はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
久々のブログ更新になります。今回は、マーティン・スコセッシ監督の「沈黙」について語っていきたいと思います。
おそらくかなり長文になると思いますので、いくつかに章立てして書いていきたいと思います。そのため、全部読んでいただけるのはもちろんありがたいですが、気になる章だけでも読んでいただけると嬉しいです。
作品の概要
「沈黙」という作品は1966年に遠藤周作によって著された、日本の小説作品であり、今作「沈黙-サイレンス-」は、「タクシードライバー」や「ウルフ・オブ・ウォールストリート」などを手掛けたマーティン・スコセッシが同小説を映画化したものとなる。
「沈黙」は、江戸時代初期の長崎でキリスト教弾圧が行われ、そこで苦しむキリシタンやパードレ(司祭)たちの姿を描く。「神の沈黙」の何たるかに迫る不朽の名作である。
マーティン・スコセッシは自身の作品「最後の誘惑」(1988)を撮影し終えたころから、この作品の映画化の構想を練り始めたという。そこから考えると、実に28年の時が流れて、ようやく公開に至ったのである。パンフレットに記されていたが、1991年にニューヨークでマーティン・スコセッシ監督は遠藤周作本人に直接お会いしたそうで、その時に同作品を映画化したいという旨を伝えたそうだ。
また、浅野忠信さんもインタビューで、自分が駆け出しのころに小耳にはさんだ「マーティン・スコセッシが日本を題材にした映画を撮影しようとしている。」という話が10年、20年の時を超えてこうして実現したことに感激していると述べている。このことからも伺えるように、今作「沈黙-サイレンス-」は非常に長い時間を経てようやく世に放たれたのである。
今回の記事では、作品のさまざまな点に触れながら、最終的に遠藤周作が、マーティン・スコセッシが今作で描きたかったものの本質に迫っていきたいと考えている。
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謎だらけの本作を10の視点から本作を解説!
遠藤周作が描く「母なるキリスト像」の起源は?
遠藤周作が日本人でありながら、キリスト教というものに興味を持ち、自身の人生を、キリスト教を題材にした文学作品にささげることを決意したのか?という点に疑問を持たれる方は多いと思う。私自身も非常に疑問に思っていた。
遠藤周作は1926年に満州で、父の常久と母の郁との間に生まれた。周作の幼少期から2人の仲は悪く、結局周作が10歳の時に2人は離婚してしまう。そして、母の郁と一緒に周作は日本へと帰国する。このころから、郁の姉の影響で、一家でカトリック夙川教会に通うようになる。
そして1935年に周作はカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂で洗礼を受ける。この時のことを、周作自身は、「母親が勝ってきてくれた洋服をそのまま着せられた」ようであるとのちに喩えている。つまり、全く自発的な意志からではなく、また、彼は別の著書で、キリスト教を捨てようとしたが、「母親への愛着」から捨てられなかったことを述べている。
つまり、のちに彼が描くことになる、「母なるキリスト像」、その起源は、遠藤周作自身の母親への愛情と深く結びついているのである。そして、1953年にフランスのリヨンへの留学から結核を発症した周作が戻って来た年に、その母、郁は脳溢血で急死する。
これは彼がまだ作家として活躍するよりも前の話である。慶応義塾大学出版会より出版された加藤宗哉氏の「遠藤周作」でもこの時の話が述べられていたので紹介する。
周作の蔵書のうちの一冊、ダニエル・ロップスの原書の百二十頁から、死の直後の母の写真が発見されたが、安らかとは言い難い表情が写されている。・・・(中略)・・・この写真を挟み込んだ周作がたびたび取り出して、見つめたとは考えにくい。それほどに苦痛を残した郁の表情である。臨終に駆けつけることのできなかった息子が、母を苦しませ、孤独のうちに死なせたと後悔したのは当然だろう。
また、ロップスの原書というものが、周作にとって小説を書くきっかけになった一つであったというように非常に大きな意義を持つ品であることから考えて、この本に母の苦しみを映し出した写真を押し込めた事には、母親への強い愛情とそれと同じくらい強い後悔とそして覚悟が秘められているのである。同書に次のようにも記されている。
そしてその写真の代わりに、ヴァイオリンを持つ母の写真、若い日の穏やかな笑みをもらす母を周作がケースに入れ、家にいるときも旅行に出るときも傍らに置いたのは、この日からではなかったか?
