みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ウーマンインザウィンドウ』についてお話していこうと思います。
当ブログ管理人、配信を知ったとき非常に興奮していたのですが、この興奮が伝わらないといけないので、一応監督について解説しておきますね。
ジョー・ライト監督は、『プライドと偏見』や『ウィントンチャーチル』などの作品を手掛けたことで知られるクリエイターです。
とりわけ彼が手がけた作品で2007年に公開された『つぐない』は第65回ゴールデングローブ賞作品賞(ドラマ部門)を受賞するなど非常に高く評価されています。
その演出力が高く評価されている彼が、今回Netflix独占配信作品として、 A・J・フィンの著した小説を映画化したというわけです。
まず、タイトルからして『ガールオンザトレイン』を思わせるものになっていますよね。
しかも設定も、主人公が精神的な病に悩まされていて、それが過去のトラウマに起因しているという非常に共通点の多いものになっています。
そこに、今回『ウーマンインザウィンドウ』は、ヒッチコックの『裏窓』へのオマージュを込め、アレンジしているのが特徴的でした。
家の窓から見える景色でしか情報が入って来ない状況の中で、事件を断片的に目撃してしまうという独特のミステリのスタイルを強く継承し、ジョー・ライト流にアレンジしてありましたね。
撮影・照明や舞台設定も見事だったのですが、何と言っても主人公のアナを演じたエイミー・アダムスの熱演です。
自分自身も信じられなくなっていく中で、広場恐怖症に怯えながら、酒と薬に惑わされながら、真実を追い求めていく姿は、何とも印象的でした。
また、脚本に、俳優としても活躍する一方で、戯曲作家としても知られるトレイシー・レッツが起用されていました。
本作『ウーマンインザウィンドウ』はアナの家以外の舞台が基本的に登場しない作品であり、その点で映画というよりは舞台に近い演出が求められます。
そこを彼の脚本が巧くクリアしてくれていたんじゃないかな?とも思いました。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
『ウーマンインザウィンドウ』解説・考察(ネタバレあり)
ただ赦されたかった女性の物語
(映画『ウーマンインザウィンドウ』より引用)
本作『ウーマンインザウィンドウ』は、ポール・オースターの『幽霊たち』的な、見る・見られるの関係に裏打ちされた1人の女性の「赦しの物語」となっています。
主人公のアナは、過去に自分が運転中に起こした交通事故によって夫と娘を失っています。
それから、彼女は家族の匂いが染みついたあの家から一歩も出ることができなくなったしまったのです。
広場恐怖症という病名がついてはいるものの、彼女を苦しめているもののその実は自分の手で家族の命を奪ってしまったことに対する罪悪感でしょう。
だからこそ、彼女は家族の写真や遺品に満たされたあの家の中で、妄想の中で幸せな家族の暮らしを緩やかに維持しているのです。
そんな彼女が自宅の窓から見ていたのが、隣の家に引っ越してきたラッセル一家なのですが、この家族がアナの写し鏡のような機能を果たすところは、本作のポイントと言えるでしょう。
というのも、ラッセル一家は
- 父親が高圧的かつ支配的で、妻や息子との関係が上手く行っていない
- 両親の関係悪化に息子が精神的に怯えている
と言った特徴があり、劇中で明確には描かれていませんが、アナもかつて3人家族で暮らしていた時に、まさしくこうした状況を経験したのではないでしょうか。
とりわけ描かれていた回想シーンの中では、アナと夫の口論に怯えている娘の姿が映し出されており、これが彼女がイーサンを助けてあげたいと思った最大のきっかけでもありました。
つまり、彼女がイーサンを救ってあげたいと思うのは、彼があの雪道の事故の日に助けてあげられなかった自分の娘オリヴィアのオルタナティブだからなのです。
しかし、物語が進むにつれて、状況が刻一刻と変化していき、実は向かいの家でナイフを突きさされていたのは、ジェーンではなく、イーサンの実母であるケイティだったことが明かされます。
