みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回は映画『PARKS』についてお話していきます。
SF映画としても優れていると思いますし、音楽映画としても魅力的です。
そんな本作について今回は語っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
映画『PARKS』をSF的視点から大胆考察!!
突然ですが、皆さんは自分の隣にいる人が、実は過去からないし未来からタイムスリップしてきたなんて考えた事は無いですか?
言い方を変えてみましょう。時間という概念に過去、現在、未来なんてものは存在していなくて、全て同じ空間に存在しているなんてことを考えた事は無いでしょうか?
実は、このような考え方というものは既になされています。
マサチューセッツ工科大学の助教授、スコウ教授は、時間は流れておらず、むしろ止まっているという考えを提唱しました。
彼は相対性理論に反しない形で、「過去・現在・未来は同じ時、同じ空間に広がっていて、それが散在している状態にある。よって流れるという表現には誤りがある。」と主張したのです。
つまり我々は現在という特定の時間にのみ存在しているのではなくて、過去や未来を含めた全ての時間に同時に存在しているということです。
彼のこの主張は、「ブロック宇宙論」という理論によって裏付けがなされているそうです。
そして、この理論に基づいて、彼が提唱しているのが「スポットライト理論」というものになります。
これは、時間が舞台役者のように空間という一つのステージに同時に存在していて、そこに当たるスポットライトが移動していくことで、時間が生じるという考え方です。
何とも想像しにくい世界観ですよね。10年前の自分も、今の自分も、10年後の自分も実は同じ時空間に存在しているんですなんて言われてもピンと来ないのは当然です。
でも、そんな世界観ってすごく興味深いですよね。長いスパンで見れば、自分の両親、祖父母、そのまたさらに上のご先祖様、教科書に登場するような歴史上の人物だって、スポットライトが当たっていないだけで、我々と同じ時空間に存在していると考えることすら可能なのです。
今回の映画「PARKS(パークス)」において、井の頭公園という空間はまさに過去と現在とそして未来が同時に存在している空間として描かれました。
故に、本作は音楽映画やヒューマンドラマというよりも、SFチックというかスピリチュアルな作品に仕上がっています。こういった世界観のために少し難解な部分があり、その点で作品にあまり高い評価をつけていないという方もいらっしゃると思います。
しかし、読み解いていくと非常に良く作りこまれた構成で、すごく腑に落ちるものです。今回は、映画「PARKS(パークス)」を自分なりにですが読み解いていけたらと思います。
解説1:過去軸と現在軸そして未来軸を兼ね備えた井の頭公園
©2017本田プロモーションBAUS 映画「PARKS(パークス)」予告編より引用
本作の舞台井の頭公園は、実に100年の歴史がある公園です。
100年間その姿を変えることなくそこに存在し続けている稀有な場所と言えると思います。そして、こういう特性を持った公園だからこそ本作の舞台にふさわしいのだと考えています。
公園は100年間同じ空間としてあり続けていますが、そこに行き交う人々は変化し続けています。
先ほどのスポットライト理論の言葉を借りるなれば、井の頭公園にはスポットライトが当たり続けているのに、そこに集う人々に当たるスポットライトは絶えず変化していっているのです。
故に公園の風景は絶えず変化していきます。しかし、スポットライトが当たっていないだけで、そこにはすでに亡くなってしまった人、今生きている人、これから生まれてくる人その全ての人々が同時に存在しているのです。
つまるところ、井の頭公園という空間には過去も、現在も、未来も、すべての時間が同時に存在しているのです。
まず本作における井の頭公園という空間がこのような特性を持っていることを念頭に置いておくと作品が理解しやすくなると思います。
解説2:弁天様とハル
「弁天様はスピリチュア~♪」
本作の主題歌は相対性理論が手掛けた「弁天様はスピリチュア」という楽曲です。
ふと思いませんでしたか?弁天様とは何ぞや?と。
確かに我々は、弁天様という言葉自体はしばしば耳にしますが、弁天様がどんな神様なのかと聞かれると、答えられない人が多いかと思います。
