はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回は、現在放送中のテレビアニメ「亜人ちゃんは語りたい」 について語っていきたいと思います。本作については以前にも1つ記事を書いております。良かったら下のリンクから読んでいただけたらと思います。
参考:【考察】「亜人(デミ)ちゃんは語りたい」なぜ高橋鉄男は守らないのか?
今回は、本アニメも最終回間際ということで、本作の総括になるような考察にしていきたいと思います。と言うのもですね、「亜人ちゃんは語りたい」という作品はこの第11話でもって最後の1ピースがハマって完成したように思うからです。
第11話にして、絶対に描いておかなければならない高橋鉄男、彼自身の最大の問題にようやく踏み込んだのです。
概要
『亜人ちゃんは語りたい』(デミちゃんはかたりたい)は、ペトスによる日本の漫画作品。『ヤングマガジンサード』(講談社)にて創刊号から連載。第2回次にくるマンガ大賞コミックス部門・第2位。教師である主人公と、普通の人間とは違う性質を持つ「亜人」の生徒との交流を描いた学園コメディである。
(「亜人ちゃんは語りたい」wikipediaより引用)
あらすじ・キャラクター
神話やおとぎ話のモチーフとなり、かつて怪物や妖怪などと称され迫害されていた、「亜人」と呼ばれる特別な性質を持つ人間たちが、世間に「個性」として認められ、一般社会に自然に溶け込んでいる世界。現在では、社会的な弱者である亜人に対する「生活保障」が整備され、若者たちには亜人のことを「デミ」と可愛く呼称するまでになっていた。
新学期、大学時代から亜人に興味をもっていた高校の生物教師の高橋鉄男は、これまで一度も出会ったことのない亜人たちに、突如として囲まれる生活を送ることになる。おしゃべり好きでお調子者な「ヴァンパイア」の小鳥遊ひかり、頭と胴体が分離している「デュラハン」の町京子、暑さに弱い「雪女」の日下部雪といった1年生の生徒たちや、地味な服装にして異性を避けている「サキュバス」の新人教師佐藤早紀絵。
彼女たちは、それぞれに「亜人としての悩み」を抱えながら日常生活を続けており、鉄男は教師として、同僚として、彼女たちの話を聞きながら問題に向かい合っていく。本作は、日々の高校生活の中で繰り広げられる、個性的な亜人たちとの交流で織り成される学園コメディーである。
(「亜人ちゃんは語りたい」wikipediaより引用)
高橋鉄男の行動原理
先ほどリンクを張った記事でももう十分に語りつくしたことなのですが、一旦「亜人ちゃんは語りたい」の第10話までを通して、高橋鉄男が亜人たちをどのようにして支えてきたのか考えておきたいと思います。
Credit: United Way of the Columbia-Willamette
この図は、以前の記事でも引用させていただいたのですが、やはり一番わかりやすいので、今回もこの図を挙げて、説明していこうと思います。
まず、「EQUALITY」というのは、つまりは「平等」という意味ですね。どんな条件やハンディがあったとしても、ある機会へのアクセスに際して、あくまで同じ量のサポートを提供するという考え方です。
一方で、「EQUITY」というのは、「公平」という意味です。こちらの場合、同じ量のサポートをすることに主眼が置かれているのではなく、同じ条件でその機会にアクセスできるようにするという方に重きが置かれているんですね。
そして、高橋先生というのは、亜人と接するに際して、この2つの考え方をきちんと理解し、使い分けている人物なんですね。
だからこそ、亜人に何かその特性ゆえに学校生活における、日常生活における不便があれば、そのサポートをして、他の生徒たちと同じように生活できるようにしてあげます。この時、高橋先生は彼女たちの「亜人」としての側面を見ています。そしてこれは、「EQUITY」の考え方に基づく行動でもあります。
