのアベンジャーズへとコンバートすることで責任を委譲しようと考えているんですよね。つまり彼ら自身は世界に対して「責任」を負いきれないという考え方です。
一方のスティーブはそれでも自分たちはヒーローとして自分の「責任」は自分たちで背負っていかなければならないという姿勢を強めています。
この『キャプテンアメリカ:シビルウォー』という作品でもってヒーローと「責任」の物語が1つの極致に達していますよね。ヒーローとして自己を「開示」していくにあたっての「責任」の負い方が問われています。
フェイズ3:「死へ向かう存在」としてのヒーロー譚
『ドクターストレンジ』『スパイダーマン:ホームカミング』
この2つの作品のヒーロービギンズとしての特異性は「死」という言葉にあると思います。まず前者は天才外科医のストレンジが自らの生命の危機と医者としての職業的な死に直面するところから物語が展開されます。つまり「死」に臨んだことで本来的な自己の在り方へと目覚めていくわけです。
一方の『スパイダーマン:ホームカミング』は学生という「死」を遠い未来のものと考え、楽観視しているピーターパーカーが主人公に据えられています。自分の「死」もそして他人の「死」をも軽んじてしまう未熟なヒーローが、ヴァルチャーという「死」を現前させるヴィランに直面して、ハイデガー的な「良心の呼び声」に目覚め、ヒーローとして、「親愛なる隣人」としての自己の在り方を「開示」していくわけです。
『マイティ・ソー:バトルロイヤル』
本作は「ソー」シリーズの3作目で集大成ということになるわけですが、そのヴィランが「ヘラ」という非常にハイデガー的な「死」を連想させるものとなっています。
「ヘラ」に直面したことで彼はこれまで探し求めてきた国家や王の在り方というものを見出し、第1作、第2作では継承しなかった王位を継承するに値する者として覚醒します。
やはり「ソー」シリーズはハイデガー的思想が特に色濃く反映された作品と言えるでしょうね。
『ブラックパンサー』
この作品も「死」の臭いが強いヒーロービギンズでありヴィランビギンズです。
主人公のティチャラは自身の父の死に際してワカンダ王国の国王になります。そして彼は一時はキルモンガ―に国を奪われ、瀕死の状態に陥りますが、その象徴的な「死」をもって彼は自分が目指すべき国王の在り方、そしてヒーロとしての役割に気がつき、本来的な自己に覚醒します。
一方のヴィランであるキルモンガーも同様で自分の父親の「死」が彼の行動原理を定めてきました。そして映画の終盤で彼は「死」を迎えるわけですが、彼の思いは決して無駄になどならず、彼の「死」がワカンダ王国の開国を促します。
「死」というものが人間の「生」を変化させ、自らの「存在」の本質へ辿りつく何よりの手掛かりになるとハイデガーは説きました。フェイズ3でどんどんと色濃くなっていく「死」の存在はMCUにハイデガー的な存在論が通底していると考えられる1つの根拠と言えるのではないでしょうか。
そして「死」を描いた『アベンジャーズ インフィニティウォー』へ
(C)Marvel Studios 2018 映画『アベンジャーズ インフィニティウォー』予告編より引用
ハイデガーは「死」を経験する瞬間に、人間は自分の存在の本質を悟ることが
出来るだろうと考えました。しかし、人間は「死」を経験するまさにその時、同時に経験する主体で無くなってしまうわけですから、自己の存在の本質を悟ることはできないのです。
存在への問いは存在が失われる「死」によって反証的に証明されるのだというハイデガーの出した1つの答えを『アベンジャーズインフィニティウォー』はこの上ない形で再現しているようにも思えるのです。
本作中でサノスらは「死」を祝福であり慈悲であると公言しています。つまりサノスというのはまさに存在への問いを忘れ、存在了解に埋没した人間に象徴的な「死」をもたらすハイデガー的存在論におけるある種の救世主なのです。
そんなサノスによってアベンジャーズないしヒーローたちには次々に「死」がもたらされていきます。そしてMCUが追求してきたヒーローたちの存在への問いがここで1つの極致を迎えます。ヒーローたちは存在するのか?ヒーローたちの存在とは何か?という根源的でハイデガー的な問いに、「死」をもってアンサーを提示したわけです。