そして、ケイティは妊娠中に家出をしてしまい、その後ドラッグづけになっていたところを発見されて逮捕され、親権はアリスターに移されたのだと判明しました。
イーサンはそんなケイティに強い恨みを持っており、さらに自分の娘を死なせてしまったアナにも同じ「母親失格の女性」というレッテルを貼り、一方的に恨んでいます。
そんな状況下でも、アナは何とかしてケイティ殺害疑惑の真相を解き明かそうとするわけです。
その背後にあるのは、アナが自分自身を救いたい、赦したいという思いに他なりません。
娘を失って薬とアルコールに溺れたアナと、息子をほったらかしてドラッグに走ったケイティはどこか似ており、写し鏡のような関係に思えます。
つまり、アナがケイティを救いたいと思うのは、ケイティを救うことが他でもない自分自身を救うことと同義だからなんです。
そんな彼女に立ちはだかるのが、復讐に燃えるイーサンなのですが、先ほども説明したように、彼はアナにとってオリヴィアのオルタナティブですよね。
そのため、アナが「赦し」を得るための1つの方法は、「オリヴィア=イーサン」による殺害という断罪を受け入れて、赦されることでしょう。
当初、彼女は死を受け入れ、そうまでしてでも赦されたいという気持ちを持っていました。
しかし、いざイーサンに殺される算段になると、死への恐怖が勝り、彼女は強く生きたいと思うようになり、反撃に転じます。
彼女はイーサンからの攻撃を受け、顔面に深い傷を負いました。
それは彼女の罪の象徴であり、罰を受けたことの表れであり、そして彼女が「赦しを得たこと」の証明でもあります。
ラストカットで、彼女は家族と過ごしたあの家を「車で」去っていきました。
それは、彼女の時間が再び動き出したことを示したシーンであり、雪の日の事故現場で止まっていた彼女が初めて次の場所へと一歩踏み出せたことを表したシーンでもあります。
ただ、惜しむらくはアナの事故に関する描写や、生前の家族に関する描写が少な過ぎたことですかね。
ここがもう少し描けていれば、全体的にドラマに「重み」が出ていたかなと思うので、もうひと工夫欲しかったです。
見事だった1つの舞台装置の使い方
そして記事の冒頭にも書きましたが、本作『ウーマンインザウィンドウ』はヒッチコックの『裏窓』へのラブレターのようでありながら、同時に舞台的な演出が際立つ作品でもあります。
まず、主人公の穴が暮らしている自宅は、
- ①屋上とテラス
- ②彼女が多くの時間を過ごしている寝室、リビング、キッチンがあるフロア
- ③その下の玄関のあるフロア
- ④さらにその下に間借り人のデヴィッドが暮らす空間
があるという構造になっています。
まず、②と③は吹き抜けの階段で繋がっているのが特徴的ですよね。一方で②・③と④は鍵付きの内階段で繋がっていて、加えて別々の玄関を有していました。
この建物の構造が、実はアナの心の内と同じ構造をしているのです。
玄関というのは、外界との繋がりであるわけですが、彼女は基本的に玄関のあるフロアとは隔てたフロアで生活しており、下りていくことは稀ですよね。
しかし、それらを繋いでいるのが吹き抜けの階段であるという事実は、彼女自身が外界との繋がりを断つことを本当に望んでいるわけではないという心情を表していると思います。現に彼女は比較的積極的に隣人を家に受け入れていました。
ただ、④の「デヴィッド=隠された罪人」が暮らしているフロアは吹き抜けの階段ではなく、鍵のついた別の内階段により隔てられています。
これは、アナが心の奥底に抱えている雪の日の事故の記憶、つまり自身の罪の記憶を表していると言えるでしょう。
- ②=家族の記憶
- ③=社会との繋がり
- ④=罪
という具合に、心の構造ないし階層が家という形で可視化されているのです。
そして、残された①の屋上テラスについてですが、彼女は基本的にこの場所を訪れません。
映画の冒頭で、間借り人のデヴィッドがテラスの天窓がカビているから業者を呼んで、メンテナンスした方が良いよとアドバイスするところで登場したのみでした。
そもそもあの天窓は、自宅の階段がある吹き抜けに光を取り入れるためのものなのですが、そこが汚れているという事実は、彼女の心に光が失われていることを示していると言えます。
(映画『ウーマンインザウィンドウ』より引用)