一方で、彼はそういった亜人の特性に関係しないところでは、彼女たちと普通の一生徒として接します。第9話で町京子に怒ってしまったということがありましたが、これも全て、彼が「亜人」を他の生徒と同様に扱っていることの証明なんですね。この時、高橋先生は彼女たちの「人間」としての側面を見ています。そしてこれが、「EQUALITY」の考え方に基づく行動なんですね。
そして、これが最も表れていたのが、第4話での高橋先生のセリフですよね。
「確かにあいつはヴァンパイアの性質に則した行動はあまりしない。だがそれで、ヴァンパイアらしくないと言われると、それは違う。ひかりは人から血を吸いたい気持ちはあるが、パックで我慢している。またヴァンパイアの鋭敏な嗅覚を持ちながらなお、臭いの強い食べ物が好き。でもそういった人間性があいつのヴァンパイアらしさであり、人間としての個性だ。らしさは生まれ持った性質ではない。性質を踏まえてどう生きるかだ。だからと言って、亜人の性質の理解を怠っていいわけじゃない。亜人特有の悩みは必ず性質に起因するからだ。モノの見方は一方向ではだめだ。双方向で然るべき。亜人の特性だけを見ていると個性を見失う。人間性だけを見ていると、悩みの原因にたどり着けない。どちらも大切だ。バランスが大切なんだ。」
(「亜人ちゃんは語りたい」第4話より引用)
ここに高橋先生の「平等」と「公平」そして、「亜人」たちの亜人の側面と人間の側面への理解が詰まっています。
まずは、高橋先生がこういう行動原理を持っているということを整理しました。
高橋鉄男はなぜ亜人に頼られるのか?
ここからは第11話の話題に移っていきます。第11話まで当たり前のように描かれてきた、高橋先生が亜人たちの手助けをするという構図についに疑問を呈したのがこの回なのですが、まずはなぜ高橋先生が頼られたのか?という部分を明確にしておかなければなりません。
この点に関しては、第11話の佐竹たちの会話に重要な要素が挙がっています。
「亜人って言ったって普通の人間と変わらないわけでしょ?」
「あのさ、亜人の事って同じ人間だと思っていいのかな?」
「俺たちと違うっていうのか?そりゃ、差別ってもんだろ?」
「そうかな?さっき亜人は普通の人とほとんど変わらないって言ってたけど、それはつまり違うところはあるってことでしょ。そこを見ないで、同じ人間だって、それこそ差別なんじゃないかな?」
(「亜人ちゃんは語りたい」第11話より)
このやり取りに、高橋先生が頼られる理由の最たる部分が含まれています。つまり、彼は、「亜人」が他の生徒とは違うということはきちんと理解したうえで、他の生徒と変わらないように接していたんですね。これはさきほども述べたように、高橋先生が亜人の側面と人間の側面の両方をきちんと捉えられているからなんですよ。
他の生徒たちと言うのは、社会的制度で決まっているからと、亜人を他の生徒と同じように扱うことが絶対的に妥当なのだと思い込んでしまっているがために、逆に彼女たちの個性ないし特性としての「亜人」の側面を見逃してしまっているんですね。
こういう風に考えている人に、亜人は普通の人間と全く同じだなんて刷り込まれているような人に、彼女たちが自分から「自分は他の人とは違って、こんな悩みがあって・・・。」なんて相談できるはずもないんですよ。それは彼女たちからしたら怖いことなんです。せっかく自分たちと同じ普通の人間だという姿勢で接してくれているのに、その関係性にメスを入れるのはどうしても怖いんですよ。
だから、その違いをきちんと分かってくれている高橋先生に相談が集まるのは自明のことなんですね。違いがある存在として認識してくれている方が、彼女たちにとっては気楽なんですよ。全く同じ存在だ、なんて思われている相手には気を使ってしまうんです。
高橋先生は頑張っていた?
この第11話で、高橋先生に問題提起したのは、教頭先生の「あなたは頑張りすぎなんですよ。」という言葉です。このセリフをきっかけに高橋先生はこれまで自分が亜人とのかかわりの中で取ってきた行動を思い返し、反省します。
©ぺトス・講談社/「亜人ちゃんは語りたい」製作委員会 「亜人ちゃんは語りたい」第11話より引用
しかし、本当に高橋先生は頑張りすぎていたのでしょうか?
