みなさんこんにちは。ナガと申します。
さて、3月10日よりディズニー&ピクサー最新作「モアナと伝説の海」が公開となりました。
近年、旧来的なプリンセス像からの脱却を図るディズニーですが、今回はラプンツェル以上にアクティブな主人公が登場します。
また、映像面でも今まで以上に進化した作品であることが、その水のCGアニメーションから伺えます。
そんな映像の美しさが際立つ作品ですが、今回は物語にフォーカスして語っていきたいと思います。
今回は、本作を見た方向けの記事になりますので、ネタバレを含みます。映画を鑑賞されてから読まれることを推奨いたします。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『モアナと伝説の海』感想・考察(ネタバレあり)
考察:『モアナと伝説の海』はなぜ今の時代に求められるのか?
今回考えていきたいのは、本作「モアナと伝説の海」がなぜ現代に求められる作品たるか、その理由についてです。
ディズニー&ピクサー作品において、近年「アイデンティティ」という言葉が一つの大きなキーワードになりつつあります。
「アナと雪の女王」や「インサイドヘッド」、「ズートピア」といった近年の作品では、特に「自分らしさ」とは何たるかを問いかけているように思います。
そして、今年日本公開の「モアナと伝説の海」という作品はそんなディズニー&ピクサーが問うてきた「アイデンティティ」というテーマを体現する、一つの集大成的な作品に仕上がっていたと思います。
今の時代はまさに「アイデンティティ」の消失の時代と言えると個人的には感じています。
世界的規模で見ても少数言語の消失や文化の消失などさまざまな民族的アイデンティティの消失が叫ばれています。そしてそれは社会的に見ても同じことが言えます。
無個性の時代、均一化・画一化なんて言葉も良く登場しますが、現代の高度に発展した資本主義社会においては、個人というものが消費者として扱われるようになってしまったのです。
まさに個人というものが代替可能な時代になってしまっているわけです。
そして、ここで本作品と同時上映だった「インナー・ワーキング」という短編アニメが非常に大きな意義を持ってきます。
一人一人が異なる身体と異なる脳を持っているというのに、それを殺して社会の歯車として淡々とパソコンをタイプする人たち。そこに個性はありません。
まさに資本主義社会的な代替可能な個人というものを表現しています。この短編アニメで描かれたあの職場の風景というのは、現代社会の縮図でもあるわけです。
そんな、誰にでもなれる「個人」ではなく。他の誰でもない「個人」として生きていこう!という力強いメッセージがあの短編アニメーションには込められていたように思います。
©2016 Disney 「Inner Workings」予告編より引用
そして、同時上映という形で、この「インナー・ワーキング」を「モアナと伝説の海」の導入に用いたことを大きく評価したいと思います。なぜなら、この2つの作品は、題材も世界観も何もかも違うのに、テーマ性という部分では非常に共通するものがあるからです。
ゆえに、「インナー・ワーキング」が浮き彫りにしている現代社会の「個人」の消失を先に見ておくことで、「モアナと伝説の海」のメッセージ性がよりいっそう強調されることになるのです。
「インナー・ワーキング」の個別記事も書きましたので、良かったら読んでみてください。
次の章では、もう少し「モアナと伝説の海」の本編にフォーカスしていきます。
『モアナと伝説の海』はアイデンティティの物語
では、ここからは「モアナと伝説の海」の方に話を移していきたいと思います。
本作が描いているのは、間違いなく「アイデンティティ」の喪失と獲得の物語と言えるでしょう。
アイデンティティの喪失
本作では、まず「アイデンティティ」の喪失という点が非常に明確に描かれています。
モアナ
©2016 Disney 「モアナと伝説の海」予告編より引用
まずは、主人公のモアナです。
彼女は、海が大好きで、幼少期に海に選ばれた少女となります。
しかし、父親に海に出ることを禁じられ、村の村長の娘として村の人々を支えていかなければならないということもあって、いつしか大好きだった海を忘れ、村長の後継ぎとして生きる道を選びます。
つまり彼女は「自分」を殺して、父親に従う道を選んだのです。
これは、モトヌイ村の人々も同じで、昔は海に生きる航海者たちであったという自分たちの民族的アイデンティティを喪失して、いまや村に定住して外海に出ることなく島に定住しているんですね。
マウイ
©2016 Disney 「モアナと伝説の海」予告編より引用
そして、次に今回モアナとバディを組んだマウイです。
