【ネタバレあり】『リップヴァンウィンクルの花嫁』解説・考察:現代人の「ここにいる」という叫び

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』についてお話していこうと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。

 

『リップヴァンウィンクルの花嫁』

あらすじ

非常勤講師として働く皆川七海はSNSを使って鶴岡鉄也という男性と出会い、恋人関係になった。

七海は教員の仕事も上手くいかず、コンビニのバイトや深夜のネット講師で生計を立てていた。

そんな日々が続き、彼女は鉄也と結婚することとなった。

しかし、披露宴を開くにあたり、彼女は夫との親戚の参列者の人数差に苦心し、安室という男に出会う。

彼女は何とか体面を保とうとし、「なんでも屋」の彼に結婚式の代理出席を依頼して式を挙げる。

結婚式の当日から彼女が個人的に呟いていたSNSアカウント「クラムボン」を発見され、不穏な空気が漂う2人。

しかし、新婚早々に鉄也は浮気疑惑が浮上し、さらに義母は逆に七海に浮気の罪を押しつける始末で、家を追い出されてしまう。

行く当てのない彼女に対し、手を差し伸べたのは安室だった。

彼は、七海に月給100万円という好条件の住み込みのメイドの仕事を紹介するのだった・・・。

 

キャスト・スタッフ

スタッフ・キャスト
  • 監督:岩井俊二
  • 原作:岩井俊二
  • 脚本:岩井俊二
  • 撮影:神戸千木
  • 美術:部谷京子
  • 音楽:桑原まこ

監督・脚本・原作を担当したのは岩井俊二さんですね。

これまで女性を主人公にした作品を多く手掛けており、高い評価を獲得してきました。

ナガ
当ブログ管理人としては『ヴァンパイア』という作品が一番好きなんですが、あまり共感されません(笑)

とりわけ静かなタッチな作品が多くて、おとぎ話のようなテイストの物語が多い印象ですが、その中に現実的なメッセージが込められていたり、深く考えさせられることもしばしばです。

【ヒューマンドラマ】の最新投稿
  • 黒木華:皆川七海
  • 綾野剛:安室
  • Cocco:里中真白

本作で主演を務めているのは、山田洋次監督の映画『小さいおうち』でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞するなど国内外で高く評価されている黒木華さんです。

当ブログでは、黒木華さん出演作のおすすめランキングも作成しておりますので良かったらご覧ください。

そして今作でかなり個性的な演技を披露している綾野剛さんとCoccoさん。2人ともとんでもない存在感です。

ナガ
ぜひぜひご覧になってみてください!!



『リップヴァンウィンクルの花嫁』解説・考察

「白い謎の帽子」は何を意味するのか?

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©RVWフィルムパートナーズ 「リップヴァンウィンクルの花嫁」予告編より引用