弁天様というのはもともとはインドの神様で弁財天と言われています。サンスクリット語で、「サラスヴァティ」と表記されていて、これは水の神であるということを意味しています。
つまり弁天様のルーツはインドの水の神なんですね。一方で、日本における弁財天は少し違ったものになっていて、七福神の紅一点で言葉や芸能そして音楽を司る神とも言われています。
この点を踏まえて考えると、ハルというキャラクターが弁天様をモチーフに作られたということが分かりますよね。井の頭公園という水の豊かな公園に現れて、そこで音楽が生まれる手助けをするという特性はまさに弁天様をモチーフにしたものです。
また「水」というと本編に印象的なシーンが一つありましたよね。純が吉祥寺グッドミュージックフェスティバルのステージに立ち、ハルを見つめて呆然と立ち尽くしたときです。
小舟で涙をこぼしながら、空を見上げる純は水の中へと沈んでいき、我に返ると自宅のソファで見ていた夢だということに気がつきました。
「水」というものは永久不変、悠久の時を刻む存在です。「水」というモチーフは映画の中でも頻繁に登場し、重要な役割を果たします。
近年の作品でしたら「グランドフィナーレ」なんて作品は、「水」について言及せずして、語ることはできないような作品だったと思います。
本作「PARKS(パークス)」においてもやはり「水」について考えずして、理解することは難しいでしょう。ハルは弁天様をモチーフにしていることもあって、いわば水を司っています。
純はフェスのステージでハルと見つめ合っていると知らず知らずのうちに水の中にいることに気がつきます。そして、さまざまな人の声を聴きます。それは過去、現在、未来、さまざまな時間で発せられた声の同時的な現前の瞬間でした。
純はここで初めて、過去、現在、未来の同居という考え方にたどり着き、それ故に時間の概念を超越したハルという存在に疑念を抱いたんですね。
解説3:ハルはいわば照明係
©2017本田プロモーションBAUS 映画「PARKS(パークス)」予告編より引用
ここからはハルという存在について考えていきたいと思います。ハルという存在は神的領域のものだと思います。
ラストシーンで別世界的な空間にいた点について瀬田監督が意図的に演出していると述べたことからも、ハルが人智を超えた存在であることは明らかです。故に彼女は時間の概念には縛られません。
そのため、「スポットライト理論」というスコウ教授提唱の世界観においても、彼女は自由にスポットライトを操れる照明係だったわけです。
スコウ教授の理論においては、過去が現在の位置に移動したり、未来を現在の位置に移動させたりということはできません。
それ故に同時に存在してはいるものの、スポットライトがすでに移動してしまった部分は「過去」となり、スポットライトがまだ通っていない部分は「未来」であるのです。
つまり、スポットライトが当たっている我々は、当たっていない部分に触れることはできないのです。
しかし、ハルはスポットライトを自由に操ります。スポットライトが過ぎ去ってしまった部分に再び当てることもできるし、まだスポットライトが通っていないところに当てることもできます。
今作において、過去と現在という時間軸が非常に強調されて描かれていました。
つまり本作においてハルが果たした役割というのは、井の頭公園という空間において、純たちと同時に存在してはいるけれども、スポットライトが通り過ぎてしまい「過去」となってしまった晋平と佐知子、寺田の3人の物語に再びスポットライトを当て、「現在」に同時に現前させるというものだったんですね。
本作において、晋平たちが過去に完成させた音楽を、純たちが現在によみがえらせたという見方をしてしまうのは分かるのですが、これは違うんじゃないかと個人的に思うわけです。
というのも、本作「PARKS(パークス)」において、ラストに完成した「PARK MUSIC」という曲は、「過去」と「現在」において同時に完成した曲であるからです。あの大団円のラストシーンでは晋平たちと純たちが井の頭公園で歌って、踊っていましたが、「PARK MUSIC」という曲は晋平たちにとっても、純たちにとってもあの瞬間に完成した曲なんですね。
だから、過去の曲を現在によみがえらせたという見方は個人的には違うと思います。
あくまで、「過去」と「現在」は同時に存在しているものであり、その両方にスポットが当たり、互いに干渉できるようになったことで、同時進行的に「PARK MUSIC」は完成に向かっていったんだと思います。