だからこそ、映画のクライマックスでは、アナがイーサンを打倒した際に、天窓が割れるという動線が演出されています。
これは、彼女の心に「光=赦し」がもたらされた瞬間を演出しているとも言えますし、彼女の心が外界と繋がった瞬間を表していたとも言えるでしょう。
また、本作のタイトルにも含まれている「窓」は彼女の傍観者的な立ち位置を担保するモチーフです。
広場恐怖症で外に出ることができないアナは、自身の大好きな映画を見る感覚で、「窓」というスクリーン越しに外の世界を垣間見ています。
外の世界に直接触れることなく、触れたような気になる。それは彼女の過去との向き合い方にも言えることで、彼女は自分の安全圏を脅かすものと「窓」を隔て、傍観者の立場を取ろうとするのです。
だからこそ、物語の終盤に「天窓」が壊れる瞬間というのは、彼女の「傍観者」的立場からの脱却を表現しているとも言えます。
最終的にアナは、あの自宅から引っ越すことを選択します。
家族の不幸からの逃避から脱却し、自身の過去の罪に対する「赦し」を得たからこそ、もう彼女はあの家に留まる必要がありません。
家を心に例え、天窓の破壊を「赦し」や希望に例え、最終的に家を離れるという動線を演出することで、アナの心情の変化を描くという舞台的なアプローチが非常に効いていたと言えるでしょう。
「信頼できない語り手」こそが真実
(映画『ウーマンインザウィンドウ』より引用)
そして、もう1つ『ウーマンインザウィンドウ』の物語的な面白さになっているのは、アナがあまりにも典型的な「信頼できない語り手」として描かれている点です。
精神的な病を抱えていて、アルコール依存症で、大量の薬物を常飲しており、さらに目にしている情報が窓から見える断片的なものであるという「信頼できない語り手」の役満状態のアナ。
こうしたアナの描かれ方は、これまで社会の中で「狂っている」というレッテルを貼られて虐げられてきた女性を象徴しているようにも思えます。
とりわけ、警察が来た際にも、アナの証言は軽視され、一方でアリスターの証言だけが社会的に信用されるという構図が強調されていました。
これは、男性優位社会を表しているともとれるわけですが、終盤にこうした状況の転換が起きます。
つまり、これまで「信頼できない語り手」であると思われてきたアナが実は、「信頼できる語り手」であったという事実が示される形で、メタ的に物語がひっくり返るのです。
詳細が描かれていないので、何とも言い難いのですが、アナが亡き夫に浮気を疑われていたのも、何を言っても信用してもらえなかったという事実が根底にあるのかもしれないと思いました。
そうであれば、物語のラストに警察官の男性からかけられた「あなたが正しかった。申し訳ない。」という言葉は、これまで信じてもらえなかったことで、多くを失ってきた彼女にとって何よりも救われる言葉だったのではないでしょうか。
アナは、ただ「あなたが正しい」とそう言って欲しかったのです。
しかし、彼女があまりにもステレオタイプ的な「信頼できない語り手」であるためか、この映画を見ている我々も彼女を信じようとは思いません。多くの人が彼女は「狂っている」と思ったでしょう。
それでも、彼女は「正しかった」のです。
この反転こそが『ウーマンインザウィンドウ』という作品の肝だと思います。
男性優位社会の中で、「狂っている」というレッテルを貼られて虐げられてきた女性が「正しさ」を担保されることこそが、本作において何よりも重要だったのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ウーマンインザウィンドウ』についてお話していきました。
もう少し、主人公の広場恐怖症であるという事実に即した描写や過去のトラウマに関する説明があると、物語により深みが出たのではないかなとは思いました。
基本的に主人公が酒や薬を飲んでフラフラしているだけの狂人としてしか描かれておらず、物語の肝であるはずの「広場恐怖症」という設定に対する言及が甘すぎるのは気になりますよね。
ただ、家という1つの舞台を使った演出や窓に纏わる『裏窓』へのラブレター的な側面も伺える独特のショットなど優れた部分も多くある作品です。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。