リップヴァンウィンクルの花嫁が最初にPVで出してきた映像で特に印象的だったのは、この独特の白い帽子だったと思います。

これはツイッターでいう白い卵、つまり初期アイコンなのです。

この真っ新なアイコンが物語において重要な意味を持つことは言うまでもありません。

現代において我々を取り巻く大きな問題の一つは個性の希薄化です。

この問題が発生した原因というのは紛れもなく「都市」の誕生です。「都市」には群衆が存在します。

群衆が生じることで個人が埋没し、個人と代替可能な他者へとなり下がってしまいます。

誰でもよかったと言わんばかりにSNSで手に入ってしまった彼氏、代理で結婚式に参列するアルバイトたち、東京の大都会を行き来する名もない群衆。

この映画のファーストシーンでは群集の中で七海鉄也が出会うシーンが描かれます。

七海鉄也に見つけてもらうことができず、必死に手を振ったり、ポストを目印にしたりしています。

これはまさに群集に溶け込む個人の消失という現象をワンシーンで表現しているように思います。

そして真白の「私が死んでももはや誰も気に留めない」という種の発言はまさに人の個性というものが失われたということを表現するものであったと感じられました。

一方で、代理の結婚式参列の話はとても興味深いものでしたよね。

主人公の七海は冒頭自分が新婦で、代理出席者を呼ぶ立場でしたが、中盤では自分が代理出席者の立場となります。

彼女が新婦であろうとアルバイトの代理出席者であっても何ら違いがないという皮肉をまざまざと見せつけているわけです。

冒頭の七海というのは、無個性の代替可能な人間でした。

コンビニのバイト、すぐに首をきられてしまう非常勤講師・・・。

だからこそ彼女は鉄也と結婚し、仕事を止めて寄りかかろうとします。

誰かに寄りかかって生きていれば、その間は自分は何者かになれたような気でいられるからです。

しかし、その鉄也という存在から見捨てられた時に突然、彼女はどこにけば良いのかすらも分からなくなります。

そうなって初めて彼女は自分が何者でもない存在だったことに気がつかされるのです。

さて、そう考えた時にSNSとは、無個性な個人の象徴と言えるのではないでしょうか。

SNSにおいて人は皆別の名前で自分とは切り離された存在下のように存在します。

しかし、SNSにおいては個性なんて存在しません。1個人は1データに過ぎないからです。

SNSというのは無個性社会の典型的なモデルなのです。

だからこそ『リップヴァンウィンクルの花嫁』という作品は、我々が個性を失い、代替可能な他者となってしまった現代において、そんな人間の典型とも思える七海が個性を獲得する物語なのです。

彼女の冒頭でのSNSのアカウント名は「クラムボン」でした。

この言葉は、crab(クラム)bomb(ボン)という語源ではないかと言われていて、宮沢賢治の「やまなし」という作品に登場します。

作中でクラムボンは泡が消えるかのように儚く消えてしまうのですが、これはまさに七海という女性の存在の儚さにも重なります。

その後彼女はアカウント名をカムパネルラに変更しましたが、これは『銀河鉄道の夜』に登場する人物です。

「カムパネルラ、また僕たち2人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸さいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」

(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より引用)

カムパネルラとは主人公のジョバンニと共に「ほんとうのさいわい」つまり本当の幸せを探しに行くんですが、カムパネルラは同級生のザネリを助けて死んでしまいます。

しかし、宮沢賢治はこの作品の主題として「自己犠牲」と「他者貢献」を掲げており、そこに本当の幸せを見出しています。

それ故に同級生を助けるために命を落としたカムパネルラは、本当の幸せにたどり着いたということになります。

そう考えると、本作において、どちらかと言うとカムパネルラとは真白のことを指しているように感じられますよね。

初期アイコンのように無個性だった彼女が、本当に自分らしい生き方を見つけていく物語として非常に素晴らしい作品でした。

 

リップヴァンウィンクルとニュークス

リップヴァンウィンクルというのは、真白のSNSプラネットにおけるアカウント名です。

ニュークスというのはみなさんご存じ、『マッドマックス 怒りのデスロード』に登場するウォーボーイの一人です。

私は真白とニュークスにジャンルは全く違えど共通点を感じずにはいられませんでした。

『マッドマックス:怒りのデスロード』では、ウォーボーイたちが君主のイモータンのために戦う姿が描かれます。

しかしウォーボーイというのはあくまで戦闘集団であってその一人一人は個人として全く認識されていない、個性を持たない存在なのです。

つまり、ウォーボーイたちというのは現代を生きる我々にとてもリンクする無個性な存在です。

そんな社会にあって強烈に自分という存在を認めてほしいと叫ぶのが他でもなくリップヴァンウィンクルこと真白とニュークスなのです。

2人の叫びは同じく「Witness me!!」です。

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©2014 WARNER BROS. ENT. 「MAD MAX FURY ROAD」より引用