このことからも、母親への周作の強い愛情がうかがえる。また同時に、母親の苦しむ写真を封じ込めたことから生じた、小説家としての覚悟も表出しているようにとれる。母の死を経て、周作は一気に文学界での地位を確立していくこととなる。彼の中には常に自分自身の母への強い思いが秘められており、このことがキリスト像に母なる側面を見出していくきっかけになったのであろう。
遠藤周作のフランス・リオンへの留学
遠藤周作は1950年から3年間フランスへと留学している。ここでの経験が、彼の作品群に多大な影響を及ぼしていることはさかんに論じられてきた。遠藤周作はマルセイエーズ号で2か月という期間をかけてフランスへと航海した。
フランスへの留学への希望に満ちていた周作は、この2か月の航海で非常に大きな衝撃を受けることとなったのである。彼が過ごしたのは、マルセイエーズ号の船底にある四等船室、いわば最下層の船室であった。これは捕虜の兵士たちを輸送するための船艙であったともいわれるほどの劣悪な環境だったのである。このマルセイエーズ号での2か月間で遠藤周作が受けた衝撃は大きく分けて2つではないかと考えている。
1つ目は彼の「出世作のころ」というエッセイで述べられている次の一節に寄与する。
火柱はまたあがり、火の粉をまき散らした。それはわたしの変化していく船中での心境にほとんど決定的な一撃を与えたような夜だった。私は自分が大学の研究室に残るのはやめようと思った。
これが結論となるわけだが、これに至るまでに、彼が香港やマニラで日本人への強い反感から下船することすらかなわなかったという経験は関連しているであろう。日本は1945年にポツダム宣言を受諾し、戦争に敗北した。
日本はアジア圏においてはその版図を広げて、数々の戦争犯罪を起こした。しかし、日本国内から出ることもなかった周作に、戦争犯罪国としての日本を知覚する経験はこれまでなかったと言える。ほかのアジア諸国でも同様のことが起こっており、また同時期には朝鮮戦争も始まった。
そして、それにとどめを刺したのが、上記で引用したストロンボリ火山の夜での経験なのだ。彼は間違いなく、その火柱に「戦争」を見たのである。彼は、このフランスに向かう航路で初めて、戦争犯罪国としての日本の立場を自覚したのだ。
そしてもう一つの衝撃は、間違いなく人種の問題だったと言えるだろう。遠藤周作が1955年に「白い人・黄色い人」という作品を出版しているのはご存じだろうか?このような作品を執筆したことからも、彼がこの航路ないし留学で人種という問題に直面したことは証明されている。
専修大学出版から出版された辛承姫氏の「遠藤周作論」では、「アデンまで」を例に挙げて、白人が優、黄色人が劣という西洋的な美の基準を自虐的に描き出したことが示唆されている。ここには船内で起きた数々の黄色人・黒人に対する差別的を見てきたことに対する周作自身の劣等感にも似た感情が表出していると考えている。
また同書で、「青い小さな葡萄」中の酒場でのワンシーンで、「やらねえのは仏蘭西人だけさ。」「だから俺たちは独逸人や日本人を裁いてやったんだ。」というセリフの応酬からこの戦争犯罪国としての日本の自覚と、黄色人という西洋の美の基準における劣等人種、つまり「弱い人間」としての自己認識が「裁く」という問題へと発展していく。
西洋的な価値観に照らし合わせると、「白」というのは処女的なイメージとも結びつけられるように、純粋で潔白、まさに絶対善的なイメージだと考えられる。ゆえに絶対善に位置する自分たちが、戦争犯罪国を裁くことに何ら矛盾をはらんでいないと言う事である。キリスト教には善か悪、白か黒しか存在しない。その2つが混ざり合うことはないのである。
