アイキャッチ画像:©森見登美彦・KADOKAWA/ナカメの会「夜は短し歩けよ乙女」予告編より引用
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね・・・いや今回「も」ですね、映画「夜は短し歩けよ乙女」について語っていきたいと思います。一つの作品で3つも記事を書いてしまいすみません。そろそろ他の作品の記事書いてくれよ・・・と思われてるかもしれませんが、今回の記事で最後にしますので、良かったらお付き合いください。
「夜は短し歩けよ乙女」に関する過去記事のリンクは以下に掲載しておきます。
参考:映画「夜は短し歩けよ乙女」興行収入・動員予測:アニメ映画ブームに乗れるのか?
参考:【解説】映画「夜は短し歩けよ乙女」:森見登美彦作品のリンクを楽しもう!
今回の記事は、映画版「夜は短し歩けよ乙女」を見てきましたので、早速、解説していきたいと思います。なお、本記事はネタバレありきになりますので、小説版または映画版を鑑賞された方向けです。その点をご了承のうえで、先にお進みください。
そのため作品の概要やあらすじ等は省略して、いきなり本論から入りたいと思います。
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解説:映画版の改変点が引き出した「夜は短し歩けよ乙女」の新たなる魅力とは?
映画版の改変点
映画版では、いくつか小説版から改変された要素があります。その中でも改変された要素として大きかったのは主に2つだと個人的に考えております。
①原作では、古本市で「ラ・タ・タ・タム」の絵本が古本市の神様に回収されて、絵本コーナーに戻されたところで先輩と黒髪の乙女がお互いにその本に手を伸ばし、二人の手が触れるというシーンがあります。そこで、先輩は驚いて、絵本を黒髪の乙女に譲って立ち去ります。
しかし、映画版では「ラ・タ・タ・タム」は古本市の神様には奪われず、先輩が終盤まで保管することとなります。その結果、終盤風邪にかかった先輩の家に黒髪の乙女がやって来た時に、彼女の手に渡ることとなります。
©森見登美彦・KADOKAWA/ナカメの会「夜は短し歩けよ乙女」予告編より引用
②原作では、かなり詳細に描かれていた文化祭の模様はほとんどカットされていて、ゲリラ演劇の「偏屈王」に描写を絞っていました。
また演劇の内容自体も事務局長の女装といった原作でちょっと語られただけのエピソードを膨らませて登場させたり、パンツ総番長の思い人である紀子さんの設定が変更されていたり、全体的にミュージカル仕立てになっていました。
加えて、原作でパンツ総番長と紀子さんの頭に落ちてくるのはダルマだったのですが、映画版では最初のエピソードで登場した竜巻により空に吸い込まれた鯉に変更されています。
©森見登美彦・KADOKAWA/ナカメの会「夜は短し歩けよ乙女」予告編より引用
原作の弱点
上記の2点が、まずわかりやすく原作と映画版で違っている部分だと考えます。この改変がどのような効果を生んだのか?という点についてここから解説していきたいと思います。
「夜は短し歩けよ乙女」という小説は非常に面白いです。これは揺るぎません。しかし、素晴らしい作品にも弱点があります。個人的な印象ではあるんですが、本作はジブリ映画の「千と千尋の神隠し」にすごく似てるように思うのです。主人公がファンタジーの世界に迷い込んで、そこでさまざまな経験をして、現実世界に戻って来るという構成が非常によく似ています。
©森見登美彦・KADOKAWA/ナカメの会「夜は短し歩けよ乙女」予告編より引用
ただ、そう考えるとこの小説には、いくつか弱点があるんですよ。主なものを2つ挙げておきたいと思います。
①古本市で先輩と黒髪の乙女が「ラ・タ・タ・タム」に手を伸ばすシーンはこの作品で言う「現実世界」での出来事で、物語の中盤にもかかわらず、2人がファンタジー世界ではなく現実世界で出会ってしまっていること
これはやはり明確に弱点として挙げられる部分だと思います。第1章では李白の電車、第3章では演劇「偏屈王」の劇中という「ファンタジー」や「フィクション」の世界で2人は出会っているという「現実」と「ファンタジー」の線引きがきちんとできているのに、第2章の古本市の場面では、そこの線引きが曖昧になってしまっています。