存在を認められることで我々は代替可能な他者から他の誰でもない個人へと変わることができます。

この二人に共通するのは自分が死んでいく様を見ていてほしいという欲求は、究極の承認欲求でもあるんですよ。

こういう点で真白とニュークスはとても共通点の多い存在であると感じました。



我々がかけがえのない存在になるには

我々がかけがえのない存在になるうえで大切なもの、この物語が教えてくれるのは2つのものだと思いました。

それは「仕事」と「愛」です。

確かにこの二つは現代において自分が唯一無二の存在になれるものだと思います。

真白はAV女優という言い方は良くないですが、ある種の「汚れ仕事」のようなものについていました。

しかし、それでも彼女はその仕事に誇りを持っていましたし、一生懸命でした。

それは彼女が自分を必要とされている、これは私にしかできないと感じていたに他なりません。

だからこそ、それを失うことが怖かった、なんなら自分が死ぬことよりも怖かったのです。だから彼女は手術をして仕事という個性を失うことよりも、死ぬことを選んだのです。

真白の葬式後にAV女優たちが「私たちこの仕事辞めたら何にも残らない。」と言っていましたが、まさにこのことです。

七海も夫と別れ、非常勤講師を首になり、転々としながらも、会ったこともない1人の少女の「家庭教師」役だけはやめられませんでした。

これは彼女にとってその1人の女の子が自分を承認してくれる、自分を自分たらしめてくれる存在だったということを意味しています。

自分が自分であるために「仕事」にしがみつく悲哀と共に、それによって現代において私は私自身であることもできるのだという両面性をこの映画は巧く描いていますよね。

そしてもう1つが「愛」です。

真白は自分と同じく無個性な七海と出会いお互いを承認し合い、お互いをかけがえのない存在だと感じるようになります。

©RVWフィルムパートナーズ 「リップヴァンウィンクルの花嫁」予告編より引用

七海の最初の旦那は七海にとってはデパートでお金を出して手に入る商品のように、何でもいい誰でもいい存在に過ぎませんでした。だからそこには愛はありませんでした。

しかし七海と真白はお互いがお互いの存在意義となれるような関係になっていきます。これを愛と呼んでいいのかはわかりませんが、「愛」と形容しておきたいと思います。

七海も真白も現代に生きる我々の1サンプルなのです。

つまり、この物語を通して岩井俊二監督は、彼らを媒体として我々にいかに唯一無二の存在となることができるかを伝えようとしているのではないのでしょうか?

御伽噺というものには、いつだってある種の「教訓」がつきまといます。

岩井俊二監督が描く、この現代の御伽噺にも、私たちが明日を生きていく上で大切な「教訓」が込められていますね。

 

真白の実家のシーンの異常性

真白の実家のシーン。

ナガ
あのシーンは感動された方も多いのではないでしょうか?

しかし私はあのシーンにそこはかとない不気味さを感じずにはいられませんでした。

あのシーンで言いたかったのが、真白の母親が真白の生き方をやっと認めてあげたということなら実にこのシーンは感動的です。

しかしこのシーン、私にはむしろ本当に真白を認めてあげることができたのは七海だけだったということを表現しているのではないかと思いました。

真白は死ぬ間際に幸せでもなんでも私はお金で買う、と発言していました。

そして実家のシーンで登場する3人において真白の死によってお金を受け取ったのは誰だったか思い出してほしいのです。

それは安室と真白の母親に他なりません。

つまりこの2人がこのシーンで服を脱ぎ感極まり、真白の遺骨の前で焼香を挙げるという行為はお金で買われたものとは解釈することはできないでしょうか?

結局母親は真白に何一つ共感しておらず、お金をもらえたから、娘を思い感極まったふりをしているだけのように感じられるのです。

このシーンは母親の涙ですらお金で買えてしまうという究極の皮肉を表しているように私には感じられました。

ナガ
というよりも七海という存在が「お金」に返還されてしまったことを感じさせられるようなシーンですよね・・・。

母親は娘をかけがえのない存在ではなく、お金を提供してくれた一個人とみなしているのです。

こんなことを考えているとあのシーンはとてつもない異常性を持って私の前に現前していました。

七海だけが服を脱いでいないというのも1つ注目すべきポイントなのかもしれません。

無性に切ないシーンではありますが、真白が死ぬ前に七海という心の底から分かり合える存在に出会えた幸運を噛み締めたくなりました。

 

おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』についてお話してきました。

長くなったが今までこの作品も含めて計8作品の岩井監督作品を見てきましたが、この『リップヴァンウィンクルの花嫁』は彼の1つの集大成にして、最高傑作だと思いました。

この映画を経て、次に岩井俊二監督がどのような映画を作りだしてくるのかにも注目したいところです。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

 

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1件のコメント

こんにちわ。考察、興味深かったです。
アムロは、いつ、七海をロックオンして、別れさせ、心中相手にしようとしたのでしょうね?
別れさせたのは、旦那の母ではなく、アムロですよね?
結婚式の時の感触から、七海なら優しく流れやすい性格なのでうってつけと見抜いたのでしょうか。

>こんなことを考えているとあのシーンはとてつもない異常性を持って私の前に現前していました。

母親は、素朴な性格と酔いもあり暴走したのかもですが、アムロはあからさまにあざとさを感じました。
このような席でさえ「虚偽の演技」をせずにはいられない業というか。
闇であり病みですね。病的なアムロの性格。

そんな彼も、ラストシーンでは仕事を離れ、家具をあげる。という無償の行為を。
途中、子供と遊んでいた時といい、ときおり無邪気さを感じます。

最後の握手は、もう二度と会うことはないと、お互い知ってのことでしょう。
とても面白かったです。