ゆえに、善か悪かで物事を捉える。しかし周作はそんな西洋的価値観に疑問を持ったのである。キリスト教社会には間違いなく絶対的な善など存在していないのである。正義の名の下に「悪」を実行してきたにもかかわらず、それに目をつむり、自分たちは絶対善であると錯覚し続けていたのだ。この西洋と日本がそれぞれ、強者と弱者に対応するというキリスト教的な考え方は間違いなく「沈黙」に大きな影響を与えている。というのもこの作品はロドリゴという西洋人が、キチジローのような弱者の苦悩や葛藤、痛みを知る物語であったからである。
また、ここでの経験が、キリスト教における日本と西洋の「距離感」を実感することにつながったと、辛承姫氏の「遠藤周作論」で述べられている。日本において神という存在は、八百万の神という言葉もあるように、万物に神が宿る、つまり汎神論的な考え方なのである。一方で、西洋のキリスト教というものは完全に一神教的な考え方です。絶対善を錯覚し、人を裁けると驕る西洋人の価値観の根底にあるものが、この絶対性を持つ父親的な性格を持った神であることを周作はこのフランス留学で見抜いたのである。
このように、遠藤周作はフランスへの留学で多くを学んだのである。そして、帰国に際しては、自分が超えた「ひとつの山」の向こうに「もっと大きな山々」がそびえたっていることに気づくのである。近づいたと思っていたキリスト教への距離はまだまだ遠いものだったのだ。
このころにはイエスはキリスト教を、母親から無意識に着せられた意識などとはとらえていなかったと思う。もはや、このキリスト教への距離感を文学によって埋めていくことが自分の使命であると言わんばかりに考えていたはずだ。そしてその覚悟は母の死をもって一層強くなるのだ。
キリスト教に対する距離感
ここからは、より「沈黙」という作品に近い内容に触れていきたいと思う。彼が作家として描き続けたキリスト教に対する距離感についての一つの到達点こそがこの「沈黙」という作品なのである。作中でその西洋と日本におけるキリスト像の対比は小説でもそしてマーティン・スコセッシによる劇場版でも明確に示されている。
それは、「ロドリゴがポルトガルやローマ、ゴアや澳門で幾百回眺めてきた威厳と誇りを持ったキリスト」と日本の踏み絵に見る「痩せこけて疲れ果てたキリスト」である。
マーティン・スコセッシ監督もこの対比を視覚的にうまく取り入れている。作中でキリストの肖像の画像を幾度となく挿入し、それを日本で登場する踏み絵のクローズアップショットでもって比較的に描き出している。
そして「沈黙」の作中ではフェレイラより次のような言葉が語られる。
「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、ずっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐り始める。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地にキリスト教という苗を植えてしまった。」
この言葉は、まさに日本と西洋の距離感の表出と言えるだろう。作中では、じい様と呼ばれる人が神的に扱われていたり、日本人がロザリオの欠片にありがたみを感じていたり、天国に関する西洋的でない価値観をその発言の節々から感じさせたりと、日本という「沼地」でキリスト教が独自に発展を遂げたことを具体的に示している。
汎神論がはびこる日本において、絶対的な神、ただ一つを信じる父性的なキリスト教は受け入れられなかったというより、理解できなかったのである。それゆえにパードレがいなくなり、船頭を失った日本におけるキリスト教は母性的なものへと、日本的なものへと徐々にその形を変えたのである。
スコセッシは「母性的キリスト像の表出」をどう描いたか?