彼は半神半人の大男です。かつて、テフィティから「心」奪い去り、その途中で炎の女神テカに襲撃され、「心」と自身のアイデンティティたる釣り針を失ってしまいます。
また、人々に必要とされることで自分を認識できていた彼は、この事件をきっかけに人間からももはや必要とされなくなります。
テフィティ
©2016 Disney 「モアナと伝説の海」予告編より引用
最後に、今回の本編の主軸となる全能の女神テフィティです。
彼女は世界の生命の源たる神であるわけですが、かつてマウイにそのアイデンティティたる「心」を奪われてしまいます。
その結果として彼女は自分を見失い、炎の女神テカとして世界を闇に包もうとします。
テフィティの「心」の消失はまさに世界から「アイデンティティ」が失われたことを意味しています。つまり、今回の物語の舞台はまさに「自己」が失われた世界であるわけです。そしてこの世界というのはまさに我々の生きる現代社会に通じているのです。
アイデンティティの獲得
ここからは、本作で描かれたアイデンティティの獲得について解説していきたいと思います。
モアナ
©2016 Disney 「モアナと伝説の海」予告編より引用
まずは、モアナについてです。
彼女は、海に選ばれた少女であるとして旅に出たのですが、そこで大きな問題に直面します。それは「自分」が何者なのかということ。なぜ自分が海に選ばれたのかということ。
彼女は海に選ばれるのは、自分じゃなくても良かったと思っていますし、また自分を出身地や村長の娘であるということでしか語れないのです。まさに「自己」を持たない少女、それがモアナという少女だったのです。
そんな彼女が、テカに敗れたマウイが去って行ってしまった時、初めて「自己」を獲得するのです。私がここまでやって来たのは、海に選ばれたからなんかじゃなく、自分の意志なんだと。ここまで下してきた決断、これから下す決断は全て私自身の決断なんだと。出自なんて関係なく、私は私なのだと。
そしてモアナはテフィティを取り戻すことに成功し、村へと戻ります。そんな彼女が歴代の村長の積石の上に、自身が海で拾った貝殻を乗せたカットが最後に映し出されます。
この貝殻はまさに、彼女が自分の「アイデンティティ」として、自分の望んだ決断として村長になったことを意味しています。それはただ、父親に従うがままに石を積み、村長になろうとしていた旅に出る前の彼女とは大違いなのです。
マウイ
©2016 Disney 「モアナと伝説の海」予告編より引用
彼は、これまで人々の称賛を受けることで、自分の存在価値を示してきた人物でした。
しかし、「心」を盗んだことによりそんな人々からの勝算が失われました。また自身のアイデンティティたる変身能力を司る釣り針も失いました。
それに加えて、自分が人間なのか、半神半人なのかという「自己」の揺らぎをも持っています。そのため、テカとの戦いで釣り針が壊れそうになった時、これが無くなると自分が自分でなくなってしまうと、モアナの下から逃げ出します。
しかし、勇敢にもテカに立ち向かっていくモアナの姿に触発されたのか、彼は釣り針なんかなくても自分はマウイであるということを悟ります。
つまり釣り針と変身能力を持つがゆえにマウイたるのではなく、マウイとして釣り針と変身能力を扱うのであるという視点の転換が彼の中に生じたのです。
これはまさに彼が自分自身の「アイデンティティ」を獲得した瞬間であったのでしょう。
終盤にテフィティから、新しい釣り針を渡されて、歓喜する場面が映し出されますが、ここで登場する釣り針と、テカによって失われ、彼がずっと探し続けていた釣り針とでは全く意味合いが違うのです。
テフィティから最後に手渡された釣り針にもはや「道具」以上の意味はないのです。彼は釣り針や変身能力などではなく、自分が自分たる確固とした「自己」を見つけたのだと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回のモアナ一行の旅は、テフィティに「心」を返す旅の旅なのですが、読みかえると世界に「アイデンティティ」を取り戻させる旅として捉える事ができます。
これをさらに読み解くと、我々の生きる無個性的な現代社会に確固たる「自己」を取り戻さなければならないのだ!!という作品の強いメッセージ性が垣間見えてきます。
©2016 Disney 「モアナと伝説の海」予告編より引用
世界から、「アイデンティティ」や「個性」といったものが薄れつつあることで、様々な分野において絶滅、多様性の喪失と言ったことが問題になっています。
しかし、こんな時代だからこそ、我々はもっと「自分」というものを強く持って生きていかなければならないのではないでしょうか?