彼の著書「存在と時間」にはこのような記述があります。
それ(死)はむしろ現存在の根本的情態性であるから、現存在が自分のおわりへとかかわる被投的な存在として実存していることをあかす開示性なのである。
(「存在と時間」より)
アベンジャーズにヒーローたちにもたらされた象徴的な「死」が、ヒーローという概念をも目的論的な終末へと投企していく存在であることを明らかにしたわけです。
かくしてMCUはヒーローたちの存在が”ある”ことの本質をハイデガー的な「死」でもって証明したわけです。
さて『アベンジャーズインフィニティウォー』はこれだけでは完結していませんよね。実はハイデガーの「存在と時間」には「時間と存在」という第2部の構想があったとされています。それが世に出回らなかったがために、ハイデガーが「存在と時間」の中で証明することが出来なかった時間に関する諸事象はしばしば残された課題であると考えられています。彼が「存在と時間」の中で時間についての記述に疑問形を使っている点も興味深いポイントです。
偶然にも『アベンジャーズ4』にドクターストレンジの何らかの意図が絡んでくることやキャプテンマーベルの登場が示唆されたことからも、次回作のキーワードが「時間」になることは明確です。
『アベンジャーズ インフィニティウォー』はハイデガーが生涯を賭して見つけ出すことが出来なかった「時間」への問いに大胆にも踏み込み、ヒーローの存在論に革命的な一歩を踏み出そうとしているのでしょうか。
おわりに
かなり抽象的な議論にはなってしまったかと思いますが、これが私の考えるMCUの思想史です。ハイデガーに関する知識もまだまだ浅薄で、MCUに関してはまだまだにわかの域を出ていないので、これからどんどんと勉強を重ねて、この論を発展させていけたらと考えております。
哲学と映画を関連付けて考えるのは非常に面白いので、ハイデガーに限らずともいろいろな哲学書を読み漁ることでより深く映画を読み解けるかもしれません。
『アベンジャーズ インフィニティウォー』は確かに単独作としてみると物足りなさが目立つのですが、MCUが目指してきたヒーローの存在論への問いの結びと考えるならばこの上なく素晴らしい出来だったと言えるでしょう。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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MCUはヒーローだけでなくキャストも成長させるんだなぁと。クリスヘムズワースはまさにMCUで育った俳優の1人ですね。
面白かったです。
ハイデガー的、を連呼されてますが専攻でもされておられたのでしょうか?
@今回もさん
コメントありがとうございます!
ハイデガー を軸にMCUを見るという試みを前々から考えておりまして、インフィニティウォー公開に合わせて書いてみた次第です。
ハイデガー ではないですが、ドイツ語やドイツ文学、ドイツ映画などは勉強しておりました(^ ^)
読ませて頂きました。
バトルロワイアルのヴィランはデスではなくヘラです。
@名無しさん
ご指摘ありがとうございます!
コミックスのデスと混同しておりました!
めちゃくちゃ興味深く面白い考察でした。
自分の無知を痛感させられると同時に、そんなのどうでも良くなるぐらい単純にオモロッと感じる内容でした。
書いていただいてありがとございます。読めてよかったです。
アベンジャーズ4の時も是非よろしくお願いします…是非に…是非に…!
@名無しさん
コメントありがとうございます!
完全に自己満足で書いたのですが、そう言っていただけて嬉しいです(°▽°) ありがとうございます!
こんばんは。
映画が終わった後、場内が明るくなっても客席が、ザワザワしています。
これは、二部作の前編ですから、心配ご無用だと言ってあげたかった~(笑)
@ランデブーさん
コメントありがとうございます!
自分が見てた時もかなりざわついてました笑
僕自身もポストクレジットシーンでえーっ!と思わず声をあげてしまいました(°▽°)