ここでは、主にマーティン・スコセッシ監督版の映画「沈黙-サイレンス」に基づいて話を進めていく。先ほど述べたように、西洋的でかつ父性的なキリスト像は日本に浸透しなかったのである。
そしてその父性的なキリスト像の代弁者としてロドリゴは登場する。冒頭に自室で天井を見上げるロドリゴがキリストの顔を思い浮かべ、彼をたたえる描写がある。
ここでのキリストはまさに絶対的な神である。日本に上陸して、彼は日本人の隠れ切支丹たちのために奔走する。そんな中で数々の試練へと直面していく。
ここから彼のキリスト像が変化していくのだ。じいさまやモキチたちが捕らえられて、水攻めにされ、最期は殉教していくさまを見て、ロドリゴは、初めて「神の沈黙」というものに直面するのである。小説にもこの時のことが明確に記されている。
殉教でした。しかし何という殉教でしょう。私は長い間、聖人伝に書かれたような殉教を-例えばその人たちの魂が、天に帰るとき、空に栄光の光が満ち、天使がラッパを吹くような輝かしい殉教を夢見すぎました。だが、今こうして報告している日本信徒の殉教はそのような輝かしいものではなく、こんなにみじめで、こんなにつらいものだったのです。そして海は奴らを殺した後、ただ不気味に押し黙っている。
ロドリゴはこのような殉教は無意味では無かったと言い聞かせながらも、「神の沈黙」に対する疑問と不信感を強めていく。
そして、映画の中盤で、ロドリゴが川で水を飲むシーンで、彼は水面に映る自分の顔とキリストの顔を重ね合わせる。そこに映ったのは、絶望と苦悩に押しつぶされてしまいそうな弱い自分の顔と依然として威厳と誇りをもってそこにあるキリストの顔だった。そんな2つの顔を見て、ロドリゴは笑いが止まらなくなる。これはまさに彼が理想(キリスト)と現実(自分)のあまりにもかけ離れた姿にある種の絶望を感じたことの表れなのだと推察する。この2つの「顔」の対比は遠藤周作の「沈黙」においても重要なシーンであり、マーティン・スコセッシ監督もこのシーンにこだわった様子が見受けられる。しかし、このシーンは、理想と現実の落差を表す一方で、キリストがロドリゴとの距離を縮めていっているという意義をもはらんでいるのだ。
そして、終盤のロドリゴの踏み絵のシーンへとつながる。
「踏むがいい。銅板のあの人は司祭に向かって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番良く分かっている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」
銅板に描かれたキリストに、ポルトガルで見てきたようなキリストの肖像画が重なり、最後にロドリゴの表情が映し出されるという視覚的シークエンス。そして銅板に足をかけるロドリゴ。この瞬間はまさに父性的で、絶対的なキリスト像が、母性的で、弱者に寄り添うキリスト像へと転換した瞬間なのである。
フェレイラによるとこの行為は「今まで誰もしなかった一番つらい愛の行為」なのである。つまり、ロドリゴは西洋の境界的なキリストに背いたが、それと同時に何か別の信ずるものを手に入れたのである。」
原作では、ロドリゴが踏み絵を踏んだシーンで、「司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」という記述があるが、この一節は福音書の記述のオマージュであることは間違いないが、同時にロドリゴの中に母性的な新たな信仰が生まれたことを暗にほのめかしているのではないだろうか。
一方で、映画版では、踏み絵を踏んだロドリゴがその場に崩れ落ちる。ここに二人の捉え方の若干の違いも見て取れる点がまた面白い。しかし、マーティン・スコセッシ監督は遠藤周作文学ないし「沈黙」を深く理解し、それゆえにキリストの肖像画や踏み絵、そしてロドリゴの表情を随時対比的に提示し、視覚的にロドリゴの内面に起こるキリスト像の変化を表現して見せたのである。