モアナとマウイ、2人のイニシエーション的なアイデンティティ獲得物語を媒体として、世界にアイデンティティたる「心」を取り戻させた今作「モアナと伝説の海」はまさしく現代社会において大きな意義を持つ作品になったと思います。
行って帰って来るまでの英雄譚として多くの人に受け入れられるる物語構造だったというのも事実ですね。
我々一人一人がかけがえのない「自己」を持つことが、こんな無個性の時代に個性を取り戻す唯一の道なのだということを今作は改めて世界に示してくれました。
「私はモアナだ!」と力強く高らかに宣言した彼女のように、「私は私だ!」そう胸を張って言える人間になりたいと思いました。
今回も読んでくださった方ありがとうございます。
関連作品など
2018年3月公開のディズニーアニメーション映画『リメンバーミー』が非常に素晴らしい家族の物語だったことと少し『モアナと伝説の海』と絡めた解説も書きました。ぜひ併せて読んで行ってください。
また本作『モアナと伝説の海』はサントラも素晴らしいので、こちらもぜひ購入して聞いてみてください。私自身も公開当時擦り切れるほど聞いていました。
また2018年9月に公開された映画『プーと大人になった僕』もかなりおすすめです。当ブログの記事では原作やクリストファーロビンの生涯に絡めつつ映画に隠された意味を読み解いています。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
初めまして、カルロスと申します。
感想読ませていただきました。
大変よくまとめられていて、文章量の割にサラッと読んでしまいました。
自分は本作のテーマは心ではないかと考えました。
物語中でも心というキーワードは登場しましたが、モアナ、マウイ、モアナの父、テ・フィティの全員が一度心を失い(目を背け)、それを取り戻すようになるからです。
心をもう少し具体的に言えば、ナガさんが解説して下さったようなアイデンティティのようなものなのだと思います。
自分が一番したいこと。自分にとって一番必要なこと。自分らしさです。
そして、この物語のキーマンがやはりタラおばあちゃん。彼女は心に忠実でした。
ですから、旅の中で自分自身を見つめさせられたモアナは、タラおばあちゃんとの再会を機に心を見つけます。
マウイもモアナの心をを辿って自分の心を見つけます。テ・フィティ、お父さんも同様です。
この現代、自分らしさという言葉はよく耳にしますが、自分はそれが何であるかよく分からずに使ってしまっていたように思います。
この映画はその1つのアンサーとなっているのではないでしょうか。
インナーワーキングについての考察も大変楽しませていただきました。
自分は技術面に関してですが、色彩表現で本編とのつながりを感じました!
あの内臓たちの色合いや、踊り出すシーンの光が本編で有効に使われていたのが印象的でした。
自分もモアナ大好きになりまして、次はサントラで英語歌詞を追うのが楽しみです。
以上感想です。
ありがとうございました。