解説4:オープンリールが最大の注目ポイントだ
本作の物語構造を端的に表していたのが、オープンリールだったというのがまた憎い演出でした。オープンリールというのは記録媒体で、再生装置を使うことで再生することができます。
片側のカートリッジに巻かれたテープが回転に伴って反対側のカートリッジに移動していきます。そしてその中間に読み取り装置があります。
©2017本田プロモーションBAUS 映画「PARKS(パークス)」予告編より引用
このオープンリールの装置は、端的に「過去」「現在」「未来」の時間とその3者の同居を示しているようには思いませんか?再生時に、音として表出するのは読み取り部分を今まさに流れている一部分のテープだけです。
これがいわば「現在」です。しかし、反対側のカートリッジに「過去」として蓄積されていっているテープも、元のカートリッジに「未来」として残存しているテープも、音として今まさに表出しているわけではないけれども、同時に存在しているということが言えると思います。
そして本作において登場したオープンリールは途中までしか記録されていませんでした。つまりある時点で「未来」が消失してしまったんですね。
そんな消失した、いやまだ描かれていない「未来」を「過去」の晋平たちと「現在」の純たちが同時に模索していくというのが本作の物語構造だったわけです。
故に、終盤に陽光差し込む純の部屋でオープンリールが動き出しましたよね。そしてテープは新たな音を刻み始めました。
つまりテープに「未来」が生まれた瞬間だったんですね。そしてこの「未来」は、「過去」と「現在」が絡み合い、干渉しあうことで生まれたメロディです。つまり、動き出したオープンリールが刻んだ音は、過去と現在いずれかの時点で作られたメロディではなく、「過去」と「現在」が同居する空間で生み出されたメロディであり、「未来」だったのです。
解説5:共通言語は「音楽」
皆さんは「虐殺器官」という伊藤計劃氏の小説を読んだことがありますでしょうか?この作品で注目していただきたいのが、「言語は思考を規定する」という考え方です。
この考え方はサピア・ウォーフと言う方が提唱したことで有名です。つまるところ、我々の経験や思考の様式は、自分の言語環境に依存しているものであるということです。
よって、言語習慣が異なれば、その経験や思考の様式も異なるものになるということです。以前に時間の概念が存在していない言語が存在するということで話題になったこともあります。このように我々の思考は言語によって強く縛られているんですね。
本作「PARKS(パークス)」に話を戻しましょう。我々の、人類の大半の言語習慣においては、時間の概念というものは、過去から現在そして未来へと止まることなく流れていくものとして規定されています。
故に本作のような、異なる時間の同時性を根底に孕む世界観において、それを実現するためのツールが言語ではまずいのです。言語による縛りから言語を用いて逃れることはできないからです。
そこで、本作では音楽がそのツールとして採用されているのです。言語によって規定された思考を、音楽によって解き放つという構成になっているわけです。
つまり、「PARKS(パークス)」における音楽というものは、いわば異なる時間概念に辿りつくためのツールとしての役割を果たしていたのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画「PARKS(パークス)」についてお話してきました。
長々と説明してきましたが、この作品を理解する上で最も大切なことは、我々自身の既存の時間概念に縛られないことだと思います。「時間」というものについて柔軟に考えることで、本作の物語構造が見えてくると思います。
予告映像等の雰囲気から音楽映画だと思っていましたが、いざ本編を見てみるとまさかのSF映画、スピリチュアル映画に分類されるような内容で、非常に驚きでした。
いろいろと語りたいことはまだ残っているのですが、今回はこの辺にさせていただきたいと思います。
自分自身この記事を書きながら、概念論の迷宮に迷い込んでしまい、何を書いているのやら分からなくなってしまった節があります。文章に難解な点がある点に関しては申し訳ありません。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。