②第3章の文化祭がかなり詳細に記録されていて、そのためか「ファンタジー」色が弱まり、「現実」感が強くなってしまっている点。
今作の肝となってくるのが、「フィクション」世界での出会いを積み重ねた先輩と黒髪の乙女が、ラストシーンの喫茶「進々堂」にてようやく「現実」世界での邂逅を果たすという構成です。ただ、やはり第1章、第2章とかなり「ファンタジー」色の強い世界観を描いてきたがために、第3章の大学祭の場面がどうしてもインパクトに欠けるのです。
原作改変が生んだ作品の新たな魅力
結論から言いましょう。原作改変によって、湯浅監督が付与した「夜は短し歩けよ乙女」の新たなる魅力は「フィクション」と「現実」の明確なコントラスト、そしてラストシーンの強調だと考えています。
まず、「フィクション」と「現実」の明確な区別について解説していきます。先ほども言いましたが、「夜は短し歩けよ乙女」の小説版では2つの世界の区別が曖昧になっている部分があるんですね。
しかし、映画版では古本市で2人が出会う場面がカットされ、文化祭の描写を演劇「偏屈王」の1点に絞りました。このことによって、原作が孕んでいた中途半端な「現実」感が排除され、一層「ファンタジー」世界が強調されることとなりました。
文化祭シーンでは特に顕著で、女装した事務局長や空から降って来る鯉、ミュージカル仕立ての演出が「現実」感の排除に効果的に機能していました。
そして、この改変がラストシーンの強調にも繋がってきます。先ほども申し上げましたが、本作のラストシーンの喫茶店での2人の出逢いは本作における最重要ポイントです。なぜなら2人が初めて「現実」世界で顔を合わせるシーンだからです。
ここで効いてくるのが、絵本「ラ・タ・タ・タム」を古本市の場面で黒髪の乙女の手に渡さず、先輩が保管するようにした点です。
皆さんは「ラ・タ・タ・タム」がどんな絵本かご存知ですか?あらすじを読んでいると、「おしいれのぼうけん」なんかも思い出されるのですが、マチアスという少年が作った小さな機関車が、マチアスを探して旅に出る物語です。終盤に李白先生が「『ラ・タ・タ・タム』と同じで終着点が無いといけない。」なんてセリフを残していましたね。
最後はマチアスと小さな機関車が出会うハッピーエンドなのだそうですが、「夜は短し歩けよ乙女」もこの絵本「ラ・タ・タ・タム」になぞらえて作られている節があります。
映画版では、そんな「ラ・タ・タ・タム」の絵本が2人を「ファンタジー」世界から「現実」に引き戻すキーとして、2人の「出逢い」の象徴として機能しているんですね。
「ラ・タ・タ・タム」という作品の内容が示すように、この絵本が2人の「ファンタジー」世界の旅の終着点を示していたわけです。そして、そこから喫茶店「進々堂」のシーンへと繋がります。これによりラストシーンでの「現実」感が際立ちました。
小説版では「ラ・タ・タ・タム」の絵本は中盤でお役御免になってしまうのですが、その絵本自体の内容も踏まえつつ、作品の重要な要素としてコンバートした湯浅監督の手腕には脱帽です。
まとめますと、中盤の「ファンタジー」色を強めたことと「ラ・タ・タ・タム」を「現実」世界に戻ってきたことの象徴として扱うことで、湯浅監督は、「夜は短し歩けよ乙女」という映画に、小説版にはない魅力を付与したんですね。
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まとめ
©森見登美彦・KADOKAWA/ナカメの会「夜は短し歩けよ乙女」予告編より引用
今回は小説版から映画版への改変点から、湯浅監督が付与した「夜は短し歩けよ乙女」の新たなる魅力を解説・批評してきました。
湯浅監督は「四畳半神話大系」や「ピンポン」でも大胆な原作改変を敢行してきました。しかし、彼は原作の魅力と本質を捉えたうえで改変しているので、原作をより引き立て、それに加えて自分の作風をも反映させています。
新海誠や細田守といったアニメクリエイターが現在注目を浴びていますが、湯浅政明監督も日本アニメの次世代を担う監督の一人でしょう。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
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