私は、決してそんな事は無いと思うわけです。むしろ、生徒たちが頑張りすぎていて、高橋先生が頑張りすぎていないという見方の方が妥当なのではないかとも思えてしまうのです。というのも、生徒たちは亜人を自分たちと同じ存在だと考えて接しなければと変に気負っているんですね。一方の高橋先生は、違う存在ということも認めつつ、他の生徒と同じように接しています。
高橋先生は、どこか自分の行動に無自覚な部分がというよりも、自分が今まで当たり前の行動として亜人を支えてきたために、その行動に疑問を持つことが無かったのです。つまり彼は当たり前のように生徒と接して当たり前のように問題を解決してきただけなんです。だから教師の振る舞いとして、特別頑張りすぎたわけでは決してありません。しかしその性格ゆえに、他人から指摘されたことで、自分の行動を内省的に顧みてしまったんですね。
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支え合う美しき光景
「亜人ちゃんは語りたい」を描く上で最終的に描かれなければならなかったであろう、ワンカットがこの第11話にしてようやく見られたと、本当に感激しております。それがこのカットですね。
©ぺトス・講談社/「亜人ちゃんは語りたい」製作委員会 「亜人ちゃんは語りたい」第11話より引用
なぜ、このカットが本作において最重要かと言いますと、この第11話まで亜人の彼女たちは、彼女たちだけで行動することが多かったですよね。ほとんど彼女たち同士で行動していて、そして生物準備室に来れば、その中心に高橋先生がいる。その光景はとても美しいものです。しかし、それではどうしてもいけないのです。
高橋先生が自分を相馬として比べているワンシーンが第11話にありましたよね。相馬は研究者としての立場から亜人と関わろうとしている。自分は一人の人間として、一人の亜人に興味を持つ人間として、彼女たちと関わっているけれども、自分は「教師」として彼女たちに何をしてあげられるんだろうと考え込んでしまうわけです。
そんな彼を、支えてくれたのは他ならぬ亜人たちでした。感謝のビデオレター、ひかりからの感謝の言葉に自分がしてきたことは間違いじゃなかったと確信するわけです。これまで亜人たちを支えてきた高橋先生もまた亜人たちに支えられているんですね。
そして、教頭先生の下へと向かう高橋先生。そこで、見た光景が先ほどのカットだったわけです。生徒が「亜人」の亜人としての側面をちゃんと知ってあげようと語り合う光景。そしていつも亜人たちが3人で語り合っていたあの屋上で他の生徒も交えて語り合っているという演出がまた憎いんですよ。
まさにこの光景こそが「亜人ちゃんは語りたい」というタイトルをまさに体現しているんですよ。
自分の違いを知ったうえで、普通に接してくれる、そして自分の違いや悩みも全て聞いてくれるそんな友人を彼女たちは探していたんです。それは彼女たちが自分たちを特別扱いしてほしいのではなくて、むしろ普通に接してほしいということなんですね。普通に亜人という特性を持つ、少し他の事は違う部分がある生徒であるということをきちんと認識してもらえることの意義はとても大きいのです。
こんな美しい光景を見て、教頭先生は、高橋先生に今まで通りのやり方を続けるよう促します。そして高橋先生は自分が「教師」としてこれから成すべきことを悟ったのだと思います。
自分が中心になって、この光景をもっと広げていかなければならないんだと。亜人の違いを認めることが「差別」なのではなく、亜人の違いを認めないことこそが「差別」なんだと。
高橋先生はそんな自分に感化された生徒たちにも支えられているんですね。
そこに広がるのは、教師や生徒の垣根を超えて、「支え合う」人と亜人。本当に美しい光景だと思いました。もうこのシーンを見るためにここまでの積み重ねがあったのだと思うと余計に涙が止まりませんでした。
おわりに
もう残すところあと1話となってしまったテレビアニメ「亜人ちゃんは語りたい」。最終話にどんな内容が来るのかはまだ分かりませんが、この作品は第11話をもってもう完成してしまったと言っても過言ではありません。
©ぺトス・講談社/「亜人ちゃんは語りたい」製作委員会 「亜人ちゃんは語りたい」第11話より引用
それほどに重要な回だったと思います。まだご覧になっていない方がいましたら、ぜひ第1話からでも見てみてください。今からでも遅くありませんよ。
これほどまでに深く考えさせられるテレビアニメシリーズも久しぶりだったように思います。
本当に素晴らしい作品でした。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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