マーティン・スコセッシ監督も意識した円環構造の何たるか
まず、遠藤周作作品ないし「沈黙」の根底にある、円環構造はどんなものなのであるかを引用を交えながら解説していきたい。
佐伯彰一氏が「沈黙」を主観と客観から成る3部作の円環構造になっていると指摘したが、確かに、この作品は「まえがき」、「本文(ロドリゴの書簡)」、あとがき(「ヨナセンの日記より」や「切支丹屋敷役人日記」)の3部構成になっているようにとれる。
そしてこれらを紐解くと、まえがきは客観的視点から、本文は主観的視点から、そしてあとがきは客観的視点から描かれるという構成になっており、客観に始まり主観を経て客観に戻るという円環構造を成しているのである。
この視点の変化にはもちろんマーティン・スコセッシ監督が気がついていたことは映画を見れば一目瞭然であろう。ロドリゴの踏み絵以降のシーンでは明確に語り手が変化している。
またほかにも、奥野政元氏が著書の「沈黙論」で空間的な円環構造を指摘している。ロドリゴが日本に上陸してから歩んだ道のりが、長崎の福田から始まり、五島、横瀬浦、大村、鈴田、諫早、千束野、そして長崎に戻って来るという円環形成を指摘したのである。
加えて、辛承姫氏は「遠藤周作論」で、「沈黙」という作品そのものが、遠藤周作の文学的第1期に問い続けた「キリスト教への距離感」への答えとなっている作品であり、彼の文学的テーマへの「円環を閉じるもの」としての意義を提示している。
そして、マーティン・スコセッシ版の映画。よく考えてみると、この作品は最初と最後に自然の音を挿入してはいなかったか?そう。彼もまた、遠藤周作作品ないし「沈黙」に流れるこの円環構造を理解していた人間の一人だったのである。自然の音に始まり、自然の音で終わることで、独自の円環構造を確立したのだ。そしてこの演出はスコセッシ監督の深い理解の表れである。
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なぜロドリゴが主人公だったのか?
「沈黙」という作品を初めて読んだとき、私はなぜキチジローではなくロドリゴが主人公だったのかと疑問に感じたことがある。というのも宗教的な知識が乏しかった中学生のころの私は、この作品は弱い人間に許しを与える物語だと思っていたからである。それが間違っているわけでは決してないが、遠藤周作作品における主題をとらえきれていなかった。
確かに遠藤周作の作品にはキチジローに似た人物が多く登場する。ゆえに彼は重要なキャラクターであることは疑う余地もない。しかし、「沈黙」において重要だったのは、また別のところにある。辛承姫氏が指摘したのは、背教後のロドリゴの日本化にこそ、ロドリゴが主人公たる所以が存在していると言う事である。彼女の見解をここで引用させていただく。
このロドリゴにおける<日本化>への道とは、彼が抱く「父の宗教から母の宗教への転換」というキリスト像のみならず、ロドリゴという<西洋人>、強いては<西洋のキリスト>からの転換そのものを指し示す。この<日本人>、すなわち<日本のキリスト。への転換を果たせる人物としては、やはり日本人の信仰を持ち、弱者の典型であるキチジローではなく、西洋人のロドリゴである必要があったと考えられるのである。
非常に興味深い見解であった。そしてスコセッシ監督による映画を見ていても、ロドリゴとキチジローの出会いの場面における2人の全く対比的な身なりや振る舞いを描く一方で、日本で徐々にそのキリスト像を変化させていくロドリゴと依然として弱者であるキチジローの融和を演出し、最終的には背教者というある種の弱者的立場において完全に2人は同じ種類の人間に落ち着いたのである。
この点に関してはスコセッシ監督の描き方や距離感の演出が素晴らしかった。またロドリゴの棄教後、つまり日本化のシーンをきちんと描いた点も非常に大きい。彼は忠実に、ロドリゴという人物を主人公たらしめたのである。
ユダは本当にキチジローだったのか?
本作を読んで、私は新約聖書のユダに当たる人物は間違いなくキチジローであると思い続けてきた。
というのもキチジローはユダがキリストを裏切るように、ロドリゴを裏切る。捕らえられたロドリゴのところに現れるキチジローの姿はピラトにより裁かれるイエスのところに現れるユダさながらである。
そして何より、「沈黙」で印象的な、「去れ、行きて汝のなすことをなせ」というキリストがユダに言ったセリフをロドリゴがキチジローに言わんとする葛藤があるからである。
しかし、最近になって私は、フェレイラこそがユダだったのではないかという指摘を見た。
非常に興味を持ったので私はユダの人となりについて調べなおすことにした。 ちょうど大学の講義でドイツ語のヨハネ福音書を読んでいるのであるが、そこに面白いエピソードがある。
イエスがマルタとマリアの家を訪れて、ラザロを復活させた見返りにイエスはマリアから高価な香油を受け取る。ユダはこの香油を貧しい人にあげればよいのにとイエスを批判する。つまりユダには明確なヴィジョンがあってそれを実現するためにイエスに付き従っていたのである。そしてイエスが期待に反する行動をとるやいなや彼を批判した。挙句の果てには彼を売ってしまったのだ。
ここで立ち止まって考えてみたい。ユダというのは期待していたものを得られなかったがゆえに棄教したのではないだろうか。という点でユダはフェレイラに重なるのではないか?なるほど。フェレイラは「神の沈黙」に絶望して棄教したのか。そしてなんと「沈黙」の「フェレイラの影を求めて」というあとがき(文庫版には掲載無し)では、フェレイラが棄教した後も、布教活動を続けていたという旨が記されている。
つまり、フェレイラとロドリゴの棄教は全く別物だと言う事を理解しておかなければならないのである。フェレイラがユダに重なると指摘されるのは、「神の沈黙」するさまに、自分が得たいと臨んだものが得られなかったがゆえに絶望し、棄教したからなのだ。
一方のロドリゴは棄教によって新たな信仰を見出したのである。映画の終盤でロドリゴはキチジローが首飾りに忍ばせていた聖画を発見されて以来、キリスト教のことに関して何も口にしないようになったことが述べられていた。この点で、ロドリゴとフェレイラの棄教は本質的に異なるものなのである。結果的に行動だけを額面通りに読み取れば、キチジローはユダに近い人物だが、ユダの人間性を考えるとフェレイラがユダに近いと取ることもできるだろう。
マーティン・スコセッシ監督の言語的なリアリティ
「沈黙」という作品を完全に史実に即して映画化するというのであれば、求められるのは、日本語とポルトガル語による映画化になるだろう。しかしハリウッド映画とあってはそんなわけにもいかないし、第一日本語に英語字幕という構成では、嫌われてしまう。
スコセッシ監督が一人でも多くの人に見てもらいたいことから、英語中心でこの作品を描くに至ったことは容易に想像がつく。だが、スコセッシ監督はそんな中でも映画の中でのリアリティはきっちりと守って見せた。原作では「コンヒサン」という単語は何のことなしにパードレと日本人の共通語になっているが、英語であれば「コンヒサン」は「コンフェッション」である。
ゆえにパードレたちは英語を話す設定だから、「コンヒサン」という単語が理解できないという一芝居を付け加えて見せたのだ。他の言葉でもこのような描写が見られたが、これは映画内の言語的リアリティに大変忠実に作られた演出であると言う事だ。この点は、マーティン・スコセッシ監督の素晴らしい手腕がうかがえる良い例だろう。
「タクシードライバー」を作ったスコセッシ監督だからこそ作れた映画
マーティン・スコセッシ監督といえば、皆さんはどんな映画を思い浮かべますか?私が思い浮かべるのは、無論、ロバートデニーロが主演した「タクシードライバー」です。彼は、アメリカのイタリア移民社会に生まれ、腐敗と矛盾に満ちたマフィア社会への疑問とそこでどうすれば善く生きられるのかを問うたことが彼の作品に影響を与えているという意見もある。
そして「タクシードライバー」はまさにそんな作品である。彼の社会への疑問、まさにポストモダニズム的思想の結晶がそこにあるのである。つまり遠藤周作とマーティン・スコセッシ監督は何か既存の大きなものに対する疑問から映画や文学を生み出してきたという共通点を持っているのである。2人の共通点はまさしく、信じられるものなどないということを信じている点だ。
だからこそ、遠藤周作は無意識に着せられた衣服に疑問を持つのであり、マーティン・スコセッシは自分が生きるアメリカ社会に疑問を投げかけるのである。この点で2人の人物は共通しているのではないかと私は考えている。それゆえ、「沈黙」の映画化がマーティン・スコセッシによって撮影されると聞いた時には、鳥肌が立ったものだ。
篠田正浩の「沈黙」とマーティン・スコセッシの「サイレンス」、そのラストシーン
遠藤周作の「沈黙」の重点を読み解くために、自身が脚本も務め、自身の「沈黙」の孫のようなものと呼んでいた篠田正浩版の映画「沈黙」を挙げたいと思う。この篠田版の「沈黙」はなんとロドリゴが棄教後に、未亡人となった女性を妻に娶り、その妻と求めあうシーンで幕切れとなるのである。
ここから推察できるのは、やはり遠藤周作は、「父性的キリスト像」から「母性的キリスト像」への転換に一番重きを置いていたのではないかと言う事である。女性と交わるというのは、彼が西洋的キリスト教を棄教したことを端的に表す象徴ともいえる。また女性との交わりは、「母性的キリスト像」との融合という意義を孕んでいる。
つまり、尺が限られる中で、自身が脚本を務める映画版で彼が最後のこのシーンを持ってきた点で、彼の主題の重きはあくまで、日本と西洋のキリスト像の「距離感」であり、その転換と調和にゴールを設定したのである。
ではマーティン・スコセッシ版の「サイレンス」では、どうだったのか?こちらのラストシーンは、日本式の火葬で葬られるロドリゴが最後に手に忍ばせていたのは十字架にかけられたキリストの小さな像だったというシーンだ。このシーンをどう読み解くかだが、これを彼が「キリスト教」を捨てていなかったと捉えるのは、半分正解で、半分間違いだと思う。
というのもこの像はあくまでキリスト教のものではあるが、彼が最後に持っていた、像はモキチが人質に取られる前にロドリゴに手渡したものに酷似している。と考えると、彼は西洋的な、父性的なキリスト教を捨ててはいたが、日本的、母性的な形でキリスト教への信仰は捨てていなかったのではないかということが推察できる。
つまり、日本的な手法で葬られるロドリゴの姿とこの日本的なキリスト像をラストシーンに持ってきたこともまたキリスト像転換を表していると取れるのではないだろうか。つまり遠藤周作もマーティン・スコセッシも描き方は違えど、同じところに「沈黙」という作品のゴールを見出していたことが見て取れる。
マーティン・スコセッシらしい光の使い方は印象的でしたし、彼の得意としているカットも非常に多く見て取れた。また、ロドリゴの踏み絵のシーンでお得意のスローモーションを効果的に使ってくるあたりもさすがといえる。
ここまで遠藤周作という人物を深く理解した人物は世界中探してもなかなか見つからないと思う。私も彼の映画の、遠藤周作の作品のほんのごく一部を紐解いてみたにすぎません。マーティン・スコセッシの理解はもっと深いところまで到達していると思う。
結局のところ「沈黙」という題名には、キリストが沈黙を貫いているということではなく、沈黙を貫いているように見えて、実は我々に語りかけているんだよってことが言いたいんだと思う。「沈黙は語る」ということ。その声に気づいたからロドリゴは「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為」を実行したのだと思う。
おわりに
彼はまさに映画の天才である。そんな彼が「沈黙」という作品に携わってくれたことに感謝を述べつつこの記事を締めくくらせていただきます。
引用・参考文献
- 「沈黙」遠藤周作
- 「沈黙」篠田正浩監督作品
- 「沈黙」マーティン・スコセッシ監督作品&同パンフレット
- 「海と毒薬」遠藤周作
- 「青い小さな葡萄」遠藤周作
- 「遠藤周作」加藤宗哉
- 「遠藤周作論」辛承姫
- 「沈黙論」奥野政元
- 「イエスの生涯」遠藤周作
- 「キリストの誕生」遠藤周作
- 「雲仙」遠藤周作
こちらのネタバレ無しの方の記事でマーティンスコセッシの「最後の誘惑」についても言及しておりますので、良かったら、ご覧ください。
参考:【ネタバレ無】 遠藤周作×マーティン・スコセッシ 映画「沈黙/サイレンス」 解説
ここからは2回目を鑑賞しての追記になります。(2月4日記)
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追記その1
ロドリゴとフェレイラが物語の終盤に一緒に輸入品にキリスト教に繋がるものが隠されていないか審査しているシーンがある。特に日本絵画の裏に聖画が隠されていたのをフェレイラが見過ごし、ロドリゴが見過ごさなかったのはやはり2人の棄教が本質的に異なるものだったということをあらわしているように思うのだ。
後にフェレイラは「心を決められるのは主だけだ。」との発言を残すが、やはりフェレイラは西洋的、父性的なキリスト像を捨ててはいないように思われる。
これはやはりマーティン・スコセッシ監督が原作あとがきの「フェレイラの影を求めて」を意識していたということなのであろう。
追記その2
舞台挨拶で窪塚洋介さんが仰っていたのだが、この作品はキリスト教社会にも非常に受け入れられていて、キチジローが登場するシーンでは大爆笑するキリスト教関係者もいたということである。
それにはやはりマーティン・スコセッシ監督が映画オリジナルで取り入れた、ロドリゴの手に握りしめられたロザリオが一役買っていると思う。
あれはロドリゴがキリスト教を捨てなかったことを匂わせ、キリスト教社会にも受け入れられうる作品に「沈黙」を昇華させたと共に、遠藤周作が目指した、ロドリゴの日本化、西洋的キリスト像と日本的キリスト像の融合というゴールをも表現したのである。
そしてこれはおそらく「最後の誘惑」がキリスト教社会に受け入れられなかったことが大いに関係しているのだと思った次第である。
追記その3
物語の中盤で、五島が異教徒取り締まりにより村ごと消失してしまった描写がある。これは映画版オリジナルなのだが、よくよく考えるとこのシーンは魔女狩りをモチーフにしているということに気づいがついた。
キリスト教は異端の者たちを黒猫に姿を変えた悪魔と手を結んでいると指摘し、迫害したのです。このことがあったため、キリスト教には「黒猫=邪悪」という考えがあったそうです。
今ではもうほとんどそのイメージは無いそうですが、異教徒と結びつけられていた黒猫が壊滅した五島の村に溢れていたのはただの偶然では無いのかもしれませんね。
イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
ヨハネによる福音書13章21-33、36-38
”、ロドリゴが踏み絵を踏んだシーンで、「司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」という記述があるが、”
ナガさんすげえ(°_°)
先程、2回目の沈黙鑑賞してきたのでブログ読ませてもらいました。
「司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」について自分は仏教(日本における信仰概念)で輪廻転生を暗に意味していたと感じました。(Twitterにちょいと呟いてます)
朝が来るとは日の出。つまり、大日で日本における神の御子。
鳥の鳴き声は生まれ変わりを示唆します。
簡単に言えば彼の中における信仰心の変化ですが。
ナガさんの見解もわかる気がするし、色々な意味を含んでいるのかなあ。
あとユダの件は興味深いですね。
確かに裏切りという意味ではフェレイラはユダとも捉えられます。
その辺は自分なりに調べてみようかな?
レクターさんありがとうございます(^ ^)
今日、僕も2回目を見てきて、いろいろ深めてこようと思います!